短編「猫の選んだシェアハウス」
毎週月曜日は、連載作品のまとめを掲載しますが、
今週は連載作品がないので、公募落ちの原稿を掲載します。
なお、2週前の「続きは私が書く」のスピンオフですが、
この作品単体で、十分成立しています。
1
午後六時五十七分。キッチンの壁掛け時計が、静かに秒を刻んでいた。
僕、朝比奈悠希は鍋の蓋を少し持ち上げ、湯気の向こうに透ける玉ねぎの色を確かめる。
牛肉は下茹でして脂を落とし、じゃがいもは煮崩れしにくいメークイン。味付けは砂糖、醤油、みりんの順。火加減は弱めで、あと三分。
「……生姜、もう少し入れてもいいか」
すりおろしと千切りを半々に。香りと食感の両方を残す。昨日、凛が「喉がちょっと痛いかも」と言っていたのを思い出して、少し多めに加える。
足もとでは、ミルがタオルの上で丸くなっていた。白黒の毛並みが、台所の明かりにやわらかく浮かび上がる。僕はしゃがみ込み、そっと頭を撫でた。
「お前の分は玉ねぎ抜き。冷ましてからな」
ミルは目を細めて喉を鳴らす。それが了解の合図なのか、ただの気まぐれなのか、僕にもわからない。
キッチンタイマーが短く鳴った。火を止め、蓋を閉じる。湯気がしゅんと収まる。——そのとき、玄関のドアが勢いよく開いた。
「ごはんまだー? 今日、会議長すぎて死んだー!」
凛の声が廊下に響いた。靴を脱ぎながらバッグを放り出し、そのままソファへ倒れ込む。
ミルが小さく鳴いて、尻尾を立てて駆け寄った。
僕は鍋をコンロから下ろし、エプロンの紐をほどいた。
「今日は七時半か。まあ、早いほうだな」
ソファでは、凛がぐったりと天井を仰いでいた。
「クライアントが“やっぱこの色違うかも”とか言い出してさ……もう無理」バッグは床に転がり、ミルがその横に座り込む。
「お疲れ。ミル、癒し係頼む」呼ばれたとたん、ミルは凛の膝に飛び乗った。
「は〜〜、ここ帰ってくると、ミルが真っ先に味方してくれるんだよね」
凛は指先で耳をくすぐりながら、甘えるように言った。
凛はソファに沈み込み、ミルの背を撫でながらつぶやく。
「今日は遥、遅いね」少し身を起こして、続ける。
「珍しいよね。いつもは先にごはん食べてるのに」
僕は肉じゃがをテーブルに運びながら応じた。
「そろそろ帰ってくると思うけど」
玄関のドアが静かに開く音がした。ミルがぴくりと反応し、凛の膝から飛び降りる。
「おかえり。遅かったね」凛が声を張る。僕は黙って味噌汁を並べた。
「ただいま」
遥は鞄を置き、薄手のコートを脱ぐと、肩の力をふっと抜いた。春の夜のぬるい空気が布に残っていて、息を吐くと少しだけ顔が和らぐ。けれど目元には疲れの色がにじんでいた。
ミルが足もとにすり寄る。
「ミル、ありがと」小さくつぶやいてしゃがみ込み、頭を撫でる。ミルは喉を鳴らし、尾を揺らした。
「ごはん、できてるよ」僕が声をかけると、遥は「うん」とだけ答えて席につく。凛はすでに箸を手にしていて、僕はごはんをよそいながら三人分の湯気を整えた。
「ねえ、ビール飲みたい。冷蔵庫にあったよね?」凛が顔を向ける。
「あるけど、僕まだ原稿残ってる」僕は淡々と答える。
「遥は?」
振り向かれた遥は、箸を止めて首を横に振った。
「今日はいいや。ちょっと疲れてるし」静かな声は、断るというより気を遣うように響く。
「えー、誰も飲まないの? じゃあ一人はやめとく。……明日まで冷やしとくね」
凛は口を尖らせながらも、結局おどけてみせた。指先はミルの背中をなぞっている。
「ミルは飲めないしな」
僕が笑うと、ミルが一瞬だけ顔を上げ、また皿に向き直った。
「この家、猫が一番自由だよね」凛がぼそりと言う。
遥は笑わないけれど、口元が少し緩んだ。
「ミルが選んだ人間だけが住んでるからな」
僕がそう言うと、ミルがまるで聞いていたかのように尻尾をふわりと揺らした。
食後の食器を下げるとき、遥がふと凛に声をかけた。
「今日は早かったんだね」
その声は静かで、少しだけ柔らかい。
「うん、奇跡的に定時。ていうか、もう誰もやる気なかった」
