機動弁護士 黒崎玲司:第一話 継ぐ男
機動弁護士 黒崎玲司
第一話 継ぐ男
机の上に、分厚い書類の束が三つ積んであった。
黒崎玲司はいちばん上の一冊を指先で少し開いて、また閉じた。大手の吉川総合法律事務所から回ってきた企業間の契約紛争だ。相手は名の知れた不動産会社。争点は複雑で、書面は膨大になる。勝てば報酬は悪くない。負けても時間さえかければそれなりの額にはなる。
玲司は椅子の背にもたれて天井を見た。
やる気がどうしても湧いてこない。
金の問題ではなかった。むしろこういう案件は放っておいても入ってくる。玲司は吉川総合に八年いた。刑事も企業案件も、来る仕事は全部こなした。腕は認められていた。独立するとき、吉川の代表は「いつでも仕事は回す」と言った。その言葉どおり企業案件は途切れることなく回ってくる。
だから食うには困っていない。困ってはいないのだ。
窓の外に目をやると、三月の薄曇りの空が広がっていた。自分の事務所を構えて二年になる。独立したとき思い描いていた仕事は、こういうものではなかった。契約書の一条一項をめぐって大企業の代理人同士が何ヶ月も書面を撃ち合う。それが悪いとは言わない。だが玲司が弁護士になったのは、そのためではなかった。
思ったような依頼は来ない。本当にやりたい種類の仕事は、向こうからはやって来なかった。
電話が鳴った。書類の山越しに受話器を取る。
「はい、黒崎法律事務所」
『玲司か』
その声を玲司は一瞬で聞き分けた。低く掠れて、それでいて芯のある声。
「先生」
『明日、うちに来い。昼過ぎでいい』
神崎弁護士だった。玲司の恩師である。
「何かありましたか」
『来ればわかる』
それだけ言って電話は切れた。玲司は受話器を戻し、しばらく黙ってそれを見ていた。神崎が用件を先に言わないのはいつものことだ。人に会って、顔を見て話す。電話は好かんと昔から言っていた。
机の上の企業案件の書類を脇へ寄せると、ほんの少し気持ちが軽くなった。
*
翌日、玲司は神崎法律事務所を訪ねた。
東京の東のはずれ、下町の一角にある木造モルタルの二階建て。看板は油の染みた飴色をしている。「神崎法律事務所」の文字は、玲司が修習生だった頃から一度も塗り替えられていない。
引き戸を開けると、奥から声がした。
「先生、いらっしゃいました」
女の声だった。事務机に向かっていた女がこちらを見た。二十八くらい。髪をひとつに結んで化粧気はほとんどない。机の上には書類の束と、開かれたノートパソコン。画面には表計算のセルがびっしりと並んでいた。
神崎美咲。神崎のひとり娘だった。
玲司は何度か会っている。この事務所を実務の面から支えているのが彼女だということも知っていた。ただ、こうして机に向かう姿を見るたびに少し不思議に思う。彼女の経歴を神崎から聞いたことがあるからだ。
「奥にいます」美咲は目だけで奥の部屋を示した。「どうぞ」
玲司は靴を脱ぎ、上がり框を越えた。奥の座敷に神崎はいた。座卓の前に胡座をかいて湯呑みを両手で包んでいる。七十を過ぎて体はひと回り小さくなったように見えた。それでも目の光だけは変わらない。
「座れ」
玲司は向かいに腰を下ろした。
神崎はしばらく茶を啜っていた。それから湯呑みを置いた。
「俺は辞める」
玲司は言葉の意味を捉えそこねた。
「辞める、というのは」
「弁護士を辞める。ここも畳む」
神崎は事務所の天井を見上げた。
「もう体がついてこん。接見に一度行くだけで三日は寝込む。依頼人に迷惑をかける。それが、いちばんやってはいかんことだ」
「先生」
「それでな、玲司」神崎は玲司の目を見た。「俺の客を、お前に引き受けてもらいたい」
玲司は黙って次の言葉を待った。
