答えなき時代の思考術──ネガティブ・ケイパビリティ、パラコンシステント、エフェクチュエーション
唐突な告白だが、バンクシー(Banksy)の“アート“に感動したことがない。それがなぜなのかをうまく言語化できないできた。ふだんなら道端の落書きには眉を顰めるくせにそれが世界的アートといえば誉めそやすようなアートなんか興味もない連中がワケ知り顔で語る。そんなありふれた世間の下らなさもあるが、それ以上になにか違和感を覚えている。
ジョン・ライドンとジョー・ストラマー
パンク・ロックについて述べたのは、前回の記事(#55 「名もなき者」たちのマシーン)でのことだ。そのなかで、ジョニー・ロットンとジョー・ストラマーの名前を挙げた。言わずと知れた、セックスピストルズとザ・クラッシュのフロントマンであり、パンクのカリスマだ。ジョニー・ロットンはピストルズ解散後、ジョン・ライドンという本名に戻してPiL(パブリック・イメージ・リミテッド)として活動をつづけている。
かたや、ジョー・ストラマーのほうはザ・クラッシュで1985年まで活動し、7作のスタジオアルバムを残した。7枚と言わないのは、ヴィニールレコードで2枚組(「London Calling」)、3枚組(「Sandinista!」)の作品を含んでいるからだ。
ピストルズ解散後、それ以前にも増して音楽的に評価を上げていき、ポストパンク、ポストロックといわれるシーンにも多大な影響を残すライドンに比して、ストラマーのほうは、ザ・クラッシュ解散後はミュージシャンとしては注目される活動が少なかった。2002年に50歳という若さで亡くなり伝説化して反骨の詩人として語り継がれており、ロックの重要なアイコンになっている。
そんなストラマーのことをジョン・ライドンが語った記事がネットにあがった。タイトルは「セックス・ピストルズのジョン・ライドン、ザ・クラッシュを好きになれなかった主な理由はジョー・ストラマーにあると語る」という。なにかとお騒がせな発言の多い、しかしそれだけ人々の死角をつく洞察力にあふれたライドンらしい内容だ。
「ストラマーの声が俺をひどくいらだたせるんだ。それに、奴の偽りの苦悩とか“last war”とかいうくだらない戯言もな。奴がやっていたのは分断を生み出すことだった。だから俺は当時みんなにこう言ったんだ。“俺が欲しいのは、君たちの中流階級の経験を教えてもらって、それを共有することなんだ。君たちが俺たちの仲間を真似る必要はない”とね。ここで言う“俺たち”ってのは、俺の仲間、俺の文化のことだ。公営住宅の外で写真を撮ったりしてさ、まるでそれが誠実さの証みたいに。勘弁してくれ!」
先に断っておくが、ジョー・ストラマーはわたしのアイドルであるし、ザ・クラッシュの「London Calling」は30年来の愛聴盤だ。彼がライブのあと、会場にのこってファンたちと朝まで語らったことや、日本からイギリスまで訪ねてきた一介のファンを自宅に泊めたことなど、その人柄を表すエピソードには魅力的なものが多い。ジュリアン・テンプルが監督したドキュメント映画『ロンドン・コーリング ザ・ライフ・オブ・ジョー・ストラマー』で見た、そういう誠実な姿は深く強く印象に残っている。
とはいえ、ジョン・ライドンの鋭さこそいつもわたしの思考を導いてきた灯火であった。たった1枚しかアルバムを残さなかったセックス・ピストルズの「勝手にしやがれ」を、兄のレコード棚からこっそり抜き出して、プレーヤーに置き針を落とし、やがて聞こえてきたその無手勝な歌声に「なんて自由なんだ」と脳天を打たれ、1990年代のパンクリバイバルの頃に「過激なパックファッションなんか、みんなでやれば制服みたいなもんだ」という指摘に目から鱗が落ち、ピストルズ再結成については「金儲けのため」(その名も「Filthy Lucre Tour(汚い銭ツアー)」)と言ってのけて、ファンのためだのと言い募り世界ツアーを繰り返す数多の懐メロ・ロックバンドを揶揄してみせて、大笑いさせてくれた。