凛は笑いながら、ミルの背を撫でている。
「疲れてる?」
「疲れてるよー。でも、ミルがいるから生きてる」
凛は耳をくすぐりながら目を細めた。遥はそれを見て、何か言いかけてやめ、代わりに尻尾に指先をそっと触れた。
僕はその会話を背に、台所へ移る。冷蔵庫からリンゴとキウイを取り出し、まな板に並べる。
皮をむく音だけが、リビングの声に混ざって響いた。ふたりの声は穏やかで、どこか曖昧だ。家族みたいで、友達みたいで、それだけじゃない。
僕には恋愛感情がない。
誰かを“好き”になる感覚を、どうしても実感できない。けれど鍋は湧くし、言葉は書ける。——それで、僕は十分だと思っている。
ミルがふたりの間に座り、尻尾をゆっくり揺らした。まるで何かを測っているように。リンゴを薄くスライスしながら思う。この家は、ミルが選んだ人間だけでできている。
それだけは、確かだった。
2
ミルは、僕が高校のころに拾った猫だった。白黒の毛並みで、気まぐれに姿を消す。
夏目凛とはそのころからの付き合いで、親同士も顔見知りだった。ミルがいなくなると、凛はよく一緒に探してくれた。二人にとって、ミルはすでに共通の存在になっていた。
大学に入ったばかりの春、ミルはまたふらりと姿を消した。見つけてくれたのは、遠野遥だった。
住宅街の路地。ミルはそこにいるのが当然だと言わんばかりに座っていた。遥は足を止め、しゃがんで手を伸ばす。逃げることなく、むしろ身を寄せてきた。
そのとき、僕が駆けてきてミルを抱き上げた。遥は少し戸惑ったように、
「……たまたま、見つけただけです」と言った。
それが、最初の出会いだった。その日を境に、遥はときどきミルに会いに僕の家を訪れるようになった。凛も「ミルに会いたい」と言ってよく顔を出す。三人は同じ文学部に在籍していて、講義のあと自然に集まるようになった。
ミルが真ん中にいると、会話は途切れず、空気は柔らかくなる。僕は誰かと一緒にいることにこだわりはなく、恋愛にも興味はなかった。ミルと文章があれば、それで満足だった。凛はよく喋り、遥は静かに聞いていた。その対比が、ちょうどよかった。
大学の四年間は、静かに過ぎていった。講義と課題、そしてミルと過ごす三人の時間。特別な事件はなかった。
ただ、ミルがいる場所に、三人が集まっていた。
大学を卒業してすぐ、僕の「実家」はなくなった。
両親が父の定年を機に、祖母の住む地方へ移ることを決めたのだ。祖母の体調が思わしくなく、介護も視野に入れての選択だった。
「お前はどうする?」と問われたとき、僕は少しだけ考えて、すぐに答えた。
「東京に残るよ。書きたいことがあるから」
就職活動はしていなかった。小説家を目指してはいたが、現実にはフリーライターとしての仕事が中心だった。
地方では編集部との接点もなく、仕事の幅も狭い。東京には、大学時代にインターンをしていた出版社や、知り合いの編集者がいる。
窓の外に広がる街を思い浮かべながら、僕は思った。——書くなら、ここで勝負するしかない。
姉夫婦が海外赴任になったのは、ちょうど卒業を控えた頃だった。赴任期間は五年。家をどうするかという話になり、姉から連絡が来た。
「空き家にするのももったいないし、あんたなら安心だし。広いから、シェアハウスにでもすれば?」
軽い調子の言葉だったが、僕はしばらく考えてから凛と遥に声をかけた。
ふたりとも都内で就職が決まっていた。通えなくはない距離だったが、朝の満員電車を思い浮かべて、顔をしかめる。その反応だけで、答えは決まっていた。
シェアハウスの家主は僕だ。姉夫婦の家を預かって住んでいる以上、家賃を受け取るのは当然だった。
仕事の原稿料だけでは心許なく、ふたりからの家賃は助かる。凛も遥も会社勤めで安定しており、その点ではふたりも納得している。
代わりに、僕は炊事と掃除を引き受けた。手際よく包丁を動かし、鍋の具合を確かめるのは得意だったし、在宅で時間の融通も利く。
