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機動弁護士 黒崎玲司:第二話 三分の遅刻


機動弁護士 黒崎玲司

第二話 三分の遅刻

 その老人は、絵本を一冊盗んだだけだった。

 東署から連絡を受けたのは火曜の朝だった。当番弁護士の要請。窃盗の被疑者が弁護士を頼みたいと言っている。名前は木村修三。七十四歳。

「万引きですか」玲司は受話器を耳に当てたまま、机の書類を目で追っていた。

『そうなんですがね』電話の向こうの署員は少し言い淀んだ。『盗ったのが絵本一冊なんですよ。八百円の。それで本人が、どうしても弁護士を、と』

 玲司は手を止めた。

 八百円の絵本を万引きした老人が、わざわざ弁護士を呼ぶ。割に合わない。金にもならない。だが玲司の事務所に来るのは、たいてい、そういう依頼だった。

「行きます」玲司は言った。

 受話器を置くと、事務机の美咲がこちらを見ていた。

「東署です。窃盗の当番」

「金額は」

「八百円。絵本一冊」

 美咲はしばらく玲司の顔を見ていた。それからパソコンに向き直った。

「接見は九時からの枠が空いています。いま八時四十分。東署までこの時間なら十五分。九時に間に合わせるなら、いま出てください」

「わかってる」

「先生」美咲は画面を見たまま言った。「わかってる、と言うときの先生は、たいてい何か忘れています」

 玲司はコートを羽織る手を止めた。

「今日は忘れてない」

「昨日の、高田さんへの折り返しの電話は」

 玲司は口をつぐんだ。

「……今日、かける」

「もう私がかけました」美咲はマウスを動かした。「先生は接見に集中してください。段取りはこっちでやります」

 東署の接見室で、玲司は木村修三と向き合った。

 アクリル板の向こうに座った老人は小柄で、背が丸かった。灰色のカーディガンの袖口が少し毛羽立っている。膝の上で組んだ両手が、時々かすかに震えていた。

「弁護士の黒崎です」玲司は言った。「木村さん。何があったか、話してもらえますか」

 木村はうつむいたまま、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。

「情けない話です」

「情けない話を聞くのが、私の仕事です」

 木村は顔を上げた。皺の深い目が玲司を見た。

「本屋で、絵本を一冊」木村は言った。「ポケットに入れました。レジを通さずに」

「なぜ」

「孫に、やりたくて」

 木村の声が少し掠れた。

「孫は五歳です。来月、誕生日で。その子が前に本屋で、その絵本をじっと見ていたんです。光る汽車の出てくる絵本で。欲しそうに。でも私には、買う金がなかった」

 玲司は机の上で手を組んだ。

「年金は」

 木村はまたうつむいた。

「息子が管理してます」

「管理」

「私の口座も、通帳も、印鑑も。全部、息子が持ってます。私には月に、三千円だけ渡されます」木村の指がまた震えた。「小遣いだと。七十四にもなって、小遣いですよ」

 玲司はその手の震えを見ていた。

「三千円で、ひと月を」

「食う物は、息子の嫁がまあ、出してくれます。だから飢えてはいません。ただ、自分の金は一円もない。孫に絵本の一冊も買ってやれない」木村は笑おうとして、失敗した。「それが情けなくて」

 接見室は静かだった。玲司はしばらく何も言わなかった。

 この老人は絵本を盗んだ。それは事実だ。弁解の余地はない。だが玲司は、盗んだ絵本のことより、この老人がなぜ絵本一冊を盗まねばならなかったのかを考えていた。

「木村さん」玲司は言った。「その年金は、あなたの金です。息子さんのものじゃない」

 木村は驚いたように玲司を見た。

「もう一つ聞かせてください。あなたの年金は、月にいくら入りますか」

「さあ」木村は首を振った。「通帳を見せてもらえないので。分かりません」

 玲司はその答えを、頭の隅に留めた。

 事務所に戻ると、玲司はその話を美咲と杏奈にした。

「三千円」杏奈が目を丸くした。「ひと月で、ですか」

「そうだ」

「ひどい」杏奈は頬を膨らませた。「絵本の一冊くらい、買わせてあげればいいのに」

 美咲は黙って何か考えていた。それから口を開いた。

「先生。木村さんの年金の額は」

「本人も知らない。息子が通帳を握ってる」

「基礎年金だけでも、満額なら月に六万五千円ほど。厚生年金があれば、もっと」美咲はペンを手に取った。「木村さんが会社勤めだったなら、合わせて月に十数万円は入っているはずです。それが本人には、三千円しか渡されていない」

