見出し画像

【112歩目】荘子とデカルト② - 東洋と西洋の「身体」 -

 前回のつづき。前回は荘子の斉物論篇とデカルトの方法的懐疑について対比してみましたが、今回もデカルトで。


1.実体二元論 -精神と身体は別のもの-


ルネ・デカルト(1596-1650)

  前回、デカルトが方法的懐疑によりあらゆるものを疑って、最終的には「疑っている私自身」、「考える私」の存在を疑うことはできないとして、「我思う、故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」を第一原理としたというお話をしました。いわば、デカルトは、あらゆる疑わしいものを排除して更地にし、「考える自分」という思想の土台を得たわけです。

 そのうえで、デカルトはこの世界の実体を「思惟する実体」と「延長する実体」に二分します。

① 思惟する実体(Res Cogitans / 精神・心)
・本質:思考する(意識、判断、疑うこと、感情など)
・特徴:空間的な広がり(延長)を持たず、分割できない。
 
② 延長する実体(Res Extensa / 物質・物理的世界)
・本質:延長する(空間の中に幅・奥行き・高さを持って存在すること)
・特徴:思考を持たず、分割可能であり、決定論的な機械的法則(物理法則)に従う。

 車と分銅とでつくられている時計は、たとえできそこなっていて時を正しく告げない場合でも、あらゆる点で製作者の望みをみたしている場合に劣らず厳密に、自然の全法則に従っているのである。ちょうどそれと同じように、人間の身体に関しても、それを私が、骨や神経や筋肉や血管や血液や皮膚からできている一種の機械──たとえその中になんら精神が存在しなくても、現にその中で、意志の命令なしに、したがって、精神のはたらきなしに、起こっているところの運動(不随意運動)を、すべてなしうるように仕組まれ組みたてられている機械──と考えるならば、私は次のことをたやすく認めることができる。

デカルト著『省察』 (中公クラシックス) 省察六 物質的事物の存在、および精神と身体との実在的な区別について

 デカルトは、「延長する実体」である人間の身体を「機械」にたとえることがありますので、日本のロボットアニメでたとえてみると理解しやすくなるかもしれません。

 たとえば『鉄人28号』。鉄人はリモコンで操作されるロボットです。鉄人は物理的な攻撃力や防御力は強く、空を飛ぶことも可能ですが、何かを感じたり、考えたり判断したりすることはできません。感じたり考えたり判断したりするのは、操縦者である金田正太郎君がやることであって、鉄人はリモコンを通して正太郎君の指示に従うのみです。万が一リモコンが悪人に奪われてしまうと、鉄人は悪の手先にもなることすらあります。すなわち、正太郎君がデカルトのいう精神(思惟する実体)であり、鉄人が身体(延長する実体)といえますね。

私は身体をもっており、これが私ときわめて密接に結びついているにしても、しかし私は、一方で、私がただ思惟するものであって延長をもつものでないかぎりにおいて、私自身の明晰で判明な観念をもっているし、他方では、身体がただ延長をもつものであって思惟するものでないかぎりにおいて、身体の判明な観念をもっているのであるから、私が私の身体から実際に分かたれたものであり、身体なしに存在しうることは確かである。

デカルト著『省察』 (中公クラシックス) 省察六 物質的事物の存在、および精神と身体との実在的な区別について

 身体を「延長する実体」として捉えるとすると、ガンダムも近いですね。

強化宇宙服と作業用モビル 『プレリュードZZ』より ⓒサンライズ

 ガンダムシリーズに登場するモビルスーツは、本来は宇宙空間で作業をするための、人体の補助的な役割を持っていた宇宙服や作業用機器が発達し、軍事向けに転用されたものです。また、パイロットが巨大なロボットの中に入って操る「モビルスーツ(稼働する衣服)」の概念は、精神が「延長する実体」を操るとするデカルトの考えにとても近いものです。

 デカルトの実体二元論とは、大雑把に言うと精神と身体を二つに分けて考えるわけですが、両者が平等というわけではありません。前述の『省察』の言葉を借りるならば、精神と身体を分けたうえで、精神は身体を観念することができ、身体なしに精神は存在しうるとしています。そもそもが「私は思惟する存在である」ことを基盤においているせいでもありますが、デカルトの思想においては、思考の大本である精神(思惟する実体)が身体(延長する実体)よりも、どうしても優先されてしまいます。

