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横溝正史賞公募に向けて②

横溝正史賞公募に向けて


横溝正史賞(12万〜24万字、9/30締切)


●大賞
(正賞 金田一耕助像 副賞 賞金300万円)
応募作品の中から大賞にふさわしいと選考委員が判断した作品に授与されます。
受賞作品は株式会社KADOKAWA(以下「弊社」といいます)より単行本として刊行されます。

●優秀賞(賞金30万円)
受賞作品は弊社より刊行される可能性があります。

●読者賞(賞金なし)
受賞作品は弊社より文庫として刊行されます。


締切
郵送での応募の場合:
2026年9月30日(当日消印有効)
WEBからの応募の場合:
2026年9月30日23:59送信分まで


原稿枚数
1枚あたり40字×40行で換算して、75枚以上150枚以内 手書き原稿不可
(400字詰め原稿用紙換算で、300枚以上600枚以内)


対象

広義のミステリ小説。又は、広義のホラー小説。
年齢・プロアマ不問。ただし、日本語で書かれた未発表のオリジナル作品に限ります。


注意事項


応募原稿の執筆にあたって、プロット作成や表現チェックのため生成AIを補助的に利用することを不可とはしません。使用する場合は、どのように使用したかを原稿の本文末に明記してください。ただし、生成AIを使用した結果、第三者の著作権や、その他の権利を侵害するおそれがあると判断されたときは、選考の対象外とする場合があります。

おひとりで2作品以上の応募が可能です。但し、1作品ごとに独立した形でかつ別の作品と分かるように応募してください。なお、複数の応募方法で応募するなど、同じ作品を複数回応募した場合には、いずれの作品も選考対象外となります。

応募作品は、未発表かつオリジナルのものに限らせていただきます。他のコンテストとの二重応募はご遠慮ください。二重応募が判明した場合、当該作品は選考対象外となります。過去に落選した作品を改稿しての再応募も選考対象外となります。

本コンテストへ応募する前に、応募者自身が運営するwebサイト、応募者自身で作品の修正・削除等が可能な非営利目的の小説投稿サイト、応募者自身が非営利目的で制作・発行した同人誌で発表された作品は、未発表作品とみなされます。また、『カクヨム』サイト上に公開された作品は、他のコンテストに未応募であれば、未発表作品として扱います。ただし、必ず掲載したサイト名または同人誌名を応募時に明記してください。


規約を踏まえると、今回の進め方に関わる点が4つあります。

まず、生成AIの利用自体は禁止されていません。ただし原稿の本文末に「どう使ったか」を明記する必要があります。プロット作成の壁打ちに使った、という程度の記述で足りるはずですが、これは完成間際に一緒に文面を作りましょう。

次に、他コンテストとの二重応募は禁止で、発覚すれば対象外になります。前回話した黒猫ミステリー賞と横溝正史賞を両方に同じ原稿で出す、ということはできません。この作品は横溝正史賞一本に絞る前提で進めます。

三つ目、これが一番重要な変更点ですが、未発表かつオリジナルが条件です。Kindleでの出版は営利目的の発表にあたるので、横溝正史賞に出すなら、結果が出るまでこの作品をKindleに出すことはできません。前に「Kindleでもいいけど」とおっしゃっていましたが、応募するならこの二つは同時に取れません。応募する/しないをどこかで一本化する必要があります。

四つ目、執筆途中でどこかに載せたい場合、自分のサイトや、自分で修正・削除できる非営利の投稿サイト、カクヨムであれば「未発表」扱いのままにできます。ただし応募時にそのサイト名を明記する必要があるので、途中経過をTALESなどに出すつもりがあるなら、その規約が非営利・自己削除可能かどうかは確認しておいた方がいいです。

この理解で進めるなら、応募は横溝正史賞に一本化、Kindleは今回は見送り。完成して公募レベルの作品にならなかったらkindle出版する。


150,000字を目安に組みます。下限12万字に対して余裕を持たせつつ、上限24万字までは書き込みで伸ばせる設計にしておきます。29日で15万字なので、平均すると1日約5,200字。序盤を薄く、終盤に厚く割り振るので、実際の執筆ペースはこれより前半緩やか・後半速い方が現実的だと思います。

文体方針は、いつもの基準をこの作品用に絞ります。地の文は三人称限定、視点保持者以外の内面には踏み込まない。感情語(悲しい・怖い・愛しいなど)を使わず、動作・沈黙・物で示す。読点は一文に原則ひとつ、打ちたくなったら文を切るか繋ぎ直す。謎の答えを地の文で言わない——紗季の推理も、暗号の解読も、結論だけを地の文に置かず、行動と最小限の台詞で見せる。

視点は紗季と佐伯の交互二視点を提案します。序盤は佐伯側から紗季という謎に近づいていく形にして、読者を巻き込む役割を持たせる。中盤以降、紗季の過去と内面の比重が増えるにつれて紗季視点の分量を増やしていく。終章だけは佐伯視点に戻し、紗季が初めて自分から歩み寄る場面を外側から見せることで、変化がより際立つようにします。


裏稼業(仮)


第一章

停電が起きたのは、扉が閉まってすぐだった。

天井の照明が消える。同時に、床が沈むような感覚があった。ワイヤーが軋む音がして、箱がわずかに揺れる。エレベーターが止まる。

最初は、エレベーターの照明だけが故障したのだと思った。しかし、壁の隙間から漏れてくるはずの廊下の明かりも消えていた。ビル全体が、闇に沈んでいる。

数秒後、足元の非常灯だけが点いた。オレンジ色の光が、狭い箱の中を薄く満たす。モーターの唸りが、止まっていた。壁の向こうで、ビル全体が沈黙しているのがわかった。

「……止まりましたね」
佐伯が言う。壁の操作盤に近づき、非常ボタンを押す。インターホンの向こうから、応答はない。もう一度押す。しばらく待つ。それでも応答はない。
「……応答、ないですね」

返事はない。

紗季は、階数表示を見上げたままだった。数字は七で止まっている。動かない。緑色の数字の輪郭だけが、非常灯の光の中でぼんやりと滲んでいる。

その数字を見つめているうちに、紗季の視界が少しずつ滲んでいく。

――

その朝は、いつも通りに始まった。

始業のチャイムが鳴る前、フロアにはまだ数人しかいない。蛍光灯は半分しか点いておらず、紗季の机の周りだけが白く浮かんでいる。

紗季は書類の束を指先で二度、机に打ちつける。角が揃う。ペン立ての向きを直す。いつも同じ角度だ。誰も見ていないところで、彼女はいつもこれをしている。

佐伯が最寄り駅に着くのは、いつも始業の二十分前だ。改札を出て、同じ角を同じ歩幅で曲がる。信号待ちのあいだ、スマートフォンは見ない。ただ前を向いている。

オフィスビルのエントランスで、清掃員に会釈をする。エレベーターではなく、いつも階段を使う。三階分だけだが、それで十分だった。

会社は、都心のオフィスビルの七階に入っている。専門商社で、扱っているのは主に工業部品だ。フロアの窓からは、隣のビルの外壁が見える。その向こうに、わずかな空があるだけだ。景色と呼べるほどのものはない。

「おはようございます」
佐伯は鞄を椅子の背にかけながら言う。
紗季はキーボードを打つ手を止めない。一行打ち終えてから、
「おはようございます」
顔は上げない。それだけだ。