ライドンの発言は一見すると挑発的なだけにみえるが、その実、深い洞察があり、あらゆる偏見から自由であり、多様性をまるごと飲み込んだような含蓄がある。こういう人をわたしは知識人だと思いたい。
ライドンがそうした人格を身につけたのはその生い立ちに多くの原因がある。『Still a Punk: ジョン・ライドン自伝』(竹林正子訳/ロッキングオン)を読めば、その知性が社会の既成概念との格闘によってもたらされたものであることがよくわかる。そして、そのメッセージはふざけたようにみえて、命懸けであることもわかる。
今年の3月、東京と大阪で開催されたライブイベント「PUNKSPRING」に、ピストルズも来日し演奏を行ったが、そこにはジョン・ライドンはいなかった。スティーヴ・ジョーンズ、ポール・クック、グレン・マトロックという──シド・ヴィシャス以前の──オリジナルメンバーに加え、フランク・カーターがボーカルに迎えられたこのピストルズに対し、ライドンは不快感を露わにして「カラオケのような茶番」と述べている。この3人とライドンには長い間の係争がある。
「自分こそがピストルズ」だとライドンは言う。わたしもそう思う。あのボーカリゼーションこそパンクのアナキズムの象徴であり、挑発的なステージングが反逆の意味を明確にさせるものだからだ。歌詞や曲調もすべてはそれを支える手段だと思う。
執着に塗り固められた分断の壁
この連載記事は、テクノロジーと社会の関係を論じるべく続けてきた。それがなぜ、こんなにもパンクについて立ち入った議論をするのか。それは、ライドンのストラマーについての言葉には社会の分断がどのように深められているかのひとつの理由が秘められているからだ。
ライドン自身もはっきりと「奴がやっていたのは分断を生み出すことだった」と言っている。ストラマーはみずからの出自を隠し、労働者階級の素振りをすることで、“わかりやすい正義”を提示してしまっていたのだ。
それは、これだけ先の見えない不確実性の高い時代にこそ、改めて深く考えるべき姿勢だと思う。弱者──あるいはそう見える人──や貧困層の味方をすることは疑いなく正しいことだろう。しかし、それだけでは葛藤がない。答えが簡単すぎる。わかりやすすぎる。わたしたちの思考は一向に深まらない。
弱者よりは強く、貧困層よりは豊かと思えば、そこに上下ができる。自分の視線についた傾斜をなぜ間違ったものとするだけで片付けてしまうのか。自分のアイデンティティをそんなふうに短絡的に扱って、他者が本来的にもつ複雑性をどう扱えるというのか?
余分にあるものを分けよう。再配分だ。それは悪くない。でも、なにか釈然としない。わたしたちは自分がほんとうに弱く貧しいとき──言い換えれば複雑な環境に置かれたとき──に、誰かを救うという単純な正義だけを頼りにできるだろうか。
自分がほんとうに弱く貧しいときに、それでも他者の状態に共感し救いたいけど救えるだけのものがないという、そんな葛藤こそが思考を深める。
余分があるときに余裕があるときに、誰かに手を差し伸べるのは簡単なことだ。直線的な思考といってもいい。しかし答えが簡単すぎる。思考が短絡すぎるゆえに、みずからを疑う契機がない。それは、かえって信念に固執する契機となる。みずからの答えは強固になる。そして、この執着が分断を生む。
社会に転がっている分断のほとんどがこの類だ。いま現在も喧しいオールドメディアとネットメディアの対立──いや、もう少し踏み込んでみよう。トランプや立花孝志(あるいは兵庫県知事)と、良識を語る知識人の対立にも、わたしにはこうした執着だけが目立つようでならない。どちらかが絶対的に正しいなどということはあり得ないのだ。どちらの意見や考えにもそれなりの意味を認め、思考することがなければ分断しか生まない。
この分断が、多様性につながらないのはいうまでもない。多様性が失われれば、わたしたちは変わることも成長することも止めてしまうだろう。そんな社会が幸福だろうか。行きつくところは現在の社会をみればいい。ひたすらに息苦しく、ひたすらに恨みがましい。そういう社会だ。
