百舌鳥古墳群の謎解き日記
百舌鳥古墳群の比定のやり方|古墳時代史解題
過去記事と重複するのですが、あまり浸透していないみたいですので、改めて要点を纏めます。
本来の応神天皇陵は(考古学的に最も早い)上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)の可能性は結構あると思います(現在履中天皇陵と比定されている(仁徳天皇紀に仁徳天皇の寿陵として築造されたと書いてある)上石津ミサンザイ古墳は年代的に最初に(大雀命(仁徳天皇)によって)築造された応神天皇陵だと思います)。思うに造山古墳が造られたから、対抗して誉田御廟山古墳が造られたんじゃないですか(吉備の造山古墳が上石津ミサンザイ古墳とほぼ同じ大きさです。吉備と格の違いを見せつける為、二個目((吉備武彦が仕えた)日本武尊の墓(二ツ塚古墳)を取り込んだ)誉田御廟山古墳)を造ったと考えて矛盾はありません)。共に築造したのは仁徳天皇だと思います(日本書紀の石津の寿陵記事の解釈で)。式内・石津太社神社と多氏(雀部氏)が怪しいですね。百舌鳥古墳群の嚆矢の乳岡古墳(大阪府堺市堺区石津町)は壬生氏(和珥氏)の古墳っぽい(難波根子武振熊との関係もあるかも)(履中天皇の御名代部が壬生氏なので、上石津ミサンザイ古墳が南陵と誤解されたかもしれないです)。
仁徳天皇陵は延喜式記載通り百舌鳥耳原中陵(大山古墳)が順当。
履中天皇陵は(年代的に)土師ニサンザイ古墳(百舌鳥耳原南陵)の可能性が高いかと。ハゼ村で反正天皇が築いたと見るからです。考古学者は寿陵説のようですが、私は基本、天皇陵は天皇崩御後の築造と見ており(箸墓が魏志倭人伝においてそうだったように)、後継者が築造するしかありません(寿陵の中国、子が親の古墳を築く日本①(応神天皇陵から雄略天皇陵まで)|古墳時代史解題)。
反正天皇陵が(大きさがそうでもない)北陵なのは、履中天皇陵築造中に允恭天皇が日本書紀にあるように反正天皇の陵を築造しないまま、適当な古墳に葬ったからかと考えています。
見出し画像はウィキペディア「百舌鳥古墳群」大阪府堺市にある百舌鳥古墳群の航空写真。国土地理院の航空写真CKK20071-C54-10、CKK20071-C54-11、CKK20071-C54-12、CKK20071-C55A-10、CKK20071-C55A-12、CKK20071-C56-10、CKK20071-C56-11、CKK20071-C56-12、計8枚を、Naokijpが合成。 Copyright © 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省
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