短編小説「あと、5キロ痩せたら」
(背景とあらすじ)
互いに好意を持ちながらも、その関係を現実のものにすることなく距離を保ち続けるふたりだったが⋯三年にわたって続く男女のSNSでのやり取りを描いた短編小説。
恋愛小説コンペ「パテック杯」優勝作品。巻末にコメントを記載しました。
彼女とは、もう三年になる。
以前やっていたTwitterの繋がりで、いつからかLINEを交換し、それから切れそうで切れないやり取りが続いている。
頻度はまちまちだ。
三日後に返ってくることもあれば、半年も音沙汰がないこともある。
内容はたいてい、他愛もない。
子どもの勉強のこととか、学校のこととか。
ときどき、旦那の愚痴が混じる。
あるときは、「ねえ、見て?」の言葉とともに
新しく買った下着や、ブランドバッグの写真が届く。
僕はそれに、「大変だったね」とか、「似合いそうだね」とか、そんな言葉を返す。
伝えたいことがあれば少し言葉を返して、そうでなければ、ただ相づちを打つ。
焦がれるような気持ちを交わしたこともあった。
いまは、それだけの関係だ。
夜、ソファに身体を沈め、スマホからふと目を上げると窓の外に月が出ていた。
はっきり見えると思った次の瞬間、薄い雲が流れてきて、その輪郭をやわらかくぼかしていく。
画面の明かりと、窓の向こうの淡い光が、同じくらいの距離にあるように見えた。
昔の自分なら、会えない相手に時間を使うことはなかったと思う。
何度か実際に、フォローを外したことも、ブロックしたこともある。
でもそのたびに、彼女は別のかたちで戻ってきた。
新しいアカウントからフォローしてきたり、
共通の知り合いを経由して連絡を寄越したり。
気がつけば、また同じ距離に戻っている。
不思議と、それを面倒だとは思わなかった。
冗談めかして
「そんなに執着してくれるなら会えばいいのに」
と言ったこともある。
彼女は決まって、同じ言葉を返す。
「うん⋯
あと、5キロ痩せてからにするね」
その言い方が、少しだけ照れくさそうで、
でもどこか本気でもあるようで、僕はいつも返事に困る。
固定電話の時代だったら、受話器のコードを指に巻きつけながら、同じことを言っていたのかもしれない。
たぶん僕たちは、この先も会わないのだろう。
それでも。
たぶん僕は、このやり取りが少し好きなんだと思う。
◇ ◇ ◇ ◇
休日の午後、テーブルに向かって子どものノートをのぞき込む。
「ここ、なんでこうなるの?」と聞かれて、ペンを持つ。簡単な問題なのに、少しだけ言葉を選ぶ。
教える、というより、考え方をなぞらせるように。
ふと、彼女のことを思い出す。
同じように、誰かの隣に座っているのだろうか。
同じように、答えを急がずに、言葉を選んでいるのだろうか。
「ねえ、聞いてる?」と声をかけられて、我に返る。
「うん、聞いてるよ」と言いながら、もう一度ノートに視線を落とす。
◇ ◇ ◇ ◇
彼女は、きっと自分の時間があまりない。
夜遅くなると返信が途切れることが多いし、
朝の早い時間に、短いメッセージがぽつりと届くこともある。
子どもの進路の話になると、少しだけ言葉が慎重になる。
「どう思う?」と聞かれて、僕が長めの文章を返すと、「ありがとう」とスタンプだけ返ってきて、そのあとしばらく既読がつかなくなる。
きっと、家の中で声を出して読むことはできないのだろう。
そんなふうに、彼女の生活は、画面の向こうに薄く透けて見える。
でも、そこから先には、踏み込まない。
踏み込まないから、この関係は続いているのかも知れない。
◇ ◇ ◇ ◇
自分には不釣り合いと思われるような、とびきりお洒落な服。
敷居が高く感じる三ツ星レストラン。
いつかは、と思いながら、
今はまだ、と手を引っ込めるもの。
そういうものを見上げるとき、人は少しだけ未来に逃げる。
「今じゃない」
「もう少し先なら」
そして、言うのだ。
「あと、5キロ痩せたら」
◇ ◇ ◇ ◇
本当は、ふたりとも知っている。
越えようとする境界線は、
遠くから眺めているよりもずっと深くて、暗くて、
一度踏み出せば、元には戻れないことを。
その暗がりを目の前にして、
「わたしには、無理」と言うかわりに、
「あと、5キロ痩せたら」
と、彼女は言う。
そして僕も、それ以上は何も言わない。
◇ ◇ ◇ ◇
ある夜、珍しく彼女から、短いメッセージが届いた。
「ねえ」
それだけだった。
続きは、来なかった。
なんて言おうとしたのだろう。
何を、僕に伝えたかったのだろう。
僕はしばらく画面を見て、返信を打ちかけて、やめた。
窓の外を見ると、春先の夜気が少しだけサッシの隙間から入り込んでいた。
どこか遠くで、湿った土の匂いがしている。
雨上がりなのかもしれない。
昼間の名残をかすかに含んだその空気は、まだ冷たさを残しながら、
どこかやわらかくて、季節がゆっくりと動いていることを、黙って教えてくる。
ふと、あの頃の夜の匂いに似ていると思った。
理由はうまく言えない。
ただ、何かが少しだけ変わりはじめているときの匂いだった。
指先に残る言葉を消して、代わりに、
「最近どう?」
とだけ送る。
既読はつかなかった。
それでも、特に何も思わなかった。
このままでいい、と思った。
彼女の体重がいま何キロなのか、僕にはわからない。
たぶん、それを知ることはないのだろう。
それでも、この言葉はきっと、これからもどこかで繰り返される。
「あと、5キロ痩せたら」
画面を閉じて、しばらくしてから、もう一度だけ開く。
さっきまで何もなかった画面に、小さく「既読」がついていた。
そして、その下に、
「入力中」
の文字が、静かに点滅していた。
(おしまい)
・読んでくださった皆さんへお礼とお知らせ
この作品は、noteクリエイターのパテックさんが主宰する恋愛コンペ「パテック杯」にエントリーし、優勝させていただくことができました。
この賞は、特定の選考委員さんではなく、
皆さんお一人おひとりの投票で選ばれ、受賞したものです。
本当にうれしく、自信になりました。
このまま頑張ればいいんだと背中を押していただいたような気持ちです。
改めて、貴重な機会をありがとうございました。
【関連記事】
