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【小説】透明度の高い春 #4

あらすじ

昼休み。
ひとりで過ごすために向かった、誰も来ないはずの屋上階段。

そこで千隼は、ひとりの男子生徒と出会う。

「実は僕、死んでるんだけどね」

あまりにも軽い一言。
けれど次の瞬間、その少年は当たり前のように壁をすり抜けた。

そして、鍵のかかったはずの屋上へ。

空を飛ぶことも、触れることもできる――
幽霊は、想像以上に“自由”な存在だった。

「一緒に飛んでみる?」

差し出された手を取った瞬間、千隼の体は空へと浮かび上がる。

現実から切り離されたような、心地よい浮遊感。
このままでもいいかもしれない、とさえ思った、そのとき――

少年の声が、静かに変わる。

「僕は、噂で殺されたんだ」

誰も真実を確かめなかった。
誰も、自分の話を聞こうとしなかった。

そして最後に、突きつけられる問い。

「あんたも、同じだったんじゃない?」

その瞬間、手は離される。

落ちていく中で千隼が見たのは、
“幽霊”ではなく――人が作り出した悪意のかたちだった。

#4

 始業のチャイムとともに千隼は教室に入った。柄にもなく汗を流しながら教室に駆け込んだせいで、クラス中から注目を浴びてしまった。千隼が自席について一息ついたところで、担任が教室に入ってきた。 

 それにしても、掲示板に書かれていたハルの評判は一概に一蹴できるようなものではない気がした。火のないところになんとやら、だ。しかし紺の言う通り、すべてを鵜呑みにするのは危険な気がした。個人の短所だけに言及するのはあまりにも不平等だ。どれが本当で、どれが嘘なのか。なにが真実でなにが虚偽なのか。それとも果たして人の気持ちに真実は必要なのか。 

 あれこれ考えているうちに時間はあっという間に過ぎていった。昼休みを告げるチャイムが鳴った瞬間、千隼の思考もリセットされた。 
 
昼休みの教室はたくさんの生徒が入り乱れて情報量が多い。昨日のテレビ番組の話や好きな芸能人の話、どこかのクラスの誰かの噂などが一気に流れ込んでくる。千隼は教室から抜け出して、屋上に続く薄暗い階段で昼食を食べることにした。 
 
 屋上はそもそも鍵がかかっているので入ることはできない。だから屋上に続く階段に近づこうとする者は誰もいない。考え事をするとき、千隼はよくこの階段に座り込んで頭の中を整理した。 

 千隼が薄暗い階段を上っていくと、すでに先客がいた。少し癖毛の黒髪が耳までかかり、黒縁メガネが鼻まで下がった、小柄な男子生徒が背中を丸めて座っている。初めて見る顔だ。一年生か。先客がいるなら仕方がない。千隼は身を翻して階段を下ろうとした。 
「待ってよ」 

 鈴を転がしたような、男子にしては高めの声が暗い階段に響いた。思わず千隼は立ち止まり、振り返って再び男子生徒を見た。 
「一緒にお昼ご飯食べようよ」 

 一人になりたくてわざわざ人の来ない場所を選んだのに、なぜ、それも男子と二人で昼食を食べなくてはならないのか。それでも、なぜかその男子生徒のどこか諦めたような表情を見ていると、放っては置けないような気持ちになった。千隼は渋々男子生徒の隣に座った。彼のクラス章には「ⅠA」と書かれている。やはり一年生だったらしい。一緒に昼食を食べようと言ってきたわりに、彼はなにも持っていない。 

「昼飯は?」千隼は不思議に思い、男子生徒に尋ねた。 
 男子生徒はなにも答えずに隣でにこにこと笑っている。埃っぽい階段の下方からは、昼休みを謳歌した生徒たちの声が、全部混ざり合っているようだった。混ざり合った話し声からは、なんの情報も聞き取れない。 
「あのさ、実は僕、死んでるんだけどね」唐突に男子生徒が口を開いた。 

 昨日の今日で、立て続けに幽霊と言葉を交わすなんてことは今までなかった。そこで、この男子生徒の「死んでる」というのはある種の暗喩なのかもしれない、と千隼は納得することにした。 
「へえ、どうして?」サンドイッチに齧りつきながら千隼は聞いた。 
「根も葉もない噂を立てられたんだ」男子生徒が急に立ちあがった。「ねえ、せっかく晴れてるんだし、屋上に出ようよ」 

 屋上が施錠されていることは、初めてここに来たときに確認している。今日に限ってたまたま鍵が開いているなんてことはないだろう。しかし、その男子生徒の顔には、まるで屋上に続くドアが当然開くと思っているような自信が伺えた。男子生徒はドアの前に立って、じっとしている。 

 千隼は男子生徒に続いてドアの前に立った。施錠されたドアのわずかな隙間から風が入ってくる。男子生徒を横目に見ると、先ほどまでの笑顔はすでになく、無表情で屋上のドアをすり抜けていった。 
「え?」千隼は目の前で起きたことが理解できずに、声を漏らすことしかできなかった。 