ライドンも件のインタビューで「俺が欲しいのは、君たちの中流階級の経験を教えてもらって、それを共有することなんだ」と言っている。これこそ多様性を認めようということではないのか。中流階級出身がおそらくストラマーにとっては恥であり罪悪感でさえあったのだろう。労働者階級を搾取しているかもしれない階級の出身である自分を対象にして深く、深く思考しなければならなかったのではないか。複雑さのなかに立ち尽くさなければならなかったのではないか。一方に寄り添ってしまうのは簡単すぎる。
ネガティヴ・ケイパビリティ──答えのなさに耐える
以前の記事(#45 MUCA展、「ワーニャ」、「悪は存在しない」~不自由なのか、孤独なのか?)のなかで、格差、ジェンダー、社会的な権威へのカウンターというメッセージを強く発するアーバンアートに対し抱いた違和感を次のように論じておいた。
現代アートがあまりにも明確に社会的メッセージを提示し、「答え」を与えてしまうことで、むしろ複雑で見通しのきかない現代において本来、芸術が担うべき、問いの解放や答えの余白がすべて失われてしまうのではないか。自信に満ちた態度やメッセージはその分だけ借り物のようだ。わたしは芸術に対する実感や共振から疎外されてかえって孤独や不安に苛まれてしまう。なおも芸術で何かを問いつづけたいと思えば、矛盾のなかに浸かって解答を避けるしかないはずだ。
ライドンの言葉を知った今なら、わたしはもう一段、踏み込んで思考できる。わたしが昨年、六本木ヒルズでみたバンクシーをはじめとするアーバンアートに感じたのは“執着と分断の芽”なのだ。
詩人ジョン・キーツが残した「ネガティブ・ケイパビリティ(Negative capability)」という言葉をよく聞くようになった。「消極的能力」などと訳されるその意味は、容易に答えの出ない事態に耐えうる能力といったところだ。
19世紀イギリスで活躍した夭折の天才キーツは、シェイクスピアをはじめとする詩人たちが短絡的に理由を求めず、不確かさや不可解、疑惑のなかに人間が留まるときに発揮される能力だと論じた。
ネガティブ・ケイパビリティという概念は、後世に大きく影響を残し、アメリカ合衆国の哲学者ジョン・デューイはネガティブ・ケイパビリティについて述べられたキーツの手紙をどんな論文より示唆に富んでいると評したそうだし、現代思想に多大な影響を与えたドイツの哲学者マルティン・ハイデッカーの「ゲラッセンハイト(放下:Gelassenheit)」という概念──「我々にとって不確かさや不可解さたり得るものの中に物事がそのままあるに委せることを可能にする精神の自由さ」──に、このネガティブ・ケイパビリティに通じるものがあるとする論者もある。
日本で一気に広まったのは、小説家で精神科医の帚木蓬生が2017年に『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』(朝日選書)以降のことかもしれない。それ以前からキーツの、この概念に興味をもちながら、詳細を論じる本に巡り会えないでいたわたしは新宿の紀伊國屋2階奥の選書コーナーでこのタイトルを見つけた感動をいまも覚えている。現在では「ネガティブ・ケイパビリティ」と冠する書籍は数多くあり、世間での注目の高さが窺える。それだけ時代が解決の糸口をみつけようもないほどに複雑怪奇になってしまっているのだとも言えるだろう。
帚木の本は自己啓発系の書籍のようにとられているが、どちらかといえば芸術論として読んだように記憶している。同時に、精神科医として医療現場におけるネガティブ・ケイパビリティの意味もとりあげられていた。
これを読んだとき、現在のようにこの言葉をみなが口にするようになるとは露ほども思えなかった。というのは、そのときにはまだ答えを出すことの優位が強く、答えがでないことに耐える力のことなど価値があるという人に会うことがなかったからだ。
「動的平衡」ゆえのわからなさ
VUCA(Volatility=変動性、Uncertainty=不確実性、Complexity=複雑性、Ambiguity=曖昧性)の時代はそれだけ混迷を極めているのだろうか?