三人の生活リズムを考えれば自然な役割だった。洗濯だけは各自でやることになったが、それ以外は僕がほとんどを担っていた。
「家事してくれるなら最高」凛は肩をすくめて笑った。
「ミルがいるなら安心」遥は小さくうなずいた。
その言葉には信頼と遠慮が入り混じっていた。この家は、役割と気遣いで形を保っている。そして、その真ん中にはいつもミルがいた。
凛の両親は僕のことを昔から知っていた。高校時代からの顔なじみで、「真面目で、猫と文章にしか興味ない子だよね」と冗談めかして言う。恋愛感情などありえないと、当然のように理解していた。
「まあ、好きにしたら。家事してくれるなら助かるし」そんなふうに、軽く笑って娘の選択を受け入れた。
遥の両親のことは、僕はよく知らない。ただ、遥が「友達と一緒にシェアハウスしてる」とだけ伝えていて、僕の存在は伏せられていると聞いた。恋愛関係だと誤解されるのが怖いのだろう。
そのために言葉を選んでいる姿を見て、きっと親は心配性で、少し保守的なのだろうと想像していた。
こうして三人と一匹の生活は始まった。大学の日々の延長線のようでいて、社会人としての時間が少しずつ色を変えていく。
家庭の空気がそれぞれに影を落とすこともあった。それでも、ミルが真ん中にいるかぎり、関係は揺るがなかった。
——この家は、猫が選んだ人間たちでできている。
3
午前七時二十五分。
焼き鮭の皮が、ぱり、と鳴った。味噌汁の火を弱める。具は豆腐とわかめ。出汁は昨夜のうちに。白ごはんは炊きたて。ミル用に、塩を抜いた鮭のほぐし身を小皿へ。
軽い足音が近づく。先にミル、次に寝癖の凛。
「おはよー……って、もうできてるの? 最高」
「おはよう。今日は早いな」
「休日出勤。ミルに顔舐められて起きた。ありがとね」
「昨日は凛の部屋だったか」
「枕の上で丸くなってた」
凛が椅子に座ると、ミルが膝に飛び乗る。尻尾がふわり。
「遥は?」
「たぶん、まだ。昨日遅かったし」
リビングのドアが静かに開いた。髪を結びながら、遥。
「おはよう」
「珍しい。遥も出勤?」
「うん。急に。夕方までには戻ると思う」
ミルが足もとにすり寄る。遥はしゃがみ、頭を撫でた。口元が少しだけ緩む。
「コーヒー、淹れるね」
棚から豆を取り出し、手慣れた動きでドリッパーをセットする。豆を挽く音が、朝の空気に心地よく響いた。
凛が鼻をひくつかせる。
「あ、出勤前の恒例ね。遥のコーヒーなきゃ始まんない」
「僕も助かる。味噌汁だけじゃ眠気が取れないし」
僕が笑う。遥は返事をせず、淡々と湯を落とす。その静かな所作が、この家の朝を完成させていた。
「ねえ、今日お弁当ってあり?」と凛。
「作るよ。朝から台所いるし」
「やったー。おにぎり!」
「……私はいいよ。悪いし」と遥。
「一人も二人も変わらない」
凛が笑い、「悠希、ほんと主夫向いてる」
遥は「ありがとう」とだけ言って、コーヒーを注いだ。
朝食を終えると、それぞれ準備へ。
「行ってくるね」と凛。
遥はミルの背を撫で、「行ってきます」。
「気をつけて」と僕。食器を流しへ。
静かになる。ミルが窓辺へ移動して丸くなる。掃除機のコードに少しじゃれて、すぐ飽きた。
「お前が一番、この家を使いこなしてる」独り言を落として、掃除を始める。
4
午後二時十五分。リビングの隅でノートパソコンに向かっていた指が、チャイムの音で止まった。締め切りまで、あと三日。静かだった空気がふいにざわつく。
窓辺のミルが耳をぴくりと動かし、次の瞬間には階段の影へ消えた。——いつもなら玄関まで来るのに。胸の奥にざらりと不安が広がる。
「……誰だ?」
立ち上がり、ドアを開ける。
そこに立っていたのは、紺色のカーディガンの女性。整えられた髪、手には紙袋と保冷バッグ。営業でも宅配でもない。
「……遥、いるの?」驚いたように目を見開いて声が飛んでくる。
「え、えっと……今は出かけてて。夕方には戻ると……」
思わず声が上ずった。
女性の視線が鋭くなる。
「あなた、誰?」
