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「まさに見られているのは“ハート”である」~西日本新聞報道とクレシーニ氏の自己演出をめぐって


はじめに

西日本新聞に掲載された、アン・クレシーニ氏による講演内容の記事を読んでみた。案の定、その報道内容にはいくつか看過できない事実の歪曲が含まれていたように思う。

本稿では、記事構成の「美談化」や本人のSNS発信との整合性、そして今後の社会的リスクについて冷静に検討してみたい。


起点を曖昧にした「被害者ストーリー」

記事では、「2023年に日本国籍を取得した後、『アメリカへ帰れ』などの中傷を受けた」とされている。こうした論調は今に始まったことではないが、実際に批判が高まった契機は「国籍取得」ではなく、前後におけるSNS上での発信内容である。

「多様性の大切さを発信すると中傷が返ってきた」という一文も同様に抽象的すぎる。彼女の発言は「多様性」それ自体にとどまらず、しばしば日本社会に対する否定的な比較文化論や、リベラルな党派性を強く帯びたオピニオン発信であった。

その上で「なぜこんなに叩かれるのか」と問う構図は、あまりに自覚的でなさすぎる。公共圏に出た言説には、それ相応の応答と対話責任が生じる。批判を「心ない言葉」と一括りにする態度には、思考停止の傾向すら感じる。


“見た目じゃなくて、ハートを見てほしい”という倒錯

講演の最後に引用された「見た目じゃなくて、ハートを見てほしい」という言葉は、いかにも感動的である。だが、今回の議論の本質は「見た目」ではない。実際に問われているのは、「そのハート」の中身である。

たとえば、過去のSNS投稿においてクレシーニ氏は「帰化すれば、この国を変えるために活動できると思った」と述べていたが、これが「国を変えたいのか」という波紋を呼んだ。その後、Google翻訳のせいで誤解が生じたとする投稿もなされたが、実際の英文 "work for change in the country I love" は、翻訳として特に誤っているわけではない。問題は、英語原文の選び方自体がきわめて活動家的で、誤解を招きやすい構文だった点にある。

「change」=「変える」ではあるが、「私が単独で何かを変えてやろう」という意味ではなく、むしろ「より良くなることを一緒に目指す」と言いたかったようである。

ただし、ここでの問題点として英語ネイティブが “work for change” と言えば、「変革を目指す」「社会改革を促進する」などの含意を持つのは普通。

つまり、読解者側に“活動家的態度”と受け取られても無理はない構文である。
そのうえで日本語の自動翻訳も、その意味を反映した自然な訳になっている。


誤訳ではなく、発言者の表現選択の問題であるにもかかわらず「Google翻訳の精度の問題」であるかのように責任を転嫁する姿勢は、誤解を自己責任として受け止める誠実さに欠ける。

そもそも「帰化して国を変えようとした」という言葉自体が、かなり誤解を招きやすい政治的表現であり、それが波風を立てるのは当然とも言える。

つまり、“その人のハートを見てほしい”と訴えるのであれば、なおさらそのハート(=発信内容や言葉の選び方)に誠実であるべきではないか。その言葉が繰り返し誤解や反発を招くのであれば、それは受け手の問題ではなく、発信者の姿勢そのものが問われていることになる。


今は“ストックの時代”─過去の発信も評価対象になる

現在は投稿の履歴も記録され、引用も容易に行える「ストック」の時代である。一時の情緒で世論を操作するような手法は、いずれ矛盾として掘り起こされる。

「多様性」「共生」「反差別」といったテーマは確かに重要だ。だが、それを訴える側が“善なる存在”として無謬の立場に立ち、異論を封じるような姿勢を見せた途端、それは理念ではなく“装置”になる。

理念に忠実でありたいのならば、自らの発信内容にも誠実であるべきである。


おわりに

筆者は、思想が違うことそれ自体には何の問題も感じていない。むしろ多様な立場や視点があることこそが、社会を健全に保つための礎だと信じている。

だが、そこに嘘やごまかし、自己正当化のための演出があるならば、それは批判されて然るべきだ。本人にとっても不利になる可能性があることを、周囲はもっと真剣に指摘すべきではないか。

建設的な対話とは、異論を封じることではなく、誠実さと整合性に支えられた相互理解の積み重ねである。その基本を取り違えたまま「日本人としてのハートを見て」などと呼びかけても、それは社会に届かない。

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