「事務所は畳む。看板は下ろす。だが、いま抱えている依頼人が、まだ何人か残っている。これから来るかもしれん連中もいる。ここに来るのは金のない奴が多い。腕のいい弁護士なら他にいくらでもいる。だが、あいつらは他所へは行けん。行っても門前払いされる。俺が診てきたのは、そういう連中だ」
神崎は湯呑みを持ち上げ、また置いた。
「その連中を、お前の事務所で引き受けてくれんか」
「……なぜ、俺なんですか」玲司は言った。「先生の客なら、もっと相応しい弁護士が――」
「お前が、いちばん要領が悪いからだ」
玲司は返す言葉を探した。
「試験に四回かかった弁護士なんぞ他におらん。司法書士から回り道して、時間をかけて、やっとここまで来た。天才ではない。だが、お前は崩れん男だ」
神崎はまた湯呑みを持ち上げた。
「ラグビーをやっていたな」
「……ええ。大学で」
「ポジションは」
「ナンバーエイトです」
「そうか」神崎は頷いた。「押し込まれても最後まで立っている位置だ。お前は、そういう弁護士になる。派手ではない。だが、依頼人がいちばん苦しいところで、そばに立っていられる」
玲司はうつむいて畳の目を見ていた。大手から回ってくる、あの企業案件の書類の山が頭をよぎった。金にはなる。だが、あの山の前で気持ちはいつも重かった。
いま恩師が譲ろうとしているのは、金にならない客だ。それなのに胸のどこかが静かに熱くなっていた。
「もう一つ、頼みがある」
神崎は襖のほうへ声を向けた。
「美咲」
しばらくして襖が開いた。美咲が茶を運んできて、玲司の前に湯呑みを置く。
「あれを、お前の事務所で使ってやってくれんか」神崎は娘のほうを見ずに言った。「事務のことは、あれに任せておけば間違いない。俺の代わりに、この事務所を回してきたのは、あれだ」
玲司は美咲を見た。美咲は無表情のまま玲司の視線を受け止めた。
「君は」玲司は言った。「他に、いくらでも働き口があるだろう」
それは本心だった。美咲はただのパラリーガルではない。海外で会計を学び、USCPA――米国公認会計士の資格を持っている。大手の監査法人でも企業の法務部でも、望めば行ける人間だった。それが、なぜこの畳の擦り切れた事務所に。そして今度は、玲司のあの狭い事務所に。
「私は」少しの間があって、美咲は言った。「父の客を途中で放り出すのが嫌なだけです」
「それは――」
「父が残したものを私まで捨てたら、意味がないので」
それだけ言うと、彼女はまた事務机のほうへ戻っていった。
神崎はそのやり取りを黙って見ていた。玲司が娘の背中を見送っていると、ぽつりと言った。
「あれのことは、あまり詮索するな」
「先生」
「いつか、あれが自分で話す。話す気になったらな。それまでは、そっとしておけ」
玲司は頷くしかなかった。
*
帰りぎわ、神崎は事務所の裏手へ玲司を連れていった。
そこに古い大型のミニバンが停めてあった。白い車体はところどころ塗装が剥げかけている。走行距離のメーターは十五万キロを超えていた。神崎はその鍵を玲司に差し出した。
「これも持っていけ」
「先生、車まで――」
「使わんと、ただ錆びる」神崎は車体を撫でた。「これでな、方々を回ったんだ。拘置所、裁判所、依頼人の家。事務所で待っていても、あいつらは来ん。来られん事情があるんだ。こっちから行くんだ。後ろの席が、俺の事務所だった」
玲司は後部座席を覗き込んだ。シートの背に、書類ばさみを差し込むための手製の帆布ポケットが取り付けられていた。神崎の手仕事だろう。中から古い紙と、かすかな煙草の匂いがした。神崎はもう何十年も煙草をやめているはずだ。それでも匂いは染みついていた。
「その車で、これからお前が回る」
神崎はそれだけ言うと事務所の中へ戻っていった。玄関で美咲が父を迎えた。父と娘は特に言葉を交わさなかった。ただ美咲が一度、深く頭を下げた。それだけだった。
*
その翌週、玲司は博多へ向かった。
