見出し画像

言問団子でも買って帰ろう

金曜日の夜だった。
本来なら、私は午後五時には両国駅に降り立つはずだった。
美容師が予約を別の日と勘違いしていたせいで、計画が大きく狂ってしまった。

予定より三時間以上も遅れて両国に着いた頃には、街はすでに週末の開放感に包まれていた。どの店も人であふれている。金曜日の夜らしく、少し浮き足立った賑わいだ。

「この街でしっぽり飲むつもりだったのに。」

人ごみを縫うように駅前の横断歩道を渡り、いくつかの店の前を足早に通り過ぎていく。

私は不機嫌だった。

暖簾の向こうからまぶしい光とともに、笑い声が聞こえてくる。

半年前まで私は東京住まいだった。
自分の時間の大半を会社に捧げるのとひきかえに、週末はお気に入りの居酒屋へかよい、好きな日本酒を楽しみ、都会でのひとり暮らしを二十五年以上も謳歌してきた。

だが今は、東京から電車でおよそ二時間の小さな町で、高齢の両親と一緒に暮らしている。
歩いて行ける範囲に飲食店はなく、外食といえば年に四回、墓参りの後に回転寿司へ寄るくらいだ。

自分でも驚くほどつつましい生活の中で、二カ月に一度の都内への美容院通いが、今の私にとっては唯一の楽しみであり、かつての自分へ戻れる時間だった。

美容院の予約はいつも午後一番に入れる。それから夜まで、ひとり酒を楽しんでホテルに一泊。翌日、両親への土産とともに帰宅するのがお決まりだった。

一週間以上も前から、私はかつて歩いた繁華街の記憶を掘り起こしては、

「あの店はまだあるかな?」

「あそこで飲んだお酒は美味しかったなぁ」

と思い出にひたり、また、

「あの駅には降りたことがないけれど、何かよさそうな店はあるだろうか。」

と、新しい店の開拓に心をおどらせながら、美容院後の導線計画を練るのが常だった。

この日の両国は「新規開拓の地」だった。

事前リサーチで目を付けていたのは東京軍鶏を出す店。軍鶏の焼鳥七本セットに燗酒を頼もうと決めてきた。
両国で軍鶏と日本酒。「江戸」の風情を楽しもうと思っていたのに。

この時間からの一人客はとても無理だろう。今日は金曜、しかも給料日。絶望的だ。

どこか別の店を探さねばならないが、足が痛い。もうそんなに歩けない。

「この辺りに何かないかな。」

視線をあげた先に、『蕎麦』という二文字が見えた。
近づいていくと、店の入り口の横がガラス張りになっていて、白衣を着た職人らしき初老の男性が、煙の中で焼鳥をやいているのが見える。

「焼鳥だ!蕎麦と焼鳥……いいじゃないか!」

私は躊躇することなく、その店の扉を開けた。



「いらっしゃい!」

煙の中から職人が、カウンター越しに笑顔でこちらを向いた。
明るい店内で彼の顔をよく見ると、職人というには人懐こ過ぎる、まるで雑居ビルの守衛室にでも座っていそうな、穏やかなおじさんだった。

「ひとりです。大丈夫ですか?」

「少々お待ちください。1名様お待ちでーす!」

私のすぐ左には、六人掛けのカウンターが店の奥へ向かってのびている。
その中ほどに老夫婦が一組座っていた。

テーブルの上に色とりどりのたくさんの皿を並べて、楽しそうにおしゃべりをしている。傍らにはアイスペールとガラス瓶が置かれていた。

「何を飲んでいるのかな。」

のぞきこもうとした瞬間、店の奥から声がした。

「1名様!こちらへどうぞ。」

「あ、はいっ!」

弾かれるように、声のするほうへ歩き始める。
老夫婦の後ろをすり抜け、私はこの店の一番奥のテーブルへ案内された。
店内全体を見渡せる席に腰を下ろし、隣の席にカバンを置く。

「注文はタブレットでお願いします。」

左胸に、店の名が入った白衣を着た背の高い中年男性が、割りばしとおしぼりを置いて足早に去っていった。

初めて訪れた店では生ビールから始める。
まずはビールを飲みながら、じっくりと店内を観察し、メニューを品定めするのが私の流儀だ。

ほどなくして生ビールが運ばれてきた。
店の熱気と冷たいビールとの温度差で、グラスには雫がたくさん光っている。

「今日は本当にお疲れ様でした。かんぱい!」

小さくつぶやいてから、一気にビールを流し込む。

「ハーァ」

大きく吐いた息と一緒に、さっきまでの不機嫌や、久しぶりの東京での疲れも抜けていくような気がした。


ひと息ついて、あらためて店内を見渡してみる。

となりは幼児二人を連れた家族。前方には旅行客らしい、東洋系の顔立ちをした若い女性の三人組。入口近くでは、テーブルを二つ繋げて、サラリーマンのグループが大声で話していた。