「差額は、息子が」

「使っているとすれば」美咲の目が少し鋭くなった。「これは万引きの話じゃありません。もっと大きな話です」

 玲司は美咲を見た。

「経済的虐待、という言葉があります」美咲は言った。「高齢者虐待防止法。親の年金を、子が本人の意思に反して使い込む。立派な虐待です」

「立証できるか」

「通帳の入出金を見れば一目です。年金が入った日に、同じ額が引き出されているか。何に使われているか」美咲はパソコンを引き寄せた。「でも通帳は息子が握っている。まず、それをどうにかしないと」

「先生」杏奈が身を乗り出した。「その息子、許せなくないですか。おじいちゃんからお金巻き上げて」

「杏奈さん」美咲が静かに言った。「許せる許せないは、後です。まず事実を押さえる。感情で動くと、足をすくわれます」

 杏奈は口をとがらせた。

「美咲さん、いつも冷静ですよね」

「冷静じゃないと、この事務所は回りません」美咲はちらりと玲司を見た。「特に、頭の上に忘れっぽいのが一人いるので」

「聞こえてるぞ」玲司は言った。

「聞こえるように言いました」

 杏奈が吹き出した。玲司はコートを椅子の背にかけて、小さく息をついた。この事務所では、玲司はいつも二人に一言も勝てない。

 その日から玲司は、あの古い車で走り回った。

 運転席に杏奈。後部座席が玲司の場所だった。木村修三の事件は、単純な万引きから、家族の中の搾取の話へと姿を変えつつあった。

 玲司はまず、木村の身元引受人になっている息子の木村健一に会いに行った。健一は四十代半ばの、くたびれた男だった。中小の建設会社に勤めている。玲司が経済的虐待の話を持ち出すと、健一は目を吊り上げた。

「虐待? 冗談じゃない」健一は吐き捨てた。「こっちは、あの親父を食わせてやってるんだ。年金なんか雀の涙だ。俺が面倒を見てやってる」

「年金の額を教えてもらえますか」

「そんなもん、あんたに言う筋合いはない」

 玲司はそれ以上押さなかった。健一の顔に浮かんだ後ろめたさの影を、見て取っていた。この男は何かを隠している。

 車に戻ると、玲司はスマートフォンで美咲を呼び出した。

「健一は、通帳を見せる気はない。だが隠してることがある。顔に出てた」

『でしょうね』電話口で美咲が言った。『先生、木村さんの年金がどこの銀行に振り込まれているか、分かりますか』

「本人に聞いた。みずうみ銀行の東支店だ」

『なら、そこを起点に追えます。木村さん本人の委任があれば、弁護士会照会で取引履歴を取れます。委任状は私が用意します。次の接見で、判をもらってきてください』

「わかった」

『それと先生。健一さんの勤め先、さっき調べました。半年前に、給料が二割カットされています。会社の業績が傾いている』美咲の声は淡々としていた。『お金に困っているんです。だから親の年金に手をつけた。悪人というより、追い詰められた人間かもしれません』

 玲司は後部座席で、窓の外を見た。

「それでも、やっていいことじゃない」

『ええ。やっていいことじゃありません』美咲は言った。『でも、なぜそうなったかを分かっておくと、解き方が変わります。健一さんをただ悪人として追い詰めても、木村さんは幸せになりません。親子ですから』

 玲司は少し黙った。

「お前は、時々、弁護士みたいなことを言うな」

 電話の向こうが一瞬、静かになった。

『……パラリーガルです、私は』

 美咲はそれだけ言って、電話を切った。玲司は切れたスマートフォンをしばらく見ていた。いまのは何だったのだろう。だが、その違和感を深く考える前に、車は次の目的地に着いていた。

 弁護士会照会で取り寄せた、みずうみ銀行の取引履歴は、美咲の読み通りだった。

 木村修三の口座には、毎月十五日に年金が振り込まれていた。基礎年金と厚生年金を合わせて、月に十四万二千円。木村が会社勤めを勤め上げた、その報酬だった。

 そして年金が振り込まれた、まさにその日に、ほぼ同額が引き出されていた。残るのはわずかな端数だけ。木村本人に渡される、三千円だけ。

「きれいなものです」美咲は事務所の机で、記録を指した。「入った日に出ていく。木村さんの手元には何も残らない。引き出しているのは、健一さんの口座と同じ支店のATM。時間帯も、健一さんの通勤時間と重なります」