「……あ、朝比奈悠希といいます。この家の……その、家主というか……」 言いながら、自分でも言葉が頼りないのがわかる。
「家主? どういうこと?」
「えっと……姉夫婦の家でして。僕が預かってて……で、凛さんと遥さんに住んでもらって……」説明は途切れ途切れで、要領を得ない。
「……私は、遥の母です」
息が詰まった。
「そ、そうなんですね。すみません、知りませんで……」視線を落とす。喉がからからになる。
「あなたと遥。どういう関係なの?」
「ち、ちがいます。そういうのじゃなくて……僕は家事を……その、担当してて……」
言葉が空回りしていく。
階段の影で、ミルの尻尾がかすかに揺れた。姿は見えないのに、気配だけがそこにある。
じわじわと空気が重くなっていく——そのとき、外から軽い足音が近づいた。
「ただいまー!」外から明るい声。
僕が返事をするより早く、女性が振り返る。
門扉を閉めながら凛が現れ、状況をひと目で察したように、ふっと笑みを浮かべた。普段より落ち着いた声で、
「こんにちは。遥のお母さんですよね?」
「ええ……」と答えた母に、凛はすぐ紙袋へ目をやり、
「差し入れですか?ありがとうございます。わざわざ」
と自然に受け取る。さりげなく場の緊張を和らげる口調だ。
僕が一歩下がると、凛は玄関の内側へ手を差し伸べる。
「よかったらどうぞ。中でお茶でも。猫はいますけど、大人しい子なので」
遥の母は一瞬ためらい、
「……じゃあ、少しだけ」と靴を脱いだ。動作にまだ硬さが残る。
リビングへ案内すると、凛は迷いなくキッチンへ。棚からティーバッグとカップを出し、湯を沸かし始める。
「紅茶でよろしいですか?」声は柔らかく、手際は慣れている。
湯が沸くまでの間にスマホを取り出し、画面をタップ。
「遥に連絡しました。もうすぐ帰ってくるそうです」
報告の声は明るいが、言葉の端に慎重さがにじむ。
やがて湯が沸き、凛はカップに紅茶を注ぎ、トレイに整えて持ってきた。視線が自然と凛に集まる。
「あなたは……」探るような響き。
凛は微笑を崩さず、紅茶をそっと差し出した。
「夏目凛と申します。遥とは大学からの友人で、今は一緒に暮らしています」落ち着いた声が、空気を静かに整えていく。
お母さんはカップを受け取りながら、視線を逸らさず凛の顔を見つめていた。
「一緒に暮らしてるって……じゃあ、あなたとその人が?」
凛は一瞬まばたきし、すぐに笑みを保ったまま首を横に振る。
「いえ。私と遥がそれぞれ部屋を持っていて、悠希くんは家主で、私たちとは別の部屋です」
「じゃあ……誰と誰が、そういう関係なの?」
声がわずかに強くなる。疑念を隠せない響きだった。
凛は落ち着いて椅子に腰を下ろし、
「誰もそういう関係ではありません。みんな友達です」ときっぱり言う。
僕はその言葉に、ようやく肩の力を抜いた。お母さんは紅茶に口をつけず、視線だけで凛を追っている。
「でも、そんな関係で一緒に住むなんて……普通じゃないわよね」
凛は少し首を傾け、「そうですね。変わってるかもしれません」と素直に認める。
「でも、ここにいる理由は、ちゃんとあるんです」
「理由?」
眉が動く。凛は笑みを保ったまま、階段の影に目をやる。
「ミルっていう猫がいるんです。悠希くんがずっと一緒に暮らしてきた子で、私も遥も、ミルが大好きで」
「猫……?」
お母さんの声に、わずかな戸惑いと緩みが混ざった。
「ミルがいるから、ここにいたいと思えるんです。もちろん、悠希くんが家事を全部やってくれるのもありがたいけど、それ以上に……ミルがこの家の中心なんです」
階段の影から、ミルの尻尾がかすかに揺れる。姿はまだ見せないが、気配だけがそこにあった。
お母さんはようやく紅茶に口をつけた。空気が、少しだけ和らぐ。凛はその様子を見ながら、少しだけ笑みを深めた。
「ここの生活、いいですよ。朝は猫が起こしてくれるし、起きたら悠希くんが朝ごはんを用意してくれる。お弁当まで作ってくれるし、通勤も電車に長く乗らなくていいんです」
軽やかな口調だが、言葉の端々に暮らしへの満足がにじむ。