月に一度、新幹線でこの街へ来る。娘に会うためだった。
沙也香は五歳になっていた。玲司と別れた妻の由起子は、この街の生まれだ。老舗の洋菓子店のひとり娘で、玲司とは高校の同級生だった。玲司が東京の大学へ、由起子が博多の実家に残って、遠距離のまま何年も続けて、それから結婚した。由起子は東京へ出てきた。
東京で、由起子には友達がいなかった。頼れる身内もそばにいなかった。玲司は吉川総合の仕事に追われて家にいなかった。沙也香が生まれてからも帰りは日付が変わってからだ。休日も事務所にいた。それが家族のためだと本気で思っていた。
由起子はひとりで沙也香を育てた。ワンオペという言葉を、玲司は離婚の話し合いの席で初めて知った。二年前のことだ。沙也香はまだ三歳だった。
由起子は沙也香を連れて博多の実家に帰った。もともとパティシエだった。父の店で菓子を作っていた女だ。だから帰る場所ははっきりとあった。実家の店で、また父の隣に立った。沙也香は由起子とその母が育てている。
玲司が独立して大手を辞めたのは、その少し後だった。もう間に合わなかった。
その日、玲司は駅前の公園で沙也香と二時間を過ごした。滑り台を何度も滑った。沙也香は玲司のことを「パパ」と呼ぶ。だが、その呼び方には、どこか遠くの誰かに呼びかけるような響きがあった。聞くたびに胸のどこかが静かに軋んだ。
夕方、由起子の母が沙也香を迎えに来た。玲司は頭を下げた。由起子の母も頭を下げた。多くは話さなかった。沙也香は祖母の手を引かれて帰っていった。一度だけ振り返って小さく手を振った。玲司も手を振り返した。
*
新幹線まではまだ時間があった。
玲司はなんとなく、その道を歩いた。通らなくてもいい道だ。少し遠回りになる。それでも足はそちらへ向かった。
由起子の店は通りの角にあった。ガラス張りの店先にあたたかい色の照明が灯っている。ショーケースの中で苺のタルトやモンブランが行儀よく並んでいた。
その奥に白いコックコートの由起子がいた。盆に焼き菓子を並べている。手際がいい。玲司の知らない二年のあいだに、由起子はこの店にすっかり馴染んでいた。彼女の足元に小さな影がある。沙也香だ。ショーケースの縁に顎を乗せてケーキを見ている。由起子が何か言うと、沙也香が笑った。
ガラス越しには声は届かない。
あたたかそうだった、ガラスの内側は。玲司の立っている側は、ただ三月の風が吹いていた。
入れば迎えてくれるだろう。由起子は、そういう女だ。恨みごとを言うより茶の一杯でも出す。沙也香も喜ぶかもしれない。だが玲司は動かなかった。あの輪の中に入っていく資格は、まだない。壊したのは自分だった。
沙也香がふと顔を上げて窓のほうを見た。
玲司は体を引いた。ショーケースの照明の届かない暗がりのほうへ。それから背を向けて駅へ歩き出した。
新幹線の窓に、博多の灯が後ろへ流れていった。玲司は缶コーヒーを両手で包んでいた。東京へ帰る。誰も待っていない自分の部屋へ。
だが、いまは待っているものがあった。恩師から引き継いだ客たちだ。金にはならない。それでも玲司の胸は、あの企業案件の書類を前にしたときのようには重くなかった。
*
こうして玲司の狭い事務所に、神崎の客と娘と車が流れ込んできた。
美咲はその週のうちに、当たり前のように玲司の事務所に机を並べた。狭い部屋がいっそう狭くなった。だが彼女が来てから、事務所は目に見えて回り始めた。書類の期限。裁判所への提出。依頼人への連絡。玲司が一人で取りこぼしていたものを、美咲は静かに拾っていった。
最初の依頼人が来たのは、それから四日後のことだった。
河合杏奈。二十一歳。
彼女は詐欺の共犯として逮捕され、いまは釈放されているが、起訴されるかどうかの瀬戸際にいた。付き添いの者もなく、ひとりで事務所の引き戸を開けた。安っぽいパーカーの袖口が、糸がほつれて伸びていた。
