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管理職になったら、擬音しか出なくなった

課長になって、最初に部下へ伝えた指示は、擬音だった。

「ここ、もっとこう、シュッとさせて」

シュッと。

言った瞬間、自分でもわかった。これは日本語ではない。効果音である。
それも、かなり雑な部類の。
けれど部下の佐藤さんは、真顔だった。真顔で頷き、手元のノートに何かを書き留めた。

見えた。「シュッと」と書いてあった。

書くな。それは書き留める価値のある言葉ではない。
だが佐藤さんは、部署一の善意でできている人である。
上司の擬音を、一言一句、記録してしまう。
善意が事故を大きくすることが、この世にはある。

弁解させてほしい。
プレーヤー時代のわたしは、できる側の人間だったのだ。

資料を見れば、どこが悪いか一瞬でわかる。
お客さんの顔色で、商談の風向きがわかる。
「わかる」に関しては、社内でも上位だった自信がある。だから昇進した。わかる人が、教える人になる。
会社というのは、そういう仕組みになっている。

その仕組みの欠陥が露見したのは、課長二週目である。

佐藤さんが、直した資料を持ってきた。
「シュッと、してみました」と、少し得意げだった。

開いた。文字が、ぜんぶ斜体になっていた。

タイトルの横には、流線が引かれていた。
マンガで、走る人の後ろに描いてあるあれである。
資料が、疾走していた。
わたしの「シュッと」は、余白を増やしてすっきり、のつもりだった。
佐藤さんの「シュッと」は、疾走感だった。
同じ「シュッと」で、届く荷物がちがうのである。

「あの、シュッの解釈なんですけど」と佐藤さんが言った。

解釈を要求される指示を出すな、という話である。

わたしは慌てて言い直した。
「えっと、ごちゃっとしてるから、スッとさせて、パッと見てわかるように」。

言うてもうた。擬音が三つに増えた。インフレである。
発語した擬音、累計三つ。
伝わった指示、ゼロ。
佐藤さんのノートに「スッ」「パッ」が追記されるのが見えた。
古文の写本か。
あのノートが後世に発掘されたら、研究者は頭を抱えるだろう。
この時代の管理職は、効果音で組織を動かしていた、と。

追い打ちに、佐藤さんが真顔で訊いた。

「スッとシュッって、どう違うんですか」

答えられなかった。促音の位置がちがう、ということしか言えなかった。

その夜、わたしはドトールにいた。
ブレンドのMを前に、頭を抱えていた。
なぜ言えないのか。資料のどこが悪いか、見た瞬間にわかったのに。

わかっているのに、言えない。

言葉にならない指示、で思い出したことがある。

レシピの「あめ色になるまで」である。

スパイスカレーに沼った一年目、わたしはこの五文字に苦しめられた。
玉ねぎを炒める。レシピは言う。
あめ色になるまで。
あめ色とは、何色か。飴にも種類がある。
べっこう飴なら茶色いが、ミルキーは白い。イチゴ飴なら赤である。
初回のわたしはミルキー説を採用して三分で炒め終わり、そのカレーは、玉ねぎの味がしなかった。
家族に訊いたら「そんなん、見たらわかるやん」と言われた。
見たらわかる人は、レシピを必要としない人である。
観念して、時計で計った。中火で、二十五分だった。
あめ色の正体は、中火で二十五分である。
以来、わたしのカレーは安定した。「あめ色」は、書いた人の目の中にしか、映っていない。

話を戻す。

ドトールで、わたしはノートを開いた。
「シュッとして」で伝えたかったことの正体を、書き出してみることにしたのだ。中火で二十五分、まで下ろせるかどうか。

一時間かかった。

一時間かけて出てきたのは、こうだった。
「一枚のスライドに主張はひとつ。主張は左上。根拠の数字は主張の真下。色は三色まで。読み上げない情報は脚注へ」

なんだ、言えるんじゃないか。一時間かければ。

ところが、書き出している途中で、もっと嫌なことに気づいてしまった。

ところどころ、書けないのである。

「グラフはこの形がいい」と直感ではわかるのに、なぜいいのかが出てこない。
理由を掘っていくと、「前にそれで上手くいったから」しか出てこない箇所が、いくつもあった。それは理解ではない。ただの前例である。

わたしの「わかった」は、検品してみたら、けっこうな割合で不良品だった。

「わかった」というのは、つまり、自分の中でだけ完結している状態なのだ。
袋を開けて中身を確認していない通販の荷物と同じで、届いた気にはなっている。
開けてみたら、半分くらい緩衝材だった。

プレーヤーのころは、それでよかった。
袋のまま使えたから。
手が勝手に動くので、中身を確認する必要がなかった。

でも管理職は、袋のまま渡せない。

中身を取り出して、相手のサイズに合わせて、渡し直さないといけない。
その作業の名前が、言語化だった。

翌朝、わたしは佐藤さんに、一時間ぶんのノートを見せて言った。

「ごめん。シュッの中身、これでした」

佐藤さんは、ノートを写真に撮った。撮ってから、笑った。

「課長、これがあれば、わたし、課長がいない時も直せます」

その一言で、わかってしまった。これも、あとから言語化するのだけれど。

「わかった」は、自分への納品である。

「言語化」は、相手への納品である。

プレーヤーの給料は前者に払われ、管理職の給料は後者に払われる。
わたしは課長になってからの二週間、前者の在庫を抱えたまま、納品をしていなかったのだ。
どうりで、仕事をした気がしなかったわけである。

それからのわたしは、「シュッと」が出そうになるたび、いったん飲み込んで、正体を書き出すようになった。
正直、時間がかかる。
直感なら一秒のものが、言葉にすると一時間かかる。
でも、面白い副作用があった。
書けない箇所が見つかるたび、自分がほんとうはわかっていなかった場所が、わかるのだ。
言語化は部下のための作業だと思っていたら、半分は、自分の「わかった」の検品作業だった。

佐藤さんは最近、後輩に資料の直しを教えている。

聞こえてきた台詞が、「主張は左上、根拠は真下ね」だった。
わたしの一時間が、相続されている。
擬音のままだったら、こうはいかなかった。
「シュッと」は、わたしと一緒に退職する言葉だったのだ。

ちなみに先週、部長がわたしの企画書を見て、言った。

「うーん、なんかこう、もっとガッと来る感じにして」

ガッと。

出ました、擬音。

わたしは笑顔で答えた。
「ガッの中身、三十分後に確認しに行っていいですか」

部長は、ちょっと嫌そうな顔をした。

そうでしょうとも。検品は、痛いのだ。

その夜、わたしは玉ねぎを炒めた。中火で、二十五分。

「あめ色になるまで」とは、もう言わないことにしている。



他にも、こんな話も書いています。
お時間あれば、是非読んでいってください。


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