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機動弁護士 黒崎玲司第三話 嘘つきの証言

機動弁護士 黒崎玲司

第三話 嘘つきの証言

 その証言は、あまりになめらかすぎた。

 依頼人の名は坂口達也。二十六歳の居酒屋店員だ。傷害の容疑で起訴されていた。店の前の路上で客を殴り、全治二週間の怪我を負わせた――というのが検察の描く筋書きだった。

 坂口はやっていないと言う。

「たしかに口論にはなりました」接見室で坂口は玲司に言った。「酔った客が、店の女の子にしつこく絡んで。俺が止めに入って、押し合いにはなりました。でも殴ってない。殴ったのは向こうです。俺は突き飛ばされて、それだけで」

 玲司は記録を見ていた。

 問題は目撃証言だった。事件を見ていたという男が一人いる。名前は宮田。事件の夜、たまたま店の前を通りかかった通行人だ。その宮田が、坂口が客を一方的に殴るのを見たと証言している。

 その証言が決め手になっていた。

「宮田という男を知ってるか」玲司は聞いた。

「いえ」坂口は首を振った。「まったく。見たこともない人です」

 玲司は宮田の供述調書を、もう一度読んだ。

 時刻。位置。坂口が振り上げた右手。客が倒れた方向。宮田の証言は細部まで、驚くほど正確だった。まるでその場面を、何度も繰り返し見たかのように。

 玲司はその正確さに引っかかった。

 人の記憶はそんなにきれいではない。とっさに目撃した暴力の場面を、時刻から手の動きまで淀みなく語れる人間は多くない。本当に偶然通りかかっただけなら、もっと曖昧なはずだ。あやふやで、矛盾があって当たり前だ。

 なめらかすぎる証言は、作られた証言かもしれない。

 事務所に戻ると、玲司は宮田の調書を美咲に見せた。

 美咲はそれを時間をかけて読んだ。読み終えると顔を上げた。

「作り話ですね、これ」

 玲司は少し驚いた。

「なぜ、そう思う」

「きれいすぎます」美咲は調書の一点を指した。「本当の目撃証言には、必ず余計なものが混じります。関係ない音とか、匂いとか、その時に考えていたこととか。人の記憶は、事件だけを切り取って覚えていたりしません。でも、この証言には事件に関係することしか書かれていない。まるで台本みたいです」

 玲司はその指摘を聞いていた。それは玲司が漠然と感じていたことを、はっきり言葉にしていた。

「それに」美咲は続けた。「この宮田という人、事件の夜になぜそこを通りかかったのか、供述の中で一度も説明していません。どこから来て、どこへ行く途中だったのか。普通は聞かれます。でも、その部分だけ記録がすっぽり抜けている」

「警察が聞かなかったのか」

「聞いたけど答えられなかった。あるいは、答えを書けなかった。どちらにしても」美咲は調書を置いた。「この人が本当に偶然の通行人だったのか。そこを洗う価値があります」

 玲司は頷いた。

「宮田を調べる」

「先生」美咲は言った。「宮田さんの背景を洗うのは私がやります。先生は坂口さんの店の、あの夜のことを、もう一度現場で。防犯カメラがどこかにないか。事件を見ていた別の人間がいないか」

「わかった」

「それと」美咲は少し間を置いた。「坂口さんと被害者の客。二人の間に本当に何もなかったのか。宮田さんが嘘をついているなら、誰かが宮田さんに嘘をつかせている。その誰かを探さないと」

 玲司は美咲を見た。

 彼女の言っていることは、パラリーガルの事務の範囲を超えていた。証言の分析。事件の構造の読み。それは弁護士が法廷戦略を組み立てるときの思考だった。

「お前」玲司は言いかけた。「どこで、そういう見方を」

「父の下で二十年です」美咲は玲司の言葉を遮るように言った。「刑事弁護の書類を二十年見てきました。嫌でも覚えます」

 美咲はそう言ってパソコンに向き直った。話はそこで終わりだった。玲司はそれ以上聞かなかった。だが彼女の横顔に、何か触れられたくないものがあるのを感じた。

 その日から玲司は、あの古い車で走り回った。

 運転席に杏奈。後部座席が玲司の場所だった。

 坂口の店の周辺を、玲司はしらみつぶしに歩いた。防犯カメラを探した。事件のあった路上をまっすぐ映しているカメラはなかった。だが少し離れたコンビニの駐車場に、一台、道路のほうを向いたカメラがあった。

「杏奈さん、コンビニに寄ってくれ」玲司は言った。

「はい」

 玲司はコンビニの店長に事情を話し、事件の夜の映像を見せてもらえないか頼んだ。店長は渋ったが、坂口が無実かもしれないと聞くと協力してくれた。映像はまだ消されずに残っていた。