お母さんの視線が、驚きと疑念を含んで僕へ向けられる。
「……あなたが? 本当に料理を?」
僕は背筋を伸ばし、
「はい。朝と夜は、だいたい僕が作っています」と答えた。
声は努めて落ち着いていたが、喉の奥に緊張が残る。
凛がすかさず補足する。
「今は私がお茶を入れましたけど、毎朝コーヒーを淹れるのは遥なんです。みんな、それぞれ得意なことを分担してて」
お母さんはカップを持ったまま、まだ迷うような顔。リビングの空気は少しだけ和らいだが、完全には解けていない。
そのとき、階段の影からミルが静かに姿を現した。白黒の毛並みが、午後の光にやわらかく照らされる。ミルは一度立ち止まり、お母さんをじっと見つめてから、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「……猫?」と、小さくつぶやく。
「ミルです。僕が大学のころから一緒に暮らしている子で、すごく空気を読むんですよ」
凛の紹介に合わせて、僕も小さくうなずく。
ミルはお母さんの足元まで来ると、鼻先を寄せてから静かに座った。母は驚いたように見下ろし、すこし表情を緩める。
「ミルが懐いてくれる人には、だいたい安心できるんです。初対面で寄っていくのは珍しいですよ」凛の微笑みが、場をやわらげていった。
僕は黙って見守る。ミルが姿を見せたことで、ようやくこの家の“らしさ”が揃った気がした。
玄関のドアが勢いよく開く。
「ただいま……!」息を弾ませた遥が靴を脱ぎ捨てるようにして駆け込み、リビングをのぞく。顔には驚きと焦りと、少しの怒り。
「お母さん、来るなら前もって言ってよ!」
遥の母はソファに腰かけたまま、静かに返す。
「心配だから来ただけよ。何か悪いの?」落ち着いた声の奥に、強い芯。
「悪いっていうか……こっちだってびっくりするでしょ!」
遥の声が少し上ずる。凛がそっとカップを持ち上げ、テーブルの端へ寄せた。僕は黙ったまま、視線だけで二人を追う。
「……部屋で話そう」遥が短く言い、お母さんは無言で立ち上がる。
紙袋を手に、娘のあとをついていく。
そのとき、ミルがすっと立ち上がり、遥の足もとに寄り添った。声もなく、ただ静かに、二人のあとを追う。階段を上がる足音と、ドアの閉まる音がリビングに残った。
静けさが戻る。凛がソファに腰を下ろし、ふぅと長く息を吐いた。
「……なんとか場は持ちこたえた、かな」かすかな苦笑がこぼれる。
僕は肩の力を抜き、低く答える。
「本当に助かった。僕、一人じゃ無理だった」
凛は横目で僕を見て、少しだけ笑う。
「悠希は料理と掃除担当。大人の交渉は、私の役目ってことで」
「……悪いな」
「いいって。分担ってそういうことでしょ」
二人のあいだに、ようやく柔らかい空気が流れた。階段の上からは、遥とお母さんの声がわずかに聞こえる。言葉ははっきりしないが、感情の波だけが伝わってくる。
——その間にも、ミルはきっと二人の真ん中に座り、静かに見守っているのだろう。リビングには、午後の光が穏やかに残っていた。
やがて、階段を下りる足音。
午後五時半、遥の母は紙袋を手に玄関へ向かっていた。来たときの強い足取りとは違い、少しだけ肩の力が抜けているように見える。
「くれぐれも、娘をよろしくお願いします」
そう言って、凛と僕に一礼した。声は静かで、どこか照れくさそうだった。
「はい。こちらこそ」凛が笑顔で答え、僕も黙って頭を下げる。
玄関のドアが閉まると、家の中に静けさが戻った。ミルが廊下を歩いてきて、リビングの隅で丸くなる。遥はソファに腰を下ろし、少しだけ息を吐いた。凛も隣に座り、僕はキッチンから水を持ってきてテーブルに置く。
「……親に黙ってて、ごめんなさい」
遥がぽつりと言う。声は小さいが、はっきりしていた。
「うまく説明する自信がなかった。怒られるのも怖かったし……」言葉の端に、かすかな震えが混ざる。
凛は何も言わず、ただ隣で聞いていた。僕は「まあ、それはわかるよ」とだけ答える。