この世界の、この時代のわからなさに、わたしたちは新しい価値観を求めはじめている。あたかも、わからないことに諦めをつけようとするかのように。
立ち止まって考えてみれば、世界というのはそもそもわかりえないものであり、不可解で不確実なものでなかったか。自然というのも人間にとって長いあいだ得体の知れない複雑怪奇なものだったはずだ。たとえ、人間の理解が届いたとして、そこで得たあらゆる正解(真実)も一時的なものに過ぎない。永遠、普遍の真実など宗教にしか許されない。
人間は歴史の歩みのなかで、なんとか世界に対し説明をつけてきた。とくに近代以降は科学の力で世界と自然を理解し説明してきた。それでもやはり全てを理解することは未だ叶わない。世界も自然も、最初から複雑で多様であるだけでなく、つねに生成変化を繰り返しわたしたちの理解をするりと抜け出ていってしまう。
生物学者の福岡伸一は、生命は細胞単位で分解と合成という真逆の動きを繰り返し、細胞の集合である身体を一定の状態に保っているという「動的平衡」について以前から述べている。タンパク質や細胞は体内に吸収されると同時に排出される。この繰り返しによって、タンパク質や細胞は常に入れ替わり、ひとつとして同じものは維持されない。細胞の集合が身体とすれば、その身体は同じようにみえるだけで一瞬ごとに変わっている。
わたしたちは生命も自然も世界も理解しうるのか。福岡は『新版 動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』(小学館新書)のなかで次のようにいう。
自然界の現象というのは、実はこのように、線形的ではないインプットとアウトプットの関係にある。にもかかわらず、私たち人間は自然界の因果関係を単純化して理解しようとしてしまう。入力が増えれば、それに応じて出力も増える。その増え方は常に一定であるというふうに。これは人間が自然を理解するとき、心を曇らせる原因にもなる。
やや強引かもしれないが、福岡が自然現象について述べるこの内容は、そのまま先にみた社会正義のわかりやすさに対する不安に通じている。そして、自然界への線型的な理解ではその多様性を掴み損ねるように、社会正義のわかりやすさは多様性を疎外し分断を生み出す圧力となる。
わたしたちは自然現象に対してもわからなさに耐えきれない。その多様性も複雑さもそのまま受け入れようとしない。いや、だからこそわたしたちは発展してきたし、進化してきたのだから、それはそれでよい。
とはいえ、AIの時代に至って、エンジニアリングが求めるがままに知能や生命、あるいは意識や感情さえもわかりえるもの、ゆえに構成(製作)できるものとして探究するわたしたちは、もしかすると以前より深く自然や生命から分断されようとしているのかもしれない
パラコンシステント──矛盾と非合理の受容が多様性を守る
NTTの会長である澤田純氏が社長時代に上梓した『パラコンシステント・ワールド 次世代通信IWONと描く、生命とITの〈あいだ〉』(NTT出版)で述べられるテーマは、矛盾を許容して、“分解と合成“をあわせもつようなコミュニケーションのあり方、社会の基盤のつくり方である。書名の「パラコンシステント」とは、Aを選べばBが成り立たず、Bを選べばAが成り立たないような「トレードオフ」ではなく、AもBも許容しつつ包括的に受け入れてしまうような考え方のことで、ペルーの哲学者ミル・ケサダによる概念だという。NIKKEI BIZ GATEのインタビュー「NTT澤田社長、次世代通信支える南米哲学者の思想」で次のように語っているのがわかりやすい。
「皆さんの耳慣れない言葉ではあると思います。かつて自分が京大で学んだ土木工学はトレードオフの思想が基本です。『選択と集中』型の経営もAかBかを決めねばなりません。しかしAとBの同時実現を目指す第三の道、これをパラコンシステントと言います。デジタルかアナログか、ビジネスとしての事業性か公共性か、現場力か経営力か、中央集権か自律分散かなど、単純な二元論では答えが出せません」
京大で福岡伸一と同級生であった澤田氏は生命についても同書でこう論じている。長くなるが引用しておきたい。
しかしなぜ、パラコンシステントでなければならないのか──。
それは生命としての人間が矛盾を抱える存在であり、主観を持つ自律的な存在だからにほかなりません。森羅万象を神の目のように客観的に捉えようとするのが現在の自然科学のありようと言えますが、実際には人間が人間の知覚器官を通して世界を主観によって認識し、理解し、行動している以上は、それはあくまでも人間の目を通して見て認識した一つの世界の姿でしかありません。すなわち、客観的な世界というのは存在せず、主体の主観を通した観察しかできない、ということになります。対象が物質的なものであればまだしも、観察対象が生命や自然、さらには人間の思考や価値観などの内面にまでおよぶとき、物質に対するのと同じような客観的かつ機械論的な態度でそれらを理解し、コントロールしようとするのはそもそも無理があるのではないでしょうか。