同じ部署に配属されて二年になる。席は三つ離れている。仕事の話はする。それ以外の会話は、この二年でほとんど積み上がっていない。

九月に入っても蒸し暑さは変わらなかった。空調の風は生ぬるく、窓ガラスの内側にうっすら曇りが張っている。壁際のテレビが台風のニュースを流している。渦を巻いた雲の映像に、進路予想の点線が重なる。まだ定まっていない。

「今週末、荒れるらしいですよ」
「早く帰った方がいいかもね」
誰かと誰かがそんな言葉を交わす。笑い声が短く上がる。紗季はキーボードから顔を上げない。指の動きだけが、一定のリズムで続いている。

途中、コピー機の排紙トレイが大きな音を立てて紙を吐き出した。近くの誰かが驚いて肩をすくめる。紗季の視線だけが、一瞬早く音の方へ動く。そしてすぐ、何もなかったように画面へ戻る。それに気づいたのは、たまたま顔を上げていた佐伯だけだった。

水曜の午前、定例会議が開かれる。ホワイトボードの前で、課長が今月の数字を読み上げる。
「水野さん、B社の件、進捗どうですか」
「先週で契約書の確認は終わりました。今週中に先方の押印待ちです」
数字と固有名詞だけで、紗季は答え終える。
「何か懸念点は」
「特にありません」
それで終わる。次の議題に移る。
別の社員が同じように進捗を聞かれると、話は長く広がっていく。家庭の事情や、先方の担当者の人柄にまで及ぶこともある。誰もそれを咎めない。むしろその方が会議らしいと、誰もが思っている。紗季の番だけが、いつも短い。

昼休み、他の社員は連れ立って階下の店へ出ていく。エレベーターの前で笑い声が重なり、やがて遠のく。紗季は席に残る。コンビニのパンの袋を開き、一口ごとに同じ速さで嚙む。スマートフォンは伏せたまま動かさない。窓の外には、工事現場のクレーンが灰色の空を横切っている。紗季がそれを見ているのかどうか、佐伯にはわからない。

「水野さんって、何考えてるかわからないよね」
給湯室の電気ケトルが、白い湯気を上げている。その向こうで、同期の女性社員が話している。
「話しかけても、必要なことしか返ってこないの。感じ悪いわけじゃないんだけど」
マグカップがカウンターに置かれる音がした。
佐伯は廊下でその声を聞き、足を止めずに通り過ぎた。何か言うつもりも、ここでは持ち合わせていなかった。

佐伯自身、口数が多い方ではない。大学のサークルの新歓コンパで、輪の中心から一番遠い椅子に座っていたことを思い出す。誰かに名前を聞かれ、学部だけ答えた。その先が続かなかった。何か言うべきだとわかっていても、言葉が出てこなかった。それ以来、輪の外側にいる方が性に合っていた。仕事の話なら、区切りが決まっている。始まりと終わりがはっきりしている分、楽だった。

だから紗季とのやり取りは、佐伯にとって都合がよかった。必要なことだけを、必要な分だけ話す。それで終わる。沈黙を埋める義務が、そこにはない。

半年ほど前の休日、佐伯は隣町の図書館で紗季を見かけたことがある。閲覧室の奥、参考図書のコーナーだった。古い地図を広げていた。声をかけるべきか迷った。そのあいだに、紗季は地図を閉じた。資料を返却口へ戻し、足早に出ていく。月曜、いつも通りに「おはようございます」を交わした。図書館のことには、どちらも触れなかった。それきりだった。

金曜、部署の飲み会の誘いが回ってきた。
「今月の歓送迎会、水野さんも来ますよね」
先輩社員が、紗季のデスクの前で聞く。
紗季は手を止める。少し考えるふりをしてから、
「予定があるので」
それだけ答える。予定の中身を聞く者は、もういなかった。
「佐伯くんは?」
「行きます」
佐伯は迷わず答える。断る理由もなかったし、行く理由もなかった。ただ、断るための言葉を探す方が面倒だった。

午後、資料を持って紗季の席に寄る。プリントの端が、エアコンの風でわずかに震える。
「先方から返事、来てますか」
「来てます」
紗季はモニターから目を離さずに答える。マウスを動かす右手の甲に、薄い線が見えた。古い絆創膏の跡のようだった。
「データ、共有フォルダに入れました」
「ありがとうございます」
確認すると、フォルダの中身は日付ごとに整理されていた。ファイル名の付け方まで統一されている。そこに無駄な言葉はない。無駄なファイルもない。

紗季の仕事は正確だった。数字を間違えたところを見たことがなく、締め切りに遅れたこともない。上司からの評価は悪くない。ただ、誰も彼女の机の外側を知らない。

一度、部長が紗季に世間話を振ったことがある。異動の挨拶のついでだった。
「水野さんは、休みの日は何してるの」
「特には」
「趣味とか、ないの」
「ありません」
部長は苦笑いをして、それ以上聞かなかった。以来、同じ質問をする者はいない。

入社して三年。休みの日に何をしているか。実家はどこか。恋人はいるのか。そういう話題を、紗季自身が持ち出したことは一度もない。聞かれれば短く答え、それ以上は続かない。誰もその先を聞かなくなって、もう長い。

その日も、いつも通りに一日が終わろうとしていた。窓の外はすでに暗い。街灯の明かりに、雨粒が光り始めていた。遠くで一度、雷のような音がした。空調の音に紛れて、誰も気に留めなかった。

終業のチャイムが鳴る。佐伯はパソコンをシャットダウンし、上着を羽織る。フロアの照明が、奥から順に消えていく。誰かのキャスターの音が遠ざかる。エレベーターホールに向かうと、紗季がすでに一人で立っていた。二人きりで乗り合わせるのは、珍しいことではない。同じフロアで働いている。それだけのことだ。

「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
それだけを交わし、扉が開く。

箱の中は、外より少し涼しかった。金属の匂いがかすかにする。乗り込むと、扉が閉まる。鏡のように光る扉の面に、二人の輪郭が並んで映った。紗季は階数表示を見上げている。佐伯はスマートフォンに目を落としている。モーターの低い唸りだけが、狭い箱を満たしている。

いつもと同じ、何でもない三十秒のはずだった。

天井の照明が、一瞬揺れた。



第二章

――そして今。

エレベーターの中。数字は、七のまま動かない。

湿った木の匂い。

埃と、古い布の匂い。

蟬の声が、遠くでまだ鳴いていた。

その日、公園に集まったのは五人だった。順番にじゃんけんをして、鬼は隣のクラスの男の子に決まった。「じゃあ、始め」の声と同時に、みんなが散っていく。紗季は迷わず、公園の外れにある古い物置に向かった。