 ガンダムにたとえるならば、パイロットはガンダムのおおよその仕組みを理解して自分で感じて判断して操作をしますが、その逆はありません。また、パイロットがいないとガンダムは動きませんが、ガンダムがなくてもパイロットは生きていけるわけです。

 身体であるモビルスーツの頭部が吹っ飛んだとしても、パイロットであるアムロ・レイが生きていれば「たかがメインカメラがやられただけだ!」と言えるわけです。そういったアムロ・レイの思考は、デカルトの思想と相性がいいです。

2.デカルトの二つの見方。

 なんだかめんどくさい話が続きますが、このめんどくささというか、デカルトの実体二元論を複雑にしている一つの要因は、デカルト本人が『「精神」と「身体」は別のもの』と書いておきながら、それを徹底できてない点にもあると思います。代表的なのがこの部分です。

 自然はまた、それら痛み、飢え、渇き等々の感覚によって、私が自分の身体に、水夫が舟に乗っているようなぐあいに、ただ宿っているだけなのではなく、さらに私がこの身体ときわめて密接に結ばれ、いわば混合しており、かくて身体とある一体を成していることをも教えるのである。なぜなら、もしこうなっていないとするならば、思惟するものにほかならない私は、身体が傷ついたときでも、そのために苦痛を感ずることはなく、ちょうど舟のどこかがこわれた場合に水夫が視覚によってこれを知覚するように、純粋悟性によってその傷を知覚するだけであろうし、また身体が食べ物や飲み物を必要とするときでも、私はこのことをはっきり理解するだけであって、飢えとか渇きとかの混乱した感覚をもつことはないであろうからである。

デカルト著『省察』 (中公クラシックス) 省察六 物質的事物の存在、および精神と身体との実在的な区別について

 デカルトは「痛み」が身体から生じて精神にまで影響を及ぼすことを認め「精神と身体は一体のものである」としています。

腕に痛みを感じている碇シンジ Ⓒ㈱カラー

 これについて考えやすいのはまたもやエヴァンゲリオンです。ガンダムと同じように、エヴァンゲリオンもパイロットが巨大兵器の内部のコックピットで操作をするシステムですが、決定的に違うのが神経接続です。エヴァの場合には、機体とパイロットの神経系が接続されているため、より高い機体との一体化が図れるのですが、同時に機体が受けた衝撃も、パイロットは痛みとして共有します。ガンダムの腕や首が吹き飛んでもアムロ・レイは平気ですが、エヴァの腕が吹き飛ぶと碇シンジの腕には激痛が走ります。エヴァとパイロットのシンクロ率が高ければ、デカルトのいう「水夫が舟に乗っていて、一体となっている状態」であるといえます。

 しかし、デカルトがここで「いや、実は精神と身体は密接に結びついていて、一体をなしているんだよね。」と言っているわけですが、これだと読者は「じゃぁ、最初に精神と身体は別々だと言っていた前提はどうなったのさ?」という話になってしまいますよね。厳密にいうとデカルトは実体二元論と一元論が混在しているわけです。これがとてもめんどくさい。

 ただし、デカルトの思想の後世への影響をたどっていくと、圧倒的に「精神と身体は別々のもの」とする実体二元論の考えが主流になります。たとえば、「機械の中の幽霊」という批判が20世紀に入って流行するのもデカルトの実体二元論の考えが西洋のスタンダードであり続けたからです。

3.機械の中の幽霊(Ghost in the machine)


  「我思うゆえに我あり」を基盤として、「精神」と「身体・物体」を分化して考えるというデカルトの実体二元論の考え方は、西洋の近代科学の発展に大きな影響を与えました。

 分かりやすい事例だと医学です。人間を精神と身体に分化して、「思惟するもの」としての精神の側から「延長するもの」としての身体を見る、言い方を変えると精神という主観から、肉体を客観的に見ることができます。

 また、身体に代表される物質的なものを「延長(空間を占有するサイズと形を持ったもの)」と定義するので、世界の事物を幾何学的、数理的に分析して、合理的な解釈を導き出すことが可能になります。こういったデカルトの考えは、哲学だけでなく、その後の欧米の数学や近代科学、工業の急速な発達に大きく貢献しました。

