怪獣の腹の中で第一部
あらすじ
恋愛に縁のなかった白石澪は、二十歳の誕生日の夜、偶然出会った年上の男性・相沢と初めて「誰かをちゃんと好きになる」経験をする。やがて付き合うことになるが、連絡に一喜一憂し、予定を相沢に合わせ、彼の「忙しい」を言い訳に自分を後回しにしていくうちに、澪の日常は「怪獣の腹の中」のように息苦しいものへと変わっていく。
誕生日の約束をドタキャンされた夜を境に、違和感の種が芽生え、小さな「NO」を言う練習を始めた澪は、自分の意志で相沢との関係に終止符を打つ。
二十二歳の誕生日、同じカフェで出会った橘朔は、「自分の物語」という言葉を澪にくれた。橘との恋は、健全に大事にされることの意味と、どれだけ正しい恋をしても過去の傷は勝手には消えないという現実を教えてくれる。しかし家の事情という「状況の怪獣」に阻まれ、澪は二度目の別れを——今度は自分の手で——選び取る。
そして二十四歳の誕生日。再び同じカフェで、かつての「怪獣」だった相沢と偶然再会する。過去を語り直し、あのレストランに自分の足で戻り、「許すべき相手は相沢ではなく、あの頃の自分だった」と気づいた澪は、「もう一度、今のあなたと歩いてみたい」と再恋を自ら選ぶ。ただし、ノートの最後のページに誓った一行だけは、決してゆずらない。
——どんな恋をしても、私の物語の主役は、私でいる。


第一章 二十歳の誕生日、まだ何も始まっていない
二十歳の誕生日を、一人で迎えることになるなんて、高校生の頃の私は想像もしなかった。
二月の風は、顔に当たるたびに、誰かに軽く平手打ちをされているみたいだった。痛いというほどではない。けれど、確かに冷たくて、やさしくもない。駅から少し離れた通りを歩きながら、私はマフラーを口元まで引き上げた。吐いた息が白くほどけて、すぐに風に散っていく。空は晴れていた。晴れているのに寒い日は、どうしてこうも人を心細くさせるのだろうと思う。
駅前のカフェの窓際、外の人波をぼんやり眺めながら、紙カップのふちを指先でなぞる。店内には小さなクリスマスツリーの代わりに早春のミモザが飾られ、まだ聞き慣れない新しいポップソングが流れている。祝福の気配に満ちているのに、自分だけ別の季節に取り残されている気がした。
スマホの画面には、大学のグループLINEがまだ通知を吐き出していた。
〈おめでとー! やっとハタチ!〉
〈飲み行こ飲み!〉
〈今日彼氏が予約してくれた店、めちゃ良さそうでさ〜〉
ハートやケーキの絵文字が飛び交う画面を、私は一通り眺めてから、そっとスリープボタンを押した。嬉しくないわけじゃない。ちゃんと「ありがとう」と返事もした。だけど、その裏側に広がる静けさまで、誰かに見抜かれたくはなかった。
――誕生日、おめでとう、自分。
心の中で小さく言ってみる。声には出さない。目の前のカップから立ち上る湯気を見ていると、自分で自分に言った「おめでとう」が、空中でばらばらにほどけていくように感じた。
恋愛経験がないことを、正直に口にしたことは一度もない。
「そういうの、興味ないんだよね」と笑って済ませたことはある。「今は勉強とかバイトの方が大事」と、もっともらしい理由を並べたこともある。
でも、本当は違う。
興味がなかったわけじゃない。むしろ、ずっと——羨ましかった。
高校の休み時間、廊下の端で後輩に告白されている友達を見たとき。放課後の昇降口、靴箱の前で真っ赤になって手紙を受け取っていたクラスメイト。夜のLINEで、「今日、告られちゃった」と笑いながら写真を送ってくる子。そのどれもが、どこか遠い国の出来事みたいだった。
「いいな」と思ったことはある。けれど「羨ましい」とは、最後まで認めなかった。だって、もし羨ましいと認めてしまったら、自分にはそれがないことを、はっきり突きつけられてしまうから。
高校一年の頃、一度だけ「恋かもしれない」と思った相手がいる。同じクラスのサッカー部の男子。教室の一番後ろの窓際で、よく居眠りをしていた。
初めてその人を意識したのは、体育祭の打ち上げのときだった。浴衣姿の女子たちの輪から少し離れて、自販機の前で缶コーヒーを飲んでいた。派手でも目立つタイプでもないのに、なぜか目がいく。
翌日から、なんとなく彼の姿を目で追うようになった。授業中、眠そうにあくびをする横顔。友達とふざけ合っているときの、子どもっぽい笑い声。雨の日、校門の前で濡れた髪をタオルでごしごし拭いていた後ろ姿。
でも、私は一度も話しかけなかった。目が合いそうになると、慌ててノートに視線を落とした。
――遠くから見ているだけで、十分だ。
そう思っていた。それは「恋」というより、安全な憧れ。近づかなければ、傷つくことはない。名前を呼ばれることも、呼びかけることもないまま、二年間の片思い——と呼べるのかもわからない気持ち——は、いつの間にか卒業式と一緒に終わっていた。
好きになれない私は、どこかおかしいのだろうか。みんなが自然にできることを、どうして私はこんなにも難しく感じるのだろう。
告白されたことが、ないわけではない。同じバイト先の先輩に、帰り道で「前からいいなと思ってた」と言われたことがある。友達の紹介で会った人に「ちゃんと付き合いたい」と言われたこともあった。
そのたびに、私は困った。嬉しくないわけではない。誰かに好意を向けられること自体は、ありがたいと思う。でも、胸の奥は、ちっとも熱くならなかった。最初に浮かんだのは、「困る」という感情だった。
友達はよく言った。「最初からそんな好きじゃなくても、付き合ってみたら変わるって」「一回ちゃんと恋愛してみたら?」「澪って考えすぎやねん」
好きじゃない人と付き合うことは、サイズの合わない靴で遠くまで歩くことに似ている気がした。最初は少し我慢すれば済むかもしれない。見た目にはちゃんと歩けているように見えるかもしれない。でも、自分の足だけは、ずっと違和感を知っている。少しずつ擦れて、少しずつ痛んで、いつかどうしようもなくなる。
家にいるときの私は、もっと静かだ。実家は電車で三十分ほど離れたベッドタウン。父は都内の会社員、母はパートと家事を両立していた。仲が悪いわけではない。ただ、テレビの音と天気予報と、「行ってきます」「おかえり」があるだけの、淡々とした家。
小さい頃から、「いい子ね」とよく言われてきた。手のかからない子。「澪は聞き分けがいいから助かるわ」——母の言葉は褒め言葉のつもりだった。でもそれは、「甘えてもいいよ」という合図ではなかった。
いつの間にか、「迷惑をかけない」ことが私の基本設定になった。学校でも、家でも。誰かに頼るより先に、相手の負担にならないかを計算してしまう。
だから恋でも、同じことをしてしまうのだと、薄々気づいていた。
好きになる前に、自分を引っ込める。相手がこちらを好きかもしれないと感じた瞬間、心が動く前に、先に「ブレーキ」が入る。私なんかでいいのか。期待させて、結局がっかりさせるんじゃないか。それなら、最初から一歩引いていた方が安全だ。そうやって、何度も自分の気持ちを凍らせてきた。
二十歳の誕生日のカフェは、そのすべての「凍結措置」の結果だった。恋を知らないまま、ここまで来てしまった。
窓の外を、カップルが並んで歩いていく。男の人が女の人のマフラーを直してやって、二人で笑う。その小さな仕草が、妙に胸に刺さった。
――私って、何か欠けてるのかな。
その言葉だけは、絶対に口には出したくなかった。でも、心の中では何度も何度も繰り返してきた。
カップの底に残ったコーヒーは、もう冷めかけている。飲み干さないまま、そっとカップを両手で包んだ。外は、少しだけ雪の匂いがしていた。
この日が、何も起きないまま終わってくれた方が、きっと楽だ。そう頭では思っていた。
このときの私はまだ知らない。このカフェのドアが開いた瞬間から、自分の二十歳が、静かに軌道を変え始めることを。
カウンターの方から、店員が「お代わり、いかがですか?」と声を上げる。私は反射的に「お願いします」と言いかけて、でもその瞬間、店の扉が開く音がした。
カラン、と。真鍮のベルが、小さく澄んだ音を立てる。
私はほんの何気なく、そちらを見た。ただ、それだけだった。ただ、視線を向けただけ。
なのに、その一瞬で、何かがわずかにずれた気がした。
冬の乾いた空気が、扉のすき間から細く流れ込んでくる。外の冷たさを連れてきたみたいに、店の空気がほんの少しだけ引き締まる。
入ってきたのは、見知らぬ男の人だった。
背が高いわけではない。雑誌のモデルみたいに整っているわけでもない。むしろ、ぱっと見では印象に残りにくい種類の人かもしれなかった。ベージュのステンカラーコート。マフラーは巻かずに、片手に持っている。少し伸びすぎた前髪が額に落ちていた。
どこにでもいそうな、普通の人。イケメン、という言葉からは少しずれている。でも、不思議と目が離せなかった。
彼は店内をぐるりと見渡した。その「自然さ」が、なぜか目についた。初めて来た店なのか、何度も来ている店なのかはわからない。けれど、どちらにしても、彼はその場に対して妙な気負いがなかった。慣れているふりをするわけでもなく、居心地の悪さを隠そうとするわけでもなく、ただそのままの温度でそこにいる。
私は、そういう人をあまり見たことがなかった。
彼はレジでコーヒーを頼んでいるようだった。落ち着いた低めの声が、断片的に聞こえてくる。甘いものではなく、ブレンドと、何かフードを一つ。
見ないでいよう。そう思って、スマホを取り出す。適当なニュースアプリを開いて、流れてくる記事を上からなぞる。頭には入ってこない。
男の人はトレイを受け取り、席を探すように店内を見渡した。この時間、カフェはそれなりに混んでいた。空いているのは、私の斜め前と、窓際の奥の端の席だけ。
一瞬だけ目が合った気がした。彼は、ほんの少しだけ首をかしげて、それから私の斜め前の席に向かった。
「あの」
すぐ近くで、声がした。顔を上げると、彼がトレイを片手に立っていた。
「ここ、空いてますか?」
当たり前のことを聞いているだけなのに、胸に刺さる。
「どうぞ」
自分の声が、思ったよりも高く出てしまって、恥ずかしくなる。彼は「ありがとうございます」と軽く会釈して、向かい合う席にトレイを置いた。
近くで見ると、やっぱり「どこにでもいそうな人」だった。整った顔立ちではあるけれど、雑誌のモデルみたいな派手さはない。少し猫背で、コートの袖口から覗く手は、ところどころペンのインクで汚れている。完璧じゃない。でも、その不完全なバランスが、なぜか安心感を生んでいた。
店員がやってきて、彼の頼んだホットコーヒーと、チーズトーストをテーブルに置く。彼は「ありがとうございます」と、はっきりした声で言った。
特別丁寧ってわけでもないのに。なぜか、印象に残った。
人は、自分に向けられた優しさには案外簡単に騙される。でも、自分に向いていないところで出る態度には、その人の本当が少しだけ滲む。
私はそれを、まだ恋の知識としてではなく、本能みたいなもので感じ取っていたのかもしれない。
男の人は、コーヒーを一口飲んでから、小さく息をついた。
「寒いですね」
不意に、話しかけられた。私は一瞬、誰に言ったのか分からず、辺りを見回す。
「……そうですね」
ようやく返した声が、少し遅れて自分の耳に届く。
男の人は、窓の外の街路樹に視線を向けたまま、続けた。
「この通り、夜になるとすごいんですよ。イルミネーション。去年、たまたま仕事帰りに通ったら、人だかりができてて」
「そうなんですか」
「……あ、すみません。いきなり話しかけて」
こちらを向いた彼の目は、どこか申し訳なさそうで、でも笑っていた。軽薄なナンパの空気は、不思議なくらい感じない。
「いえ、大丈夫です」
会話を終わらせることもできた。でも、なぜか、その背中を押す気になれなかった。