物置の奥。段ボール箱が積まれた隙間に、紗季は身体を押し込んでいた。

その日は、朝から蒸し暑かった。誰も見つけられないと知っていた。前にも、そこに隠れたことがあったから。

「紗季、どこー」

友達の声。紗季は息を殺して笑っていた。絶対に見つからない。

膝を抱えた姿勢のまま、身体を小さく丸める。埃で鼻の奥がむずがゆかった。それでも動かなかった。

やがて、声が遠くなる。

一人。

また一人。

声が、消えた。

それでも、紗季は出ていかなかった。勝ったと思っていた。

膝の裏が痺れてくる。板の隙間から差し込む光の角度が、少しずつ変わっていく。

外が、静かになっていた。

薄い光が、板の隙間から差し込んでいる。夕方の色だった。蟬の声が止み、代わりに虫の声が増えていた。

誰も、来ない。

しばらくして、ようやく理解した。みんなは、かくれんぼを終わらせていた。紗季を見つけないまま、帰ってしまった。

七歳だった。

膝を抱えたまま、紗季はしばらく動けなかった。物置の中は、もう暗かった。

紗季は、初めて声を出した。

「……ねえ」

返事はない。

「いるよ」

返事はない。

「ここにいるよ」

声は、埃っぽい暗闇に吸い込まれていくだけだった。

それでも、誰も来なかった。

「……紗季さん」

声がした。

紗季は、目を開ける。

エレベーターの箱。非常灯。閉ざされた扉。

現在に、戻っていた。

心臓が、まだ速く動いていた。手のひらに、じんわりと汗をかいていた。

紗季は、しばらく何も言わなかった。呼吸の音だけが、狭い箱の中に響いていた。

「佐伯さん」
紗季が言う。声は、いつもと変わらない硬さだった。
「はい」
「何か話してください」
「……何を」
「なんでもいいです」

佐伯は、少し考えた。何を話せばいいのか、見当がつかなかった。

「……今日、駅で猫を見たんです」
紗季が言う。
「猫、ですか」
「はい。変な猫でした」
「変な、というのは」
「尻尾が、くの字に曲がってたんです」
佐伯は戸惑ったまま、
「……そうですか」
とだけ返す。
「そうなんです」
「その猫、どうなったんですか」
「駅員さんに追いかけられて、線路の方に逃げていきました」
「それは、大丈夫だったんですか」
「わかりません。見てないので」

会話が途切れる。狭い箱の中で、沈黙だけが厚みを増していく。

「まだ話してください」
紗季が、また言う。

佐伯は、今度は自分から話し始めた。今朝の電車が遅れたこと。取引先の担当者が変わったこと。台風の進路のこと。話せることを、順番に並べていく。

紗季は黙って聞いていた。相槌だけを、短く返す。

そのうち、佐伯の言葉が尽きた。思いつく話題が、なくなっていた。

沈黙が、また戻ってくる。非常灯の光の中で、二人の影が扉に薄く映っていた。

その沈黙の中で、紗季が口を開いた。

「私、仕事が終わったあと、毎日あるところに行ってるんです」

佐伯は、何も言わなかった。

「誰にも言ってないんですけどね」

それから、紗季は話し続けた。言葉は途切れ途切れで、順番もばらばらだった。

仕事が終わったあと、決まった時間に決まった場所へ向かっていること。

古いアパートの一室を、何年も見張っていること。

会ったことのない相手の写真を、何百枚も撮っていること。

「最初は、何をどう調べればいいのかもわかりませんでした」
紗季は言った。声は低いままだった。
「今は、だいたいのやり方がわかります」
「やり方、というのは」
佐伯が聞く。紗季は少し黙った。
「……言えないです、それは」

それ以上は、聞かなかった。

沈黙が、また落ちる。非常灯の光が、心なしか弱くなっていた。

紗季は、右手の甲を左手の指先でなぞっていた。古い傷のような、薄い線の上を。佐伯はそれに気づいていたが、何も言わなかった。

「これ」
紗季が、自分の手を見ながら言う。
「聞かないんですね」
「聞いた方が、よかったですか」
紗季は少し笑ったようだった。非常灯の下では、よくわからなかった。
「いえ。聞かれても答えられないので」

「その人に、昔一度だけ助けてもらったことがあるんです」
紗季が、また話し始める。
「詳しいことは言えません。その人がいなかったら、私は今ここにいないと思います」

佐伯は黙って聞いていた。何か言うべきだ、と思った。大丈夫だとか、無理しなくていいとか。そういう言葉が頭に浮かんでは消えた。どれも、口に出す前に軽すぎる気がした。結局、何も言わなかった。

「だから、探してます」
「一人で」
佐伯が言う。質問というより、確認のような言い方だった。

紗季は答えなかった。答えなかったことが、答えだった。

「俺も」
佐伯が、ふいに言う。
紗季が、初めて顔を上げた。
「俺も、誰にも言ってないことが一個くらいはあります」
「なんですか」
「言いません」
紗季は、今度こそ笑ったようだった。息だけの、小さな笑い方だった。
「ずるいです」
「お互い様です」

いつ床に座り込んだのか、佐伯にもわからない。気づけば二人とも、壁を背にして座っていた。膝が触れそうな距離だったが、どちらも動かなかった。

「早く見つけないと、まずいことになる気がして」
紗季の声が、少しかすれていた。
「何がまずいんですか」
「……それも、言えないです」

紗季は、膝を抱えるように座っていた。子供の頃の姿勢と、同じだった。

「変ですよね、こんなこと急に話して」
「いえ」
佐伯は短く答えた。それ以上の言葉は、見つからなかった。

「誰かに話したら楽になるかもって、ずっと思ってました。でも、話したことなかったんです。一度も」
「なんでですか」
「巻き込みたくなかったから」

紗季は、そこで一度言葉を止めた。

「でも、今日はなんでか、話してます」

一瞬、声が震えたように聞こえた。すぐに、いつもの硬さに戻った。

「休みの日、ないんですか」
佐伯が聞く。
「作らないようにしてます」
「なんで」
「休むと、考える時間ができるので」
それ以上は、言わなかった。

「防犯カメラの位置とか、そういうのは覚えるようにしてます」
紗季が言う。
「どの道を通れば映らないか。どの時間なら人が少ないか」
「詳しいんですね」
「詳しくならないと、続けられないので」
声には、疲れがにじんでいた。

「顔を、覚えてるんです」
紗季が言う。
「はっきりとは、もう覚えてないはずなのに。夢に出てくることがあります」
「どんな夢ですか」
「……追いかけてる夢です。追いついても、顔がわからない夢」
それ以上、紗季は説明しなかった。

エレベーターの中の空気は、少しずつ蒸し暑くなっていた。非常灯だけの薄い光の中で、紗季の横顔がぼんやりと見えた。

紗季は、その人が今どこにいるのかを説明しなかった。なぜ死んだことになっているのかも、話さなかった。ただ事件の断片だけが、ぽつりぽつりとこぼれていく。

夜、誰もいない場所に一人で向かうときの緊張。

見張っている相手に気づかれそうになったときの、心臓の音。

何日も進展がなくて、それでもやめられないこと。

「本当に見つかるのか、わからなくなるときがあります」
紗季が、ぽつりと言う。
「一年近く、こんなことをしていて」
それだけ言って、紗季は口をつぐんだ。言い過ぎた、というように。
佐伯は、聞かなかったふりをした。