 映像には事件そのものは映っていなかった。角度が足りなかった。だが事件の直前と直後の路上の様子は映っていた。

 玲司はその映像をスマートフォンで撮影し、美咲に送った。

 しばらくして美咲から電話がかかってきた。

『先生。この映像、見ました』美咲の声は少し緊張していた。『事件の五分前です。宮田さんが映っています』

「宮田が」

『ええ。でも通りかかったんじゃありません。宮田さんは事件の五分前から、ずっと店の前に立っています。誰かを待っているみたいに』

 玲司は後部座席で身を起こした。

「待っていた」

『それも一人じゃありません』美咲は言った。『宮田さんの隣に、もう一人男がいます。この男が事件のあと、被害者の客と一緒にタクシーに乗って去っています』

「被害者と、宮田の連れが、一緒に」

『つながっています』美咲は言った。『宮田さんは偶然の通行人じゃない。最初からそこにいた。被害者側の人間として』

 玲司は窓の外を見た。事件の絵が、少しずつ裏返っていく。

「なぜだ」玲司は言った。「なぜ被害者側が、わざわざ嘘の証人を用意する」

『そこはまだ分かりません』美咲は言った。『でも被害者の客のことを調べています。この人がなぜ坂口さんを陥れたいのか。もうすぐ見えてくると思います』

 その夜、玲司は事務所で美咲の報告を聞いた。

 被害者の客は、田所という男だった。その田所を美咲が洗うと、意外なことが分かった。

「田所さんは、坂口さんの店の常連でした」美咲は言った。「そして坂口さんが止めに入った、あの女の子。店員の彼女。田所さんはその子に執着していました。店の外でも待ち伏せするような」

「ストーカーか」

「はっきりとは言えません。でも、その子は田所さんを怖がっていました。何度か店長に相談していたようです」美咲は続けた。「あの夜、坂口さんが田所さんを止めた。田所さんにとっては邪魔をされた。面子を潰された」

「それで坂口を、傷害犯に仕立てた」

「田所さんには動機があります。坂口さんを社会的に潰したかった。だから知り合いの宮田さんに、嘘の証言をさせた」美咲は玲司を見た。「でも、これは私の推測です。証明するには、宮田さん本人に嘘を認めさせるしかありません」

 玲司は腕を組んだ。

「宮田を崩す」

「先生」美咲は言った。「法廷で宮田さんの証言を崩してください。このコンビニの映像を使って。宮田さんが偶然の通行人ではなく、事件の前からそこにいたこと。被害者側の人間だったこと。それを突きつければ」

「証言は崩れる」

「崩れます」美咲は頷いた。「なめらかすぎる嘘は、一箇所綻べば、全部ほどけます」

 公判の期日が決まった。

 その期日が問題だった。

 玲司が期日の通知を見て手を止めていると、美咲が気づいた。

「先生。どうかしましたか」

「……いや」玲司は言った。「何でもない」

 だが美咲は、玲司の机の上の別の紙に目を留めた。博多から届いたはがきだった。沙也香の幼稚園の運動会の知らせ。日付が書いてある。

 公判の期日と、同じ日だった。

 美咲はその二つを見比べた。それから、何も言わなかった。

 玲司ははがきを裏返した。沙也香のたどたどしい字で、「パパ、きてね」と書いてあった。由起子が書かせたのだろう。あるいは、沙也香が自分で。

 玲司はしばらく、そのはがきを見ていた。

 公判は坂口の人生がかかっている。ここで宮田の証言を崩さなければ、坂口は有罪になる。無実の男が傷害の前科を背負う。それを防げるのは玲司だけだった。

 一方で運動会は来年もある。沙也香が待っている。だが坂口の公判は一度きりだ。動かせない。

 玲司の中で、いつもの悪い癖が頭をもたげた。仕事を取る。娘は後で。これまで、ずっとそうしてきた。それで家族を失った。

「先生」美咲が静かに言った。「期日変更の申請は、できます」

 玲司は顔を上げた。

「公判の期日を動かす。正当な理由があれば、裁判所は認めます。一週間ずらせば、運動会と重なりません」美咲は淡々と言った。「坂口さんには私から事情を説明します。一週間、待ってもらう」