しばらくして、彼がぽつりと言った。
「……誕生日ですか」
私はびくっとして、目を丸くする。
「え?」
「さっき、店員さんが言ってたんで。“バースデークーポンご利用ありがとうございます”って」
言われてみれば、注文するときにアプリのクーポンを見せた。それを聞いていたのだろう。
「あ、はい。一応……」
「おめでとうございます」
短いけれど、迷いのないひと言だった。友達から届いたスタンプだらけの「おめでと〜!」よりも、ずっと静かで、まっすぐな。
胸の奥で、何かが小さく鳴った気がした。それが何の音なのか、私はまだ言葉にできない。
「ありがとうございます」
自分でも驚くくらい、素直にそう言えた。
第二章 はじめて、心が音を立てた
気づけば私は、さっきより自然な声で彼と話していた。
彼の名前は相沢恒一。私と同じ大学の四回生で、もう卒論も出して、あとは卒業を待つだけだという。実家は福岡で、大学進学を機にこっちへ出てきた。就職先は決まっているけれど、配属先はまだわからない。
文房具メーカーに勤めていて、胸ポケットから一本ボールペンを抜き出して見せてくれた。透明な軸に、シンプルなロゴ。見覚えのあるデザインだった。
「あ、これ知ってます。レポート書くときよく使ってて」
「それ、地味にうちの主力なんですよ。学生さんに支えられてます」
袖口から覗く指先にはインクの跡が残っていて、「サンプルのチェックしてると気づいたらこうなってて」と苦笑した。完璧じゃない。でも、その「抜け」が、妙に魅力的だった。
彼は話す前に、ほんの一秒だけ目線を落とす癖があった。考えてから言葉を選ぶ人の間。私はその小さな癖に、妙に安心していた。たぶん私は、ずっとこういう「間」が欲しかったのかもしれない。誰かに押されるみたいに会話が進んでいくのではなく、自分の呼吸を置いていけるようなテンポ。
「実は……今日、誕生日なんです」
口が、自分の意思より先に動いた。言った瞬間、自分で少しだけ恥ずかしくなった。なんでそんなことを言ったのか、自分でもよくわからなかった。
彼は一瞬きょとんとしてから、「じゃあレアですね」と言って、コーヒーをもう一口飲んだ。その何でもない返しが、妙に心地よかった。
普通ならここで、「彼氏はいないの?」とか「何して祝うの?」とか、踏み込みすぎた質問が飛んできてもおかしくない。彼はそれをしなかった。もっと話したいのか、ここでやめたいのか、その判断をこちらに預けている。そんな気配があった。
「もし、変じゃなかったらなんですけど」
彼が口を開いた。
「このあと……お祝い、させてもらえませんか」
頭の中で何かが、きゅっと縮んだ。
「え……」
「もちろん、いきなり変な意味じゃなくて。誕生日って、覚えてる人の方が少ないじゃないですか。たまたま同じ店にいたオッサンとして、ささやかにお祝いできたらなって」
「オッサンって……」
思わず笑いがこぼれる。彼は「二十二歳でもうオッサンなんですよ」と肩をすくめた。
断る理由なら、いくらでも言えた。初対面の人と夜に出かけるなんて危ない、とか。友達との約束があるかもしれない、とか。でもどの理由も、口に出す前に、どこかでしぼんでしまった。
「……危なくないですか」
ようやく出てきたのは、カッコ悪いほど正直な一言だった。
「危なくしないようにします」
即答だった。軽い冗談のようでいて、言葉には妙な力があった。
「変な店には行かないし、無理に引き止めたりもしない。終電までには絶対帰します」
私は、そこでやっと気づく。自分が今まで避けてきたのは、「危険な男」ではなく、「自分の心が動く瞬間」そのものだったのだと。
「行ってみたいです」
気づいたら、口がそう言っていた。
予約してくれたという店は、駅から少し離れた路地裏にあった。濃い木目の扉の横に、小さな看板。入ってすぐ、やわらかな照明と、低く抑えられた音量のジャズが迎えてくれた。テーブルには白いクロス、窓辺にはキャンドル。
「緊張します?」
向かいに座った相沢が、小さく笑う。
「……ちょっとだけ」
「ですよね。俺もここ、二回目なんで。最初来たとき、同期と『ここ入って大丈夫か?』って言い合ってました」
その一言で、少し肩の力が抜けた。
私は彼に、自分のことを少しずつ話した。高校時代に片思いらしきものをしたこと。大学に入っても、誰かを好きになれなかったこと。友達の恋愛話に入りきれないまま、ここまで来てしまったこと。
彼は途中で話を奪わなかった。「わかる気がします」「別に誰かと比べなくていいって、頭ではわかってるんですけどね」と、必要なときだけ言葉を置く。
「でも、そういうのって、理屈じゃないから」
その一言に、私は返事ができなかった。胸の奥にある、誰にもちゃんと説明できなかった感覚を、そのまま言い当てられた気がしたからだ。
デザートの前、相沢がふと思い出したように席を立った。
「ちょっとだけ待っててもらえます?」
しばらくして、店内の照明がほんの少しだけ落ちた。スタッフが小さなプレートを運んでくる。白い皿の上に、控えめなサイズのチョコレートケーキ。その表面には、細いチョコレートで文字が書かれていた。
HAPPY BIRTHDAY MIO
小さなろうそくが一本、真ん中に立っている。
「えっ……」
息を飲む音が、はっきりと自分の中に響いた。
「本当はもっと派手なのもあったんですけど、あんまり大げさなのは好きじゃなさそうだなと思って」
相沢は、少し照れくさそうに笑った。
オレンジの小さな炎が、私の視界を柔らかく揺らした。
「よかったら、願いごと、してみてください」
ろうそくの灯りを見つめながら、私は言葉を探していた。
――何を願えばいいんだろう。
今日のことを、忘れたくない。この瞬間の鼓動を、この先の自分が覚えていられますように。
心の中でそっと願いを結んでから、小さく息を吸った。ふっと吹きかけると、炎がゆらめき、すぐに消える。煙が細く立ち上る。
「おめでとうございます、白石澪さん」
フルネームで呼ばれて、胸の奥が熱くなる。
「……ありがとうございます」
声が少し震えた。
この夜が、この先の人生にとってどんな意味を持つのか、このときの私には、まだ分からない。ただ一つだけ確かなのは、二十歳の誕生日が、「何もなかった日」ではなくなったこと。それだけで、世界の色は、昨日までとは少し違って見えた。
第三章 好きになった瞬間から、弱点になる
家の最寄り駅に着いたときには、日付が変わる少し前になっていた。電車の窓に映る自分の顔は、見慣れているはずなのに、どこか他人のように感じる。
ポケットからスマホを取り出し、LINEの画面を開いた。
〈無事に着きました。今日は本当にありがとうございました〉
送信ボタンを押す指が、少しだけ震えた。
ピコン、と音が鳴る。
〈よかった。二十歳の誕生日、少しでも良い思い出になってたら嬉しいです〉
それだけの短いメッセージなのに、胸がいっぱいになった。
――こんなことで舞い上がるなんて、単純すぎる。
自分で自分に突っ込みを入れながらも、頬がゆるむのを止められない。
布団に潜り込んでからも、何度かトーク画面を開いては閉じた。画面を伏せて、目を閉じる。まぶたの裏で、相沢の笑顔が何度も再生される。
――好き、なのかな。
その言葉を出した瞬間、何かが決定事項になってしまいそうで、怖くて飲み込む。ただ一つだけ確かなのは、この夜から先、自分のスマホの画面を見るたびに、「相沢」という名前を探してしまう自分が、もうできあがってしまったこと。
好きになった瞬間から、弱点になる。その感覚を、私はまだ言葉にできないまま、初めての恋の余韻の中で眠りに落ちた。
その日からしばらくの間、私の一日は「相沢の名前」で始まり、「相沢の名前」で終わるようになった。
朝、目覚ましより少し早く目が覚める。枕元のスマホに手を伸ばして、真っ先にLINEの通知を確認する。ポケットの中の小さな振動一つで、世界の色が変わる。
〈今日、会えてよかったです〉
〈また、必ず誘いますね〉
プリンの店、展覧会、映画。気づけば、週に一度は会うようになっていた。
「付き合おう」というはっきりした言葉は、まだない。でも、私の中では、もう答えは出ていた。
ある日、友達にそれとなく聞かれた。
「最近なんか、楽しそうじゃない?」
「そうかな」
「なんかさ、スマホ見てるときの顔が、前と違う。もしかして、彼氏?」
「……彼氏、なのかな」
口に出してみて、初めてその響きの重さを知る。
ある夜、駅へ向かう信号待ちの前で、相沢が言った。
「俺、自分では、これは”付き合ってる”つもりなんですけど。白石さんは、どうかなと思って」
「……私も、そのつもりでいました」
「よかった。じゃあ改めて。俺と、ちゃんと付き合ってください」
「はい」
その瞬間、世界が少しだけ、色を変えた気がした。彼氏。彼女。今まで他人事のように聞いていた単語が、自分たちに貼り付く。
――やっと、私もこっち側に来られたんだ。
長い間、ショーウィンドウの外から眺めていた「恋愛している人たち」の世界に、自分も足を踏み入れたような気がした。その実感は、しばらくの間、私をふわふわと浮かせてくれた。
ただ、それと同じくらい、別の変化も生まれていた。
相沢の既読がつくまでの時間が、異様に気になるようになったのだ。
これまでは「仕事中なんだろう」と思って流せていた数時間が、今は胸の中でじわじわと不安に変わる。返信がない理由を、頭の中で勝手に埋めてしまう。仕事で疲れて寝てしまったのかもしれない。友達と飲みに行っているのかもしれない。
そして、最悪の可能性も。
――私に飽きたのかもしれない。
恋バナをしていた友達たちが言っていたことが、今になって初めて、少しだけ分かる。
「彼氏の既読の速度で寿命削られるわけよ」
あのとき笑って聞いていたセリフを、今は笑えない。
講義中、机の上に伏せたスマホが震えるたびに、心臓も一緒に震える。画面をのぞき込んで、「バイト先のグループLINE」だったときの落差に、自分でも呆れる。
――面倒くさい女になってる。
そう自嘲しながらも、止められない。
恋をする前の自分には、もう戻れない。それは幸福の証明のようでもあり、同時に、ゆっくり閉じていく檻の音のようでもあった。
第四章 怪獣の腹の中
冬が終わりかけて、街の色が少しずつ薄くなる頃。相沢とのやり取りは、私の生活の中心になっていた。朝、講義の合間、バイトの前後、夜寝る前。どの時間帯にも、自然と「相沢」という枠が出来上がっていく。
好きになった側が、スケジュールを合わせる。それは、自然な流れのようにも思えた。
でも、自然に見える流れの中で、少しずつ何かが変わり始めていた。
相沢からの連絡の「間合い」が、少しずつ変化していた。最初の頃は、仕事の前後に必ず一通はメッセージがあった。「おはようございます」「今日もお疲れさまでした」。短くても、それが一日のリズムになっていた。
それが、いつの間にか、朝の「おはよう」が省略され、夜の「お疲れさま」も、来たり来なかったりするようになった。
〈今日はちょっとバタバタしてて〉
〈ごめん、寝落ちしてた〉
理由も、一応は添えられている。だから私も、「そうなんですね」と返すしかない。でも、その「そうなんですね」の裏側で、胸の中に小さな棘が一本ずつ増えていく。
会う約束の仕方も、変わっていった。最初の頃は、数日前から予定を合わせていた。今は、当日の夜になってから、突然メッセージが飛んでくることが多くなった。
〈今、駅にいるんだけど、これから会えない?〉
時計を見ると、夜の九時を過ぎている。明日は一限から授業があるし、レポートの締め切りも近い。
――断った方がいい。
頭ではそう分かっているのに、指は勝手に動いてしまう。
〈少しなら大丈夫です〉
「会いたい」と言われることが、何よりのご褒美になっていた。どれだけ忙しくても、どれだけ眠くても、その一言で全部が上書きされてしまう。