しばらく沈黙が続いた。ミルがゴロゴロと喉を鳴らす音だけが、空気をやわらげる。
「悠希、なんかおいしい晩ごはん作って!」
凛が突然声を上げ、手をぱんと叩いて空気を切り替えた。
「え?」僕が少し驚いて顔を上げる。
「しんみりしてると、ミルまで元気なくなるから。ね、遥も食べたいでしょ?」
凛が笑いながら遥に顔を向ける。遥は一瞬だけ戸惑ったあと、小さく頷いた。
「……うん。食べたい」
ミルが尻尾を揺らした。リビングの空気が、少しだけ軽くなった。
5
夕方六時半。テーブルには、煮込みハンバーグとサラダ、炊き立ての白ごはん。肉の香ばしさとトマトソースの湯気が、ようやく落ち着いた家の空気に温かさを足していく。
凛が冷蔵庫から冷えた缶ビールを三本取り出す。
「今日は飲もう。悠希も。頑張ったご褒美ってことで」
「え、僕?」と僕は苦笑する。
「もちろん。遥もだよね?」視線を向けられた遥は一瞬迷い、けれど小さく頷いた。
「……うん。今日は、飲んでもいい気がする」
プシュッ、と三つの缶がほぼ同時に開く。
「おつかれさま。——かんぱい」凛が笑顔で缶を掲げ、三人が軽く合わせた。喉を通る泡の音が、ようやく場をほぐす。ミルはテーブルの下で丸くなり、ときどき尻尾をゆっくり揺らしていた。
箸が進むにつれて、会話も少しずつ戻ってくる。
凛が「やっぱ悠希のハンバーグ最強」と口を大きく開けて笑い、僕は「ソース煮詰めすぎただけだ」と肩をすくめる。そんなやり取りを横で聞きながら、遥は缶を両手で持ち、テーブルの縁に視線を落としていた。
「……ありがとう」不意に落ちた声に、僕らの手が止まる。
「今日、ほんとに。ふたりと……ミルがいてくれて、助かった」遥は缶を握る指に力を込め、言葉を探すように続ける。
「母にああいうふうに来られると……自分でも、どう答えていいか、わからなくなって。でも、凛が全部受け止めてくれて……悠希も、家のことをちゃんとしてくれて……ミルも、間にいてくれて……」
凛が少し笑って肩をすくめた。
「そりゃ役割分担でしょ。悠希は料理担当、私は交渉担当。で、ミルは……調停担当?」
軽口に聞こえるけど、声の奥に確かな安心があった。
遥は小さく首を振る。
「でも、私……ただここにいるだけで。ふたりとミルに甘えてばかりで……」
僕は箸を置き、淡々と答えた。
「別にいいだろ。三人と一匹で住んでるんだから、役割なんて形は違っても、ちゃんとある」凛もうなずく。
「そうそう。遥がいるから、この家は回ってる。空気っていうか……うまく言えないけど」
遥は驚いたように僕らを見て、それからふっと目を伏せた。
「……ここにいて、いいんだね。私も、ミルと一緒に」
声は小さかったが、確かに届いた。
テーブルの下で、ミルがするりと立ち上がり、遥の足に身体を寄せてきた。
「ほら、ミルもそう言ってる」凛が笑う。
遥は微かに笑みを返し、缶をそっと掲げ直した。
「……じゃあ、改めて。ここで、これからもよろしく」
三つの缶が、今度はゆっくりと音を立てて触れ合った。その真ん中で、ミルの尻尾がふわりと揺れる。
器を片づけ、テーブルの上が静かになる。窓の外は群青に沈み、街の灯りがぽつぽつと瞬き始めた。
リビングのソファには、三人と一匹。誰も大きな声を出さず、ただ同じ空気を吸っている。
——特別な出来事は何もない。けれど、誰かの視線がふと交わるたびに、確かなものが積み重なっていく。
僕は、料理と原稿。凛は、笑顔と強さ。遥は、静かなまなざし。そしてミルはただ真ん中に座り、尾をゆっくりと揺らす。
恋人でも家族でもない。けれど、そのどちらよりも近い時間が、ここには流れていると思った。
——この家は、猫が選んだ人間たちでできている。
夕食の匂いがまだ残るリビングで、静かな夜が少しずつ広がっていく。
その真ん中でミルは、目を細めて喉を鳴らした。まるで、「ここでいい」と告げるように。
以上です。
明日、創作メモをアップします。
https://note.com/kitten89/n/n9416c086b99f
