感性が鈍ると、世界はモノトーンになる
漫画を読むと、
わたしは少しだけ、
”自分”に戻れる気がしています。
しんどいときほど、
わたしは漫画を手に取ってしまいます。
「ちゃんとしなきゃ」が、強くなりすぎた日。
頭の中が、
やることや不安でいっぱいになって。
気づけば呼吸まで浅くなっているような日。
そんな日は、
ビジネス書ではなく、
漫画を開いてしまうのです。
ずっと、
なぜなんだろうと思っていました。
でも今回、その理由が、
ひとつの本によって、
はっきりと「ことば」になったんです。
『文章は、「転」。』は、“感性”についての本
今回読んだのは、
『文章は、「転」。<自分の言葉>で書く技術』という本。
タイトルだけ見ると、
文章術の本のように見えます。
でも、この本が本当に書いているのは、
「うまい文章の書き方」ではありません。
“どう世界を感じるか”
感性をどう鍛えるか、の話だったのです。
特にこの本の冒頭、
「はじめに」が本当に美しい。
ーーー
深い山の奥の森、透明な湖水を前にして、「美しい」と思う。
映画を見終わって、「よかった」「感動した」と感じる。
あるいはだれかの意見を聞いて
「いやだな」「おかしいんじゃないか」と思う。
ほんの一瞬の出来事である。
直感だ。
論理で説明することもできないほどの刹那。
これは違いを感じ取っている瞬間である。
ーーー
そして、
こんな言葉を置くのです。
文章を書くとは、この違いを言語化することだ。
わたしは、
ここで完全に止まりました。
ああ、
この人は、
文章を“情報”として扱っていない。
“生きること”として、
扱っているのだ、と。
感性が鈍ると、世界はモノトーンになる
この本では、
感性を鍛えることの重要性が、
何度も語られます。
感性は、
生まれつきの才能ではない。
鍛えられるもの。
自然の匂いを感じる。
空気に触れる。
違和感を見逃さない。
そうやって、
世界を丁寧に受け取ること。
著者は、
それを「感性の筋トレ」と呼んでいます。
そして、
わたしが特に強く刺さったのが、
この言葉でした。
「世界がモノトーンにくすんで見えるのは、世界のせいではない。あなたのせいだ。」
厳しい言葉ですよね。
でも、
なぜか痛いほど、
その意味がわかってしまったんです。
忙しくなると、
わたしたちは、
世界を“処理”し始めてしまう。
桜を見るのではなく、
「春だな」で終わらせる。
ご飯を味わうのではなく、
ただ「済ませる」になる。
人の話を聞くのではなく、
「返事を考える」ことに集中する。
そうやって、
感受性が少しずつ鈍っていくと、
世界は本当に、
モノトーンになっていくのだと思います。
漫画は、わたしの感性を回復していた
ここまで読んだとき、
わたしの中で、
漫画と感性が、
ピタリとつながったんです。
ああ、
わたしは漫画を読んで、
“逃げていた”のではなかった。
感性を回復させていたのだ、と。
漫画って、
感情の密度が、
ものすごく高いんですよね。
たった1コマで、
場の空気がガラリと変わる。
セリフよりも、
沈黙のほうが、
ずっと苦しいことだってあるんです。
『BLEACH』で、
わたしが何度も立ち止まってしまう言葉。
涅マユリの「完璧とは絶望だヨ」
というセリフ。
「ちゃんとしなきゃ」という思いに、
潰れそうだった時期。
あの言葉だけが、
“不完全なまま生きてもいい”と、
そっと言ってくれた気がしたんです。
たぶん、
あの頃のわたしは、
“ちゃんとしていない自分”を、
許せなくなっていたのでしょう。
『左ききのエレン』でも、
わたしは、
みっともないほど足掻く光一の姿に、
何度も心を動かされました。
才能があるかではなく、
かっこ悪くても、
それでも手を伸ばしてしまう姿に。
たぶん、
わたしは漫画から、
“正解”をもらっていたわけではないんです。
「ここで、自分の感情が動いた」という、
その感覚を、取り戻していたのだと思います。
「哲学的に読む」とは、感情が動いた場所を見ること
わたしは、
noteで「哲学的に読む」を続けています。
でも最近、
少しだけわかってきたことがあります。
哲学的に読むとは、
難しいことを考えることではない。
むしろ、
「なぜ、わたしはここで止まったのか」
その「なぜ」を見ることなのだと思います。
妙に気になる。
忘れられない。
心に引っかかる。
そこには、
自分の価値観が揺れた痕跡がある。
そして、
その“揺れ”こそが、
この本でいう「転」なのかもしれません。
AIは、
整った文章を書くことができます。
平均点も出すこともできる。
でも、
漫画の1コマに、
なぜか泣いてしまった夜。
あの感情の揺れから生まれる「転」は、
まだ書けないのだと思うんです。
だから今日も、
わたしは漫画を読むことでしょう。
わたしだけの「転」を見つけるために。
わたしの感性を磨くために。
そして、少しだけ、
“自分”に戻るために。
