膝の傷と、心のかさぶた──剥がさずに、待つということ
転んだのは、何でもないただの道だった。よく見ればわかるくらいの、ほんの小さな段差。
左手にはスマホ。肩にはノートPCの入ったバッグ。右手には、いつもの荷物が詰まったバッグ。
PCの重さが、思っていたよりバランスを崩していたのかもしれない。足先が段差に引っかかった瞬間、視界が揺れて、体が前に傾いた。
手をつくより早く、膝に衝撃が走る。バッグが手から離れて、荷物が歩道のタイルの上に散らばった。
通りすがりの年配の男性が「大丈夫ですか」と声をかけながら、ひとつずつ拾ってくれた。
痛みが広がるより先に、顔の内側が熱くなる。恥ずかしさが勢いよく割り込んできて、じんじんとした感覚はどこかへ引っ込んでしまった。
できるだけ何でもないふうを装って、急いで笑顔を作る。「大丈夫です」と口にしながら、この場から早く離れることだけを考えていた。
家に帰って、傷の状態を見ようとタイツを脱いだときに気づく。
膝のところが大きく破れていた。防寒用で履いていた140デニールのタイツなのに。その下には、絆創膏一枚では到底隠せないくらいの擦り傷。赤く擦れた皮膚からは、血がにじんでいた。
そのときになって、ようやく閉じ込めていた膝の痛みが顔を出す。
赤みの残るその傷と、ひと晩、ふた晩とやり過ごすうちに、かさぶたができた。固くなった皮膚のかたまりを見て「ああ、治ってきているんだ」と思う。
でも同時に、ちょっとぶつけただけでまた痛みが戻りそうで、動きが自然と慎重になる。しゃがむたびに突っ張って、違和感が伝わってくる。
無理に剥がしたら、また血が出る。そんなことはわかっているから、できるだけ触れないようにして過ごす。日常の動きの中で、少しだけ膝をかばいながら。

そのとき、ふと思った。
心の傷も、きっと同じなのだろう、と。
誰かの言葉に傷ついたとき。
大事なものを失ったとき。
自分にがっかりしたとき。
本当はまだ痛いのに「もう大丈夫」と言いたくなる。
弱っている自分を見たくなくて、元気なふりをする。
でもそれは、まだ固まりきっていないかさぶたを、自分の手で剥がそうとするようなことなのかもしれない。
「まだ引きずっている自分」をこのままにしておきたくなくて。「そろそろ前を向かなきゃ」と焦って。見た目だけでも元気な状態に戻そうとする。
けれど、そのたびに傷口はまた開く。少し落ち着いてきていたはずの痛みが、前よりも強く感じられることさえある。
嫌な記憶。
悲しみ。
悔しさ。
怒り。
それらは全部、心の内側を守るためにできた「かさぶた」。
きれいな形ではなくても、少し痛々しく見えても、それは「もうこれ以上傷つかないように」と、心が必死で作ってくれたもの。
だから、急いで剥がそうとしなくていい。
無理に「片付けなきゃ」と触りすぎなくていい。
「ちゃんと立ち直らなきゃ」と自分を追い立てなくてもいい。
少しだけその痛みをなだめながら、それでもいつもどおりの生活を、淡々と重ねていく。
そうしているうちに、ある日ふと、かさぶたが取れていることに気づく。新しい皮膚ができていることにも。
まだやわらかくて、少し心もとなくて、触れると自分でもびっくりするくらい、無防備な場所。
──心もきっと、新しくなっていく。
回復は、普段は気づかないほどの静かな時間の中で、進んでいくのだと思う。かさぶたが自然に剥がれるその過程のように、心もまた、その人の時間とリズムで癒えていく。
無理にどうにかしようとしない優しさを、大切にしてほしい。かさぶたを見守るまなざしで、自分自身にも、ゆったりと待つ時間を。
何もしなくたって、回復してしまうものだから。
この「かさぶたをそっと守る」時間を、 もっと深く味わいたい方は「セルフラブ編」マガジンと書籍を覗いてみてくださいね。
そのままのあなたで十分に愛される— そんなヒントをそっと置いていきます。
《 あわせて読みたい、心の回復をそっと見守るエッセイ 》
かさぶたは、剥がすためではなく、守るためにあるもの。
もし今、あなたの中にまだ触れると痛む場所があるなら、その奥にいる小さな声にも、少しだけ耳を澄ませてみませんか。
✦ 怒りは、ただ荒れている感情ではなく、「ここにいる」と手を伸ばしている心の声なのかもしれません。寂しかったこと、大切にされたかったこと。その奥にしまわれた気持ちを、静かに見つめるための文章です。
✦ 見たくない感情や古い傷を、私たちはつい消そうとしてしまいます。でも、鏡の裏側にある黒が姿を映し出すように、その暗さもまた「あなた」を映す大切な背景なのかもしれません。
✦ そして、かさぶたの下に新しい皮膚が育つように。回復のあとには、まだ頼りないけれど確かな灯りが残ります。誰かの地図ではなく、自分の胸の奥が少し温かくなる方向へ。その小さな光を信じるためのエッセイです。
#感情日記 #エッセイ #セルフラブ
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