ギルバート・ライル(Gilbert Ryle 1900-1976)

 しかし、デカルトのこのような考え方については、歴史的にも賛同だけでなく、様々な批判が加えられてきました。そのなかでも有名なものの一つが、20世紀のイギリスの哲学者・ギルバートライルの『心の概念』(The Concept of Mind, 1949年)という本に登場する「機械の中の幽霊(Ghost in the machine)」です。

 簡単に言うと、ギルバート・ライルは、デカルトの実体二元論では精神と身体を二分して別々のものだと言っているけども、心を、身体とは別の種類の『実体』として身体の中に探そうとする、デカルトの二元論は、「カテゴリーの錯誤」にあたるとしたのです。

 (これは)オックスフォード大学を訪れ、図書館、研究棟、学生寮、校舎などを一通り案内してもらった後に、

 「建物はいろいろ見ましたけど、肝心の『オックスフォード大学』はどこにあるんですか?」と尋ねるような状態です。

 大学は個別の建物と同じ次元(カテゴリー)にあるものではありません。 

 「カテゴリーの錯誤」については、この大学のたとえが有名です。校舎やグラウンドや図書館それぞれの部分も大学の施設であるのに、まるでなにか独立した大学という存在があるかのように勘違いしているという人物のお話。

 ギルバート・ライルは、人間の精神(心)に相当するものは、脳や神経系や身体などを通して様々な形で現出されるものであるのに、デカルトはなにか一つの「精神(心)」なる独立したカテゴリーがあると勘違いをしている、と批判します。

 ここから身体という機械の中に心という幽霊が入っているというデカルトのモデルを批判する形で、「機械の中の幽霊(Ghost in the machine)」という言葉が生まれました。

 士郎正宗の漫画を原作として、現在も新作が出ている『攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』は、まさにこの「機械の中の幽霊(Ghost in the machine)」がネタ元です。作中にででくる「ゴースト」をデカルトの言う「思惟するもの(精神)」とし、「義体」を「延長するもの(身体)」とするとまさにどんぴしゃ、なんですが、ちゃんとやると複雑になるので、今回は割愛。

4.荘子の身体と精神の主宰者。

 ではこの論点について、対比していただきたいのが荘子です。今回も前回と同じく斉物論篇の一節から。

❝非彼無我,非我無所取。是亦近矣,而不知其所為使。若有真宰,而特不得其眹。可行已信,而不見其形,有情而無形。百骸、九竅、六藏,賅而存焉,吾誰與為親。汝皆說之乎。其有私焉。如是皆有,為臣妾乎,其臣妾不足以相治乎。其遞相為君臣乎,其有真君存焉。如求得其情與不得,無益損乎其真。一受其成形,不亡以待盡。與物相刃相靡,其行盡如馳,而莫之能止,不亦悲乎。終身役役而不見其成功,苶然疲役而不知其所歸,可不哀邪。人謂之不死,奚益。其形化,其心與之然,可不謂大哀乎。人之生也,固若是芒乎。其我獨芒,而人亦有不芒者乎。❞

→「彼(外界の環境や、他者という存在)」がなければ、「私」というものは成り立たない。しかし同時に、「私」という存在がなければ、「彼」から何かを受け取る(認識する)こともできない。

 (世界と私はこのように密接に結びついており)この真理はすぐ近くにあるのだが、一体「何」が、この私という存在を突き動かしているのか(その命令の主)が分からない。

 まるで、この肉体をコントロールしている「本当の主宰者」がどこかに存在しているかのようだが、いくら探しても、その手がかりを掴むことはできない。しかし、この身体が(自分の意志を超えて完璧に)機能していることは間違いのない事実(信)である。ただ、その働きを司る「真の主人の形」を見ることはできない。確かに「情」は存在するのに、そこには「形」がないのだ。