ある雨の夜、相沢から急に連絡が来た。
〈今から会えない?〉
私はレポートを書いている途中だった。提出期限が翌朝に迫っていて、パソコンの画面には中途半端な文章が並んでいた。
ほんの少しだけ迷った。でも、迷ったのは本当に数秒だった。
〈会えるよ〉
送信した瞬間、胸の奥に小さなため息が落ちた。今夜会いに行ったら、レポートはたぶん間に合わない。明日の朝、きっと後悔する。
それでも、私はメイクを直し、傘を持って部屋を出た。
駅前で会った相沢は、少し酔っていた。
「ごめん、飲み会抜けてきた」
笑いながらそう言って、私の肩を軽く触った。アルコールの匂いが近く感じられた。
――彼にとって私は、「忙しい合間に会いたくなる相手」なのか、「暇な夜の穴埋め」なのか。
その問いは、何度も頭をよぎったけれど、私は一度もそれを口にしなかった。
友人の美咲に、相沢のことを話したのは、それから少し経ってからだった。大学近くのファミレスで、ドリンクバーの薄いカフェラテを飲みながら、私は相沢とのことをぽつぽつと説明した。
美咲は途中まで相槌を打ちながら聞いていた。けれど、私が「最近ちょっと返信遅いときもあるけど、忙しいだけだと思う」と言ったあたりで、ストローをくるくる回していた手を止めた。
「澪、それ……大丈夫?」
「え?」
「ちゃんと付き合ってるって、言われた?」
「うん、まあ……そのつもり、みたいな」
美咲の眉が、わずかに寄った。
「澪、ごめん。嫌なこと言うかもだけど、その人、澪のことちゃんと大事にしてるようには聞こえない」
その瞬間、胸の奥がかっと熱くなった。反射的に、相沢を庇いたい気持ちが湧いた。
「そんなことないよ。ちゃんと優しいし」
「優しい人は、会いたいときだけ呼び出したりしないと思うけど」
帰り道、私は美咲に腹が立っていた。いや、腹が立っているつもりでいた。本当は、美咲の言葉が、少しだけ当たっている気がしたからだ。
図星に触れられたとき、人は相手より先に自分を守ろうとする。
ある日、四月の終わり頃。私は初めて、相沢に会いたいと自分から強く言った。
〈今日、会えたりする?〉
返事が来るまでの時間が、異様に長かった。一時間。二時間。三時間。
夕方になって、ようやく返信が来た。
〈今日は無理かも。ごめん〉
たったそれだけだった。絵文字もない。代わりの日程の提案もない。理由もない。
好きな人に断られるというのは、それ自体よりも、「私は今、会いたいと思われる側ではないのだ」と突きつけられることが痛い。
結局私は、十分以上たってからこう返した。
〈そっか、了解! またね😊〉
最後に笑顔の絵文字までつけて。自分でも吐き気がするほど、いい子だった。
好きという感情は、舞台装置の粗さを全部帳消しにしてしまう。店の雰囲気も、会話の中身も、本当はそんなに重要ではなくなってしまう。相手が目の前にいる、それだけで、その時間を特別だと思い込める。
恋をしている女は、相手の欠点を庇うための言葉をいくらでも発明できる。それは才能ですらある。そしてその才能は、たいてい自分を不幸にする方向にだけ、よく働く。
その頃の私はまだ知らなかった。自分がいま、恋をしているのではなく、怪獣の腹の中に少しずつ飲み込まれていっているのだということを。
そして、いちばん恐ろしいのは、その暗がりの中にいるあいだ、そこが外よりもあたたかく感じてしまうことだった。
第五章 壊れたあとに残るもの
二十一歳の誕生日は、去年とは違って、ちゃんと「彼氏と過ごす日になるはずだった」。
数日前、相沢から連絡が来た。
〈今度の誕生日、空けておいて。ちゃんとお祝いしたい〉
その一文を見た瞬間、胸の中で何かが弾けるように嬉しかった。
去年は、知らない男の人に祝ってもらった「特別な夜」だった。今年は、彼氏に祝ってもらう「当たり前の夜」になる——はずだった。
誕生日当日、私は一日中そわそわしていた。午後はバイトを休みにしていた。部屋を片付けて、シャワーを浴びて、慎重にメイクをして。去年の誕生日に着ていたワンピースを鏡の前で合わせてみて、「これは違う」とクローゼットに戻した。
――あれは、あの日の私の服だ。今日は、今の私の服を着たい。
約束は夜七時、駅前。六時四十五分。さすがに連絡がないまま出る勇気はなかった。
〈今日、七時に駅前で大丈夫でしたっけ〉
既読がつかない。五分、十分、十五分。
七時を過ぎた。カーテンの隙間から見える外の空は、すっかり暗くなっている。
七時半。八時。何度もメッセージを開いては閉じる。
八時を回った頃、ようやく既読マークがついた。その瞬間、呼吸が止まる。だが、そこからまた時間が動き出さない。既読がついたまま、返事がないまま、十分、十五分が過ぎる。
八時二十分。ようやく、短いメッセージが届いた。
〈ごめん、今日は無理になった〉
それだけだった。「無理」の理由も、「誕生日」の文字もない。絵文字すらない、素っ気ない一文。
画面を見ているうちに、視界がじわりと滲んだ。
――誕生日だって、知ってるよね。
去年、あのカフェで「誕生日なんですね」と声をかけてくれた人。あのレストランで、ケーキに名前を書いてくれた人。その彼が、「誕生日」の二文字を一度も出さない。
スマホが再び震えた。
〈また落ち着いたら埋め合わせするから〉
その一文が、とどめになった。
埋め合わせ。何かを失ったときに使う言葉。今日一日を、簡単に「埋め合わせ」で帳消しにしようとしている。
私は、その瞬間、やっと涙を流せた。声は出さない。ただ、頬を伝うものを止めることはできなかった。
――私の誕生日は、この人にとって、その程度の重さなんだ。
翌日、大学のキャンパスはいつも通りだった。昨日、自分の中で何かがひどく壊れたことなんて、この世界のどこにも反映されていない。
友達に「誕生日どうだった?」と聞かれて、「……まあ、それなりに」と笑ってごまかした。
数日後、約束していた「埋め合わせの日」が来た。指定された店は、駅から少し離れた居酒屋だった。誕生日にふさわしいような洒落たレストランではない。
――会ってくれるだけで、いい。
そう思っている自分が、どんどん小さくなっていく。
店を出たあと、駅までの道を並んで歩きながら、相沢が何気なく言った。
「白石さんって、あんまり怒らないよね」
「え?」
「昨日さ、同僚が彼女に誕生日の約束ドタキャンしたら、めちゃくちゃ怒られたって話してて。なんか、俺も気をつけないとなーって思ってたんだけど」
そこで一度、笑う。
「白石さんは、大人だなって思った。“仕事なら仕方ないですよね”って言ってくれるし」
喉の奥で、何かがからんだ。
――私が怒らなかったのは、大人だからじゃない。怒ったら、嫌われるのが怖かっただけだ。
「……そうですかね」
「うん。助かってる」
その「助かってる」という言い方が、自分の役割をはっきり突きつける。相沢にとって自分は、「怒らず、受け止めてくれる都合のいい彼女」なのだと。
――この人との関係を守るために、私が壊れていく。
そんな矛盾した感覚が、じわじわと広がっていた。
第六章 怪獣の外側
誕生日からしばらくして、気づけば新学期が始まっていた。
相沢との連絡は、以前よりさらに「波」がはっきりしてきた。数日間、ほとんど何も来ないこともあれば、夜遅くになって突然、
〈今日、会えない?〉
とだけ送られてくることもある。
ある日、バイトが終わってロッカー室で着替えていると、スマホが震えた。
〈今から会えない? 駅の近くにいる〉
時計を見ると、夜の十時をまわっている。明日はゼミがあるし、発表の準備もまだだ。
〈今日はちょっと……〉
そう打ちかけて、指が止まる。
〈どこにいますか〉
送信ボタンを押したあと、しばらく後悔した。でも、その後悔は、相沢と顔を合わせた瞬間、どこかへ消えてしまう。
ある週の終わり、ふと気づくと、「相沢からの連絡が来ていない日」が、初めて一日できていた。朝も昼も夜も、スマホは静かだった。
胸の奥底では、「嫌われたのかもしれない」という恐怖が膨らんでいく。
翌日の夕方、ようやくメッセージが届いた。
〈ごめん、昨日、スマホ壊れかけてて。いろいろバタバタしてました〉
「心配していた」という言葉を、私はあえて書かなかった。書いた瞬間、自分がどれだけ彼に依存しているかを、自分で認めてしまう気がしたから。
友達とのランチのとき、何気ないふりをして、連絡頻度の話をしてみた。
「一番しんどいのは、“会う”のも”連絡”も、全部向こうの都合になってくるとき」
友達の言葉に、私の手が止まる。
「向こうの機嫌次第で呼ばれて、こっちから誘うと”忙しいから”ってかわされるようになったら……それ、けっこう危険信号」
帰り道、私は頭の中でチェックリストを作る。連絡の頻度。時間帯。誰の都合で会っているか。そのどれもが、少しずつ相沢の側に傾いていることに、薄々気づいてはいた。
でも、認めたくなかった。
――だって、この人は、私が初めて好きになれた人だから。
その一点が、全ての違和感に蓋をしてしまう。
その夜、部屋でレポートを書いていると、本棚の隅に目が止まった。去年の冬、友達にすすめられてなんとなく買った本。「自分の人生を取り戻すためのノート」。
買ったときは、「自己啓発っぽいな」と思って数ページで閉じてしまった。今は、タイトルが、少しだけ胸に刺さる。
ぱらぱらとめくると、「恋人を最優先にすると、自分がいなくなる」という見出しが目に入った。「彼の予定に合わせるために、自分の予定を後回しにする」という例が並んでいる。
――これ、私だ。
スマホを手に取る。相沢とのトーク画面を開く。スクロールしていくと、自分がどれだけ「空いてます」「大丈夫です」「合わせます」と言っているかがよく分かる。
胸の中で、じわじわと恥ずかしさが広がる。
――私、なにやってるんだろう。
その素朴な疑問が、今までどんなアドバイスよりも強く響いた。
机の上に小さなノートを開く。ページの真ん中に線を引いて、左側に「今まで」、右側に「これから」と書いた。
左側には、自分の一週間の行動を書き出していく。
「相沢から連絡 → 予定を空ける」 「相沢に呼ばれる → 夜遅くても会いに行く」 「相沢の機嫌が悪そう → 自分から話題を振る」
書き連ねていくほどに、そこにあるのは「私」ではなく、「相沢の予定を管理する係」だった。
右側、「これから」の欄は、なかなかペンが進まなかった。それでも、ゆっくりと、いくつかの言葉を置いていく。
「自分の予定を先に決める」 「会いたくないときは、断る」 「返事を急がない」
当たり前のことを書いているだけなのに、まるで大それた宣言をしているような気分になる。
スマホが震いた。
〈今日はもう寝る。おやすみ〉
今までの自分なら、すぐに「おやすみなさい」と返していただろう。でも、その夜は、あえて画面を閉じた。
心臓の鼓動が少し早くなっているのを感じながら、それでも意地で、布団の中から手を出さなかった。
翌朝、深夜一時過ぎに届いた相沢からのメッセージが表示された。
〈寝ちゃった? おやすみ言ってもらえないと寂しいな〉
――寂しいのは、こっちのセリフなんだけど。
〈昨日はスマホ見てませんでした。おはようございます〉
罪悪感から出る「ごめんなさい」を、意識して削ぎ落とした。
その日、授業の合間に、大学の掲示板に貼られていたサークルのチラシに足を止めた。
「イラスト・創作サークル メンバー募集」
――そういえば、私、絵を描くのが好きだったんだ。
高校の頃までは、授業の合間にノートの端っこに落書きをしていた。大学に入ってからも、最初の一年はスケッチブックを持ち歩いていた。相沢と出会ってから、その存在を完全に忘れていた。
授業が終わったあと、本屋に立ち寄る。安いスケッチブックを一冊手に取った。
帰り道、スマホが震えた。
〈今日、夜空いてる?〉
