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【小説】透明度の高い春 #5

あらすじ

屋上から落ちたはずなのに――千隼は、生きていた。

横断幕に受け止められ、奇跡的に無傷。
けれど周囲の視線は、どこかおかしい。

「自殺しようとしたんじゃないのか?」

先生たちの問いに、千隼は答えられない。
幽霊に突き落とされかけた、なんて言えるはずがない。

運ばれた病院で、さらに不可解な事実が明らかになる。

――この学校には、かつて“噂”が原因で自殺した生徒がいた。

それは、あの屋上で出会った少年のことなのか。

誰も真実を語らず、噂だけが残り続ける。
そして千隼自身もまた、「飛び降りた生徒」として見られ始める。

無関係だったはずの出来事が、自分の現実を侵食していく。

あれはただの幽霊だったのか。
それとも――まだ終わっていない“何か”なのか。

#5

 まだ千隼の祖父が生きていた頃、千隼はやんちゃを絵に描いたような毎日を過ごしていた。高い所からジャンプして怪我をするのは日常茶飯事だった。祖父は千隼が高いところから飛び降りるたびに、ふわっと抱きとめて「おっと、また大きくなったなあ、千隼」と言うのだった。 

 また大きくなったなあ、千隼。 

 遠くからぼんやりと祖父の声が聞こえた気がした。俺は今、空から落ちたはず。それなのに、まったく痛みを感じない。そうか、即死だったか。ぎゅっと閉じた目をゆっくり開けると、千隼は目一杯広げられた横断幕の中心に横たわっていた。周りには横断幕を張って握っている先生たちと、サッカーボールを小脇に抱えた生徒が、おびえた眼差しで千隼を見つめていた。俺は生きているのか。 

 そのまま千隼は先生たちに、車椅子に乗せられて保健室に連れていかれた。そこに向かうまでの廊下では、千隼を好奇の目で見つめながらなにかを囁き合う生徒たちでごった返していた。 

 保健室に入ると、顔面蒼白の養護教諭と担任、学年主任が落ち着きなく室内を歩き回っていた。千隼に気がついた養護教諭が強張った笑顔を向け、千隼をベッドへ案内した。担任と学年主任は、ベッドの横にパイプ椅子を出し、重々しく腰を下ろした。車椅子を押していた先生たちはそそくさと保健室から出ていった。保健室の外から、ざわざわと気色の悪い話し声が室内に漏れてくる。 

 チャイムが響いた。昼休みが終わったのだろうか。生徒を教室へ促す先生たちの声が聞こえる。その声が聞こえて程なく、気色悪い話し声は散り散りに、小さくなっていった。五時間目の始業のチャイムが鳴った頃には誰の声もしなくなっていた。 

 不意に担任が静寂を破った。「なにかあったのか」 
 千隼はその言葉の意味をすぐに理解した。今自分は、屋上から飛び降りた自殺志願者だと思われているのだろう。まさか、幽霊に殺されかけましたなんて言えない。それこそ精神に異常があると思われてしまう。千隼は無意識に口をつぐんだ。 

「鈴木先生、今はまだそんな話しなくていいじゃないですか。救急車が来るまで休ませてあげましょう」養護教諭は、眉間に皺を寄せた担任を静かにたしなめた。 

 もうすぐ救急車が来るのか。救急車が来る前に先生たちに聞いておきたいことがある。千隼は声を潜めて言った。 
「あの、この学校で、ある噂が原因で自殺した男子生徒がいませんでしたか?」 
 三人の大人たちが表情を強張らせた。 
「その生徒が自殺したのって、いつの話なんですか?」 

 担任が口を開こうとしたのと同時に、外から救急車のサイレンが聞こえてきた。廊下が慌ただしくなってきた。救急車のサイレンは止まり、それと同時に数人の救急隊員が保健室になだれ込んできた。無傷の千隼は救急隊員たちの丁寧な補助により、速やかに救急車に乗せられた。担任は幽霊でも見ているかのような表情をしたまま救急車に同乗した。 

 病院に着くと、千隼は頭からつま先まで綿密に検査を受けた。検査結果が知らされるまでの間、病室のベッドに寝かされた。ベッドの横に座った担任が、うなだれたまま口を開いた。 
「なんで、自殺した生徒のことを知ってたんだ」 

 むしろ、なぜ彼のことを知っていることがこれほどまでに驚かれるのか、千隼は不思議に思った。 
「噂に聞いたことがあって」千隼は逡巡してから、無難なことを言った。 
「まだ噂は続いていたのか」聞こえるか聞こえないかの声で呟くと、担任は顔をあげて千隼に目を向けた。「その男子生徒とお前が飛び降りたこと、なにか関係があるのか?」 
 大ありだ。千隼は俯いた。 
「そもそも、なんで屋上に入れたんだ? 屋上の鍵は職員室にあったはずだぞ」 
「開いてましたよ」嘘も方便だ。 
 おかしいなあと小言をぼやきながら、担任は頭を掻いた。 
「屋上からの景色に感動してたら、気を失っちゃって」千隼は嘘を重ねた。 
 少し疲れた様子で千隼を見据えた。「ということは、自殺しようと思っていたわけじゃないんだな?」 
 千隼は困った顔で頷いた。「心配かけてごめんなさい」 

 病室の外から、荒々しく駆けてくる足音が聞こえてきた。病室のドアが思い切り開かれ、汗だくで涙まみれの千隼の母が姿を現した。 
「千隼!」母の声は震えていた。 
 担任が急いで立ち上がり、母に駆け寄った。「お母さん、千隼くんは無事ですので、どうか落ち着いてください」 
「落ち着いていられるわけがないでしょう! なにがあったの、千隼!」 

 千隼に代わり、担任がそのときの状況をゆっくり丁寧に母に話した。校庭でサッカーをしていた生徒たちが、千隼が屋上の柵を越えようとしているのを目撃したこと。彼らが急いで近くにいた先生を呼び止めたところ、その先生がたまたま陸上部の横断幕を持っていたこと。男性職員たちが呼び出され、横断幕を広げて、落ちてきた千隼を受け止めようとしたこと。 

 母は呼吸を乱しながら必死に担任の言葉に耳を傾けていた。そして今度は鬼のような形相を千隼に向けた。 
「なんで、なんで、屋上から飛び降りようとしたの!」溢れた涙がとめどなく母の目から流れ落ちた。 
「飛び降りるつもりはまったくなかったんだ。屋上の柵にもたれた瞬間、なぜか気を失ったんだよ」千隼は母にも嘘をついた。心は痛んだが、幽霊に悪さされたなどと言おうものなら、母は自分の教育が間違っていたことを悟ってしまうだろう。いつも叱るときにオバケが来ると言っていたことが、この結果を招いたのだと。 

 母はあまり納得いっていないようだったが、それ以上追及しようとはしなかった。医者が検査結果を持って病室に入ってきてからも、母の涙は止まらなかった。検査結果は、すべてにおいて異常なしだった。 


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