一度だけ、危うく誰かに気づかれかけたこと。そのとき頭に浮かんだのは、自分の心配ではなかった。途中でやめたら、今までの日々が無駄になる。そのことだけだった。

佐伯は、ただ聞いていた。相槌を打つ以外、何もしなかった。何かを言えば、この時間が終わってしまう気がした。

三時間、そうしていた。

やがて、紗季の声が少しずつ小さくなっていった。言うだけのことを、言い終えたようだった。

「……こんなこと、話すつもりなかったんです」
紗季が、ぽつりと言う。
「明日になったら、忘れてください」

佐伯は、何も答えなかった。答えられなかった。

そのとき、天井の非常灯が一段明るくなった。

低い唸りとともに、モーターが動き出す。

床が、わずかに沈んだ。エレベーターが、下降を始めていた。

紗季は、素早く立ち上がる。壁に手をついて、身体を起こした。乱れた前髪を直し、シャツの裾を整える。数秒のうちに、いつもの顔に戻っていた。

佐伯も、遅れて立ち上がった。膝が痺れていた。

階数表示の数字が、七から順に減っていく。六。五。四。

扉が開いたとき、外には保守業者と数人の社員が立っていた。

「大丈夫でしたか」
誰かが聞く。
紗季は、頷いただけだった。

「怖かったでしょう、真っ暗で」
別の誰かが言う。
「いえ、非常灯がついていたので」
紗季は、いつもの声で答えた。

総務の担当者が、二人に確認書のようなものを差し出した。
「お名前と、体調に問題がなかったかだけ記入してください」
紗季は、その場でペンを取った。迷いなく必要事項を書き込んでいく。字は小さく、几帳面だった。佐伯も同じように書く。書き終えると、紗季はペンのキャップを閉じた。それから、担当者に返した。

エレベーターホールの明かりの下で見る紗季は、さっきまでと同じ顔をしていた。三時間前と、何も変わっていないように見えた。

佐伯だけが、それが違うことを知っていた。

帰りの電車は、いつもより混んでいた。窓に映る自分の顔を、佐伯はぼんやりと眺めていた。

紗季は、佐伯より二駅先で降りる。改札の前で、
「お疲れ様でした」
それだけを言った。いつもの足取りで歩いていく。振り返ることはなかった。

一人になった車内で、佐伯は今日聞いたことを頭の中で並べ直そうとした。古いアパート。写真。死んだことになっている誰か。一年近く。断片はいくつもあるのに、繋がらなかった。

その夜、佐伯はいつまでも寝つけなかった。天井を見ながら、紗季の声を思い出そうとした。声の調子は思い出せるのに、話していた内容の輪郭はぼやけていく。まるで、聞いてはいけないものを聞いてしまったような感覚だけが残った。

明日になったら忘れてください、と紗季は言った。

忘れられる自信は、なかった。

翌朝になっても、何を言えばいいのか佐伯にはわからなかった。



第三章

翌朝、紗季はいつも通りに出社した。

電車を降り、いつもの改札を抜ける。人の流れに乗って、オフィスビルまで歩いた。エレベーターホールの前を通るとき、佐伯は一瞬足を止めた。階数表示は、七ではなく一を示していた。それだけを確かめて、階段の方へ歩き出した。

始業のチャイムが鳴る前、机の周りはすでに整っている。書類の束を指先で二度、机に打ちつける。角が揃う。ペン立ての向きを直す。モニターの角度も、いつもと同じ位置で止まっていた。

昨日と何も変わらなかった。

「おはようございます」
佐伯は言う。
「おはようございます」
紗季は一行打ち終えてから答えた。顔は上げなかった。

いつもと同じ声だった。同じ硬さで、同じ長さだった。キーボードを叩く音も、いつも通りの速さで続いている。

佐伯はしばらく自分の席で動けずにいた。何をどう切り出せばいいのか、決めていなかった。手元の書類を、意味もなく並べ直した。

午前中、資料を届けるついでに紗季の席に寄った。印刷したての紙は、まだ温かかった。

「昨日のことですが」

紗季はモニターから目を離さずに手を止めた。カーソルの点滅だけが、画面の中で動いている。

「何かありました?」

「エレベーターで……」

「……」

紗季はそれ以上答えなかった。マウスを動かす手が、また動き出す。話は、そこで終わっていた。書類を受け取る指先だけが、いつも通り丁寧だった。

佐伯はそれ以上聞かなかった。聞いたところで、何が返ってくるかはわかっていた気がした。自分の席に戻る途中、廊下の窓から外を見た。空は、昨日と同じ高さで曇っていた。

その日、紗季の様子にはっきりとした変化はなかった。仕事は正確だった。昼休みは一人でパンを食べた。定例会議では、数字だけを答えた。ペンを持つ手も資料をめくる仕草も、先週までと変わらなかった。

それでも佐伯は、何度か紗季の方を見てしまう自分に気づいた。前は、気にも留めなかったことだ。会議室の隅で数字を読み上げる横顔を、必要以上に長く見ていた。

昼休み、紗季は窓際の席でパンを食べていた。イヤホンはつけていない。スマートフォンも、画面を伏せたまま机に置かれている。給湯室でコーヒーを入れながら、佐伯はその背中を見ていた。声をかける理由は、見つからなかった。

午後、紗季が席を立った。廊下の奥で、電話をしているのを見かけた。声は聞こえなかった。ただ、いつもより長く廊下にいた。窓の外光を背にした後ろ姿が、動かないまま十分近く立っていた。

戻ってきた紗季の表情は、変わっていなかった。スマートフォンを鞄にしまう手つきだけが、いつもよりわずかに速かった。途中で化粧室に寄ったらしく、席に着くまで少し時間がかかっていた。

見慣れない茶封筒が紗季のデスクに置かれていた。気づいたのは、そのすぐ後だった。宛名も差出人の名前もない、ただの茶封筒だった。紗季はそれを鞄の内側にしまい込んだ。手早い動きだった。

同僚が話しかけると、紗季はいつも通りの短い答えを返した。ただ、その茶封筒のことには誰も気づいていなかった。

夕方近く、紗季が机の下でスマートフォンを操作しているのに気づいた。画面の光が、俯いた顔を薄く照らしている。誰かが近づく足音がすると、すぐにいつもの姿勢に戻った。

「水野さん、今日も飲み会は」
「予定があるので」
先週と同じ返事だった。誰も、それ以上は聞かなかった。断り方の言葉まで、先週とそっくり同じだった。それに気づいていたのは、佐伯だけだった。

その日、佐伯は残業になった。取引先への提出資料が、締め切りに間に合っていなかった。

フロアに残っているのは、佐伯ともう一人だけになっていた。キーボードを打つ音だけが、静かなフロアに響いていた。窓の外はすでに暗く、ビルの明かりが等間隔に並んでいる。

午後九時を過ぎて、ようやく作業が終わる。パソコンをシャットダウンし、上着を羽織る。蛍光灯を消すと、非常灯の緑がフロアの隅に灯った。

エレベーターホールに、紗季の姿はなかった。

とっくに帰ったはずだ、と思った。エレベーターの扉が開く音だけが、無人のホールに響いた。

ビルを出て、駅とは反対の方向をなんとなく見た。

そこに、紗季がいた。

いつもの通勤鞄ではなく、黒いリュックを背負っている。駅に向かう人の流れとは逆に、細い路地の方へ歩いていく。歩幅も歩く速さも、昼間の紗季とは違って見えた。街灯の下を抜けるとき、一瞬だけ横顔が見えた。表情は、読み取れなかった。

路地の入り口には、閉店した店のシャッターが並んでいる。コンビニの明かりだけが、その先を白く照らしていた。紗季は迷いのない足取りでその光の中を通り過ぎていく。振り返る素振りは、一度もなかった。

佐伯は声をかけなかった。

紗季は一度も振り返らなかった。

後ろ姿が路地の先に消えるまで、佐伯はその場に立ち尽くしていた。しばらく、足が動かなかった。

週末を挟んでも、何も変わらなかった。月曜の朝、紗季はいつもの時間に現れた。鞄も、見慣れた通勤鞄に戻っていた。

翌日も、その翌日も紗季は変わらなかった。いつもの時間に出社し、いつもの速さで昼食をとった。いつもの言葉数で、仕事をこなした。机の角も、ペン立ての向きも毎朝同じ位置に揃っていた。

