メタバースドラマ監督なのに、なぜ僕は毎日文章を書いているのか
どうも、久我レイジです。
ドラマの編集を進めるつもりでパソコンを開いたのに、気づけばnoteの下書きを書いていた。そんな夜が、これまでに何度かありました。
使える制作時間が一時間半ほどしかない日もあります。文章を書けば、その分だけ編集は進まなくなる。それは分かっていたのに、気づけば画面の中に言葉を並べていた。
僕はProject Aliveという創作チームを主宰し、メタバースドラマ『クロスロード』の脚本や監督をしていますが、毎日何かしらの文章も書いています。
Xへ投稿し、noteを書き、Substackにも制作やAIについて残している。
限られた時間を使って映像を作っているのだから、その時間を撮影や編集に回した方がいいのではないか。文章を書いている場合ではないのではないか。
実際、そう思う夜は何度もありました。
それでも僕は、今日も文章を書いています。
僕が毎日文章を書くのは、作品を宣伝するためだけではありません。
完成した映像から消えてしまう制作途中の判断や感情を、言葉として残しておきたいからです。
いい作品を作れば届くと、どこかで思っていた

『クロスロード』を作り始めた頃、僕が一番考えていたのは作品の中身でした。
脚本をどうするか。アバターをどう動かすか。声の演技と動きをどう合わせるか。メタバース空間の中で、どうすれば登場人物が本当にそこに生きているように見えるのか。
当然ですが、監督としては作品を良くすることに集中したかった。
良い作品を完成させれば、誰かが見つけてくれる。
口には出していなかったけれど、僕の中にはそんな期待があったのだと思います。
でも、実際は違いました。
どれだけ時間をかけても、公開しただけでは届かない。YouTubeに動画を置いても、その作品の存在を知らない人には、再生ボタンを押す理由がありません。
僕たちがどれだけ悩んだかも、何度撮り直したかも、画面の外にいる人には分からない。
作品の中には多くの時間が入っているのに、知られなければ、その時間ごと見えないままになります。
少し厳しい言い方をすれば、知られていない作品は、存在していない状態にかなり近い。
その現実を知ってから、僕にとって発信は、制作の後に行う宣伝ではなくなりました。
ただ、今はそれだけが理由ではありません。
作品を届けるために書き始めた文章が、少しずつ別の役割を持つようになりました。
数秒の撮り直しは、本編には残らない

メタバースドラマには、完成した映像だけを見ても分からないことがたくさんあります。
『クロスロード』では、声を演じる人とアバターを動かす人が別になっています。人数の都合もあり、僕自身が男性だけではなく、女性キャラクターのアバターを動かすこともありました。
声優の方が演じた声を聞きながら、僕が女性キャラクターの中に入り、その感情に合わせて体を動かす。
文章にすると少し不思議ですが、撮影中は笑い話では済みません。
悲しい台詞を受けた直後に、どのくらい顔を伏せるのか。相手から視線を外すのは、台詞の途中なのか、それとも言い終わったあとか。
歩き出す速度が少し速いだけで、怒っているように見えることもあります。逆に間を取りすぎると、ただ反応が遅れているように見えてしまう。
声の演技は合っている。アバターの動きも大きくは間違っていない。
それでも、二つを合わせたときに何かが違う。
そんな数秒の場面で止まり、何度も撮り直しました。
完成した映像では、声優の方の演技とアバターの動きが、一人の登場人物として見えています。
けれど、そこに至るまでに僕が迷った時間は本編には残りません。使わなかった動きも、採用しなかった間も、編集で消した映像と一緒になくなっていきます。
映像としては消えてしまうけれど、僕の中には残っている。
だから文章にします。
文章を書くことで、完成した作品の外側にあった迷いや判断を残せる。あのとき何を考えていたのか、なぜその場面を作り直したのか、どうして簡単な方法を選ばなかったのか。
もちろん、すべてを言葉にできるわけではありません。
むしろ、書こうとして初めて、自分でも分かっていなかったことに気づく場合があります。
僕は作品を届けるために文章を書き始めたはずなのに、いつの間にか、作品について自分自身が理解するためにも書くようになっていました。
発信に逃げていた日もあった