ひとり客はいなかった。

こんなにたくさん人がいるのに、私以外は誰も他人を気にしていない。

都会的な無関心さが懐かしく、心地よかった。



「さてと、メニューのほうは?」

タブレットに手をのばす。
すぐ出るおつまみ系、サラダ類、揚げ物、焼き物、〆系。居酒屋メニューはひととおり網羅されている。

「そうそう、焼鳥のラインナップを見なければ。」

逃した軍鶏の穴を埋めてくれるような、旨い焼鳥はあるだろうか。
『焼き物』のタブを開き、『焼鳥』をクリックする。

画面いっぱいに写真がずらりと表示された。
真っ先に目に飛び込んできたのは『ぼんじり』だった。
ぼんじりは『タレ』一択。
鶏の脂と甘辛い醤油ダレが、口の中で一体になるのが醍醐味だ。
一本を注文ボックスに入れて、画面を下へスクロールする。

一番下に『鴨葱』があった。

「鴨……。これだ!」

軍鶏は食べられなかったが、鴨も負けていない。いや、むしろより江戸らしいのではないか。
鴨葱は『塩』しか選べない。

「塩で結構。一本注文!」

さて、最高の「代役」を見つけたからには、相手役となる日本酒も探しておかねばなるまい。

タブレットの『お飲み物』タブから『焼酎・日本酒』へと進んでいく。

『おすすめの地酒』という文字に導かれてページを開く。
四つのおすすめの中から、東北の純米超辛口を選んだ。私が生まれた土地の酒だ。

東北は両親の故郷。いまだに親戚のほとんどが住んでいる。私もその地で生を受けたが、ほどなくして父親の転勤で関東圏へ移り住んだ。

夏冬の休みには、大渋滞の高速道路を何時間もかけて走り、おじいちゃんやおばあちゃん、いとこ達と過ごすのが恒例行事だった。

しかし、いつの頃からか、この行事は行われなくなり、やがて両親も親戚も年老いて、次第に会うこともなくなっていった。

若くして故郷を離れた両親は、縁もゆかりもなかった土地にしっかりと根を下ろした。

「でも、娘の私ときたら……」


「お待たせしました!ぼんじりと鴨葱です!」

ハッと我に返る。
アルバイトの学生らしき小柄な女の子が、美濃焼の四角い小皿を二枚、目の前に置いた。

「日本酒、すぐにお持ちしますので。」

つやつやと飴色に輝くぼんじりと、むっちりと噛み応えのありそうな鴨葱。

急にお腹が空いてきた。

店の入り口近くの冷蔵庫まで、日本酒を取りに歩いていく女の子の後ろ姿を、ぼんやりと目で追う。

いつの間にかとなりの家族連れはいなくなり、かわりに中年の、飲み仲間らしき男女二人がメニューを見ていた。

女の子が戻ってきた。
朝顔のように飲み口が広がったガラスのお猪口と、黒光りする鉄瓶が置かれた。

「鉄瓶?珍しい。」

思わず声が出る。

「では、まず一献。」

小ぶりの鉄瓶は、見た目の印象からは想像できないくらいずっしりと重い。

日本酒の冷たさが伝わって、鉄瓶の表面は硬くひきしまって感じられた。

取っ手を両手で持ち上げて、こぼさぬよう慎重にお猪口に注いでいく。

可憐な朝顔の花弁の中、かすかに黄色味を帯びた液体に、店の灯りが映り込んでゆれている。

ゆっくりと最初のひと口を飲み込んだ。
その途端、喉の奥から鼻へ向かって、さわやかな熟成香が突き抜けていった。

一方、香りの広がりとは対照的に、味は驚くほど直線的で淡麗だ。

ふと、幼いころの記憶が蘇ってくる。



正月休みの帰省中、母に連れられて近くの商店へ買い物に出た帰り道、突然の吹雪に巻き込まれた。

わずか十分の道のりが、幼い私には果てしなく感じられた。
顔に打ちつける雪が痛く、息ができない。

置いて行かれないように、私は母の手に必死にしがみつきながら一心不乱に歩いた。
空も木々も田んぼも、すべてが真っ白に塗りつぶされた色の無い世界。

何者をもよせつけない、強さと冷たさが同居する東北の吹雪――そんな味だった。

「ぼんじりの脂をすっきりと洗い流してくれる、相性のよい食中酒ですよ。」
などと、日本酒ソムリエならばきっと笑顔で説明するだろう。

「試してみよう。」

串からぼんじりをひとつ、くわえて食べた。

脂とタレが混ざり合う濃厚な旨味をしばし楽しんだ後に、超辛口を流し込む。今まで確かにそこにあった旨味の痕跡が、一瞬にして跡形もなく消え去った。後には清々しい熟成香と、微かなアルコールの刺激だけが漂っている。