[中略]ロジックとデータだけで機械論的に世界を認識しようとするディストピアへと突き進む前に、私たちは人間が矛盾を抱えて存在する生命であるということを前提にして、大きな方向転換を図る必要があると思っています。
ここで機械論といわれるのは、以前、わたしも「#46 テクノ・リバタリアンから神秘哲学へ」でとりあげたルネ・デカルトの機械論のことである。自然世界における存在や事象には原因があり合理的な過程を経て結果に至ると考える演繹的なロジックでデカルトは機械論を構築した。デカルトはこれまでにもなんども批判されてきたように、澤田氏のいう二元論的なパラダイムの祖でもある。身体と精神、主観と客観、無意識と意識、自然と人間というような分類によって、それを合理性の礎とした。このパラダイムは何度も、何度も批判されてきたにもかかわらず、いまだに物事の判断の方法として根強い。
『パラコンシステント・ワールド』でも、人類学者グレゴリー・ベイトソンをとりあげて、デカルト的なパラダイムを超えて全体的な視点から個々のネットワークやプロセスに注視すべきと論じられている。個の総和が全体であるという合理性ではなく、個の総和は全体以上のものになりうることを説く。
合理性に囚われず、矛盾を受け入れ、多様性を活性化させていくパラコンシステントこそ、このVUCAの時代に対応しうる可能性をもっているという本書のメッセージは、そのまま「#46 テクノ・リバタリアン〜」でわたしが書いた「矛盾と非合理で居場所を取り戻す」という意味と同じものだと自負している。
NTT澤田社長、次世代通信支える南米哲学者の思想 自著「パラコンシステント・ワールド」を語る
ゲラッセンハイト──執着を捨て去る
先に、ネガティブ・ケイパビリティを説明する際に、ハイデッカーの「ゲラッセンハイト(Gelassenheit)」についてふれておいた。これについてもこの「#46 テクノ・リバタリアン〜」や「#40 鈴木大拙からスチュワート・ブランドへ ホールアースは宇宙技芸論で語れるか?」に書いている。
ハイデッカーの「ゲラッセンハイト」は「放下」と訳される。道元が『正法眼蔵』で重視した考え方で、一切の執着や欲望を捨て去ることをいう。香港の哲学者ユク・ホイが「ゲラッセンハイト」が道家思想の「無為」と同一のものであると語ったと、#40にも書いておいたが、道家と禅宗の思想的近接から言えば、「ゲラッセンハイト」と「放下」はほぼ同じことだと言えるのではないか。執着や欲望を捨て去るといえば、ストイックな態度を求めるように聞こえるかもしれないが、放下が目指すのは幸福や利他、救済といった善なる理念──正解や真実、あるいは愛──も捨て去ることだ。翻って、ネガティブ・ケイパビリティという答えを出さないことに耐える力とは、そこまで突き詰める態度であるはずだ。執着を捨てるとはそういうことだ。
それは、足場が不安定な暗闇のなかに佇むような行為だ。そうして即興的にその場その時の変化に対応していく。
仏教的、禅宗的な解釈かもしれない。デカルト的な因果論によって物事を解明するのではなく、仏教でいう因縁──ネットワークでありプロセスでもある──のなかに浸かって、決して予め定められない認識を一瞬ごとに得ていくのだ。
「言うは易し、行うは難し」である。なぜなら、これこそ矛盾という不安定のなかで合理という明かりを離れることに他ならないのだから。しかし、だからこそ僅かな光に気づくことができ、予期せぬ変化に対し体勢を即座に立て直せるのだ。時代の小さな兆候に気づき、次の行動を見つけられるからだ。
そのうえで、あらゆるものの価値を認める多様性をもつこと。二元論的な合理性によって特定の論理や専門性、解答に偏ってしまうのではなく、不確実な変化への対応準備を整えること。 どんな矛盾が内包されようと複数の視点や解釈をそのまま受容して、未知の事態に即興的に対応できることが必須の状態だからだ。
エフェクチュエーションとブリコラージュ──多様性のための方法
経営戦略の理論においても、こうした時代変化に合わせた新しい理論が登場している。
近年注目されているのは「エフェクチュエーション」といわれる意思決定の理論である。その特徴を『エフェクチュエーション 優れた起業家が実践する「5つの原則」』(吉田満梨、中村龍太著/ダイヤモンド社)では次のように説明されている。
エフェクチュエーションの大きな特徴は、従来の経営学が重視してきた「予測」ではなく、「コントロール」によって、不確実性に対処する思考様式であることです。
さらに副題にある「5つの原則」とは、①手中の鳥、②許容可能な損失、③レモネード、④クレイジーキルト、⑤飛行機のパイロットを指す。それぞれ簡単に説明しておこう。
