【Project Nyaan 番外編】それ、恩着せがましくないですか?――優しさで 使った金は5,000円、浮いた飯代500円なり
どうも!
今日は家をバキバキ解体しているただの解体屋、左官歴10年の女職人こはるです🐱✨
解体したあとはだいたい鼻の穴の中がやばいので、指にティッシュ巻いてほじります。
まぁそれは全然関係ないんですけど。
MOONさんの小説を読んで、ちょっと思い出したことがあったので、
番外編にしちゃいました!
まだ読まれていない方は、こちらへどうぞ。
代田さんのかばい方、男前ですよねぇ♡
( ゚д゚)ハッ!
使える。。
ということで、恩着せがましいと言われることについて
愚痴…分解していきます!
感謝されたいわけではない
私は、誰かに何かをしても、あまり感謝され続けると居心地が悪くなる。
なぜなら、私がやりたくてやっただけだからだ。
困っている人がいて、自分にできることがあった。
だから、勝手に手を出しただけ。
こうすればいいのに…と、もどかしくて気持ち悪いから。
もしかしたら、親切ですらないかもしれない。
ただのお節介が発動している可能性もある。
それなのに、何度も頭を下げられたり、
感謝の気持ちを押し付けられたり、
「あのときは本当にありがとうございました」
と長く感謝され続けたりすると、どうしたらいいかわからん。
いや、そんな大層なものでは……。
むしろ、こちらこそ勝手に手を出してすみませんでした……。
という気持ちになってくる。
私にとって恩とは、通りすがりに水をぶっかけるようなものだ。

浴びせて終わり。
なんかさっぱりした!
スッキリした!
涼しくなって助かった!
と思ってくれたらそれでいい。
そして、たまに
「何してくれとんじゃわれぇ!!」
と言われることもある。
そういうもの。
少なくとも、ことあるごとに相手の肩に着せかけて、
「これ、私が着せてあげた恩だからね♡」
などと、繰り返し重ね着を強要する、
十二単衣のようなものではない。

美味いものを食わせてやりたい親方
昔の親方は、よく人にご飯をおごる人だった。
自分より格下だと思っている相手には、自分が出す。
弟子や後輩には、美味いものを食べさせてやる。
それが親方のポリシーだった。
考え方そのものは、立派だと思う。
実際、美味しいものを食べさせてもらえばうれしい。
自分では行かないような店へ連れて行ってもらうこともあった。
ごちそうになったことには、きちんと感謝している。
ただ、親方はことあるごとに言う。
「世話してやってる」
「食わせてやってる」
「弟子のくせに、美味いものばっかり食いやがって」
3日に1度くらいは言われていた。
最初は感謝していたはずなのに、何度も言われているうちに、少しずつ気持ちが変わってくる。
もういいよ。
構わないで。
自分のご飯は、自分で食べるから。