ただ、佐伯の中にはあの夜の後ろ姿だけが残っていた。黒いリュックの重そうな揺れ方を、ふとした瞬間に思い出した。

何度か、聞こうとした。「この間の」と切り出しかけて、そのたびに言葉を止めた。紗季の横顔に、聞かれることを拒む硬さがあった。

明日になったら忘れてください、と紗季は言った。

佐伯は、忘れられそうになかった。


第四章

紗季が黒いリュックで駅と反対方向へ歩いていくのを見た日から、一週間が経っていた。

その間、佐伯は何度もあの後ろ姿を思い出した。振り返らない背中。街灯の下で一瞬だけ見えた、いつもと違う横顔。声をかけなかったことを後悔していたわけではない。ただ、忘れられなかった。

月曜日、紗季はいつも通りに出社した。火曜日も水曜日も同じだった。デスクの角を揃え、ペン立ての向きを直す仕草に乱れはなかった。

火曜日の午後、資料を渡すときに手が触れた。紗季の右手の甲に、あの日見た薄い線が見えた。以前より、色が濃くなっている気がした。佐伯は何も言わず、視線をそらした。

水曜の昼、隣の部署の同僚が雑談の中でふと言った。

「水野さん、この間駅の反対側で見かけました」

「夜だったんで、見間違いかもしれないですけど」

佐伯は聞こえなかったふりをして書類をめくった。心臓が少しだけ速くなっていた。

木曜日は、何事もなく過ぎた。紗季はいつもの時間に帰り、佐伯も定時で退社した。何も起きない一日が、かえって落ち着かなかった。

金曜日の夜、佐伯はまた残業になった。理由は先週と同じで、取引先向けの資料が仕上がっていなかった。フロアに人影はまばらだった。エアコンの音だけが、単調に響いていた。

午後八時を過ぎたころ、紗季が帰り支度をするのが見えた。いつもの通勤鞄ではなく、黒いリュックを背負っている。

佐伯はパソコンの画面から目を離した。

今日もあとをつけるつもりはなかった。そのはずだった。だが気づいたときには上着を掴み、エレベーターホールへ向かっていた。

紗季は階段を使って一階に降りていった。エレベーターを避けているのだと、後になって気づいた。

ビルを出ると、紗季はすでに駅と反対方向へ歩き出していた。距離を空けて、佐伯はその後を追った。

商店街の明かりが途切れると、通りは急に静かになった。紗季は迷いのない足取りで進んでいく。信号のない交差点を渡るとき、一度も左右を確かめなかった。何度も通った道だとわかった。

途中、紗季が不意に路地に折れた。佐伯が角を曲がったときには、姿が見えなくなっていた。

心臓が跳ねた。見失った、と思った。

しばらく立ち尽くしていると、少し先の暗がりに人影が動いた。紗季は、自動販売機の陰でリュックの中を確認していただけだった。佐伯は物陰に身を隠し息を整えた。

どこかの家から、テレビの音が漏れていた。夕食の匂いも、風に混じって届く。誰かの日常が、すぐ隣で続いていることがひどく遠く感じられた。

住宅街に入ると、街灯の間隔が広くなった。佐伯は電柱の陰に隠れながら距離を保ち続けた。靴底がアスファルトの小石を踏むたびに、音を立てないよう足の運び方まで意識していた。

やがて紗季は、古びた木造アパートの前で足を止めた。三階建てで、外壁の塗装はところどころ剥げている。二階の角部屋にだけ、灯りがついていた。

紗季は道路の反対側、自動販売機の裏に回り込んだ。そこからなら、二階の窓がまっすぐ見える位置だった。

佐伯は少し離れた電柱の陰に立ち止まった。夜風が、シャツの袖口から入り込んでくる。九月の夜は、思ったより冷えた。

紗季はリュックを下ろし、中から小さなカメラを取り出した。望遠レンズをつけ、三脚を使わずに構える。手つきに迷いはなかった。次に、黒い手袋を両手にはめる。指先の動きを妨げない、薄い作りのものだった。

佐伯はそれを見て初めて理解した。これは、思いつきの行動ではない。何年も繰り返してきた動作だった。

窓の灯りが、一度揺れた。人影が横切ったように見えた。紗季はすぐにシャッターを切った。音を立てないよう、指先だけで操作していた。

しばらく、何も起きなかった。紗季は姿勢を変えないまま、窓を見上げ続けていた。佐伯も動けずにいた。腕時計を見ると、すでに三十分近くが経っていた。

遠くで、猫の鳴き声がした。紗季の肩が、わずかに動いた。それだけで、また静止した。

アパートの一階、外階段の脇にある郵便受けの前で物音がした。誰かが出てきたらしい。紗季の身体が、わずかに緊張するのがわかった。

出てきたのは、フードを目深にかぶった男だった。がっしりとした体格で、歩き方に妙な癖があった。右足を、わずかに引きずっている。周囲を一度見回し、路地の奥へ足早に歩いていく。

紗季は、それを見送るとカメラを構え直した。連続してシャッターを切る音が、静かな路地に小さく響く。それから男が向かった方向とは逆に、素早く移動した。塀の陰から陰へ足音を立てずに動く様子は、佐伯の知る紗季とは別人のようだった。