「あの……お金は、あんまりないんですけど」
それが彼女の第一声だった。
神崎の紹介だった。杏奈は神崎の事務所を訪ね、そこで玲司のことを聞いたという。「その事件は、あの男に頼め」。神崎はそう言ったらしい。玲司は、恩師から引き継いだ最初の客がこの娘であることを知った。
話を聞いた。杏奈はSNSで知り合った男に頼まれて、あることをしただけだと言った。指定された住所へ行き、届いた荷物を受け取り、別の場所へ運ぶ。それだけで一回三千円がもらえた。
「荷物の中身は」玲司は訊いた。
「知りません。開けちゃダメって言われてたから」
その荷物を受け取る役が、詐欺でだまし取った金品を回収する、いわゆる「受け子」だった。杏奈はそれを知らずに、五回荷物を運んでいた。
証拠は揃っていた。防犯カメラに彼女の姿が映っている。スマートフォンには指示役とのやり取りが残っている。被害者の供述もある。誰が見ても有罪の絵だった。
玲司は腕を組んだ。
勝ち目の薄い事件だ。金にもならない。断るのが、事務所を回すうえでは正しい判断だろう。だが玲司の頭に、あの企業案件の書類の山が浮かんだ。あれを一件やれば、この娘の事件の百件ぶんの報酬になる。それでも、あの山の前で胸はいつも重かった。
この娘の前では重くない。それが玲司にはわかった。
「河合さん」玲司は口を開いた。「これは正直に言うと――」
「先生」
声を挟んだのは美咲だった。彼女はいつのまにか、杏奈の提出した資料――被害額の一覧や口座の記録のコピー――に目を通していた。
「これ、数字が合いません」
玲司は美咲を見た。
「合わない、とは」
「河合さんが受け取ったのは、五回で一万五千円です」美咲は資料の一点を指した。「でも、この事件で動いたお金は、被害総額で四千二百万円になっています」
「それは……間に何人も入っているんだろう。受け子は末端だ」
「ええ。でも」美咲は別の紙を引き寄せた。「その末端の受け子に、被害額の全部の罪をかぶせるのが、この事件の筋書きになっています。指示役はまだ捕まっていない。河合さんが、いちばん重く問われる位置に置かれています」
美咲は顔を上げて玲司を見た。
「この子は主犯じゃありません。駒です。それも、いちばん都合よく使い捨てられる場所に置かれた駒です」
玲司は杏奈を見た。杏奈は、話の意味が半分も分かっていないような顔で、湯呑みを両手で握っていた。その手が少し震えていた。
玲司の中で何かが決まった。それは算盤の答えではなかった。
「河合さん」玲司は言った。「うちでやります」
杏奈が顔を上げた。
「でも、お金……」
「後でいい」玲司は言った。「今は事件のことだけ考えましょう」
*
それから一週間、玲司はあの古い車で走り回った。
運転席に杏奈。後部座席が玲司の場所だった。神崎の遺した帆布ポケットに事件のファイルが差してある。恩師の言葉どおり、後ろの席がそのまま事務所になっていた。玲司は走る車の中で資料を読み、片手にスマートフォンを握っていた。
美咲は事務所にいた。
彼女は動かない。机に帳簿と口座の記録を広げ、パソコンの画面に数字を並べていく。玲司が現場で拾ってきたものを、事務所で待ち構えて捌く。そして次に玲司が何をすべきかを、先回りして告げる。玲司はその指示で動いた。
「先生、いまどこです」電話口で美咲が言った。
「南署を出たところだ」
「なら、その足で東邦銀行の中央支店へ。河合さんの振込元の口座が、そこで開かれています。窓口の防犯カメラの保存期間を確認してきてください。あと三日で消えます」
「三日」
「ええ。急いで。それが済んだら、次は被害者の高田さんです。アポは取っておきました。四時にご自宅で。住所はいま送ります」
玲司は思わず聞いた。
「……よく、そこまで手が回るな」
