本を読むとは、自分という一冊を編集することだった
昨日は、松岡正剛氏の展覧会
「本が世界、世界が本
松岡正剛 千夜千冊の贈りもの」
に行ってきました。
松岡正剛氏は、noteを始めたときに真っ先に紹介した
わたしの大好物です。
今回の展覧会は
松岡正剛氏の読書の方法である「読み筋」に焦点を当てたもの。
展示室を歩いているうちに、少し不思議な感覚になりました。
目の前にあるのは本のタイトルや内容なのに、見ているのは本ではない。
誰かの思考の通路でした。
いや、世界の読み替え方そのものだったのかもしれません。
毎夜続けられた、本との交換日記。
一冊の本が、別の本へつながる。
歴史へ、科学へ、哲学へ、芸術へ。
展示を見ながら、松岡氏は本を読んでいたというより、世界を読んでいたのではないかと思いました。
ああ、編集工学ってすごいなぁ。
そんな余韻を抱えたまま、
わたしは『知の編集工学』を開きました。
『知の編集工学』は何の本なのか
『知の編集工学』は、知的生産術や情報整理術の本として読まれることが多い本だと思います。
もちろん、そう読むこともできます。
でも、わたしには少し違う本に見えました。
この本が問いかけているのは、もっと根っこの部分です。
人間は、世界をそのまま見ているのだろうか。
それとも、編集された世界を見ているのだろうか。
松岡氏は、編集を出版やメディアの仕事としてだけ語っているわけではありません。
人間が世界を受け取り、意味づけ、生きていくための根本的な営みとして語っています。
『知の編集工学』は、編集という概念から「人間とは何か」を考える本なのだと思います。
編集工学とは、世界の見方を扱う技術
編集とは、本や雑誌を作るような作業を意味するだけではありません。
私たちは毎日、編集しています。
昨日の出来事を思い出すとき。
誰かとの会話を振り返るとき。
本を読んで感想を書くとき。
すべてをそのまま保存しているわけではありません。
残すものを選び、省くものを決め、意味を与えています。
見たいものを見る。
聞きたいことを聞く。
記憶したいことを記憶する。
そう考えると、認識そのものが編集なのです。
編集工学とは、情報整理の技術というより、人間が世界をどう受け取り、どう意味づけているのかを考える技術なのだと思いました。
知識は点ではなく、関係の網である
本書を読みながら何度も感じたのは、意味は単独では生まれないということです。
たとえば、リンゴという言葉があります。
リンゴだけなら、果物です。
でも、ニュートンと結びつけば発見になり、白雪姫と結びつけば物語になり、アップル社と結びつけばテクノロジーの象徴になります。
同じ言葉でも、何と結びつくかで意味が変わる。
知識とは、点ではなく網なのだと思います。
そして編集とは、
その網の中で新しい関係を見つけること。
本を読むことも、同じなのかもしれません。
一冊を読む。
すると、自分の過去の経験や、
別の本や、誰かの言葉とつながる。
その瞬間、本の意味は変わります。
本に書かれていた意味だけでなく、
自分の中で立ち上がる意味が生まれるのです。
AI時代に必要なのは、答えより編集力
この本は1990年代に書かれた本です。
それなのに、
今読むとAI時代の本のようにも感じます。
生成AIは、たくさんの情報を集め、
答えを出してくれます。
でも、どの問いとどの問いを結びつけるのか。
何を大切な問題として扱うのか。
どんな文脈の中で答えを受け取るのか。
そこは、人間の側に残されています。
知識を持つことと、
知を編集できることは違う。
情報が多い時代だからこそ、
問われるのは情報量ではなく
編集力、ではないでしょうか?
わたしは何を編集して生きているのだろう
読み終えたあと、ひとつの問いが残りました。
わたしは今、何を編集して生きているのだろう。
仕事でしょうか。
人間関係でしょうか。
子育てでしょうか。
それとも、自分自身でしょうか。
私たちは皆、
自分なりの世界の見方を持っています。
仕事とはこういうもの。
成功とはこういうもの。
自分とはこういうもの。
でも、その見方が古くなっていることがあります。
現実が苦しいのではなく、
古くなった世界の見方にしがみついているから苦しいこともあるのかもしれません。
だとしたら、
編集とは文章を書くことではありません。
世界観を書き換えることです。
『知の編集工学』は、知的生産術の本として読むこともできます。
でも、「人間は世界をどう見ているのか」を考える本として読むと、まったく違う景色が見えてきます。
本を読んでいたつもりでした。
でも本当は、
自分という一冊を編集していたのかもしれません。