男が、一度だけ振り返った。目が、紗季のいた辺りを一瞬なぞる。紗季はすでに塀の陰に身を沈めていた。男は何も見なかったように、また歩き出した。

佐伯は思わず一歩前に出た。靴の裏で、小さな石を踏んだ。

音は、思ったより大きく響いた。

紗季の動きが止まった。

佐伯は息を止め、電柱にさらに身体を寄せた。しばらく、何も起こらなかった。紗季はもとの位置に戻り、また窓を見上げていた。気づかれなかったらしい。

そのとき、紗季のポケットでスマートフォンが震えた。

紗季は素早く応答し、声を落として話し始めた。距離があり、内容までは聞き取れなかった。ただ、途切れ途切れにいくつかの言葉だけが風に乗って届いた。

「……今夜は動きなし」

「……例の場所は、まだ」

「わかりました。それで進めます」

電話は、一度そこで切れた。紗季はスマートフォンをしまいかけ、また震えた画面を見て応答し直した。

「はい」

「……朝比奈さんには、そう伝えてください」

聞き覚えのない名前だった。誰のことなのか、佐伯にはわからなかった。

電話は、一分ほどで終わった。紗季はスマートフォンをしまい、再びカメラを構えた。その横顔に、迷いは見えなかった。

一時間ほど、何も起きなかった。二階の灯りが消え、窓は暗くなった。紗季は、それを確認してからようやく機材を片づけ始めた。

佐伯はその間ずっと動けずにいた。足が痺れ始めていたが、動く気になれなかった。

紗季がリュックを背負い直し、来た道を戻り始めた。佐伯は電柱の陰から離れ、後を追おうとした。

そのとき、紗季が急に立ち止まった。

振り返りはしなかった。ただ、その場に立ったまま背を向けて言った。

「いつからいたんですか」

佐伯は答えられなかった。

「駅を出たところから、ですよね」

紗季の声は、いつもと変わらない硬さだった。ただ、その奥に別のものが混じっているように聞こえた。

「……すみません」

佐伯はそれだけを言った。

紗季は、ようやくこちらを振り返った。街灯の逆光で、表情はよく見えなかった。

「怒ってません」

紗季は言った。

「ただ、危ないので」

「危ない、というのは」

紗季は少し黙った。それから、静かに続けた。

「見られてることに、向こうが気づいたら困るんです」

「私だけじゃなくて、佐伯さんも」

その言い方に、佐伯は何かが引っかかった。自分まで巻き込まれる可能性がある。そう気づくまで、数秒かかった。

「手伝えることは、ないんですか」

佐伯は、思い切って聞いた。

紗季は、しばらく答えなかった。

「今は、ないです」

「今は」

「……いつか、あるかもしれません」

それだけ言うと、紗季は視線を路地の先に戻した。それ以上は、続けなかった。

「今日見たことは、忘れてください」

紗季は、そう言うと歩き出した。

佐伯は、その背中に向かって声を出した。

「朝比奈さんって、誰ですか」

紗季の足が、一瞬止まった。

「……聞こえてたんですか」

「少しだけ」

紗季は、しばらく黙っていた。振り返らないまま、また歩き出す。

「いつか話します」

「今は、まだです」

それきり紗季は何も言わなかった。

駅までの道のりを、二人はほとんど無言で歩いた。距離は、行きより少しだけ縮まっていた。途中、コンビニの前を通りかかったとき紗季が足を止めた。

「少し、待っててもらえますか」

そう言うと、店に入っていった。数分後、二本の缶コーヒーを手に戻ってきた。片方を、佐伯に差し出す。

「付き合わせたので」

佐伯は、礼を言って受け取った。缶の表面は、まだ冷たかった。二人はしばらく、その場に立ったまま黙って飲んだ。

「毎週、行ってるんですか」

佐伯が聞いた。

「決まってはないです。呼ばれたときだけ」

「呼ばれる、というのは」

紗季は、また少し黙った。

「それも、今は言えないです」

会話は、そこで途切れた。缶を捨てるゴミ箱の前で、紗季が小さく頭を下げた。

「今日のこと、本当に忘れてください」

佐伯は頷かなかった。

紗季は、それ以上は言わなかった。夜道を、二人分の足音だけが響いていた。信号が赤に変わり、二人は立ち止まった。並んで立つと、思ったより距離が近いことに気づいた。紗季は、気づいていないようだった。信号が青に変わると、また何事もなく歩き出した。

何も答えないまま、駅の改札まで並んで歩いた。

駅の改札で、紗季は先に頭を下げて別れた。いつもと同じ、短い挨拶だった。

紗季と別れたあと、佐伯は一人で夜道を歩いた。いつもの帰り道のはずなのに、やけに長く感じられた。

途中、路肩に見慣れない黒い車が停まっているのに気づいた。エンジン音はしていない。中に人がいるのかどうかも、外からはわからなかった。

佐伯は足を止めずに通り過ぎた。何も起きなかった。ただ、しばらく歩いても背中に視線が張りついているような感覚は消えなかった。

自宅のマンションに着いてからも、玄関の鍵を閉める手がいつもより慎重になっていることに気づいた。

その後ろ姿を見送りながら、佐伯は今夜見たものを反芻していた。手袋。望遠レンズ。足音を消して塀の陰を移動する動き。どれも、社内で見せる紗季の姿とは結びつかなかった。

聞こえた名前だけが、頭の中に残り続けていた。

朝比奈。

紗季とどんな関係なのか、佐伯には見当もつかなかった。ただ、その響きだけが耳の奥に張りついて離れなかった。

家に帰ってから、佐伯はスマートフォンで「朝比奈」と打ち込んだ。指が、しばらく検索ボタンの上で止まったままだった。押せば、何かが変わってしまう気がした。

結局、その夜は検索しなかった。

布団に入ってからも、頭の中でその夜の光景が繰り返された。窓を見上げる横顔。塀の陰を音もなく動く足取り。会社の廊下で見せる顔とは、明らかに違っていた。

思えば佐伯には、昔から途中でやめられない癖があった。読みかけの本も解けない問題も、区切りがつくまで手放せない。今回もきっと、同じだった。ただの好奇心では片づけられない何かが、すでに始まっている気がした。

翌日、紗季はいつも通り出社した。デスクの角を揃え、ペン立ての向きを直す仕草もいつもと変わらなかった。

「おはようございます」

佐伯が言うと、紗季はいつもの短さで返した。

昨夜のことには、誰も触れなかった。

それでも、佐伯は気づいていた。紗季が電話を受けるたび、以前より一瞬早く画面を確認するようになったことに。誰かに見られていないか、確かめているように見えた。

昼休み、佐伯はいつもの給湯室で紗季とすれ違った。

「昨日は、すみませんでした」

佐伯が言うと、紗季は少し驚いたような顔をした。

「謝ることじゃないです」

「でも」

「佐伯さんが謝ることは、何もないです」

紗季は、それだけ言うと自分の席に戻っていった。その言い方に、これ以上聞くなという意味が込められている気がした。

その日の夕方、紗季の机にまた見覚えのない封筒が届いた。

差出人の欄には、何も書かれていなかった。ただ、封筒の端に小さく数字が書き込まれているのが見えた。

七、と読めた。

佐伯は、それがエレベーターの階数表示と同じ数字であることにしばらく気づかなかった。

気づいたときには、紗季はすでにその封筒を鞄にしまい込んでいた。手早い、いつもと同じ動きだった。

佐伯は自分の席に戻ってからも、その数字のことを考え続けていた。七という数字は、あの夜停止したエレベーターの数字と同じだった。朝比奈という名前とも、どこかでつながっている気がしてならなかった。

その夜、佐伯は帰宅してから使っていなかった大学ノートを一冊取り出した。

一ページ目に、覚えている限りのことを書き出した。エレベーターが止まった日付。古びたアパートの二階の窓。黒いリュックと、フードの男の歩き方。そして、朝比奈という名前。

書き終えてから、ページを眺めた。ばらばらの断片は、まだ何の形も結んでいなかった。

それでも、ノートを閉じるとき佐伯は決めていた。次に何か動きがあれば、今度は見ているだけでは終わらせない。


第五章

ノートを取り出した夜から、佐伯は少しずつ調べ始めていた。

会社帰り、駅前の図書館に寄る日が増えた。パソコンの前で、地域のニュース記事を遡って読んだ。「朝比奈」という名字で検索すると、いくつかの記事が出てきた。

数年前、隣県で起きた行方不明事件の記事にその名字が一度だけ登場していた。捜索に協力した人物として、名前の一部だけが載っていた。記事はそこで途切れていた。続報は、見つからなかった。

別の日には、古い地図サイトで紗季が見張っていたアパートの住所を調べた。持ち主の名前は、何度検索しても出てこなかった。登記情報のページにたどり着く前に、いつも行き詰まった。

記事の中に、一枚だけ写真が載っていた。捜索に加わったボランティア団体の集合写真で、顔はどれもぼやけて判別できなかった。それでも佐伯は、その写真を何度も拡大して眺めた。手がかりらしきものは、結局何も見つからなかった。