「先生があちこち忘れるからです」美咲は静かに言った。「先生は走ってください。段取りはこっちでやります」
電話が切れた。スマートフォンを見ると、もう次の住所が届いていた。
「杏奈さん」玲司は言った。「東邦銀行の中央支店だ」
「はい」杏奈はハンドルを切った。「三分早い道があります」
拘置所、裁判所、証人の家、警察署。玲司は飛び回った。行く先々で美咲から電話が入る。あるいは玲司からかける。手に入れた書類はその場で写真に撮って送る。すると事務所の美咲がそれを読んで、次の一手を返してくる。
二人で一つの事務所だった。玲司が手足で、美咲が頭だ。
三日目の夜、事務所に戻ると、美咲が机から顔を上げた。
「先生。この事件、受け子は河合さんだけじゃありません」
玲司はコートも脱がずに机の前に立った。
「他にもいるのか」
「同じ手口で荷物を運んだ子が、少なくともあと三人。全員SNSで集められた、二十歳前後の子です。全員、指示役の名前も顔も知らない」美咲は画面を玲司のほうへ向けた。口座の記録が線でつながれていた。「二人はもう起訴されました。有罪です。一人は――行方が分かりません」
玲司はその画面を見た。
使い捨ての駒が四人。そのうち二人は、もう有罪の判決を受けた。指示役はいまだに捕まらず、金だけがどこかへ流れていった。杏奈は、その五人目になるところだった。
「勝てますか」美咲が言った。
玲司は答えた。
「勝つとか負けるとかじゃない。この子が被害額の全部をかぶるのは間違ってる。それを証明する。それだけだ」
「なら」美咲は一枚の紙を玲司の前に置いた。「これを使ってください。振込金額の一覧です。河合さんが受け取った額と、動いた総額の差。桁が三つ違います。裁判官に見せるなら、言葉よりこの紙が効きます」
玲司はその紙を手に取った。美咲は、玲司が法廷で何を必要とするかまで、すでに用意していた。
*
法廷で玲司は大演説をしなかった。
弁護人席に立ち、ただ一枚ずつ記録を積み上げていった。
防犯カメラの時刻。杏奈が荷物を受け取った時間と、被害者が金を騙し取られた時間のずれ。杏奈のスマートフォンに残された指示のメッセージが、いずれも「中身を知らせない」形で書かれていたこと。杏奈の口座に振り込まれた金額が、五回で一万五千円――被害総額の三千分の一にも満たないこと。
検察は杏奈を詐欺グループの一員として描こうとした。玲司はその筋書きを正面から崩しには行かなかった。ただ、一つずつ事実を置いていった。この子は何を知っていたか。何を知らされていなかったか。いくら受け取ったか。
「被告人は」玲司は最後に言った。「たしかに荷物を運びました。それは事実です。弁解の余地はありません。しかし被告人は、自分が何を運んでいるのかを知らされないままでした。一回三千円で。この金額が、詐欺グループの一員が受け取る金額でしょうか。それとも、事情を知らされずに使われた末端の子どもが受け取る金額でしょうか」
玲司は証拠の記録を裁判官の前に置いた。
「使い捨ての駒でした。それも、いちばん罪を着せやすい場所に置かれた駒です。この子に四千二百万円の罪を背負わせて、本当の指示役を、このまま逃がすのですか」
法廷は静かだった。
押し込まれても最後まで立っている。ナンバーエイトの位置。玲司は崩れなかった。
*
判決は執行猶予つきの軽い量刑にとどまった。実質的には玲司の主張が大筋で認められた形だった。杏奈が詐欺グループの主体ではなく、事情を知らされずに使われた末端であること。それが判決の中に、はっきりと書き込まれた。
だが玲司は勝った気がしなかった。
指示役はまだ捕まっていない。金はどこかへ消えたままだ。杏奈を無罪に近づけたことで、かえって本当の黒幕が追及を免れたのかもしれない。玲司は判決の後も長くそのことを考えていた。