 人間には、百の骨節(百骸)、九つの穴(九竅:目・耳・鼻・口・尿道・肛門)、六つの内臓(六蔵)が、すべて揃って私の身体として存在しているという。

 私は、この身体のパーツのうち、一体どれを最も親しいものとすべきだろうか。 あなたは、これらのパーツをすべて同じように愛しているだろうか。それとも、どれかを特別に贔屓(ひいき)しているだろうか。もし、すべてのパーツが同じようにただ存在しているだけなら、それらはすべて(自律性のない)「家来や召使(臣妾)」のようなものなのだろうか。しかし、召使たちだけでは、お互いを統治し合って(この複雑な身体のバランスを)保つことはできないはずだ。

 それとも、パーツたちが交代で「君主」になったり「家来」になったりしているのだろうか。いや、そうではない。これらを一括してコントロールしている「本当の君主」が、やはりどこかに存在しているようである。その「真の主人」の正体を、私たちが掴むことができようができまいが、その主人が(今この瞬間も私を生かしているという)厳然たる事実に照らすと、有益であるとか無益と言った観点は無用である。

『荘子』斉物論 第二

 荘子における精神と身体のあり方についての文章ですが。ここでもデカルトと同じような論点について荘子が語っています。荘子は、人間の活動の根本となる「主宰者」の存在は推測していますが、それでいて形はなく、特定することはない。また、人間の身体を統合するのは全体か一部かということも断定はしていません。
 デカルトが「主宰者である精神」を実体として確定したのに対し、荘子は最後までそれを確定しない点で結論が異なりますね。

5.荘子とデカルトの身体。

 こう見ると、デカルトと荘子には同じ論点が多く「身体」においても同じ土俵に立っていると思うんですが、やはりここでも相違があるといえます。

 もう一度エヴァンゲリオンを。

 エヴァの第1話「使徒、襲来」で、主人公・碇シンジが初めてエヴァに搭乗するシーン。その前に使徒の攻撃により基地が揺れてシンジ君が落下物の下敷きになりそうになります。

碇シンジを庇う初号機 Ⓒ㈱カラー

 その瞬間、パイロットの乗っていない初号機が突如として動き出し、シンジ君を庇います。非常に象徴的なシーンです。
 
 この「パイロット(精神)がいなくてもエヴァ(身体)が動く」という点だけなら、実はデカルト的な機械論でも説明できます。しかし「なぜ初号機がシンジを庇うのか」という問題になると、単なる機械論では説明しにくくなります。

 でも、これって荘子の場合には説明は比較的容易です。荘子の場合には人間の身体に対しても「無為自然」を尊びます。すなわち、はからいがなく、心を自然に遊ばせることを重視しています。それは、庖丁という料理人の故事であったり、心斎や坐忘といった修養方法にも表れてきます。

 日本の武道においても、意図しない「無心の一手」を尊ぶ傾向がありますが、東洋思想、特に老荘思想や禅仏教においては、「はからい」から離れたときに優れたパフォーマンスを発揮するという考えがあります。言い換えると、考えることそのものが、身体にとってのノイズとして作用する場合もあるという側面を指摘しているとも言えます。『燃えよドラゴン』におけるブルース・リーの「Don't think. Feel.(考えるな、感じろ!)」はその典型ですが、身体の真の機能は「考えることから離れる」ことによって得られるという思想の体系があるわけです。

 それは「考える私」を土台においたデカルトの対極ともいうべきものです。すなわち、デカルトが「我思う故に我あり」を基盤として、精神と身体を二分し「考える私」から思想を展開するのに対し、荘子は「精神と身体には明確な区分はすることができず」また、身体は「考える私」から離れることによって、本来性を取り戻すとしているわけです。

 もうちょっと言い方を変えると、デカルトの語る身体論というのは「思惟するもの」が基盤となっているため、「痛みを共有する」「考えと行動がぴったり合致する」などは想定できますが、精神と身体はどれだけ密接に結びついても、シンクロ率100%にはなりません。なぜなら、精神と身体は実体としてはあくまで別物だからです。

 ところが、荘子の「胡蝶の夢」では「精神と身体が一体化する」どころか、「主体と客体の区別そのものが喪失する」というところまで想定しているわけです。シンクロ率で言うと200%ともいうべき状態です。荘子が主宰者を確定しなかったのも、この精神域の幅の広さゆえ、ともいえると思います。

 あまりに長くなったので今日はここまで。それでは次回まで「君は生き延びることができるか?」


いいなと思ったら応援しよう!