佐伯は、その記事を写真に撮った。ノートに貼りつけ、日付と場所を書き添える。ページは、少しずつ埋まっていった。

自分でもよくわからないまま、続けていた。答えが出るとは思っていなかった。それでも、手を止める気になれなかった。

一週間が経った金曜日、佐伯は帰り支度をする紗季に声をかけた。

「少し、話せますか」

紗季は手を止めて振り返った。

「今からですか」

「はい」

二人は、誰もいない会議室に入った。ブラインドの隙間から、夕方の光が斜めに差し込んでいる。並んだ椅子の影が、床に長く伸びていた。

佐伯はノートを机の上に開いた。手が、少し震えていることに自分で気づいた。

「これ」

紗季はページに目を落とした。表情は変わらなかった。指先だけが、ページの端で止まっていた。

「勝手に、調べました」

佐伯は言った。

「朝比奈という名字が、数年前の行方不明事件の記事に出ていました」

「捜索に協力した人だそうです」

紗季はしばらく黙っていた。ページをめくる指先が、かすかに揺れていた。

「なんで、こんなことを」

紗季の声は、いつもより低かった。

「手伝わせてください」

佐伯は言った。今日、そのために時間を作ってもらったのだった。

「調べることぐらいなら、僕にもできます」

「会社にいる時間を使えます」

「表に出ない場所でも、探すことができます」

「無理です」

紗季は即座に答えた。

「なんでですか」

「巻き込みたくないからです。前にも言いました」

「巻き込まれるかどうかは、僕が決めます」

紗季は佐伯の顔をまっすぐ見た。街灯の逆光の中で見た顔とは違い、会議室の明かりの下では表情がはっきり見えた。そこにあったのは、怒りではなかった。もっと硬く、閉じたものだった。

「決められないんです、そこは」

紗季は言った。

「前に、協力してくれた人がいました」

「詳しいことは言えません」

「でも、その人は今、ここにいません」

会議室の空気が、急に重くなった気がした。エアコンの送風音だけが、規則正しく続いていた。

「死んだ、ということですか」

佐伯は聞いた。

紗季は答えなかった。答えなかったことが、答えだった。

しばらくの沈黙のあと、紗季は続けた。

「その人は、私を助けてくれました」

「代わりに、代償を払いました」

「代償、というのは」

「言えません」

「ただ、軽いものじゃなかったです」

「だから、無理なんです」

紗季は、ノートを佐伯の方に押し戻した。

「これも、消してください。写真も」

「消しません」

佐伯は言った。自分でも、思ったより強い声が出た。

「見なかったことにしろと言われて、何度もそうしてきました」

「でも、もう無理です」

紗季は何も言わなかった。目を伏せたまま、机の一点を見つめていた。

「危ないなら、なおさら一人にできません」

沈黙が、部屋を満たした。窓の外で、車の音が一台通り過ぎていった。

やがて、紗季が小さく息を吐いた。

「佐伯さんには、関係ないことです」

「関係、作りました」

「あの夜、僕がついていったので」

紗季は、目を伏せた。しばらくして、また顔を上げる。

「本当に、危ないんです」

「私が言えるのは、それだけです」

「危ないから、手伝ってほしいんです」

紗季は、首を横に振った。

「向いてないと思います」

「佐伯さんは」

その言い方に、佐伯は初めて何かが刺さるのを感じた。今まで紗季が口にしたどの拒絶より静かで、それだけに重かった。

「向いてなくても、いいです」

紗季は、一瞬だけ視線を揺らした。何かを言いかけて、やめたように見えた。その一瞬だけ、いつもの硬さが崩れた気がした。だが、すぐに元に戻った。

紗季はしばらく黙っていた。それから、静かに立ち上がった。

「これで、終わりにします」

紗季は、ノートを閉じて佐伯の方に押した。

「今日話したことも、忘れてください」

「また、それですか」

紗季は答えず、会議室を出ていった。

佐伯はしばらく一人で座っていた。ブラインドの隙間の光が、いつの間にかオレンジ色から灰色に変わっていた。ノートを閉じ、鞄にしまう。手のひらに、うっすらと汗をかいていた。

その週末、紗季は会社に来なかった。有給、という連絡だけが総務から回ってきた。理由は書かれていなかった。

佐伯は土曜日も日曜日も、紗季のことばかり考えて過ごした。連絡先は知らない。会社の同僚として、それ以上踏み込む理由もなかった。ただ、何度もスマートフォンを手に取っては置いた。

一度、社内システムの緊急連絡先を確認しようとして途中でやめた。理由を聞かれたら、答えられる自信がなかった。結局、日曜の夜まで何もできないまま過ぎた。

月曜日、紗季は何事もなかったように出社した。デスクの角を揃え、ペン立ての向きを直す仕草もいつもと変わらない。

「おはようございます」

佐伯が言うと、紗季はいつもの短さで返した。金曜日のことには、一切触れなかった。

その日一日、紗季は佐伯と目を合わせなかった。用件があるときだけ、必要な分だけ言葉を交わした。以前の距離に、そのまま戻ったようだった。

その日の帰り道、佐伯の自宅マンションの郵便受けに見慣れない白い封筒が入っていた。

宛名はなく、切手も貼られていなかった。誰かが、直接投函したものだった。

中には、一枚の紙だけが入っていた。手書きの文字で、短く一行だけ書かれていた。

「調べるのは、やめたほうがいい」

差出人の名前は、どこにもなかった。

佐伯は、その紙をしばらく見つめていた。紗季の字ではなかった。もっと硬く、癖のない字だった。

窓の外を見た。街灯の下に、見覚えのある黒い車が停まっていた。

エンジン音は、していなかった。運転席に人影があるかどうかも、わからなかった。

しばらく見ていると、車は静かに走り去った。テールランプの赤が、角を曲がって消える。

佐伯は、紙をもう一度読み返した。それから、大学ノートの最後のページにその一文をそのまま書き写した。

日付の横に、小さく朝比奈と書き添える。

まだ、何もわかっていなかった。それでも、後戻りする気にはならなかった。

紗季の拒絶は、はっきりしていた。それでも、あの一瞬だけ揺れた視線が佐伯の中から消えなかった。あれは、拒絶とは少し違う何かだった気がした。

明日、また同じ顔で出社してくる紗季に何と言えばいいのか。答えは、まだ見つからなかった。


第六章

警告のメモを受け取ってから、三日が経っていた。

黒い車は、その後は見ていない。郵便受けにも、あれ以来何も入っていなかった。それでも、佐伯は調べることをやめなかった。むしろ前より慎重に続けていた。

会社では、いつも通りに過ごした。紗季とは業務に必要な会話だけを交わした。金曜日の衝突のことも、封筒のことも互いに触れなかった。表面上は、何も変わっていない一週間だった。

それでも、細かな違和感は積み重なっていった。紗季が電話を受ける回数は、以前より増えていた。昼休みに席を外す時間も、少しずつ長くなっている気がした。誰も気づいていないような変化を佐伯だけが数えていた。

図書館は変えることにした。会社から一駅離れた区立図書館なら、顔を知られる心配は少ない。閲覧席の隅を選び、画面には常に手のひらを添えた。

「行方不明事件」「隣県」「捜索」。検索の組み合わせを変えながら、古い記事を一つずつ読んでいった。ヒットする記事の大半は、事件と無関係なものだった。似たような地名、似たような年代の記事を一つずつ消去法で除外していく。

一日目は、成果がないまま終わった。二日目も、同じだった。それでも、佐伯は席を立たなかった。閉館のアナウンスが流れるまで、粘り続けた。

その合間、社内の会議で聞いた社名がふと引っかかった。取引先候補の一つに、朝比奈興産という不動産会社が挙がっていたのだった。当時は聞き流していたが、今になって思い出すと妙に胸がざわついた。会議の議事録を見返しても、それ以上の情報は載っていなかった。同じ名字というだけで、関係があるとは限らない。それでも、頭の片隅から消えなかった。

