「既婚ゲイ」という生き方と、変わりゆく結婚観のはざまで。
最初は「被害者」だと思っていた
「既婚ゲイ」という言葉を初めて知ったとき、僕はそれを“社会的な圧力の被害者”だと思っていました。ゲイであることを隠して結婚するのは、当時の社会では仕方のない選択だったのだろうと。
でも、大人になって、ネットを通じてさまざまな人の声や実態に触れるうちに、少しずつ考えが変わってきました。
既婚ゲイにもいろいろな形がある
「既婚ゲイ」とひとくちに言っても、その在り方にはさまざまな形があります。たとえばーー
ゲイとしての交流は少なく、たまにゲイバーでお酒を飲む程度という人。
SNSやアプリなどでゲイの知人を持ちつつも、積極的に関わることはしない人。
日常的にゲイとして活発に活動し、イベントやアプリでの出会いも楽しんでいる人。
それぞれに背景や事情があるのは当然ですが、共通して言えるのは「結婚という制度の中に、どのような意識で生きているか」が問われるということです。
既婚ゲイの実態をネットで知るようになって
たしかに昔はカミングアウトできない時代だったかもしれません。
けれど今、SNSやマッチングアプリを見ていると、「既婚ゲイ」を名乗りながら堂々と男遊びを繰り返している人たちが、一定数存在していることに気づきます。
そこには、「本当は仕方なく結婚した」という悲壮感よりも、「家庭も子どももほしいし、男とも遊びたい」という欲望が見え隠れしています。
驚くべきは、それを隠すどころか、まるで当然のことのようにプロフィールに「既婚」「妻子あり」などと書いている人がいること。
「既婚ゲイ」や「子持ちゲイ」がブランド化している?
最近では、こうした「既婚ゲイ」や「子持ちゲイ」という肩書きが、あたかもブランドであるかのように扱われている風潮すらあります。
「子どもを孕ませた=雄としての証明=性的アピール」──そんな文脈で自らの立場を利用する人までいるのです。それを見たとき、僕は単なる違和感というよりも、強い不信感すら抱いてしまいました。
僕自身の体験──友情結婚の誘い
実は僕自身、過去に幼馴染の女性から「友情結婚をしないか」と持ちかけられたことがあります。
僕に柴犬の素晴らしさを教えてくれた人でもあります。
彼女は信頼できる人で、「子どもは体外受精で持ちたい」「家族として愛情を育んでいきたい」と真剣に語ってくれました。
友情はありました。大切な人でした。
でも、僕にはその提案を受け入れることができませんでした。
結婚という関係の先には、たとえば相手の生死に関わる決断や、収入に関わる現実的な支え合いといった“覚悟”が求められます。
僕には、その人に対して“本当の意味での責任”を引き受けられる自信がなかったのです。愛情がないがゆえに、どうしても踏み込めない領域があると感じました。
本当に“社会の被害者”なのか?
果たして、彼らは本当に“社会の被害者”なのでしょうか?
結婚とは、本来は信頼関係を築く契約のはずです。にもかかわらず、自分の性的指向や願望を隠したまま結婚し、裏では自分の欲望を満たしている。これは、社会全体の責任というより、一人ひとりの“選択”の問題ではないでしょうか。
LGBTの「権利」と「責任」
今、LGBTの権利については社会全体で注目が集まり、支援の輪も広がりつつあります。それはとても大切なことです。
でも、その一方で「LGBTの責任」については、ほとんど語られることがありません。
権利が認められるということは、同時に「選択に対する責任」も伴うということです。「多様性」という言葉を免罪符にせず、正直に、誠実に生きる。それが、これからの時代に本当に求められることだと思います。
これからの選択に、責任を
当事者だからこそ見える、もう一つの現実。それは、「傷つけられた存在」としてのLGBTではなく、「誰かを傷つける存在にもなりうる」という視点。
僕たちはもう、「仕方がなかった」で済ませる時代を越えました。
今こそ、正直に、自分の選択に責任を持って生きる覚悟が問われているのだと思います。
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