自分を「プロダクト化」せよ。市場価値を拡張し続ける「小さなピボット」戦略
「今のあなたの市場価値は、いくらですか?」
この10年、電車の中吊り広告、スマートフォンのニュースアプリ、SNSのタイムライン。私たちは驚くほど頻繁に、この刺激的な問いかけを目にするようになりました。同世代のビジネスパーソンであれば、一度はこの言葉に心をざわつかせ、年収診断ツールに自分の経歴を入力してみた経験があるのではないでしょうか。
HR(人材)業界に長年身を置く立場から少し意地悪な種明かしをすると、このキャッチフレーズは、転職「潜在層」を振り向かせるための、極めて巧妙に計算されたマーケティング用語です。
年々加速する深刻な人材不足により、企業が優秀な人材を確保する難易度は歴史的な高水準に達しています。転職サイトやエージェントは、すでに転職活動を始めている「顕在層」の奪い合いだけでは、ビジネスのパイが全く足りなくなってしまいました。 そこで、「今はまだ転職を考えていないけれど、現状のキャリアや会社の将来に漠然とした不安がある」という大多数の人々——いわゆる潜在層——の心を揺さぶり、サービスに登録させるための強力なフックとして、「市場価値」という言葉が乱発されているのです。
ここまでは、ビジネスの構造を俯瞰できる方であれば、大方予測がついていることでしょう。
しかし、私が真に危惧しているのは、多くのビジネスパーソンが「提示された年収=自分の市場価値」だと盲信し、「年収という単一指標以外で、自分の価値をどう測り、どう高めていけばいいのか」という本質的なフレームワークを知らないまま、時代の波に流されていることです。
生成AIの台頭によって、あらゆる業界のゲームのルールが根本から変わりました。環境が変われば、昨日まで「市場価値が高い」とチヤホヤされていたスキルが、今日にはあっけなく陳腐化し、ゼロになる可能性があります。
そんな、明日すら見通せない不確実な時代の中で、自分が市場から求められ続ける存在であるかどうかを、どう判断し、どう育てていけばいいのか。
私は、HR業界と新規事業開発の両方の最前線で泥臭く戦ってきた経験から、一つの明確なアプローチを提案したいと思います。
それは、「自分自身を、一つのプロダクトに見立てる」という考え方です。
1. 自分というプロダクトの「PMF」を定義する
新規事業開発の世界には「PMF(プロダクト・マーケット・フィット)」という絶対的な指標があります。これは、提供するプロダクトが顧客の切実な課題(ペイン)を解決し、適切な市場に熱狂的に受け入れられている状態を指します。
自分を市場価値のあるプロダクトとして定義するためには、まず自分の「機能」を冷徹に因数分解する必要があります。
私というプロダクトのコア機能は、大分類として以下の2つに集約されます。
新規事業開発の経験とスキル(ゼロからイチ、イチからジュウを創る力)
HR業界の構造と商慣習に対する深い理解
世の中を見渡せば、優秀な新規事業開発のプロはたくさんいます。また、HR業界を知り尽くしたベテランも星の数ほどいます。しかし、この「2つの円が重なる領域」にいる人材は、驚くほど希少です。
なぜ、この掛け合わせが強力なPMFを生み出すのか。それは、HR業界という巨大市場が抱える、非常に根深い「負」を解決できるからです。
現在のHR業界が抱える最も深刻なペインは、「ビジネスモデルが数十年間、劇的な変化を起こせていない」という点にあります。 2000年代から続く人材紹介や人材派遣といったマッチングビジネスは、手数料の利率、マーケティング手法、収益構造に至るまで、すでに成熟(あるいは硬直)しきっています。しかし、法規制や複雑なステークホルダーが絡み合うため、外部のITコンサルタントが「最新のSaaSモデル」を持ち込んでも、現場の泥臭い壁に弾き返されてしまいます。一方で、内部に長くいる人間は、既存の「儲かる方程式」に最適化されすぎており、自己否定を伴うイノベーションを描けません。