 今まで習った物理の法則も、目の前で起きたことを説明することはできなさそうだ。説明できない現象に、千隼は驚きと恐怖を同時に感じていた。 
 金属のドアがかちゃりと軽い音を立てた。どうやら鍵が開いたらしい。ドアを開けると、男子生徒が感情のない笑顔で立っている。千隼はドアの手前で男子生徒を睨んだ。手品師のごとく、なにかタネや仕掛けがあるのかもしれない。 
「こっち来なよ」二の足を踏んでいる千隼に、表情のない声で男子高校生が言った。 

 千隼はゆっくりと屋上に足を踏み入れた。高校に入学して二年経つが、屋上に入ったのは初めてだった。国旗と校旗が掲げられ、風にはためいている。柵の向こうには、小さくなった街並みが遠くまで見渡せた。心なしか、空も近く見える。 

 男子高校生が歩き出したので、千隼も後に続いた。柵にもたれて下を見下ろす男子生徒の隣に立つと、校庭ではしゃぐ生徒たちの脳天が眼下でちょこまかと動き回っているのが見える。 
千隼は下を見下ろしながら、疑問に思ったことを口にした。「さっきドアをすり抜けて、向こう側から鍵を開けただろ? あれはどういうトリックなんだ?」 

 男子生徒は、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに、先ほどとは打って変わって楽しそうに言った。 
「幽霊になるとね、ふわっと体が大きく広がって、まるで雲みたいになったり、逆にぎゅっと凝縮されて、まるで生きた人間みたいな形になったりできるんだ。だから、隙間がある壁やドアはふわっと広がって通り抜けることができるし、人間の形になって触ったり掴んだりすることができる。生きているときよりも、ずっと自由なんだ」 

 千隼は感心した。なんて物理学的なんだ。まるで水が水蒸気になって空気中に拡散されたり、氷になって触れることができたりするのと同じだ。 
「それにね」男子生徒はふわっと宙に浮かぶと、千隼に向かって手を差し伸べた。「一緒に空を飛ぶこともできるんだよ。ほら」 

 男子生徒は屈託のない笑顔で千隼を見下ろしている。その笑顔に、千隼は不思議と見入ってしまった。背景の青空がぐっと迫ってきたような気がした。 

 取り憑かれたように千隼がその手を掴むと、体が宙に持ち上がった。浮き上がった千隼の体は柵を越え、サッカーに勤しむ生徒たちの頭上を浮遊した。夢でも見ているかのような心地だった。悩みも喜びも、すべてが地上に置き去りにされたのかとすら思うほどだ。気持ちの高ぶりも、とてつもない不安も、次第に薄れていった。なるほど、幽霊も悪くないかもしれない。 

 急に額を叩かれるような衝撃があった。「いてっ」 
 その瞬間、薄れていた不安が一気に千隼の体内に戻ってきた。 
「君の能力は十分わかったよ。ありがとう、もう屋上に戻してくれないかな」 

 男子生徒はその場で止まった。必然的に、千隼も空中で止まった。サッカーをしている生徒たちのちょうど真上だ。手を引く男子生徒に目を向けると、彼は表情のない顔で千隼をじっと見つめていた。 
「お、おい、どうしたんだよ」千隼は背中に冷や汗が伝うのを感じた。 
「さっきも言ったけど、僕は根も葉もない噂を立てられた」男子生徒は眼下を見下ろした。「くだらなすぎて、どんな噂だったのか憶えてないけど」 

 足下の生徒たちは、ボールを蹴っては仲間同士でパスを送り合っている。楽しそうな声が空まで響いてきた。 
「クラスの奴らだけじゃない。学年中がその噂を信じた。誰も僕の話なんて聞いてくれなかったんだ」 

 その中には、本気で噂を信じた者もいれば、面白がって噂を広めた者もいただろう。もしくは、嘘だとわかっていてもなにも言えずにいた者もいたに違いない。しかし、今はそんなことを考えている余裕はない。早く地に足をつけたい。 
「先生も、親友だと思っていた奴も、誰も助けてくれなかった。だから、居場所を失った僕は、屋上から飛び降りた」 

 彼の口元に、自嘲気味に小さく笑みが零れているのが見えた。そしてそれと同時に、彼は目を細めて千隼を睨みつけた。 
「ねえ、あんたもそうなんじゃないの」 
 そう、とはなにを表しているのだろうか。俺が一体なにをしたというのだろう。 
「あんただって、噂を信じて僕の話を聞こうともしなかっただろう?」 

 一年生でそのようないじめがあったなどという噂は聞いたことがない。もしそのような噂が流れていれば、一年生と関わりのある生徒が、同様に自分たちの学年でも噂を広めるだろう。そもそも、俺は彼の名前を知らない。 

 しかし、もし自分の学年でそのような噂が流れていたとして、噂の中心になっている人物を助けるような行動を、俺はするのだろうか。 

 触らぬ神に祟りなし。きっと、俺も他の人たちと同様に動かない。嘘だとわかっていても、きっとなにもしない。それなら、この男子生徒の言っていることも、あながち間違いではない。どうせ、俺もそう、なんだ。いじめを見て見ぬふりをする、傍観者だ。千隼は自分に絶望した。 

「だから僕は、あんたを許さない」 

 その瞬間、視線の先の男子生徒の姿は霧散した。千隼の体は重力のままに落下した。


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