「てにをは」一つに命が宿る。なぜクリエイターの「同一性保持権」は、商業の論理に踏みにじられるのか。
初代担当編集者とのエピソードは、今となっては笑い話にできるものばかりですが、一つだけいまだに許していない事件も。
— 仁科裕貴@11/5新刊『こちらはただの「落とし物係」です!』 (@yukinishi110) May 14, 2026
「座敷童子の代理人」の三巻を書いていたときの話。
校正チェック済みの原稿を読んでいると、見開き2ページ分、書いた記憶のない文章が。
すぐさま編集者に連絡したところ↓
こういうのは極端としても、まあ多かれ少なかれ校正作業で作家と編集さんがゲラを確認し合ったにもかかわらず、最終的にできあがった本を読んでみると「ん?」「あぁ?!」ってなる変更があった、という話は創作界隈のSNSでよく聞かれます。
これ、笑えないんですよねぇ。
作家さんにとって、一語一語には意味があります。
「てにをは」一つ変わっただけで、ニュアンスがまるっと変わってしまうことだってあります。
そもそも「同一性保持権」って何?
ここで登場するのが、著作者人格権のなかにある「同一性保持権」です。
難しそうな言葉ですが、ざっくりいうと「自分の作った作品を、意に反して勝手に変えられない権利」のことです。
お金の話とは別に「作品の中身を守る権利」として、法律がちゃんと認めているものなんです。
契約書に、
「編集部が内容を変更することができる(翻訳権翻案権の譲渡)」
「つべこべ言うな(著作者人格権を行使しない)」
みたいな旨の条項がなければ、無断で本文を変更されることは、この同一性保持権の侵害にあたる可能性があります。
なぜこういうことが起きるのか
原因としては「人間相手だからこそ起きるバグ」のためではないでしょうか。
たとえばAIに文章を校正させると、あちこちで「この言い回しはどうなんでしょう」と突っかかってきます。
AIなら「うるさいな、無視!」で済む話。
最近のAIは賢くなりすぎて、そうやって対応してるとちょっと性格がひねくれるらしいですが。
これが人間の編集さんだと、そうもいきません。
商業出版の契約という力関係もありますし、相手は生身の人間です。感情もあれば知識量の大小も偏りもある。
その中で厄介なのが、「自分が知らないことを、存在しないこととして扱う」パターンです。
「ぼくがしらないからこれはありえないひょうげんなんです!」と言い張るケースが、SNSなどでちらほら聞かれたりするわけです。
これ、ちょっと待ってほしい。
ちなみに法律(著作権法第20条第2項第4号)には、媒体の性質や物理的制約などから「やむを得ないと認められる改変」については同一性保持権の例外として認める規定もあります。しかし、それはあくまで客観的な必要性がある場合の話。担当者の主観的な理解不足や「自分の好みに合わせたい」という勝手な改変まで正当化されるわけではありません。
「あなたが知らない」のと「それが存在しない」のは、まったく別の話ですよね。宇宙の果てを見たことがないからって、宇宙の果てが存在しないことにはならないのと一緒で。
哲学的な言い方をすると「悪魔の証明」という問題で、「ないことを証明する」のは非常に難しいんです。勉強してもろて。
ある漫画家の悲劇と憤死
その最悪な結果がある漫画家さんが映像化の対立をめぐって亡くなった事件ではないでしょうか。記憶に新しい方も多いと思います。
あの事件の背景を簡単に整理すると、こういう構造でした。
法的前提として原作者は、小説や漫画などの「原著作物」に対する著作権を持っています。
ただし、それが映像化された場合、その映像作品の著作権は監督や映像制作会社側に帰属するという、少し特殊なルールが法律にはあります。
結果的に「原作はわたしのもの。でも、映像はあなたたちのもの」という切り分けが発生するわけです。
原作厨から「原作は素晴らしかったのに、映画はクソ!」とか逆に映画フリークから「原作よりも映画の方が心に響いたわ」みたいな話が出てしまう一因でもあるでしょう(他の要因としては物語そのものの表現スタイルが媒体の得手不得手・合う合わないがあるせいです)。