「さあ、鴨だ!」

皮目が香ばしく炙られた鴨肉をかじる。
鶏には無い噛み応え、そして野性を感じる肉の味。噛むたびに肉汁と皮目の脂がにじみ出て、口の中は何とも滋味深い。
そこへ日本酒。
またもや、一気にすべての味わいが押し流されていった。

鴨は美味しい。酒も旨い。ソムリエの説明もそのとおりだと思う。
なのに……しっくりこない。

どんな脂もどんな魚の匂いも、一太刀でスパッと断ち切ってしまう強さ。

何者にも染まらず、何者とも交わらない「吹雪」の味。
昔の私が好んでいた味だと思った。



「食べ物がラストオーダーです。」

隣の席に瓶ビールを運んできた店員の声がした。

「もうそんな時間。」

あわててタブレットの『蕎麦』のタブを押す。
ラストオーダーを聞きに来た店員にお冷やを頼み、私は椅子の背に深くもたれかかった。

二か月ぶりの日本酒に少し酔いが回っていた。実家暮らしでは酒を飲む機会はほとんどない。

帰り支度をする客がちらほら見え始めた。
カウンターの向こう側では「守衛室のおじさん」が焼き台の火の始末をしている。

「お待たせしました。」

いよいよ真打登場。
今夜の締めは『辛味大根蕎麦』だ。
私は背もたれから背中を離し、再び姿勢を正して蕎麦と向き合った。

私にとって「蕎麦」は大好きな食べ物であるのと同時に、とても緊張する特別な食べ物でもある。

いつどこで見たのかはっきりとは覚えていないが、確か有名な落語家が蕎麦を食べている様子をテレビで見て、その所作の美しさ、よどみなさに感銘を受けたことがある。

「あんな風に美しく、粋に蕎麦を手繰りたい。」

以来、蕎麦を注文するたびに私の頭の中にはその落語家の映像が浮かび、少しでもその「理想形」に近づきたいと思うようになった。

蕎麦をすくい、瑞々しい大根おろしのつゆにさっとくぐらせて啜る。
すぐに右手が動き出す。
すくう、くぐらせ、啜る。
すくう、啜る……。
滑らかに、途切れなく続く蕎麦の循環。

辛めの蕎麦つゆ。日本酒と同一線上の味だ。
手を止めて日本酒をひと口。
統一感がある。美味しい。
けれど……

「膨らみがない。」

再び蕎麦をすくう、啜る、すくう、啜る……と、
その時、「啜り」の力加減を誤って、つゆが気管へ入ってしまった。

大きく咳き込んで、慌ててお冷やのグラスに手を伸ばす。
四回、五回と続けざまに咳が出た。水を飲み、涙目になりながら再び椅子の背にもたれ掛かった。

「フゥー」

「失敗した。かっこ悪い。」

急いでカバンからハンカチを取り出した。目元を抑えながら息を整える。

「やっぱり江戸っ子にはなれないな。」

なんだか可笑しくて「フフフ」とうつむきながら小さく笑った。

しばらくして落ち着くと、今度は箸で蕎麦を無造作につかみ、たっぷりつゆに浸してから口いっぱいにほおばった。

よく噛むと香ばしい味が広がって、久しぶりに旨い蕎麦を食べた気がした。



「ありがとうございましたー」

「おじさん」の笑顔に見送られて店を出た。

赤ら顔で駅の方へ歩く人々が目の前を通り過ぎてゆく。

見上げると、右前方に巨大なスカイツリーが夜空に白く浮かび上がっていた。来た時には気づかなかった。

あの一番高い展望台から見下ろしたら、今の私はどんなふうに見えるだろう。

両国駅を過ぎて、墨田川のほとりをホテルへ向かって歩く。
川沿いの空気は少しひんやりしていた。桜はまだ少し先だ。
明日は墨田川を上って言問団子でも買って帰ろうと思った。


#創作大賞2026 #エッセイ部門


読んでいただきありがとうございました。
日本酒を入口にしたエッセイシリーズを書き始めました。
よろしければどうぞ。


いいなと思ったら応援しよう!