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【60代短編小説】みんなの縁側


藤野久子、六十三歳。

朝は六時に目を覚ます。目覚ましは鳴らさない。天井の木目を数えてから起きる。三十六本まで数える。

台所で湯を沸かす。カップは一つでいい。皿も一つでいい。三十八年勤めた市役所を、三月に辞めた。窓口の椅子には、もう座らない。

新聞を広げる。地域面の隅に小さな見出しがある。ひと月、誰も気づかなかったという。エアコンの効いた部屋で、老人が一人で亡くなっていた。同じ町内だった。名前に見覚えはない。

記事を切り抜く。冷蔵庫に磁石で留める。牛乳の賞味期限の隣に貼る。

その夕方、縁側の雨戸を開けた。長く閉めたままだった。桟に埃が積もっている。指でなぞると木の色が出た。

物置から椅子を一脚出す。籐の椅子で、座面がすこし破れている。縁側の端に置く。道に向けて置く。

台所から電気ポットを運ぶ。隅に据えて湯を満たす。湯気が立つ。立たせたままにする。

誰も座らない。

一日目、犬を連れた男が通る。椅子を見る。わたしを見る。目を伏せて過ぎる。二日目、郵便配達が自転車で通り過ぎる。三日目、雨が降る。籐の椅子が濡れる。雑巾で拭く。

隣の家の主婦が回覧板を届けに来る。椅子を見て言う。

「藤野さん、なにを始めはったん」

湯呑みを差し出す。主婦は受け取らない。

「その歳で、しんどいことしなはんな」

そう言って帰った。

十日が過ぎる。誰も座らない。籐の椅子を物置に戻そうとする。持ち上げる。縁側に四角い跡が残っている。椅子を元に戻す。

誰かが座るのを待つのは、やめにした。

平日の昼、制服の少女が塀の外に立っている。中学の鞄を提げている。学校のある時間だ。少女は椅子を見ている。

湯を注ぐ。湯呑みを縁側の端に置く。少女に背を向けて洗濯物を畳む。

少女は座らない。次の日も塀の外に立つ。三日目、湯呑みが空になっている。少女の姿はない。もう一杯注ぐ。

四日目、少女が門を入る。籐の椅子ではなく、縁側の框に浅く腰かける。名は訊かない。繕い物を続ける。少女が口を開く。

「学校、行ってへん」

針を動かす。「そう」。それだけ言う。

咲という名だと、あとで知った。咲は毎日来る。塀の外の時間に来る。籐の椅子に座るようになる。ポットの湯を自分で注ぐ。わたしの分も注ぐ。

ある朝、椅子が一脚増えている。折りたたみの椅子だ。誰が置いたか分からない。翌朝また一脚増える。丸椅子だ。座面に猫の毛がついている。

犬を連れた男が座るようになる。犬を椅子の脚につなぐ。郵便配達が自転車を停める。湯を一杯だけ飲んで行く。回覧板の主婦が大根を一本置いていく。座りはしない。大根だけ置いて帰る。

夏の終わり、若い男が訪ねてくる。スーツを着ている。

「藤野さんですね」

覚えがない。男が名乗る。

「母が、市役所で世話になったと言っていました」

十年前のことだ。その母親は年金の書類が分からず、窓口で泣いた。ほかの職員は次の番号を呼びたがった。窓口を閉めた。別室で一時間、話を聞いた。書類を一枚ずつ一緒に埋めた。

男が鍵を出す。

「母の家です。空いています。使ってください」

縁側は狭くなっていた。人が増えていた。鍵を受け取る。

町外れの古い家の縁側は広い。十人が並んで座れる。ポットを運ぶ。籐の椅子も運ぶ。破れた座面のままだ。咲が手伝う。町の者が椅子を持ち寄る。ばらばらの椅子が並ぶ。

常連に、いつも同じ席に座る老婦人がいた。松尾さんといった。奥から二番目の椅子に座る。編み物をする。多くは話さない。湯を一杯飲む。二時間いて帰る。

秋の朝、松尾さんが来ない。昼も来ない。翌日も来ない。三日目、隣に住む者が知らせに来た。松尾さんは布団の中で亡くなっていた。眠るような顔だったという。見つかったのはその日のうちだ。ひと月ではなかった。

松尾さんの椅子は片づけなかった。奥から二番目に置いたままにする。編みかけの毛糸が座面に残っている。誰も座らない。

冬が来る。縁側に椅子が二十脚並んでいる。松尾さんの椅子だけ空いている。ポットの湯気が上がっている。

咲は学校に戻った。放課後だけ縁側に来る。制服のまま座る。わたしの隣ではない。松尾さんの椅子の隣に座る。

町の広報に写真が載った。よその市の職員が縁側を見に来たという。写真は見ない。ポットに湯を足す。

夕方になる。道に向けて椅子を出す。もう一脚、増やす。空いた椅子に湯気が届く。縁側は、まだ端が空いている。


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