五千円の食事で、実際に浮くのは五百円
親方が5,000円の料理をごちそうしてくれたとする。
親方から見れば、5,000円分のものを与えたことになる。
「お前、飯代が5,000円も浮いたな!」
けれど、私が一人で過ごしていたら、その日の食事に使ったのは、おそらく500円くらいだ。
つまり、私の財布から浮いた金額は500円である。
もちろん、5,000円の料理を食べられた経験には価値があるし、
美味しいものを食べられたことも、店へ連れて行ってもらったこともありがたいと思う。
ただ、だからといって、私が5,000円分の得をしたことにはならない。
一人で静かに過ごしたかった時間。
好きなものを選ぶ自由。
親方の愚痴を聞かない自由。
それらまで含めると、受け取る側にとっては、
必ずしも5,000円分の価値があったとは限らない。
そこを無視して、
「これだけしてやった」
と言い続けると、ごちそうした5,000円は少しずつ相手を拘束する指名料に置き換わっていく。
最終的には「してあげた」つもりでも、
相手からしたら「付き合わされた」だけになるかもしれない。
感謝するのは受け手の意思
ごちそうになったことには感謝する。
助けてもらったことにも感謝する。
世話になった事実を、なかったことにはしない。
ただし、感謝したことと、相手に恩義を感じ続けることは別問題だ。
ご飯をおごったから、相手の時間を使っていい。
助けたから、相手の行動へ口を出していい。
仕事を教えたから、いつまでも従わせていい。
そういう権利まで、一緒に差し出しているわけではない。
というか、その恩とやらはほぼ強制である。
親方のポリシーでやってることに、巻き込まれて、
感謝まで強要され続けるとは何事か…
感謝をするかどうか。
恩を返すかどうか。
これは受けた側の選択だ。
距離を取りたいこともある。
一人になりたいときもある。
「世話になったのだから断れない」と思わせた時点で、
それはもう親切とは言えなくなっている。
人を助けた話を、誰のものとして話すのか
親方は、自分が人を助けた話をよくしていた。
しかも、具体的な人物を挙げて。
あいつが困っていたから助けてやった。
あいつにはこれだけしてやった。
あいつは自分がいなければ、どうなっていたか分からない。
親方にとっては、自分の善意や面倒見の良さを語る話なのだと思う。
ご立派なことだ。
でも、助けられた側からすれば、それは人に知られたくない事情かもしれない。
困っていたこと。
お金がなかったこと。
仕事ができなかったこと。
誰かに頼らなければならなかったこと。
それらは、助けたからといって、
助けた人が勝手に公開していい情報ではない。
人を助けたという事実まで、自分の手柄として所有し始めてはいけない。
相手の事情ごと持ち歩き、いろいろな人の前で披露する。
そうなると、世話になった側は考える。
この人に助けを求めたら、あとで何年も語られるのではないか。
(実際に聞かされたのは、約20年前の出来事だ。)
困っている事情まで、この人の武勇伝にされるのではないか。
それなら、助けてもらわないほうが良かった。
そう思われてしまうかもしれない。

タダより怖いものはない
「タダより怖いものはない」という。
無料でもらったものには、あとから高い代償がついてくることがある。
お金ではなく、
感謝。
忠誠。
服従。
時間。
秘密。
断れない関係。
値札がないだけで、何を請求されるか分からない。
だから怖い。
受けた恩は、自分が覚えておけばいい。
相手に忘れさせないものではない。
美味いものを食べさせてやりたい。
困っている人を助けたい。
その気持ちは、きっと本物だったのだと思う。
だからこそ、最後に請求書を突きつけなければよかった。
恩は浴びせるものであって、着せるものじゃない。
ましてや、脱ごうとした相手の首元をつかんで、
「誰に着せてもらったと思っている」
と言うものではない。
浴びせた水は、乾けばなくなる。
いつか、
「あの水、気持ちよかったなー」
と思い出したときにだけ、私にも水をかけてくれればいい。
その機会が、一生来なかったとしても、別に構わない。
もし恩を着せたかったら、
相手から「どうしてもお願いします!!」
と頼まれて、不利益を承知で引き受けた時にしよう。
もし、あとから回収したいのなら、
最初に条件を伝えておけばいい。
それはもう恩ではなく、契約になるから。
それなら、利子をつけてもいいと思う。笑
という感じなんですけど、
皆さんいかがですか?
やってもらった以上、文句は言うな派の人もいるかもしれませんけど。
私はやってもらったことには全力で感謝します。
でも、頼んでもいないのに「やってやった」顔をされた途端に、
後ろ足で砂をかけたくなるタイプです。
善意じゃなくて、ダシにされたみたいな気分になるからかなぁ?
猫のお宝💩発掘していたほうが、平和で楽しいってばよ!
続編っぽいこはる昔話✨
なぜそういう考え方になったのかが分かります!
世話になったからといって、何でもかんでも従えばいいわけではない😾
重すぎる責任は一本背負い!!

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いつか誰かの「猫の手」になれるよう、少しずつ記録していきます。