 杏奈が記録を覗き込んだ。

「これ、証拠になるんですか」

「なります」美咲は言った。「でも私たちの目的は、健一さんを刑務所に送ることじゃありません」

「じゃあ、何を」玲司は言った。

 美咲は顔を上げた。

「木村さんの年金を、木村さんの手に取り戻すこと。それと、木村さんの万引きを、なかったことにすること。この二つです」

 玲司は頷いた。それが、この事務所の仕事だった。誰かを罰することではなく、目の前の依頼人を、少しだけまっとうな場所に戻すこと。

 木村修三の窃盗の審理の日が来た。

 玲司は法廷で、大演説はしなかった。

 木村が絵本を一冊盗んだこと。それは事実として認めた。弁解しなかった。そのうえで、玲司は一枚ずつ記録を積み上げていった。

 木村の年金が月に十四万二千円であること。そのほぼ全額が、本人の意思とは関わりなく引き出されていること。木村本人に渡されるのが、月に三千円だけであること。この老人が、孫に絵本を買ってやる八百円すら、自由にできなかったこと。

「被告人はたしかに、絵本を盗みました」玲司は最後に言った。「しかし被告人が盗んだのは、自分の年金で、本来ならいくらでも買えたはずの、一冊の絵本でした。被告人の手元には、月に三千円しかありませんでした。その金がどこへ消えたのか。それは、この法廷が裁くべき、別の問題です」

 玲司は証拠の記録を、裁判官の前に置いた。

「この老人を万引き犯として罰することは、簡単です。しかし、この老人から絵本一冊を盗ませたものが何だったのか。そこを見ずに罰だけを与えるのは、法の仕事ではないはずです」

 法廷は静かだった。

 木村修三には起訴猶予の判断が下された。前科はつかなかった。

 事件が終わって、しばらく後のことだった。

 美咲が木村の件を、地域の高齢者福祉の窓口と成年後見の制度につないだ。木村の年金は、これから第三者の後見人が管理する。息子の健一が勝手に引き出すことは、もうできない。健一は経済的虐待として通報されることは免れた。そのかわり、これまで使い込んだ分を、少しずつ親に返していくことになった。

 健一は玲司の事務所に、一度だけ頭を下げに来た。

「親父を、刑務所に送らないでくれて」健一はそう言いかけて、口ごもった。「いや……俺のことも、通報しないでくれて」

「あなたを追い詰めるのが、目的じゃなかった」玲司は言った。「木村さんが、孫に絵本を買えるように。それだけです」

 健一はしばらく黙っていた。それから、小さく言った。

「あの絵本、結局、俺が買いました。親父から、孫に」

 玲司は少し驚いて健一を見た。

「光る汽車の絵本です」健一は目をそらした。「親父が盗もうとしたやつ。八百円の」

 玲司は何も言わなかった。だが、その健一の背中を、悪人のものだとは思わなかった。追い詰められた男が、それでも最後に一つだけ、まっとうなことをした。それだけの話だった。

 その夜、事務所に戻ると、杏奈が玲司に報告があると言った。

「先生。わたし、簿記の本、買いました」杏奈は少し照れたように、テキストを掲げた。「運転の待ち時間に、勉強しようかと。美咲さんが数字のこと、いつもすごくて。わたしも少し、分かるようになりたくて」

 玲司はそのテキストを見た。まだ真新しい、初級の簿記の教科書だった。

「いいな」玲司は言った。「やってみろ」

「わたしにも、できますかね」杏奈はテキストを胸に抱えた。「わたし、頭、良くないから」

「頭の良し悪しじゃない」玲司は言った。「続けられるかどうかだ」

 美咲が事務机から顔を上げた。

「杏奈さん」美咲は言った。「その本の最初の三十ページ、来週までにやってきてください。分からないところは、私が見ます」

 杏奈の顔が、ぱっと明るくなった。

「はい」

 玲司はその二人を見ていた。使い捨てられていた娘が、この事務所で何かを学ぼうとしている。それを、司令塔の美咲が静かに引き受けている。玲司はコートを椅子にかけながら、少しだけいい気分になった。

「先生」美咲がこちらを見た。「何を、にやにやしているんですか」

「にやにやなんか、してない」

「していました」杏奈が言った。「先生、分かりやすいです」

「弁護士は、細かいことは気にしない」

「また、それ」美咲がため息をついた。「その台詞、今月で四回目です」

「数えてるのか」

「数えたくなくても、耳に入ります」

 杏奈が吹き出した。玲司はまた、二人に負けた。

 窓の外で、下町の街灯がひとつ、またひとつ灯っていった。木村修三は今頃、孫にあの光る汽車の絵本を読んでやっているだろうか。玲司はふと、博多の沙也香のことを思った。あの子に最後に絵本を読んでやったのは、いつだったか。思い出せなかった。それが少しだけ、胸に刺さった。

(第二話 了)











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