「だが、それは」玲司は言った。「坂口の事件が優先だ。俺の個人的な都合で期日を動かすのは」

「先生」美咲は玲司の言葉を遮った。「一週間遅れても、坂口さんの無実は変わりません。証拠は揃っています。今日やっても来週やっても、結果は同じです」

 美咲は玲司をまっすぐ見た。

「でも、沙也香ちゃんの五歳の運動会は、今年しかありません」

 玲司はその言葉に動けなかった。

「先生はいつも、依頼人のいちばん苦しいところに立ちます」美咲は言った。「それは立派です。でも、たまには自分のいちばん大事なところにも立ってください。坂口さんの事件は、一週間、私が支えます」

 玲司ははがきを見た。「パパ、きてね」の、たどたどしい字を。

「……期日変更を申請してくれ」玲司は言った。

「はい」美咲は頷いた。「もう書類は作ってあります」

 玲司は美咲を見た。彼女は、玲司がどちらを選ぶか最初から分かっていたように、書類を机に出した。

「お前は」玲司は言った。「本当に先回りがうまいな」

「先生が分かりやすいだけです」美咲は、またパソコンに向き直った。

 運動会の日、玲司は博多にいた。

 小さな幼稚園の園庭だった。秋のよく晴れた日で、万国旗が風にはためいていた。玲司は保護者のいちばん後ろで立っていた。

 沙也香がかけっこで走っていた。小さな体で一生懸命、手を振って。三人のうち二番目だった。転びそうになって、それでも最後まで走りきった。

 ゴールの少し先で、沙也香がこちらを見た。玲司を見つけた。

 沙也香の顔が、ぱっと明るくなった。

「パパ!」

 沙也香が駆けてきた。玲司はしゃがんで、その体を受け止めた。小さな、汗ばんだ体がぶつかってきた。

「見てた? わたし、二番だった」

「見てた」玲司は言った。「かっこよかった」

 沙也香が笑った。

 少し離れたところに、由起子が立っていた。玲司と目が合った。由起子は小さく頭を下げた。玲司も頭を下げた。多くは話さなかった。だが由起子の顔に、責める色はなかった。玲司が来たことを、ただ静かに受け止めている。そんな顔だった。

 玲司は沙也香を抱いたまま、空を見た。

 こんな時間があったのだ。ずっと手の届くところに。それを仕事のために後回しにして、失った。今日、初めて、玲司はその後回しをしなかった。たったそれだけのことが、こんなにもあたたかい。

 一週間後、坂口達也の公判が開かれた。

 玲司は法廷で、大演説はしなかった。

 ただ、宮田の証言を一つずつ崩していった。

 コンビニの防犯カメラの映像。宮田が事件の五分前から、店の前に立っていたこと。偶然の通行人ではなかったこと。宮田の隣にもう一人男がいて、その男が事件のあと、被害者の田所と一緒にタクシーで去ったこと。

「証人は」玲司は宮田に問うた。「事件の夜、偶然あの場所を通りかかったと証言しています。しかし、この映像では、あなたは事件の五分前からそこに立っています。誰かを待っていたように。これは、どういうことですか」

 宮田は答えられなかった。額に汗が浮かんでいた。

 なめらかだった証言が一箇所綻びると、あとは早かった。宮田の話は次々に矛盾を露わにした。玲司はそれを静かに突いていった。

 坂口達也は無罪になった。

 そして、この裁判をきっかけに、被害者だったはずの田所の、店員へのつきまとい行為が明るみに出た。田所は別件で警察の調べを受けることになった。嘘の証言で他人を陥れようとした男が、自分の罪を掘り起こされた。

 事務所に戻ると、坂口が礼を言いに来ていた。

「先生。本当にありがとうございました」坂口は深く頭を下げた。「俺、もう終わりだと思ってました」

「終わってない」玲司は言った。「あんたは何もやってないんだから」

 坂口が帰ったあと、玲司は椅子に座った。少し疲れていた。

「先生」杏奈がお茶を持ってきた。「運動会、どうでした」

「沙也香が、かけっこで二番だった」玲司は言った。

「二番!」杏奈が笑った。「すごいじゃないですか」

「転びそうになって、それでも走りきった」玲司は言った。「あの子は粘り強い」

「先生に似たんですね」美咲が事務机から言った。

 玲司は美咲を見た。

「先生も、四回目で受かった人ですから」美咲は画面を見たまま言った。「粘り強さだけは一流です」

「だけは、余計だ」

「事実を言いました」

 杏奈が吹き出した。玲司はまた、二人に負けた。だが今日は、負けてもいい気分だった。

 窓の外で、下町の街灯がひとつ、またひとつ灯っていった。玲司の胸のポケットには、沙也香のはがきが入っていた。「パパ、きてね」の、たどたどしい字。玲司はそれを捨てられなかった。今度こそ約束を守れた。次も守る。そう思った。

(第三話 了)












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