①は自社がすでにもっているリソースやネットワークからアイデアを発想する方法で、目的に応じてリソースを確保する従来の動きとは異なる。
②は事業企画のアイデアを実行し、もし失敗した場合に許容しうる損失を決めておくことで、従来の売り上げを予測する意識決定とは真逆である。
③は偶発時や予期せぬ試練を避けるのではなく、積極的に取り入れて変化していく考え方で即興性を伴う。 甘美なレモネードも酸っぱいレモン(つまり試練)あってこそという英語のことわざに由来する。
④はありとあらゆるネットワーク、ステークホルダーとのマッチングから相互作用を模索する方法であり、従来であれば競合分析・業務提携などを行なって「選択と集中」を行う局面での考え方だ。
⑤はそのままに「予測」応じて動くのではなく、みずからがコントロールできる活動に集中して、望ましい成果を得るやり方だ。余談だが、禅宗でいう「随所に主となる」(臨済義玄)を思い出せる思考だ。
従来との比較で5つの原則を説明したが、この従来の理論を本書では「コーゼーション(causation:因果論)」と呼んでいる。これまでのように、中期経営計画や事業計画で未来を予測し精緻な計画を立案し、計画に基づいて部署やプロジェクトを編成し実行に移した後は、定期的に計画との差分を検証していく。これがコーゼーション型の経営戦略と実施の典型だろう。
ここまで書けば、この理論を紹介したのが本稿の趣旨に沿うことを理解してもらえるだろう。まさに、多様な視点をとりこみ、即興的に、状況に即しながらみずからをみずからで変化させて対応していくエフェクチュエーションが求めるのは合理性や無矛盾性ではない。
エフェクチュエーションには、計画のないこと、つまり予測可能な答えがないことに耐えるネガティブ・ケイパビリティも問われるだろう。当初の考えと矛盾するような事態を大きく包括して、考えを大きくしていくようなパラコンシステントの思想も参考になるだろう。
そしてなによりも、コーゼーションという合理性には頼らない融通無碍な姿勢こそ、自然のあり方、世界のあり方に準じたものであるはずだ。
わたしはさらにエフェクチュエーションにブリコラージュ(bricolage)的なものをみてしまっている。ブリコラージュとは、レヴィ=ストロースが『野生の思考』(大橋保夫訳/みすず書房)で提唱したもので、論理的に計画して理論を構築する科学的思考と対照され、手元にある材料や知識で問題に対処し新しい構造をつくる野生の思考を言う。無秩序に対しあるがままに受け入れ、直感的な判断を促し、主観的に事態を把握して対処しようとするブリコラージュの考え方は、エフェクチュエーションの5つの原則がそのまま当てはまるように考えられる。ちがうだろうか?
付け加えれば、ブリコラージュこそ多様性を前提にしなければ貧しいものになってしまうものだ。あらゆる階層、あらゆる個性、あらゆる能力が織りなす多様性のポテンシャルを発揮させていくにはブリコラージュが参考になる。
経営の分野においても、積極的に不安定さに身を投じて、短絡的な答えを求めないことが重視されているのだ。これはこれで、時代がひとつの大きなトレンドを示している例なのかもしれない。
AIというテクノロジーの分野においても、ここまで論じたことに通ずるトレンドが見えてくる。そもそもディープラーニングを経たAIはすでにわたしたちには理解し尽くせないものである。そのうえで、さまざまな分野や人にAIが使われることで、個別で独特に変化している。そうしたAIはネットワークを組んでいる。わたしたちはテクノロジーを通じて未来を予測しようとするが、それはおそらくほとんどが外れる。
わたしはIT批評でこれまでテクノロジーと近代化について考えてきた。近代化とはそのまま機械化であり、デカルト的合理主義の取り込みであった。それは社会の隅々にまで浸透している。書籍『生成AI時代の教養 技術と未来への21の問い』(IT批評編集部・桐原永叔編著/風濤社)の序論では、日本でもなんどかこうした近代化への問題意識が議論された時代があったと述べておいた。それは西田幾多郎が生んだ京都学派がいた「近代の超克」の時代である。
『パラコンシステント・ワールド』のなかで澤田氏は、西田哲学あるいは京都学派のこの時代での可能性について論じている。
わたしが思い出していたのは、先述したユク・ホイが京都学派について「形而上学的ファシズム」と批判したことだ。VUCAのような不確実性の高い時代において、求められるのは新しいイデオロギーや宗教といった“大きな物語”だ。
わたしたちが歴史から学び「形而上学的ファシズム」に陥らないためには、合理と秩序の“大きな物語”に覆われてしまわないように、たとえ矛盾だらけであったとしても多様性を受け入れていかなければならない。たとえ答えが得られなくとも短絡しないで耐えなければならない。