事務所に戻ると、杏奈が待っていた。
「先生、ありがとうございました」
彼女は深く頭を下げた。パーカーのほつれた袖口が目に入った。
「でも私、やっぱりお金は払えないです」杏奈はうつむいた。「本当に、すみません」
「河合さん」玲司は言った。「これからどうするの」
杏奈は答えなかった。玲司には、その沈黙の意味がわかった。彼女には帰る場所がなかった。あの詐欺グループに引き込まれたのも、頼れる相手が誰もいなかったからだ。ここで放り出せば、また同じような場所に戻っていく。使い捨てにされる場所に。
そのとき、美咲が事務机から顔を上げた。
「先生」
「何だ」
「この事務所、これから方々を回りますよね。拘置所、裁判所、依頼人の家。先生ひとりで運転していたら、書類の整理も電話の応対も回りません。かといって、運転代行を毎回頼んだら、月にけっこうな額になります」
美咲は電卓を叩いて、画面を玲司のほうへ向けた。
「これだけかかります」
玲司はその数字を見た。たしかに痛い額だった。
「河合さん」美咲は杏奈のほうを見た。「あなた、車の運転は」
「え……」杏奈は戸惑った。「できます。免許はあります。荷物を運ぶ仕事をしてたから、運転だけは得意で」
美咲は玲司を見た。
「運転代行を頼むより安く済みます。それに、この子は運転ができる。うちで雇いませんか」
玲司は美咲の顔を見た。彼女の言い方は、あくまで実務的だった。損得の話をしている。運転代行のコストと、人ひとりの人件費を天秤にかけている。
だが玲司にはわかった。美咲はこの子を拾おうとしている。数字の話にくるんで。父の客を放り出すのが嫌だと言った、あの女だ。
「河合さん」玲司は言った。「うちで働かないか。運転手として。給料は多くは出せない。でも、帰る場所と飯は保証する」
杏奈は顔を上げた。目が赤くなっていた。
「いいんですか。私、あんなことして、捕まって……」
「済んだことだ」玲司は言った。「これからのことを話そう」
*
こうして玲司の狭い事務所に、三人目が加わった。
事務所には美咲がいる。机に帳簿を広げ、電話を受け、段取りを組む。動かない要だった。車には杏奈と玲司。運転席に杏奈、後部座席が玲司の仕事場だ。美咲の指示が電話で飛んでくると車が走り出す。神崎の遺した帆布ポケットに、次の依頼人のファイルが差してある。古い車は下町の細い道をゆっくりと走っていく。
「先生」ある夕方、車を走らせながら杏奈が言った。「この車、古いですよね」
「ああ」
「でも、なんか落ち着くんです。座ってると」
玲司は後部座席で書類から目を上げ、窓の外を見た。神崎の匂いの染みついたこの車と、美咲の待つ事務所。二つで一つの城だった。いつのまにか三人が、そこに収まっていた。
その夜、事務所に戻ると、机の上に、神崎が届けさせた古い書類箱があった。恩師から引き継いだ依頼人たちの記録だ。玲司は事件の合間に、少しずつその中身を整理していた。何十年ぶんの事件の記録。神崎が診てきた、他所へは行けなかった連中の記録だった。
その箱の底に、一枚のメモが挟まっていた。
神崎の癖のある字だった。
『玲司へ。 弁護士は金を稼ぐ仕事じゃない。人が最後に辿り着く場所だ。 お前にそれが分かる日が来ることを、俺は知っている。』
玲司はそのメモをしばらく見ていた。それから丁寧に畳んで、胸のポケットにしまった。
ふと、博多のあの店のガラスを思い出した。あたたかい色をした内側を。いつか、あの扉を胸を張って開ける日が来るだろうか。今日引き受けた金にならない客たちの向こうに、その日があるような気がした。
窓の外で、下町の街灯がひとつ、またひとつ灯っていった。
(第一話 了)
つづく


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