相沢からだ。
ノートの右側、「これから」の欄に書いた言葉を思い出す。
「会いたくないときは、断る。」
私は、ゆっくりとメッセージを打ち始めた。
〈今日はちょっと予定があります〉
送信ボタンを押すまでに、三十秒くらいかかった。
すぐに既読がつく。
〈そうなんだ〉
それきり、しばらく返事は来なかった。
たった一文の「NO」。それだけで、世界が少し変わった気がする。
――断った。
家に帰り、部屋の机にスケッチブックを広げる。窓の外の景色をそのまま写してみた。線はぎこちないし、バランスも悪い。それでも、鉛筆を動かしている間だけは、相沢の既読マークのことを考えなくてすんだ。
ノートを開いて、「会いたくないときは、断る」の横に、小さくチェックマークをつける。
たった一つのチェック。でも、そこには、これまでの自分にはなかった種類の達成感があった。
第七章 静かな部屋の真ん中で
小さな「NO」を一つ言っただけで、何かが劇的に変わるわけではなかった。
相沢との連絡は、それまでと同じように続いていた。数日空いてから、ふいに短いメッセージが届く。
でも、私の一日は、少しずつ形を変え始めていた。
朝、目覚ましで起きる。枕元のスマホにすぐ手を伸ばす代わりに、まずカーテンを開ける。光の具合を確かめるように窓の外を眺めてから、やっとスマホを手に取る。相沢からの通知がない画面にも、だんだん慣れてきた。
イラストサークルの見学に行った日は、緊張していた。教室の前に立つと、中から笑い声とペンが走る音が聞こえる。
「連絡くれた白石さん? よかった、来てくれて」
メガネをかけた先輩が笑いながら、席に案内してくれた。
「そのスケッチブック新品? 今日のために買った?」
隣に座った女の子が、ちらりと覗き込んだ。
「……わかります?」
「わかる。角がまだ生きてるもん」
鉛筆を動かしている間だけは、相沢のことを考えなくてすんだ。そのことに気づいた瞬間、少し胸が軽くなった。
ある日、友達とのカフェで、ついに相沢のことを詳しく話した。
誕生日のドタキャン。「埋め合わせするから」で片づけられたこと。自分の都合でしか呼び出さないこと。
友達は黙って聞いてから、静かに言った。
「白石はさ、“仕事なら仕方ないですよね”って言ってくれる、優しい彼女ポジションにいるんだと思うよ。でも、それってさ、“ちゃんと大事にされてる”とは別の話じゃない?」
その言葉は、鋭いけれど、不思議と痛くはなかった。むしろ、ずっと喉に引っかかっていたものを、外側から名前をつけてもらったような感覚に近い。
「“忙しいから”って連呼する人って、自分の人生を最優先してるだけなんだなって。それ自体が悪いわけじゃないけど、その人生に自分がちゃんと含まれてるかどうかは、別問題じゃん」
帰り道、私は何度もさっきの会話を反芻していた。
ノートの「これから」の欄に、新しい一文を書く。
「この関係を、いったん立ち止まって考える時間を取る。」
――“終わらせる”って書いてない。“考える時間を取る”だけ。それでも、その一文は、今まで絶対に書けなかった種類の言葉だった。
しばらくして、相沢からメッセージが来た。
〈今週末、飲み会入らなくなった。久しぶりに会えない?〉
前の私なら、喜んで「会いたいです」と即答していただろう。でも今は、「ここで流されたらまた元に戻る」という恐怖もある。
私は、ゆっくりと息を吐き、スマホに指を置いた。
〈少し、お話ししたいことがあります。会って話せたら一番いいんですけど〉
送信ボタンを押した瞬間、心臓が跳ねる。
〈どうしたの、怖いこと言うじゃん〉
〈ちょっと、自分の気持ちを整理したくて〉
第八章 私の物語の座標
約束の日。カフェの窓際の席で、向かい合って座る。
「……ありがとうございます。時間、作ってもらって」
「なんか怖いんだけど」
相沢は冗談めかして笑う。
「最近のことなんですけど……ちょっと、自分の気持ちが、前と変わってきたなって思ってて」
「気持ち?」
「はい。相沢さんと会ったり、連絡したりするのが、前みたいに”楽しみ”だけじゃなくて、ちょっと”怖い”ときがあるというか……」
言いながら、自分の声がわずかに震えているのが分かる。
「誕生日に、約束してたのに、会えなくなったこと。あのとき、“仕方ないですよね”って言ったのは本心でもあったけど、正直、すごく……悲しかったです」
「そのあとも、会う時間とか、連絡とか、全部相沢さんの都合に合わせることが多くて。それが続くうちに……自分の予定とか、気持ちとかを、置いてきぼりにしてる感じがして」
相沢は、しばらく何も言わなかった。
「……怒ってる?」
「怒ってる、っていうより……疲れてきた、が近いです」
「忙しいのは、本当に忙しいんだよ。そこは分かってほしいなって、正直思ってた」
「忙しいのは、分かってます。だから私、ずっと”仕事なら仕方ないですよね”って言ってきたつもりです。でも、“忙しい”を理由にしてるうちに、私の中で、“じゃあ私はどのあたりにいるんだろう”っていう感覚が、わからなくなってきてしまって」
カフェのBGMだけが、少し大きく聞こえる。
「それで、一回、この関係から少し距離を置きたいなって思いました」
相沢は、目を瞬かせる。
「それって、別れたいってこと?」
「今すぐ”別れたい”っていうよりは……このまま続けても、お互いにあんまり良くない気がしていて。私、相沢さんに会えるとすごく嬉しいけど、その分、自分のことがどんどん後回しになっていくのが、最近怖くて」
「正直に言っていい? めんどくさいな、って一瞬思った」
想定していた言葉の一つだったのに、実際に聞くと、想像していたよりずっと鋭く胸に刺さった。
「でも、ちゃんと話してくれて、ありがとうとも思ってる。俺、多分、白石がどれくらい我慢してるか、本気でわかってなかったんだと思う」
その言葉に、胸の奥で何かがゆっくりとほどける感覚がした。
距離を置いてからの日々は、思っていたより静かだった。
相沢からのメッセージは、三日に一度くらい、短いものがぽつりと届くだけになった。
私の一日は、少しずつ自分のものに戻っていった。ゼミ、バイト、友達との約束、サークルの予定。そこに相沢の名前もちゃんと含まれている。でも、その順番は、前と同じではなくなっていた。
ある日、相沢から連絡が来た。
〈久しぶりに、今度ご飯でも行く?〉
私はすぐには返さず、ちゃんと自分の気持ちを確認した。
会いたい気持ちは、確かにある。でも、「前みたいに戻りたいか」と聞かれたら、もう首を縦には振れなかった。
約束の日。カフェで向かい合う。
「距離置こうって言われたときさ、正直、“終わったかな”って思った」
「でも、終わったってことにして楽になるのは、なんかズルい気もしてさ」
相沢は珍しく、真面目な顔をしていた。
「たぶんですけど、私にとって相沢さんは、“恋愛の一章目”みたいな存在なんだと思います」
「楽しかったこともいっぱいあるし、しんどかったこともいっぱいあって。でも、そのおかげで自分のことが前より分かった気がしてて」
「“大事だから、この先もずっと一緒にいなきゃいけない”っていうのとは、ちょっと違うなって、最近思うようになりました」
「それって、別れたいってこと?」
私は、一度深く息を吸ってから、頷いた。
「……はい。“彼氏彼女”としては、一回ちゃんと終わらせたいです」
相沢は、しばらく何も言わなかった。
「正直、寂しいなって気持ちもあるけどさ。白石がそこまで考えて決めたなら、俺が”いやだ”って言って引き止めるのは、違うよな」
「俺さ、多分、“忙しい”って言葉に甘えてたんだと思う。白石が勝手に合わせてくれるから、“そういうもんなんだ”って安心してた」
「距離置いてる間に、自分も昔の恋愛とか思い出してさ。なんか、“あのときの俺、同じことしてたな”って嫌になった」
「……相沢さん。今まで、ありがとうございました。楽しかったことも、しんどかったことも含めて。相沢さんと過ごした時間があったから、たぶん今の私がいるので」
「こっちこそ。白石みたいな子と付き合えたの、だいぶラッキーだったと思ってるよ」
「しばらくはお互い、自分の方に集中しようか」
「いつかさ、どっかで偶然会ったときに、“あのとき別れて正解だったね”って言える感じがいいな」
「……そうなれるように、がんばります」
改札の前で立ち止まり、手を振る。でも、そこに込めた意味は、前とは違っていた。
「今まで、ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました」
反対方向のホームへ向かう。改札を抜けたところで、私は一度だけ振り返った。相沢の姿は、もう人混みに紛れて見えない。
――これで、この物語はいったん終わり。
でも同時に、自分の物語は、ここからも続いていく。
第九章 二十二歳の誕生日、同じカフェで
二十二歳の誕生日は、できるだけ普通の一日にしたかった。
午前中はゼミで卒論の進捗報告。午後はキャリアセンターでエントリーシートの添削。帰りにスーパーで安売りの野菜と牛乳を買って、自炊して、シャワーを浴びて、早めに寝る——そんな地味すぎる予定を、数日前までは本気で立てていた。
でも、カレンダーアプリの「2月◯日(22歳誕生日)」の文字を何度か眺めるうちに、胸の奥がざわざわし始めた。「普通でいたい」と「何か少しだけ特別にしたい」が、綱引きをしているみたいだった。
結局私は、夕方、あのカフェの前に立っていた。
二十歳の日も、二十一歳の日も、私の誕生日を知っている店。ガラス越しに覗く店内は、大きくは変わっていない。窓際の席と、カウンターと、壁際の本棚。違うのは、棚に並ぶ雑誌の号数と、店員さんの髪型くらいだ。
ドアを押すと、真鍮のベルが小さく鳴く。案内されたのは、二十歳のときと同じ窓際のテーブルだった。
二十歳の誕生日の私は、ここで「何も始まっていない自分」に怯えていた。二十一歳の私は、ここからあの約束の駅前へ行くことを楽しみにしていた。そして二十二歳の私は、一人でここにいる。
それが、少しだけ誇らしくて、少しだけ心細い。
バッグから、就活用の自己PRシートを取り出した。テンプレートの空欄に「あなたの強みを書いてください」と印刷されている。ペン先が空回りする。「真面目」「責任感がある」「コツコツ努力できる」——どれも借り物のように感じた。
ミモザケーキとコーヒーを注文して、フォークを手に取る。一口すくって口に運ぶと、甘さと少しの酸味が広がった。
二十歳の誕生日の夜は、心がそわそわしすぎて、ケーキの味なんてよく覚えていない。二十一歳の誕生日の夜は、何も食べる気がしなかった。今の私は、一人でケーキを食べている。それだけなのに、「ちゃんと生きてるな」と思えた。
スマホのカメラでミモザケーキを一枚だけ撮る。SNSには上げない。ただ、今日の自分の記録として。
――二十二歳、おめでとう、自分。
今度は、ちゃんと届いた気がした。
自己PRシートに視線を戻す。さっきまで真っ白だった空欄に、何か書こうとしたとき、スマホのWi-Fiマークにびっくりマークがついていることに気づいた。
ページの読み込みが、いつまで経っても終わらない。志望動機のフォームに書きかけて保存していない文章が、どこかへ消えかけている気がして、変な汗が出てきた。
「……なんで今」
小さくつぶやいたつもりが、思ったより声が出たらしい。向かいのテーブルから、ちらりと視線を感じる。
顔を上げると、ノートパソコンを開いていた男性がこちらを見ていた。年齢は二十代半ば。ジャケット姿だけど、スーツほどかっちりはしていない。
「すみません。今、Wi-Fi、落ちてますよね」
「あ……はい、多分」
「さっきから、うまく繋がらなくて。店員さんが今、ルーター見に行ってました」
自分だけの問題じゃないと分かると、少しだけ焦りが萎む。