ただ、発信を創作の一部だと思えば、すべてがきれいに解決するわけではありません。
文章を書くには時間がかかります。
noteの記事を書き、Xで知らせ、コメントへ返信していると、それだけで一日の創作時間がなくなることもある。
反応が返ってくる発信の方が、すぐには成果の見えない制作より安心できる日もありました。
投稿すれば、いいねが付く。コメントが届く。読まれた数字も見える。
一方で、ドラマ制作は何時間作業しても、外からは何も進んでいないように見えることがあります。
気づけば、作品を届けるために始めた発信が、作品を作る時間を削っている。
これは今でも怖い部分です。
少し正直に言えば、制作がうまく進まない日に、文章を書く方へ逃げたこともあったと思います。
書くことにも苦労はありますが、映像制作よりは区切りが見えやすい。一本の記事を書き終えれば、少なくとも何かを完成させた感覚は残る。
その安心感に寄りかかっていた日が、なかったとは言えません。
数字を見なければ、何が届いているのか分からない。けれど数字ばかりを見ていると、反応されやすいものだけを作りたくなる。
僕は数字を否定するつもりはありません。
再生数も閲覧数も必要です。見てもらうために活動している以上、届いた人数を無視することはできない。
ただ、数字に合わせて作品の中心まで変えてしまったら、何を届けたかったのか分からなくなります。
発信も創作の一部。
僕は今でもそう思っています。
でも、創作のすべてではない。
この線引きは、たぶん一度決めれば終わるものではなく、何度も見直していくものなのでしょう。
作品より先に、作っている人を見られていた

最初からメタバースドラマを探している人は、それほど多くありません。
AIについて書いた記事から僕を知る人もいます。noteを続ける難しさについて書いた文章を読み、そこからProject Aliveへ興味を持ってくれる人もいる。
一見すると『クロスロード』とは関係のない文章が、作品への入口になることがあります。
作品を紹介するときは、作品の説明をしなければいけないと、以前の僕は考えていました。
もちろん、あらすじや登場人物を伝えることも必要です。
ただ、作品より先に、作っている人の迷いや考え方に触れ、そこから映像へ来る人もいる。
だから僕は、ドラマの宣伝だけを書いているわけではありません。
制作で止まったことも書く。AIを使いながら感じた違和感も書く。発信に時間を使いすぎた失敗も、そのままではないにしても、できるだけ残す。
成功した話だけを並べても、その先にいる人までは伝わらない気がするからです。
消えた制作時間を、文章だけが覚えている

僕は文章家になりたくて、毎日書いているわけではありません。
少なくとも、始まりはそうではなかった。
メタバースドラマという、まだ多くの人に知られていない表現を見つけてもらうため。『クロスロード』を一度見て終わる作品ではなく、長く残るものにするため。
そのために必要だったのが文章でした。
けれど今は、それだけでもない気がしています。
文章として残した制作の記録が、いつか別の誰かがメタバースドラマを作ろうとしたとき、その人が同じ場所で迷ったときに、何か一つでも参考になるかもしれない。
僕たちの作品が有名になるかどうかとは別に、こんな方法でドラマを作っていた人たちがいたと残せるかもしれない。
少し大げさに聞こえるかもしれません。
僕も、まだ文化を作っているなどとは簡単に言えません。そこまで届いている実感もない。
ただ、作品だけを残すより、そこで起きたことや考えたことも残しておきたい。
完成した映像の外には、完成しなかった考えがたくさんあります。
撮り直した数秒。採用しなかった動き。誰にも見えないまま終わった迷い。
作品の中から消えた時間を、文章だけが覚えていることがあります。
僕が毎日書いているのは、もしかすると、その消えていくはずだったものを、まだ消したくないからなのかもしれません。
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