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掌編『こんなこともあろうかと』


 毎週金曜日は、掌編/短編の新作を上げています。
今回は、受験生応援シリーズです。
前作(共通テスト編)はこちらから。
掌編「用意周到な友人」|切手ゆうひ


 朝の空気は、二月とは思えないほどやわらかかった。
昨日からずっと暖かい。
手袋をつけるか迷ったけれど、結局ポケットにしまったままだ。

 本命の大学。二次試験の朝。
それでも、前ほど手は震えていない。
駅へ向かう道には、知っている顔はひとつもない。
共通テストのときは、同じ高校のやつらが何人もいたのに、
今日はまるで別世界だ。

 それでも、足取りは落ち着いている。
(……大丈夫。もう慣れた)
共通テスト、私立の一般受験。
何度も試験会場に足を運んだ。
そのたびに、独特の空気に触れて、
少しずつ、あの張りつめた空気にも慣れていった。

 改札を抜け、電車に乗り込む。
車内には、同じ方向へ向かう受験生らしい人たちがちらほらいる。
誰も喋らない。ページをめくる音だけが、静かに揺れる。
(会場についたら、それで勝ち)

 あの日、塾の先生が言った言葉。
共通テストの朝は、ただの励ましにしか聞こえなかった。
でも今は、自分の言葉みたいに胸に馴染んでいる。
電車が目的の駅に滑り込む。
ホームに降りた瞬間、春の気配を含んだ風が頬をかすめた。
(よし)
悠真は小さく息を吐き、歩き出した。

 今日の空気は、あの日とは違う。
一月の、あの朝とは。

 一月の共通テストが終わったあと、
自己採点の数字を見て、悠真は小さく息をついた。

(……悪くない)

 驚くほどではない。
でも、第一志望を受けるには足りていた。

 その事実だけで、胸の奥の重さが少し軽くなった。
 そこからは、二次試験対策と並行して、
滑り止めの私立の一般受験も続いた。
 朝早く家を出て、知らないキャンパスに向かい、
慣れない形式の問題に向き合う日々。

 受かったり、落ちたり。

 そのたびに、気持ちが揺れた。
でも、試験そのものには、少しずつ慣れていった。
(……ここで決めたい)

 今日の二次試験前期日程。
 もしダメでも、後期日程にチャンスは残るが、
これで終わりにしたい。
 そんな思いが、静かに胸の奥に沈んでいた。

 昼休みのアナウンスが流れ、教室の空気が少しだけゆるんだ。
午前の緊張がほどけて、あちこちで弁当箱のフタが開く音がする。
 悠真もカバンから弁当を取り出した。

 フタを開けると、いつもの箸の横に割りばしが一本。
その上に、小さな付箋が貼られている。

「――タイムスリップしてきました。」

 思わず、息が漏れた。
 母の字だ。
 共通テストの日に箸を入れ忘れたことを、まだ気にしているらしい。
(……いや、気にしてるのは俺の方か)
 付箋をそっと外し、弁当箱のフタに貼り直す。

 そのとき、隣の席から小さな気配がした。
「……あれ?」
女子が弁当のフタを開けたまま固まっている。
手が震えている。

 カバンの中を探しては、また閉じて、また開けて――
その動きが、どこかで見たものに似ていた。

(……ああ、前の俺だ)

 胸の奥が、すっと静かになる。
悠真は弁当箱の中の割りばしに目を落とした。

(こんなこともあろうかと、か)

「……あの」
声をかけると、女子がびくっと肩を揺らした。
「え、あ、はい」
「これ、使う?」
割りばしを差し出すと、女子は目を丸くした。
「えっ……でも……」
「大丈夫。予備だから」
「よ、予備……?」

「うん。こんなこともあろうかと」

 言った瞬間、自分でも少し照れた。
 でも、女子はほっとしたように笑った。
「……ありがとう。ほんとに助かります」
「いや、全然」

 女子は割りばしを受け取り、深く頭を下げた。
その仕草が、午前中の張りつめた空気を少しだけほどく。

 悠真は弁当を食べながら、ふと思った。
(……陽斗も、俺を助けて落ち着いたって言ってたな)
共通テストの帰り道で、笑っていた友人の顔が浮かんだ。
 誰かのミスを笑って、支えて、そのことで自分も落ち着ける。
(俺も、そうなのかもな)
卵焼きを口に運ぶ。

 その味は、いつもより少しだけ、やさしかった。

 午後の試験開始のアナウンスが流れ、
教室のざわめきがゆっくりと静まっていく。

 悠真は弁当箱を閉じながら、
さっきの女子の安堵した顔を思い返した。
ふと、レモンの甘い香りがよみがえった。

(……陽斗も、言ってたよな)

“誰かを助けると、逆に落ち着くんだよ”
あの日の帰り道、笑いながら言った陽斗の声が、
ふっと胸の奥でよみがえる。

(俺も、同じなのかもな)

 午前中より、呼吸がしやすい。
肩の力が、自然と抜けている。
 立ち上がりながら、
悠真は心の中でそっとつぶやいた。

(会場についたら、それで勝ち)

自分の足でここまで来た証みたいに、
静かに胸に馴染んでいた。

 チャイムが鳴る。
悠真は姿勢を正し、前を向いた。
午後の試験が始まる。

 問題用紙が配られる。
紙の匂いが、春に似ていた。


 明日、解説の創作メモをアップします。


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