ここに、私というプロダクトがすっぽりとハマります。 「業界の複雑な内部構造を知り尽くしているからこそ、どこを変えればブレイクスルーが起きるかという『真の負』が見える」。 そして、「新規事業開発の専門スキルがあるからこそ、その負を解決するための新しいビジネスモデルを『絵に描いた餅』にせず、現実の仕組みとして実装できる」。
だからこそ、今の私には高い需要(プライシング)が発生するのです。
読者の皆さんに問いかけたい。 あなたのコア機能は何でしょうか。そしてそれは、どの市場の、どんな「負」を解決しているから、今のポジションと報酬が成立しているのでしょうか。この「自身の機能」と「市場の課題」の相関関係を明確に言語化することこそが、本当の市場価値を測るための第一歩です。
2. 軸足を動かさず円を描く「小さなピボット」戦略
しかし、一度PMFを達成したからといって、そこに安住することは死を意味します。市場は常に動き続けており、プロダクトもアップデートを怠れば、あっという間にレガシー(時代遅れ)と化すからです。
ここで重要になるのが「小さなピボット」という戦略です。
キャリアチェンジと聞くと、多くの人は「今まで築いたキャリアをリセットし、全くの未経験領域へ飛び込むこと」という、リスクの高いフルモデルチェンジを想像しがちです。しかし、真に市場価値を拡張し続ける人は違います。彼らはバスケットボールのピボットのように、「片足(自分のコアとなる強み)は地面にしっかり固定したまま、もう片方の足で新しい領域を探り、踏みしめる」ことで、自分の価値が通用する円(面積)を少しずつ広げていくのです。
私自身のこれまでのキャリアの軌跡は、まさにこの「小さなピボット」の連続によって形作られてきました。
実践例①:「新規事業開発」という軸足のピボット
私は「新規事業を創る」という片足を決して動かすことなく、3つの変数を意図的にズラすことで、プロダクトとしての汎用性と耐久性を高めてきました。
役割のピボット: 単なるプロジェクトの一メンバーとして始まり、特定機能のリード、事業全体の責任者、そして外部からのアドバイザーへ。視座の高さを段階的に引き上げてきました。
規模のピボット: 豊富なリソースと複雑な社内政治が絡む大企業での立ち上げ。何もないゼロ地点から泥臭く走るスタートアップ。そして、自己資本での起業。環境がどれほど変わっても「事業を創れる」という再現性を証明してきました。
事業モデルのピボット: ・熱量とコミュニティを形成する「イベント型」新規事業 ・人と人が介在し、強固な信頼を構築する「アナログ型」新規事業 ・テクノロジーと仕組みで爆発的にスケールさせる「デジタルSaaS型」新規事業 これら毛色の全く異なる3つのビジネスモデルを横断し、それぞれの勝ち筋を体得しました。
実践例②:「HR業界」という軸足のピボット
もう一つのコア機能である「HR」においても、私は決して同じ場所に留まっていません。
最初はパーソルという総合人材企業で「HRど真ん中」の事業立ち上げを経験しました。しかしその後、ビズリーチ(現:ビジョナル)へ移った際、私はあえて「HR企業の中における、HR以外の新規事業」に挑みました。HRという業界の空気を吸いながらも、視点を外部へ向けたのです。さらに現在は「HR×IT」という掛け合わせの領域で事業を牽引しています。
「業界の知見」という軸足を残しながら、ターゲット層や周辺領域へ少しずつポジションをズラしていく。
この2つの軸で小さなピボットを繰り返した結果、私は「HR業界の複雑で泥臭い構造を理解しつつ、大企業からスタートアップまで、あらゆる事業モデルで新規事業を牽引できる」という、極めて希少性が高く、誰にも代替できないポジションに到達することができました。
3. 本当の市場価値は「副業市場」でテストマーケティングせよ
ここまで「自分をプロダクト化する」思考法をお伝えしてきましたが、では具体的に「今の自分の現在地(価値)」をどう測ればいいのでしょうか。