「もしよかったら、テザリングします? スマホのギガ、わりと余ってるんで」
軽い調子だけれど、からかっている感じはしない。私が断りやすいように、少し距離を残した声のトーンだった。
少し迷ってから、そのネットワークに接続した。
「……繋がりました。ありがとうございます」
「よかった。お互い今日のノルマ、なんとかこなせますね」
お互い。その言い方が、妙に耳に残った。
会話は、自然と続いた。彼は同じ大学のOBで、社会人二年目。私が自己PRシートに苦戦しているのを見て、少しだけアドバイスをくれた。
「就活って、会社の物語に自分を当てはめる作業、みたいに感じがちじゃないですか」
「……そうですね」
「でも、本当は逆なんだと思うんですよね。自分の物語があって、その中に会社とか仕事が入ってくる」
私の頭に、ノートの「今まで/これから」のページが浮かんだ。相沢に合わせていた頃の私は、完全に逆をやっていた。相手の物語の真ん中に自分を押し込んで、その隙間で呼吸しようとしていた。
「……そんなふうに考えたこと、なかったです」
「いい子ほど、“求める人物像”に自分を合わせなきゃって思いがちで。でも、全部合わせちゃったら、自分の物語どこ行った、ってなる」
橘朔。たちばな・さく。少し変わった、でも覚えやすい名前だった。
連絡先を交換するとき、胸がきゅっと縮んだ。――また、誰かの連絡を待つ日々に戻るのかもしれない。でも、別の声も聞こえた。――自分の物語の輪の外側に、「就活の先輩」という輪が一つ増えるだけかもしれない。
「お願いします」
QRコードを読み込んで、名前とスタンプ一つだけ送る。返ってきたのは、
〈橘朔です。今日のエントリー、無事に出せますように〉
それだけ。「今度ご飯行きましょう」も、「相談乗るんでいつでも」もない。物足りないようでいて、その余白が心地よかった。
第十章 慎重さと、期待のあいだ
橘と連絡先を交換してからも、世界が劇的に変わることはなかった。
数日おきに来るメッセージは、どれも就活か大学生活の話ばかりだった。恋愛の気配は一切ない。忙しいときは「今日バタバタしてて、返信遅れるかも」と先に一言くれる。
――予告される沈黙は、こんなにも軽いんだ。
相沢のときの「既読スルー」は、何も言われないまま落とされる沈黙だった。何も書かれていない空白に、勝手に最悪の可能性を塗りつぶしていた。橘の空白には、あらかじめ「忙しいので」と理由が貼ってある。貼り紙一枚で、こんなに心の負担が違うのかと驚いた。
初めて「会おう」という話になったのは、三月の中頃。
〈来週の面接の前日、少しだけ時間あります? 30分だけカフェで模擬面接してみましょうか〉
その提案文の中に、「夜飲みに行きましょう」とか「ご飯行きましょう」はない。あくまで「面接対策」と「30分だけ」。
約束の日、橘は時間ぴったりに現れた。
――本当に、ぴったりに来た。
相沢との待ち合わせでは、時間ぴったりに来たことの方が少なかった。
模擬面接は、驚くほど淡々と進んだ。彼の問いは、「あなたの物語の中で、それはどういう意味を持ちましたか」という方向に近かった。
カフェを出るとき、橘がふと言った。
「白石さんのエネルギーを全部就活に回してほしいので。変に”デートだったのかな”とか考える余地を残すと、たぶん今の白石さんには負担でしかない気がして」
図星すぎて、何も言えなかった。
面接の前夜、橘から電話が来た。緊張をほぐすための他愛もない話。企業のニュースのこと、最近の業界の動き。話しているうちに、少しずつ肩の力が抜けていった。
そのとき、スマホの画面がふっと暗くなった。バッテリー残量2%。通話が途切れる「プツッ」という感覚が、耳の奥に残る。
胸の中で、何かが暴れ出す。
――通話が突然切れた。相沢のときも、こうやって、何も言わずに連絡が途切れることが増えていった。
頭では「電池が切れただけ」と分かっている。でも、身体は先に反応してしまう。手のひらがじんわり汗ばんで、呼吸が浅くなる。
私はノートを開いた。
〈今の私の状態〉 ・通話が突然切れた ・電池が切れただけと頭では分かっている ・でも、相沢のときの「突然の沈黙」の記憶がよみがえっている ・怖いのは橘じゃなくて、あのときの私の傷
書き出しているうちに、暴れていた怪獣が少しずつ形を持ち始める。
充電が復活したあと、橘からメッセージが来ていた。
〈さっき、急に切れてびっくりしましたよね。こっちのスマホの電池がゼロになりました〉
そして、もう一通。
〈もしかしたら、不安にさせたかもしれないなと思って〉
――「不安にさせた」って、分かってくれている。
相沢は一度も、そんなふうに考えたことがあっただろうか。
私は少しだけ勇気を出して、返信を打った。
〈びっくりはしました。前に、何も言わずに連絡が途切れることが多かった人がいたので。そういうときのことを少し思い出してしまって〉
数分後、既読がつく。
〈話してくれてありがとうございます〉
〈“気にしてません”って言われるよりも、正直に教えてもらえた方が、俺は助かります〉
布団の中で、スマホを胸に押し当てた。涙は出なかった。ただ、胸の奥に張り詰めていた何かが、ゆっくりと緩んでいく感覚があった。
不安を口にしたら嫌われると思っていた。本音を見せたら面倒だと思われると信じていた。
けれど今夜、壊れなかった。
第十一章 正しすぎる恋の影
内定が決まったのは、三月の終わりだった。第一志望ではなかったけれど、行きたいと思える会社。
橘にメッセージを送ると、すぐに返信が来た。
〈おめでとうございます。第一志望とまではいかないって言ってましたけど、「ここなら働いてみたい」って言ってた会社ですよね〉
何気なく口にした私の言葉を、橘はちゃんと覚えていた。
四月から社会人になった。覚えることが多すぎて、毎日家に帰る頃には脳みそがぐったりしていた。橘と会う頻度は自然と減った。月に一度か二度、仕事終わりに一時間だけご飯を食べるとか、休日の午後にカフェで話すとか。
一見すると、何の問題もない。むしろ、「こんなにちゃんとした恋愛があっていいのか」と思うくらい、安定していた。
だからこそ、別の種類の不安が、こっそり顔を出し始めていた。
――もし、これを失ったらどうしよう。
ある夜、仕事から帰って、ノートを開いた。ページの真ん中に線を引く。
左側に「相沢時代の不安」、右側に「今の不安」。
〈相沢時代の不安〉 ・返信が来ない→「嫌われた」「飽きられた」と直結 ・会えるかどうかが全て ・自分から不満を言ったら終わる気がしていた
〈今の不安〉 ・仕事と恋愛を両立できなくて、自分から距離を作ってしまうかもしれない ・こんなにちゃんとした人を、いつか自分が壊してしまうのではという謎の怖さ ・幸せなはずなのに、「これでいいのか」と逆に不安になる
どちらの欄にも「不安」は並んでいるのに、その質はまるで違っていた。
過去の不安は「相手の態度」に振り回されるもの。今の不安は「自分の内側」から湧いてくるもの。
ノートの余白に、小さく書き足した。
〈“正しい人”と恋をしても、自分の中の不安は勝手には消えない〉
〈不安をなくすことがゴールじゃない。不安を抱えたまま、自分の物語を続けていくこと〉
その夜、橘に「不安のノートを書いてみた」と伝えると、彼はこう返してきた。
〈不安ゼロの人なんて、たぶんいないですよ。俺も、白石さんに飽きられたらどうしよう、とか思うことありますし〉
完璧に見えていた橘が、自分の不安をさらっと共有してくる。それが、不思議と心強かった。
第十二章 状況という怪獣
その話を聞いたのは、梅雨入り前の少し蒸し暑い夜だった。
駅から少し離れたカフェの奥の席。橘はネクタイを少し緩めて、しばらく黙っていた。
「ちょっと、ややこしい話なんですけど」
「親の会社絡みで、取引先の家との話が出てきてて。簡単に言うと、縁談です」
頭の中で、何かが割れる音がした。
橘は淡々と説明を続けた。親の会社の経営状況。取引先との関係。「前向きに考えてほしい」と言われている状態。
相沢のときは、「相手の未熟さ」が怪獣だった。今回は違う。親の会社、取引先、家同士の関係、金の流れ——そういうものが、巨大な輪郭のない怪獣になって、私たちの前に立ちはだかっている。
「もちろん、最初は断りました。でも、親父の会社の決算書見せられて。あんまり笑えない状況で」
「全部捨てて白石さんを選ぶ、みたいな選択肢も考えました。でも、それは”俺の逃げ”なんですよね。白石さんを連れて逃げたら、そのあと全部、白石さんの人生ごと巻き込むことになる」
「……待ってるって言ったら?」
気づけば、そう聞いていた。
橘は一瞬だけひどく揺れた顔をして、それから言った。
「……言わないでほしかった。待っててほしいって、俺も思った。でも、それを言ったらだめだと思った。君の時間を、俺の都合で止めたくない」
優しさって、ときどき残酷だ。
雑に切られるほうが、まだ憎める。怒れる。相手を悪者にして、自分を守れる。でもこんなふうに、ちゃんと苦しみながら、ちゃんと向き合いながら手放されると、どこに怒りを置けばいいのかわからなくなる。
「……私、前の恋のときね。捨てられたって感じだったの」
「私が足りなかったからだって思ったし、好きになったこと自体が間違いだったんじゃないかって。でも、橘さんといて、そうじゃないかもしれないって初めて思えた」
橘の表情が、ほんの少しだけ揺れた。
「不安になってもいいんだって。ちゃんと好きって思っても、すぐ壊れるわけじゃないんだって。そういうの、教えてもらった」
「だから今、すごくつらいけど……でも、前とは違う」
つらい。苦しい。失いたくない。まだ一緒にいたい。全部本当。でも、あのときみたいに、自分まで壊れていく感じはしなかった。私はちゃんと痛がれていた。自分を見失わずに、悲しめていた。
帰り道、私はノートを開いた。
〈この状況の中で、私が選べること〉
・橘の隣に残る→縁談がどう転ぶか、ずっと不安を抱え続ける ・橘から離れる→「好きだけど別れる」痛みを、自分から引き受ける ・今すぐ決めずに考える→曖昧さの中で消耗する可能性が高い
どの選択にも「痛み」がセットでついてくる。「誰も傷つかない選択」は、どこにもない。
ページの端に、小さく書き足した。
〈誰も悪くない状況で、自分の幸せを優先することに罪悪感を持ちすぎない〉
〈「私はどう生きたいか」——すぐには答えは出ない。でも、その問いを自分に向けられるようになったこと自体が、前進なのだと信じたい〉
第十三章 別れは、私の物語のために
夜の公園は、思っていたより明るかった。街灯が一定の間隔で並び、ベンチの周りだけが、ぽつんと浮かび上がっている。
橘は約束の時間ぴったりにやってきた。落ち着いた色のパーカーにジーンズ。仕事帰りというより、休日の顔だった。
ベンチに並んで座ると、しばらくのあいだ、二人とも何も話さなかった。
「橘さんのこと、嫌いになったから別れたいわけじゃないです」
声が少し震えた。
「むしろ、ちゃんと好きです。だからこそ、余計に難しいんですけど」
「あなたを責めたい自分と、あなたを理解している自分が、両方いて。“なんで逃げて私を選んでくれないの”って思う自分もいるし、子どもみたいに駄々をこねたい自分もいます」
「でも、それを言ってしまったら、きっと橘さんのことも、自分のことも嫌いになってしまう」
橘は静かに聞いていた。
「俺も、白石さんを選びたいです」
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
「でも、今の俺には、その責任を全部は負いきれないです。“待っててくれ”とも言えない。それは白石さんの時間を縛ることになるから」
「私は、自分の物語を、状況に全部書き換えられるのは嫌です」
