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自由は奪われていなかった──LGBTの自由と責任

誰にも自由なんて奪われていなかったのに。

自分で、自分の生きていける世界を狭めていただけなのに。


レズビアンカップルがいた。
片方は「いつか結婚式を挙げたい」と願っていたけれど、もう片方はあまり乗り気ではなかった。
理想の違いが次第に大きくなり、ついには喧嘩別れしてしまう。

その矢先──結婚式を夢見ていた方が、事故に遭う。
体も心もボロボロになったとき、偶然再会したのが、幼なじみの男性だった。

「もう大人だし」「普通に結婚するのが普通なんだ」
そう思って、彼女は男性と結婚することを決めた。

けれど──

結婚式当日、元恋人の女性が現れた。
愛を語り、涙ながらに想いを伝え、そして、彼女は迷わずその手を取って姿を消した。


これは「感動話」なんだろうか?

ネットではこの物語が「本当に愛する人と結ばれた感動の話」、「既存の価値観からの解放」として拡散されていた。
でも、僕はとてもやるせない気持ちになった。

事故で傷ついた彼女を助け、再出発を支えた幼なじみ。
もちろん、社会的なステータスとして嫁を手に入れたかったという部分もある。しかし彼もまた、大人としての覚悟と優しさを持って、結婚という選択をしたはずだ。
そんな彼の想いも、式の準備も、家族の期待も、すべて無視されて「愛の力」で片付けられてしまった。

それって本当に美しいことだろうか?


期待には、裏切っていいものと、いけないものがある

僕はこう思っている。

  • 勝手に寄せられた期待──親の期待、社会の押しつけ──は裏切っていい。

  • でも、信頼関係に基づいた期待──パートナーや婚約者との約束──は裏切ってはいけない。

今回の彼女は、自分が自由を奪われていたと思い込んでいた。
でも本当は、誰にも自由を奪われてなんていなかった。
彼女はずっと自由だった。ただ、選ぶ勇気と、責任を持つ覚悟がなかっただけだ。


自由には、責任が伴う

人を裏切ってまで手に入れる自由に、僕は共感できない。

それは自由じゃない。
ただ、誰かの人生を傷つけてまで「自分の気持ち」に従っただけだ。
そしてその気持ちは、最初の恋人にすがり、別れたら幼なじみに依存し、最後には全部を放棄して逃げるという、“自立とは遠い道”だったと思う。


結婚は、契約だ

結婚って、感情だけのものじゃない。
そこには社会的な意味も、法的な責任もある。

この話、現実の世界なら――
婚約不履行で損害賠償を請求されてもおかしくない状況です。

婚約というのは、口約束だけでも成立する「契約」としての性質があります。
結婚式場のキャンセル料や衣装代、招待状などの実費に加え、精神的苦痛に対する慰謝料が発生することもあります。

つまり、
「式当日に花嫁が逃げた」
というのは、感動どころか立派な損害賠償案件になりうる

もちろん当事者が訴えなければ裁判にはなりませんが、
「法的に責任が発生するくらい重大なこと」だということは、もっと知られていいと思います。

一度「一緒に生きよう」と決めた相手との信頼関係を、簡単に裏切ってはいけない。
それが大人の責任だと思う。


おわりに

僕は、彼女の自由を否定するつもりはない。
でも、その自由のために他人の人生を壊したことが、「感動」という言葉で正当化されるのは、やっぱりおかしいと思ってしまう。


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「既婚ゲイ」という生き方と、変わりゆく結婚観のはざまで。

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