だからこそ、「原作利用許諾契約」という契約書を交わすのが慣例で、そこに「原作にどれだけ忠実にやるか」「オリジナル展開はどこまで許すか」などの条件を書き込みます。
この対立は、その契約の解釈をめぐるものでした。
制作側は「ぼくのかんがえるおもしろさのために、げんさくをすきにかいへんしてもいいのだ。だってえいぞうさくひんのちょさくけんはこっちにあるんだし(映像作品の著作権の帰属規定)」と解釈し、原作者は「契約を交わすときに原作に忠実にし、終盤のオリジナル展開は原作者がプロット・セリフを用意するって条件つけましたよね?(同一性保持権)」と主張した。
この「同一性保持権」。
権利を主張するのは簡単ですが被害立証を個人でやるのはいろんな側面で非常にコストが高い。
相手は社会的影響力の大きな映像会社。一人で戦い続けることは、精神的に本当に苦しいことです。
そして、最悪の結末になってしまった。そういうことだったようです。
「権利があること」と「権利が守られること」は、別の話
ここが、この問題のいちばんやり切れないところだと思います。
法律の上では、確かに原作者には著作権があり、ぶっちゃけ「原作の引き上げ」「使用権の差し止め」等の選択肢はあります。
でも現実の現場では、契約の曖昧さと力関係が優先されてしまいました。
これ、著作権だけの話じゃないんですよね。
たとえば労働基準法。
「残業代はちゃんと払わないといけない」という当たり前のルールが、少し前まで「そんなもん守ってたら会社が回らない」という理屈で、普通に無視されていた職場が山ほどありました(今は少子化の影響で、そういう職場は勝手に淘汰または是正されているようですが)。
「権利はあるのに、守る仕組みが機能していない」という状況は、残念ながらどの業界にも起きうる話なのです。
だからってあきらめたり、許したらいけませんが。
とはいえ、少しずつ変わりはじめている
あの悲劇を受けて、業界内では少しずつ動きが出てきています。
映像化の企画段階で、原作者の条件を記した書面契約を明確に交わすことが、2026年現在では業界内で厳格化されつつあるそうです。
また「原作者は同一性保持権を一切行使しない」という特約があったとしても、著作者の社会的名誉を著しく傷つける悪質な改変に対しては、その特約自体が公序良俗違反(民法90条)で無効になりうる、という見解が法学者の間でも強くなっているとのこと。
ただ、「命が失われてから法が動く」という現実は、本当に重い事実です。
著作人格権は一代限りですから、亡くなってしまうとその権利は遺族や管理会社(事務所)が「故人を辱めないように著作財産権を管理する」権利を得ます(そのあたりはまた別の記事で)。
ですから法人が故人の名誉を傷つけるような作品の使い方などをすればもう個人対法人ではなく、法人(集団)対法人になるわけです。権利的にも(また風評的にも)利用や公表がしにくくなります。
それを狙っての憤死だったとするなら、そうまでしなければ解決する手立てがなかったという話で、大変痛ましい。
同一性保持権に見る権利行使と実務の問題
法律と現場の「ズレ」は、力関係とお金が絡んだとき、驚くほど簡単に生まれます。
「強い権利であるはずのものが、実務上どう守られるべきか」という問いは、著作権に限らず、わたしたちの労働環境や日常のさまざまな場面に潜んでいます。
明確な解決策は、正直まだないと思います。
でも少なくとも「あれ、なんかおかしくない?」と感じる感覚を持ち続けることが、最初の一歩なんじゃないかな、と私個人としては考えています。
※本記事は知的財産検定3級の学習記録をもとに、著作権法の条文と各社の調査報告書を参照してまとめたものです。
法的な判断・アドバイスを提供するものではありません。
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