私はようやく、はっきりと言葉を置いた。
「橘さんと一緒にいる章は、私の中で、ものすごく大事な一章です。相沢との恋で壊れたものを、たくさん直してもらいました。でも、その章の終わり方まで、状況に決められたくはないです」
橘の目が、わずかに揺れた。
「だから——恋人としては、ここまでにしたいです」
「別れよう」と言う代わりに、「ここまでにしたい」と言った。完全な断絶ではなく、「ここまでを一章として閉じる」というニュアンスを、自分に残すために。
橘は目を閉じてから、小さく頷いた。
「白石さんの口から聞けてよかったです」
「え?」
「これは白石さんの物語だから。最後の一文を決めるのは、白石さんであってほしかった」
涙が、静かに頬を伝った。
「幸せになってね」
口にした瞬間、胸がぎゅっと縮んだ。綺麗事じゃなかった。この人には幸せでいてほしいと思った。たとえその隣にいるのが私じゃなくても。
橘は静かに笑った。
「澪も」
公園の出口まで一緒に歩いてから、「じゃあ」と手を振った。振り返らないと決めていたのに、角を曲がる直前、どうしても一度だけ後ろを見てしまう。
橘は、同じ場所に立ったまま、こちらを見ていた。街灯の光に照らされたその姿が、小さく手を振る。
相沢のときは、「相手に終わらされた恋」だった。橘との恋は、「自分で終わらせた恋」として、静かに自分の中に刻まれていく。
家に帰ってノートを開いたとき、ページの一番上にこう書いた。
〈この別れは、私の物語のために選んだ〉
第十四章 二十四歳の誕生日、カフェに戻る理由
二十四歳の誕生日は、平日だった。
午前だけ出社して、午後から半休をもらった。朝のミーティングを終えて、ひと仕事片づけてから、定時より少し早く会社を出る。同期に「飲み会とか行かないの?」と聞かれて、「今日はいいや。一人でのんびりしたくて」と笑って断った。
結局私は、夕方、あのカフェの前に立っていた。
二十歳の日も、二十一歳の日も、二十二歳の日も、私の誕生日を知っている店。ガラス越しに覗く店内は、大きくは変わっていない。窓際の席と、カウンターと、壁際の本棚。違うのは、棚に並ぶ雑誌の号数と、店員さんの髪型くらいだ。
ドアを押すと、真鍮のベルが小さく鳴く。案内されたのは、あの頃と同じ窓際のテーブルだった。
二十歳の私は、ここで「何も始まっていない自分」に怯えていた。二十一歳の私は、相沢との約束にすがりついていた。二十二歳の私は、自分で自分のためにカフェを選んだ。そして二十四歳の私は、一人でここにいることを、自分で決めている。
今日は、予約をしてきていた。数日前に電話で「バースデープレートをお願いします」と伝えた。ただ一つだけ、条件をつけた。プレートに書く名前は、「Mio」で。
店員がそっとプレートを運んできた。白いお皿の上に、小さなケーキと、フルーツと、チョコレートソースで描かれた文字。
〈Happy Birthday Mio〉
アルファベットの「M」が、少しだけ丸くて可愛らしい。
スマホで一枚だけ写真を撮る。誰かに見せるためではなく、今日の自分の記録として。
スプーンでケーキを一口すくい、口に運ぶ。甘さと、ほんの少しの酸味。二十歳の誕生日の夜は、心がそわそわしすぎて、ケーキの味なんてよく覚えていない。二十一歳の誕生日の夜は、何も食べる気がしなかった。今の私は、一人でケーキを食べている。それだけなのに、「ちゃんと生きてるな」と思えた。
――二十四歳、おめでとう、澪。
今度は、ちゃんと届いた気がした。
ケーキを食べ終えて、コーヒーを一口飲んだときだった。
ベルの音が、もう一度鳴る。
なんとなく顔を上げた私は、その瞬間、時間が少しだけねじれたような感覚に襲われた。入り口に立っていたのは、見慣れた横顔だった。背の高さも、肩幅も、歩き方も、記憶の中の誰かと重なる。でも、スーツの色も、髪型も、少しだけ変わっている。
相沢だった。
彼は周りを見渡しながら、空いている席を探している。こちらにはまだ気づいていない。
心臓が、ドクンと大きく鳴る。
――よりによって、今日?
「もうだいぶ平気なはず」と、自分に言い聞かせてここに来た。過去の怪獣のことも、「一つの章」として整理したつもりだった。でも、こうして現物が目の前に現れると、胸の奥がざわざわと騒ぎ出す。
それでも、以前と決定的に違うことが一つあった。私は今、一人でここに座っている。自分の意思で、誕生日のプレートを頼んで、自分の名前を指定して。相沢の姿に飲み込まれる前に、「ここにいる私」を、ちゃんと感じている。
相沢が、ふとこちらを向いた。目が合う。
「……白石?」
変わらない呼び方に、心が少しだけ揺れる。私はプレートの横に置いたフォークをそっとテーブルに戻し、静かに息を吸った。
「お久しぶりです」
声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
第十五章 怪獣だった人が、立っていた
相沢が私の名前を呼んだあと、時間が一瞬だけ止まったように感じた。次の瞬間、店員の声と、コーヒーマシンの音が一気に耳に戻ってくる。
「ここ、いい?」
相沢が、私の向かいの席を指さした。昔の私なら、「もちろん」と反射的に笑っていたかもしれない。今の私は、一拍だけ間を置いてから、うなずいた。
「どうぞ」
近くで見ると、少しだけ痩せた気がした。髪は短く整えられていて、スーツの肩には余計な力みがない。二十歳のころにあった、どこか危うく軽薄な空気が、きれいさっぱり消えているわけではない。けれど、その上に、別の何かが静かに積もっているのがわかった。
疲れ、ではない。たぶん、時間だ。
テーブルの上のプレートに、相沢の視線が落ちた。
「……誕生日?」
〈Happy Birthday Mio〉の文字が、まだはっきり残っている。
「うん。今日、二十四になりました」
「マジか。おめでとう」
「ありがとうございます」
昔なら、「なんで教えてくれなかったんだよ」と軽口を叩かれていたかもしれない。今日は、シンプルな「おめでとう」だけが落ちてきた。
近況報告の入り口を、相沢の方から作ってくる。部署が変わったこと、出張が多い生活になったこと。
「忙しいね」
――その言葉、一時期は呪文みたいに聞かされていた。
あの頃は、「忙しい」の一言で、誕生日も約束も、全部流されていた。今の「忙しい」は、少し違う響きがする。言い訳というより、「現状報告」に近い淡さ。
「白石、変わったよね」
相沢が、こちらをじっと見て言った。
「そうですか?」
「うん。昔はもっと、俺の顔色うかがってた感じがあったけど。今は、ちゃんと自分のペースで話してる」
「……自分では、あんまり分からないです」
「いや、分かるよ。今日もさ、俺が勝手に座っていいか聞いたとき、ちょっと考えてから”どうぞ”って言ったろ。昔の白石なら、一瞬で”どうぞ”って言ってたと思う」
図星だった。
しばらくして、相沢がぽつりと言った。
「……あの頃は、ごめん」
あまりにも唐突で、少しだけ息が詰まる。
「仕事忙しいの言い訳にして、全然向き合えてなかったなって」
長い言い訳は来なかった。「忙しかったんだよ」とか、「若かったから」とか、そういう言葉は一つも出てこない。
「……はい」
私はカップを持ちながら短く答えた。「許す」か「許さない」かを今ここで決める必要はない。ただ、「あの頃のことをなかったことにしない」という姿勢だけは、ちゃんと伝わった。
相沢は続けた。少し考え込むように視線を落としてから。
「去年、親父が亡くなって」
淡々とした声の中に、消化しきれない何かが混ざっている。
「人生の残り時間とか、そういうのを急に意識するようになった。忙しいを言い訳にして失ったものは、白石だけじゃないんだよね」
その言葉に、胸の奥の二十歳の私が、反射的に反応する。でも、今の私は、その声と少し距離を取りながら聞くことができた。
あの頃の彼は、「忙しい」を盾にしていた。目の前の彼は、「忙しい」を自分の未熟さとして引き受けようとしている。それは、同じ人間の、別のページを見ている感じに近かった。
カフェを出るとき、店の外は夕暮れに差しかかっていた。
「また、どこかで」
相沢がそう言う。「連絡先とか、変わってない?」
「変わってないです」
今なら、「変わってる」と嘘をつくこともできる。でも、私はそうしなかった。
電車の中で、窓に映る自分の顔を見る。驚いてはいるけれど、泣きそうにはなっていない。
怪獣だった人が、ただの人として立っていた。その横を通り過ぎても、私はちゃんと自分の足で立っている。その事実が、今日一番の収穫だった。
第十六章 過去を話すのは、誰のためか
相沢と再会した夜、家に帰ってノートを開いた。
〈昔の私〉 ・相沢の笑顔=「好かれている」の証拠 ・「忙しい」=「私より仕事を優先された」証拠 ・沈黙=「嫌われた」予兆
〈今の私〉 ・相沢の笑顔=「懐かしさ」かもしれないし、「社交的な癖」かもしれない ・「忙しい」=単なる近況報告(私への感情とは別) ・沈黙=「考えている時間」でもある
書き分けてみると、「同じ相手なのに見え方が変わっている」ことがはっきりする。相沢が変わったからだけではない。私の「見る側の目」も変わっているからだ。
数日後、私は相沢にメッセージを送った。
〈今度、ゆっくり話せる時間があったら。あの頃のこと、一回ちゃんと話したいなと思いました〉
「会いたい」ではなく、「話したい」。「やり直したい」ではなく、「整理したい」。
〈いいよ。俺も、一回ちゃんと話したいと思ってた〉
待ち合わせは、あのカフェ。人が少なくなる夕方の帯にした。
相沢は、もう来ていた。窓際ではなく、店の奥の二人席に座っている。
「……今日は、俺の方から話したいことがあって」
カップを両手で包むように持ちながら、彼は言った。
「誕生日のこととか、あの期間のこととか。正直、あの頃のこと、ずっと思い出したくなくて。仕事忙しかったのは事実なんだけどさ。それを盾にして、ちゃんと向き合わなかったのも事実で」
「“埋め合わせするから”って言って、そのままにしたよな」
あの日の夜が、脳裏に浮かぶ。既読のつかない画面と、冷たくなっていくケーキ。
「本当に、埋め合わせしようと思ってたのかって聞かれたら……正直、自信ない。自分の中で、あの頃の白石って、“いつでも待っててくれる人”みたいに扱ってたと思う」
都合のいい彼女扱い。当時の私には、言葉にできなかった認識だ。
「改めて、ごめん」
短い謝罪だった。言い訳も、長い自分語りも、くっついてこなかった。
私はゆっくりと息を吸ってから、口を開いた。
「私、あの頃、誕生日の日、あの店でずっと待ってました。最初は、“電車が遅れてるのかな”って思ってて。だんだん、“仕事でトラブルあったのかも”って思って。最後には、“今日、私の誕生日だったっけ”って、自分の方を疑い始めてました」
口に出してみると、自分でも驚くくらい具体的な感覚が蘇る。
「家に帰ってからも、ずっとスマホ見てました。“ごめん、寝落ちしてた”の一文に、どれだけの意味を乗せたか、多分伝わってなかったと思いますけど」
「……俺は、その一文で全部済ませたつもりになってたんだろうな」
「そうだと思います」
責める口調ではなく、事実として置く。
「“寝落ち”って言葉を見た瞬間、私の中で何かがストンと落ちたのを覚えてます。“あ、私はその程度なんだ”って」
「でも、そのとき私は、それを相沢さんに言えませんでした。言ったら全部終わる気がしてたから。“なんで来なかったの”って言ったら、重いって思われるんじゃないかって」
「今振り返れば、あのとき一度ちゃんと怒っておけばよかったって思います。“私はこう感じた”って言うチャンスだったのに、自分でそれを潰してた」
「……ごめん。白石がそこまで感じてたって、想像できてなかった」
「想像しようともしなかった、が正しいかもしれないです」