多くの人は、ダイレクトリクルーティングやスカウト型採用サービスに登録し、飛んでくるスカウトの数や提示年収で測ろうとします。もちろんそれも一つの指標ですが、注意が必要です。 20年前のヘッドハンティングは、ごく一握りのエリートだけに届く特別なオファーでした。しかし今は、テクノロジーの進化によりスカウト自体が「一般化・大衆化」しています。大量にばら撒かれる求人票を眺めているだけでは、あなたの「本当の市場価値」は到底見えてきません。
そこで、私が最も強く推奨する「自分の価値の測り方」。 それは、「副業」というリアルなマーケットにエントリーし、自分というプロダクトをテストマーケティングすることです。
副業とは、会社の看板(コーポレートブランド)を外し、あなた個人の名前で勝負し、本業の給与以外で「1円以上」を稼ぎ出すという、極めてシビアな活動です。 そこに身銭を切ってくれるクライアントがいるということは、あなたの機能に対して、市場の明確な需要(バリュー)が存在する何よりの証拠です。
私は副業を通じて、以下の2つの視点で自分の価値を測るべきだと考えています。
ハードスキル(機能)の検証: あなたの専門知識や経験に対して、いくらのプライシングがされるのか。途切れることなくオファーが来るのであれば、あなたのその機能は、現在の市場において明確なPMFを果たしています。
ソフトスキル(OS・UI/UX)の検証: 一度きりの契約で終わらず、契約期間が延長されたり、追加の役割(アップセル)を依頼されたりするかどうか。これは、あなたの「レスポンスの早さ」「期待値の調整力」「一緒に働いていて心地よいか」といった、プロダクトとしてのUI/UX(使い勝手)が高く評価されている証拠です。
今の会社という「たった一社の特定の顧客」の評価に一喜一憂するのではなく、副業という「オープンなマーケット」に自分を放り込んでみる。 そこで得られる「1円の重み」と「契約更新という事実」こそが、どんな年収診断ツールよりも正確で、誤魔化しのきかない、あなたのリアルな市場価値なのです。
結びに:明日からあなたの「市場価値」をアップデートするために
「自分の市場価値がわからない」「AIに仕事を奪われるかもしれない」。そう嘆き、立ち止まる必要はありません。 市場価値とは、他者から一方的に与えられるラベルではなく、自分というプロダクトの軸を定め、市場の波に合わせて自ら戦略的に創り出していくものだからです。
まずは明日、ノートを開いて、以下のステップで自分のキャリアを棚卸ししてみてください。
強みの洗い出し: これまでの経験、専門スキル、性格。キーワード単位で構わないので、あなたの「コア機能」を書き出してください。
ユニークネス(唯一無二の価値)の発見: 洗い出したキーワードを掛け合わせてみてください。そこに、他の誰にも真似できない「あなただけの差別化ポイント」が隠れていませんか?
顧客とペインの特定: その強みは、どんな企業の、どんな痛みを解決することに特化していますか?それが明確になれば、必然的に「自分が最も高く売れる領域」が見立てられるはずです。
「小さなピボット」の準備: あなたのコア機能の「周辺」にある領域を探ってみてください。次に片足をズラすべき場所はどこか。今の会社の中で、少しだけ役割を広げてみることはできないか。
これからの不確実な時代、一つの場所、一つの役割に固執し続けることこそが、最大のリスクになります。
自分というプロダクトの性能と可能性を信じてください。会社の看板に頼らず、小さなピボットを恐れず、常に市場という名の最前線でテストを繰り返すこと。 その挑戦とアップデートの積み重ねこそが、どんな時代になっても枯渇することのない、あなたの「真の市場価値」を形作っていくのです。
私も、ピボットを続けます。 共に、自分という唯一無二の事業をアップデートし続けていきましょう。