少しだけ言葉を足す。
「でも、多分私も、自分で自分の感情を大事にしてなかった」
それを認めるのは、少し悔しい。でも、今の私には必要な一行だった。
カフェを出ると、外は薄暗くなり始めていた。
家に帰ってノートを開く。
〈過去の章は、誰かに許してもらうためじゃなく、自分が読み直すためにある〉
二十歳の私が言えなかったことを、二十四歳の私が代わりに言ってやる。それは、過去の自分に対する小さな償いみたいなものだった。
第十七章 同じレストランで、違う夜
相沢と過去の話をした数日後、仕事終わりにスマホが震えた。
〈この前話してたレストラン、まだありました。今度、一緒に行ってみない?〉
あの日、誕生日の約束をして、私が一人で待っていた店。怪獣の腹の中、というイメージを最初に得た場所。
胸の奥が、きゅっと縮む。
頭の中で、二十歳の私が声を上げる。
『やだよ。あんなところ、二度と行きたくない』
二十二歳の私が、少し違うトーンで口を挟む。
『でもさ、橘さんと一緒に「怪獣の外側」を歩けるようになったでしょ? あのあと、自分の誕生日を自分で祝えるようにもなったし』
今の私が、二人の真ん中に立つ。
『行くかどうかを決めるのは、もう相沢じゃなくて、私だよね』
私はノートを開いた。ページの一番上に、大きく問いを書く。
〈あの日の店へ行くかどうか〉
行く場合——最初は怖い。あの日の景色がフラッシュバックするかもしれない。でも、「今の私」がその場に座り直すことで、記憶の意味が変わるかもしれない。
行かない場合——今の安全は守れる。でも、どこかでずっと「避けている場所」として残り続ける。
ノートの下の方に、もう一つ欄を作った。
〈行く/行かないを決める基準〉 ・「相沢に合わせるため」なら行かない ・「あの日の自分のため」なら、行ってもいい ・「今の自分が試したいから」なら、行ってみる価値はある
私はスマホを取り上げ、ゆっくりと文字を打つ。
〈正直、あの店はまだ少し怖いです。でも、今の私なら行けるかもっていう気持ちもあります。もし行くなら、“連れて行かれる”んじゃなくて、“自分の足で行く”ってことにしたいです〉
〈分かった。白石が行きたいと思えたときに、一緒に行こう〉
約束の日。駅前のロータリーを抜けて、角を曲がると、あの日と同じ看板が見えた。胸の奥がきゅっと縮む。けれど、足取りは思ったほど重くない。
店先で一度だけ深呼吸をして、ドアノブに手をかける。「連れてこられた」のではなく、「自分で開ける」と決めていたドア。
予約名を告げると、あの夜と同じ窓際の席に案内された。心臓が一度だけ早鐘を打つ。でも、椅子に腰を下ろしてみると、自分でも拍子抜けするくらい、呼吸が落ち着いている。
テーブルクロスの白。水の入ったグラスの縁の反射。隣の席の楽しそうな会話。全部、あの日と似ているのに、世界の解像度が違って見えた。
――あの頃は、ここが「世界の終わり」みたいに感じていたのに。今の私は、この店を「世界の一部」として眺めている。
相沢が来る。約束の時間の少し前に。
食事をしながら、他愛のない近況を交わし、やがて話はあの頃のことへ流れていった。
「ここ数年、ちょっと仕事がこじれてさ。忙しいを理由に、ずっと手放していた習慣があって。最近、本を読む時間を少しだけ取り戻せた」
「親の介護も始まってさ。去年、親父が亡くなって。人生の残り時間とか、そういうのを急に意識するようになった」
「忙しいを言い訳にして失ったものは、白石だけじゃないんだよね」
「……あの夜のことを、どう思ってますか?」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「最低だったと思ってる。来なかったことも、連絡しなかったことも、それをちゃんと説明しなかったことも。全部まとめて、最低だって思ってる」
即答だった。
二十歳の私が、テーブルの反対側で泣いている。でも、今の私は、その肩にそっと手を置いてやれるくらいの距離に立っている。
デザートの頃には、さっきまで胸を締めつけていた「怖さ」が、少し形を変えていた。
「……相沢さんのこと、“怪獣”みたいに感じてた時期がありました」
相沢が、目を丸くして笑う。
「怪獣?」
「私を飲み込んで、消化して、何もなかったことにされちゃうような存在っていうか」
「まあ、分からなくもないな……」
「でも、今日話してみて、なんかその怪獣の着ぐるみのチャックが見えた気がしました。中に入ってたの、人間だったな、って」
店を出るとき、相沢が扉を押さえ、「先、どうぞ」と言う。私はその前を歩きながら、振り向かずに口を開いた。
「ここを、“あの夜の終わりの場所”のままにしておくの、もうやめます。今日、この店を”私の物語の一つの舞台”として選び直せたのは、よかったです」
「ありがとう。……白石がいなかったら、多分俺、この店には二度と来れなかったと思う」
心の中の二十歳の私が、少しだけ誇らしげな顔をする。
帰り道、駅前で立ち止まる。
「お互い、ちゃんとごはん食べて、ちゃんと寝ましょう」
変な締めの言葉だな、と自分で思いながらも、それが今の私に言える精一杯のエールだった。
家に帰ってノートを開く。最後の行に、一文だけ書いた。
〈あそこに私を連れて行く力は、もう彼にも、この店にもない。行くかどうかを決めるのは、これからもずっと、私だ〉
第十八章 試験期間という名の共犯関係
レストランから帰ってきた夜、ノートに橘の名前を書いた。
橘がくれた「大事にされる基準」を、今の相沢に当てはめてみると、「改善された点」と「それでもなお気になる点」の両方が見えてくる。昔なら、「会いに来てくれている」という事実だけで全部を上書きしていたけれど、今の私は、その中身を一つずつ見分けている。
ノートに三つの丸を描いた。「橘」「相沢」「今の私」。
橘の丸のところに書き込む。話を最後まで聞こうとする姿勢。予定を共有してくれること。「無理なときは無理」と正直に言ってくれること。私の仕事や創作を、「おまけ」じゃなくてちゃんと一つの世界として扱ってくれたこと。
相沢の丸のところ。あの頃は、忙しさを優先しがち。ギリギリまで予定を言わない。「ごめん」を冗談で薄める。今は、時間に余裕を持って来る。スケジュールを事前に共有してくれる。自分の未熟さを、自分の言葉で認めていた。
最後に、「今の私」の丸。自分が嫌な思いをする行動を、前ほど簡単にはスルーしない。「好きだから」だけで全部を許さない。相手の成長を喜べるけれど、それと「一緒にいるかどうか」は別問題だと分かっている。
ノートの端に、小さく書き足した。
〈元彼たちは、私の物語の脇役。主役は、これからもずっと私〉
それから数週間、私と相沢の距離は、「毎日連絡」でも「連絡ゼロ」でもない、中途半端なところで落ち着いた。数日に一度、短いメッセージ。週に一度あるかないかの、ごはんやお茶。
試験期間。そう名付けるのが、一番しっくりきた。
朝、通勤電車の中でスマホが震える。
〈今日、プレゼンあるって言ってたよね。うまくいきますように〉
短いエール。そのくらいの軽さ。あの頃みたいな「今夜空いてる?」という急な誘いでもない。
〈覚えててくれたの、ちょっと嬉しいです。終わったらまた報告します〉
嬉しい、は本当。でも、「それだけで全部チャラになる」ほど、私はもう単純じゃない。嬉しさと慎重さが、常にセットでついてくる。
ある金曜の夜、仕事終わりに小さな定食屋で待ち合わせた。相沢はすでに窓際の席に座っている。
「ごめん、少し早く着きすぎたかも」
あの頃なら、「ごめん、遅れた」と言いながら平然と三十分遅れて来ていた人だ。
食事をしながら、相沢は仕事の話をした。部署の新人のこと、数字の管理の難しさ。
「最近さ、同僚に言われたんだよね。“最近、飲み会であんまり愚痴らなくなりましたよね”って」
「自覚はなかったんですね」
「うん。白石と会うようになってから、“この話、白石の前でしても気持ちよくないな”って思うことが増えてさ。それで意識してたら、他の場面でも愚痴る前にブレーキかかるようになった」
――私との時間が、相沢のブレーキになっている。
嬉しい。同時に、とても怖い。もしこれが一時的なものだったら。もしそのブレーキが外れたとき、私はまた巻き込まれる?
帰り道、相沢がぽつりとこぼす。
「白石、明日も早いんだっけ?」
「はい。午前中から打ち合わせで」
「じゃあ、今日は早めに解散しよう。あんまり引き止めたくないし」
昔なら、「もう一杯だけ」「もうちょっとだけ」と、こちらの予定を押し広げる方向に働いていた人が、今は逆側に力をかけている。
ある夜、相沢が言った。
「なんかさ、今、俺たちって、試験期間みたいだなって思ってて」
「前の俺だったら、もうとっくに”じゃあもう一回付き合おう”とか言ってると思うんだよね。でも今は、言ってもいいのかどうかが、まだ分からなくてさ。ちゃんと変わろうとしてるところを、まず行動で見せないといけないっていうのもあるし」
「だからさ、二人で一緒にテスト受けてるみたいな感覚なんだよね。今度こそ怪獣にしない関係にできるかどうか、みたいな」
「怪獣」という単語に、胸の奥がぴくりと反応する。
「……私の、あの比喩、覚えてたんですね」
「覚えてるよ。あれ、結構刺さったから。俺、昔、白石のこと飲み込んでたなって」
その自己認識は、痛くて、少し救いでもあった。
家に帰ってノートを開く。
〈今回は、私が試験官で、相沢さんが受験生、という話じゃない。二人で一緒に受けているのは、「怪獣を作らない関係」という試験だ〉
〈この試験の合否を決める権利は、昔みたいに相沢さんだけが持っているわけじゃない。半分は、私の手の中にある〉
第十九章 許す相手は、誰なのか
その夜、急に眠れなくなった。
――もし、この人ともう一度付き合うとして。二十歳の私に、どう説明するつもり?
唐突に浮かんだその問いに、心臓がきゅっと縮む。あの子の顔が、暗闇の中でありありと浮かび上がる。LINEの通知音に振り回されて、スマホを握りしめたまま眠った夜。「今から行っていい?」の一言で明日の予定を全部動かしてしまった休日。「そんなに怒ること?」と言われて、自分の怒りの感覚の方を疑った日。
私はベッドから起き上がり、デスクのスタンドライトだけをつけた。ノートとペンを取り出して、少し迷ってから宛名を書く。
〈二十歳の私へ〉
〈あのときは、本当に苦しかったね〉
文字にした瞬間、喉の奥が熱くなる。
〈あなたは、誰かに雑に扱われたからって、雑に扱われていい存在じゃなかった。それでも、あのときの私は、自分で自分を守る方法を知らなかった〉
〈ねえ、聞いて。あのときあなたが必死でしがみついていた人と、私は今、もう一度会っています〉
〈でも、それは「あの頃に戻る」ためじゃない。あのときの続きとしてやり直すんじゃなくて、「今の私」として会い直している〉
〈あのときのあなたは、「彼氏に嫌われないための正解」を必死に探してた。でも、今の私は、「自分を嫌いにならないための選び方」を優先している〉
〈あのときのあなたが、痛いくらい誰かを好きになってくれたおかげで、私は今、「怪獣と対等に話す」というやり方を覚えた〉
ペンが止まらない。
〈あなたがあのとき、「それでも好き」を手放せなかったことを、私はもう、責めるのをやめようと思う。たしかに、しんどい選び方だった。でも、そのしんどさの中で、相手を思い続けたあなたがいたから、今の私は、自分のことも相手のことも、前よりちゃんと見ようとしている〉
ここまで書いたところで、ふいに視界がにじんだ。涙が出る理由を、すぐにはうまく言語化できない。でも、それが相沢への怒りではないことだけは、はっきり分かった。
胸のどこかで「よく頑張ったね」と誰かに言われたみたいな感覚。よく頑張ったのは、誰?
あのとき、うまく怒れなかった私。うまく「嫌だ」と言えなかった私。それでも、泣きながらも連絡を返し続けていた私。そして、そこから何年もかけて、少しずつ自分の輪郭を取り戻してきた今の私。全部まとめて、「よく頑張った自分」だ。
ふと気づく。
――あれ、私、誰も責めてない。
手紙を読み返す。そこには、「どうしてこんな人を選んだの」とか、「あのとき別れておけば」みたいなフレーズは一つもなかった。あるのは、「あのときは苦しかったね」と「あなたのおかげで今の私がいる」という二つの線だけだ。
許そうとしている相手が、「相沢」ではないことに、ようやく気づく。
――ああ、そうか。
今までずっと、「いつか相沢を許せる日が来るんだろうか」とばかり考えていた。許しの矢印は、ずっと「私→相沢」の方向に伸びているものだと信じ込んでいた。
でも、本当に許せていなかったのは、別の誰かだ。
あのとき、うまく別れられなかった自分。何度も心の中で赤信号が灯っていたのに、それを無視して進み続けた自分。「大事にされていないかもしれない」と薄々感じながらも、「私が我慢すれば」と飲み込んでいた自分。
私はずっとその子を責めてきた。「なんであんなことしたの」「なんであのタイミングで離れなかったの」「なんで自分を守らなかったの」。その声が、ずっと心のどこかで鳴り続けていた。
ノートの最後に、一文を書き足す。
〈あのときの選び方を、今の私はもう責めません。あのときのあなたがいたから、私は今、自分の人生の主役を取り戻しつつあります〉
書き終えた瞬間、胸の奥で何かが音を立てて外れるような感覚がした。ずっと「相沢」という名前のレールの上を走っていた物語の視点が、切り替わる。
許しの矢印が、「他人に向けて」ではなく、「自分に向けて」反転する。
そのことが、こんなにも静かで、こんなにも大きな出来事だとは思わなかった。
第二十章 怪獣と並んで歩く
相沢からの告白は、思っていたより、ずっと静かな場所で来た。
平日の夜。会社帰りに寄った、小さなイタリアン。二人ともパスタを食べ終えて、デザートを頼むかどうか迷っていたタイミングだった。
「もう一回、ちゃんと付き合ってほしい」
昔だったら、この瞬間に全部が決まっていた。「好き」か「好きじゃない」か。その二択だけで、即答していたと思う。
今の私は、真っ先に別の言葉を思い浮かべる。
――もう、あの頃の私じゃない。
「……考えさせてください」
「ちゃんと考えてほしいから、言ってる」
家に帰ってノートを開いた。ページの上に、大きく二つの見出しを書く。
〈付き合う未来〉 ・仕事帰りに一緒にごはんを食べる日が増える ・寂しい夜に、連絡できる相手がいる安心 ・また相沢の機嫌に心が引っ張られる可能性 ・「変わった」と思っていた部分が元に戻るかもしれない怖さ ・それでもそのときに「無理」と言える自分でいられるかの不安
〈付き合わない未来〉 ・一人の時間とペースを今までどおり守れる ・「また同じ失敗をした」と自分を責めずに済む ・もう一度やり直せたかもしれない未来を自分の手で閉じる寂しさ
ノートの上には、「どっちを選んでも怖い」という現実が、残酷に並んでいた。
ページの一番下に、新しい見出しを書く。
〈どっちを選んでも、絶対に守りたいこと〉
〈・もう、怪獣の腹の中には戻らない〉 〈・自分の予定や感情を「どうでもいい」扱いしない〉 〈・怖さや不安を「なかったこと」にして突っ走らない〉 〈・「無理なものは無理」と言える自分を見殺しにしない〉
「付き合う」か「付き合わない」かは、そのあとにくる選択であって。その前に、「どんな自分でいるか」を決めないと、また同じ場所に戻ってしまう。
翌日、相沢と会った。前に二人で別れ話をしたカフェと同じ場所で、今度は違う話をする。
「……付き合いたいと思っています」
口にした瞬間、自分の声の震えに少し驚く。でも、その次の言葉は、はっきりしていた。
「ただ、昔みたいには、絶対になりたくないです。昔みたいに、私が予定を全部崩して合わせるとか。相沢さんの機嫌とか忙しさ次第で、私の心まで振り回されるとか。そういう付き合い方は、もうしないって決めました」
「だから、“昔に戻る”ために付き合うんじゃなくて。“今の私”と”今の相沢さん”として、一緒に歩いてみたいです」
相沢はしばらく黙っていた。すぐに「ありがとう」とも「もちろん」とも言わないところに、逆に誠実さを感じる。
「……分かった。前みたいに”白石なら分かってくれるだろ”“我慢してくれるだろ”って前提で甘えるのは、もうやめる」
「もしまた同じことしたら、そのとき白石が本当に離れていくってことだよな」
「そうです」
「……それくらいの覚悟がないと、多分また同じこと繰り返すからさ」
再び付き合い始めてから、季節がひとつ、ゆっくりと変わった。
平日、朝。目覚ましが鳴って、布団から這い出る。コーヒーを淹れる。テーブルの端には、開きっぱなしのスケジュール帳。今日のページには、黒いペンで「午前:打ち合わせ」「午後:資料作成」と書かれていて、横に青いペンで「夜:イラスト下描き」と添えてある。
その下に、少し小さめの字で「週末:相沢さんと映画」と書き足す。
大きな文字でも、小さな文字でもない。相沢との予定は、「私の今週」の中の一つとして、他の予定と同じ行に並んでいる。
――それが、なんだか誇らしかった。
ある週末、カフェでノートを広げていると、相沢が隣に座り、自分の手帳を取り出した。
「ふりかえり、するんですか?」
「最近、真似して始めてみた。“白石との約束、守れたか”とか、“仕事の愚痴、どれくらいに抑えられたか”とか」
「採点厳しそうですね」
「まあね。先生が怖いから」
彼の「先生」は、たぶん私だけじゃない。今の相沢は、自分でも自分を見張っている。怪獣を小さく飼い慣らす練習を、自分の手で続けている。
私はノートの最後のページを開いた。ずっと空白にしていたページ。上の方に、小さく見出しを書く。
〈これから〉
ペンを下ろした。
〈どんな恋をしても、私の物語の主役は私でいる〉
書き終えた瞬間、胸の奥で、静かに何かが定位置についた。
「書けた?」
隣から相沢の声がする。
「はい」
「いいこと書けた?」
「うん。私には、すごく大事なこと」
「そっか」
それ以上聞こうとしない。「何て書いたの?」と食い下がってこないところが、今の彼らしいと思う。知ろうとしない優しさと、任せてくれる信頼。
相沢という存在が、私の人生から消えるわけではない。完全に安全な人間になったわけでもない。でも、もう私は、そのお腹の中に入っていかない。お互いの足で地面に立って、横に並んで歩いていく。
エピローグ 私の物語の主役は、私でいる
映画が終わって、外に出ると、空はすっかり群青色に変わっていた。駅へ向かう道を、私たちは並んで歩く。肩がぶつかるかぶつからないかくらいの距離。
「今日の映画、どうだった?」
「思ったより、怪獣が優しかったですね」
「そう?」
「だって、最後ちゃんと去っていきましたし」
「白石は、怪獣にずいぶん詳しくなったよね」
「実地で学びましたから」
改札口が近づいてくる。私の路線と相沢の路線は方向が違う。
「今日も、ありがとう」
「こちらこそ」
「あと……白石が、自分の予定をちゃんと優先してくれてるの、これからも大事にしたいから。もし俺が、また昔みたいなことしそうになったら、ちゃんと言ってね」
「言いますよ。遠慮なく、ノートに”怪獣”って書きます」
「それは怖いな」
「怖いくらいが、ちょうどいいんです」
改札の前で手を振る。「じゃあ、また」「また」。それだけ言って、それぞれのゲートを抜ける。
ホームへ向かう階段を上りながら、私はさっき閉じたノートの最後のページを思い出す。
〈どんな恋をしても、私の物語の主役は私でいる〉
あの一行は、相沢のために書いたわけじゃない。「誰かといる私」のために書いたわけでもない。
たとえば、いつかこの恋が終わったとしても。たとえば、別の誰かと恋をすることになったとしても。たとえば、しばらく誰とも恋をしない日々が続いたとしても。
その全部の「これから」に、有効な約束として残るように書いた。
電車に乗り込んで、窓に映った自分の顔を見る。特別に明るくも、特別に沈んでもいない。ただ、少しだけ「自分の輪郭」がくっきりして見えた。
完璧な線は引けなくても、その線を引こうとし続けるのは、もう誰でもない私の仕事だ。
家に着き、コートを脱いで、マグカップにお湯を注ぐ。湯気を見ながら、ぼんやりと自分の「これから」を思い描く。
必ずしも、ハッピーエンドだけが欲しいわけじゃない。完璧に噛み合う関係だけが、正解だとも思わない。
ただ一つだけ、ゆずれない。
――どんな恋をしても、私の物語の主役は、私でいる。
マグカップを両手で包みながら、私は小さく笑う。部屋の灯りを落とす。真っ暗な中でも、胸の真ん中にだけ、ちゃんと一つ灯りが残っているのを感じながら。
ノートはまだ、完全には閉じない。
「これから」という見出しの下に続く余白は、相沢とのことだけじゃなくて、仕事や友だちや、まだ見ぬ誰かや、何より「これからの私」のために、開けてある。
その余白を、大事に抱えたまま。
私の物語は、続いていく。
あとがき
「怪獣の腹の中で」をここまで読んでくださって、ありがとうございます。
この物語は「恋愛」の話でありながら、書いているあいだ、私の頭の中にずっとあったテーマは「誰の物語として生きるか」でした。
誰かを好きになったとき、自分の予定や感情を後回しにしてしまうこと。相手の機嫌や都合を優先し続けているうちに、「自分の人生の主役の席」から、いつの間にか立ち退いてしまうこと。そういう感覚に、心当たりのある方もいるかもしれません。
澪が経験した三つの恋は、それぞれ違う痛みと、違う学びを残しました。
一つ目の恋は、「怪獣の腹の中」に飲み込まれる体験でした。誰かの予定に合わせ、誰かの機嫌を気にし、自分の物語を相手の物語の余白に書き込むような日々。
二つ目の恋は、その怪獣の外側で「自分の物語」を取り戻す過程であり、同時に、どれだけ正しい恋をしても自分の中の傷は魔法のように消えてくれないという現実でした。
三つ目の恋は、かつて自分を飲み込んだ「怪獣」に、もう一度自分の足で向き合いに行く旅でした。そこで澪が気づいたのは、「許すべき相手は相沢ではなく、あの頃の自分だった」ということ。二十歳の自分に宛てた手紙を書き、「あのときはあのときなりに精一杯だった」と認めること。その自己赦しが、この物語のもう一つのクライマックスでした。
恋愛小説では、告白シーンや再会のハグがクライマックスとして描かれることが多いと思います。この物語では、相沢から「もう一度付き合ってほしい」と言われた場面よりも前に、澪が「許す相手は誰なのか」を自分で選び直す第十九章を、物語の核として置きました。
もう一つの核は、ノートの最後のページに「どんな恋をしても、私の物語の主役は私でいる」と書く場面です。相沢とうまくいくかどうかよりも、その一行を書ける場所まで澪が歩いてきたこと自体が、この物語のゴールだと思っています。
もしこの本を閉じたあと、あなたが自分のノートやスケジュール帳、スマホのカレンダーに目を落としたとき。そこにびっしり並んだ「仕事」「家事」「誰かとの約束」のどこか片隅に、小さくでいいので「これは私の物語だ」と思い出してもらえたら、とても嬉しいです。
そして、どんな恋をしていても、していなくても、「主役の席」はいつでも自分のところに戻していいのだと感じてもらえたら、この物語は役目を果たせたのだと思います。
ここまで澪と一緒に歩いてくださり、本当にありがとうございました。あなたの「これから」のページが、あなた自身の言葉で埋まっていきますように。








いいなと思ったら応援しよう!
はぁ、はぁ……っ! お願い、です……!
『怪獣の腹の中で』を……どうしても、私の手で「紙の本」にしたいんです……っ!
あなたの、そのサポートが……本の、一ページに、なります……っ。
はぁ……応援、してくれませんか……っ?