三日目、ようやく別の記事にたどり着いた。地方紙のデジタルアーカイブに残っていた、短い続報だった。

事件は七年前のものだった。当時二十代の女性が、勤務先からの帰り道に姿を消した。警察は当初、事件性の有無を含めて捜査していた。だが数か月後、本人の意思による家出の可能性が高いとされた。その判断で、捜査は縮小されたという。

記事には、家族のコメントが添えられていた。「そんなはずはない。娘は必ず戻ってくると信じている」という短い一文だけが、引用されていた。

女性の名前は、記事のどこにも記載がなかった。イニシャルすら伏せられている。個人が特定されないよう配慮されたものか、あるいは別の意図があったのか。佐伯には判断がつかなかった。

家族の名字は、伏せられていた。ただ、記事の末尾に付された地図の座標は紗季が見張っていたアパートの近辺と重なっていた。

佐伯はその記事を何度も読み返した。座標を紙に書き写し、自分の描いた地図と照らし合わせる。誤差の範囲を考えても、同じ町内であることは間違いなかった。

続報は、それきりだった。後続の記事は、検索してもどこにも出てこなかった。事件は、七年間そのまま止まっているようだった。

土曜日、佐伯は自分の足でその町を歩くことにした。

昼間に来るのは、初めてだった。夜とは違い、道は明るく開けていた。アパートの外壁も、日の光の下では思ったより古びて見えた。窓には、洗濯物が一枚だけ揺れていた。二階の角部屋には、干された様子がなかった。

近くに、小さな商店が一軒あった。看板は色褪せていたが、営業はしているようだった。佐伯は思い切って店に入った。

店主は七十歳前後の男だった。カウンターの奥から、佐伯を無言で見た。

「すみません、少し伺いたいことがあって」

佐伯は言った。

「この近くのアパートのことなんですが」

店主は眉を寄せた。

「どのアパートですか」

「三階建てで、角部屋に灯りがついている、あの建物です」

「ああ、あそこか」

店主は少し声を落とした。

「昔、そこに住んでた娘さんがいたね。もう随分前だが」

佐伯の心臓が、速くなった。

「どんな人でしたか」

「大人しい子だったよ」

「挨拶はきちんとする子でね」

「ある日から、急に見かけなくなった」

「それは、いつ頃のことですか」

「七、八年前かな」

店主は少し間を置いた。

「詳しいことは知らんよ」

「噂では、家出だとか駆け落ちだとか、色々言われとったが」

店主はそこで言葉を止めた。カウンターの奥の棚に目をやる。

「誰かと一緒だった、という話も聞いた気がするな」

「誰かというのは」

「さあ」

「若い男だったとか、そういう話だった気がする」

「もう昔のことで、はっきりとは覚えとらん」

それ以上は、店主も詳しくは知らないようだった。佐伯は礼を言って、店を出た。

店を出てすぐ、思いついて振り返った。

「その人に、姉妹はいましたか」

店主は少し考えるような顔をした。

「どうだったかな」

「妹がいた気もするが、確かじゃない」

それだけ聞くと、佐伯は今度こそ店を後にした。

帰り道、小さな神社の前を通りかかった。掲示板に、色褪せた紙が一枚だけ貼られていた。文字はほとんど読み取れなかったが、若い女性らしき顔写真の輪郭がかすかに残っていた。日付は、判別できなかった。

佐伯はしばらくその前に立ち尽くした。それから、スマートフォンでその掲示板だけを写真に収めた。

家に帰ってから、写真を拡大してみた。色褪せた紙の上では、輪郭以上のことは何もわからなかった。目や鼻の位置さえ、判然としない。それでも、佐伯はその画像を消さずに残した。

外に出ると、日差しが強くなっていた。頭の中で、いくつもの断片が渦を巻いていた。

七年前に姿を消した女性。事件性は否定され、家出として処理された。近くには、若い男の影があったという曖昧な噂。妹がいたかもしれないという、これも曖昧な記憶。そして、紗季が今も見張り続けているアパート。

偶然にしては、重なりすぎている気がした。

その日の午後、佐伯は町のはずれにある小さな図書館にも寄った。郷土資料のコーナーで、地域の住宅地図を何冊か調べた。古い版から順に、めくっていく。

七年前の版に、そのアパートの持ち主として個人名が載っていた。

朝比奈、という名字だった。

指先が、震えた。

翌週の平日、佐伯は昼休みを使って法務局に足を運んだ。窓口で登記簿の写しを申請すると、思ったより簡単に受け取ることができた。

書類に記された所有者の名前は、朝比奈修一。住所は、県内の別の場所だった。取得の日付は、二十年以上前になっていた。少なくとも一代にわたって、その土地を持ち続けている一族らしかった。

同じ名字の人物が他にいないか、佐伯はさらに調べてみた。近隣の別の物件にも、朝比奈という名字の所有者が複数見つかった。一族が、この一帯にいくつもの不動産を持っているようだった。

さらに数年分をさかのぼると、その前の版にも同じ名字が載っていることがわかった。少なくとも十年以上、その土地を所有している一族らしかった。

佐伯はその住宅地図のページを写真に撮った。手が汗ばんでいた。

図書館を出ると、すでに夕方になっていた。駅までの道を歩き出したとき、背後に人の気配を感じた。

振り返ると、少し離れた場所に一人の男が立っていた。フードはかぶっていなかった。だが、体格と右足を軽く引きずる歩き方に見覚えがあった。

以前、紗季が見張っていたアパートから出てきた男だった。

佐伯は足を速めた。男との距離は、縮まりも広がりもしなかった。振り返らずに歩き続けても、後ろの気配は消えなかった。

商店街を抜け、人通りの多い通りに出ても男はまだついてきていた。試しにコンビニに立ち寄ってみたが、店を出るとまた同じ距離で立っていた。信号待ちの列に紛れようとしたが、遠回りに気づかれているようだった。

信号待ちの交差点で、男が急に距離を詰めてきた。肩が触れそうな距離だった。

「調べるなと、言ったはずですが」

低い声だった。感情の起伏は、感じられなかった。

佐伯は何も答えられなかった。喉の奥が乾いていた。

「あなたのことも」

「水野さんのことも」

「見てます」

男は、佐伯の腕を一瞬だけ強く掴んだ。痛みが袖の上から伝わってきた。

「わかったなら、それでいいです」

手を離すと、男は佐伯の肩を軽く叩いた。それだけの動作に、有無を言わせない重さがあった。

男は、それだけ言うと信号が変わる前に踵を返した。人混みの中に、すぐに紛れて見えなくなった。

佐伯はしばらく動けなかった。信号が青に変わっても、足が動かなかった。周りの人波だけが、何事もなく流れていった。

自宅に戻ってから、佐伯は鏡に映る自分の顔を見た。血の気が引いているのが自分でもわかった。

警察に相談することも、一瞬頭をよぎった。だが、話せることは何もなかった。腕を掴まれたことも、証拠は残っていない。何を届け出ても、被害妄想として扱われそうな気がした。結局、その考えは打ち消した。

その夜、佐伯はノートを開き今日知ったことをすべて書き出した。七年前の失踪事件。朝比奈という持ち主の名字。若い男の噂。妹がいたかもしれないという曖昧な記憶。そして、今日声をかけてきた男の存在。

書きながら、あることに気づいた。失踪した女性の年齢を計算すると、今の紗季とそう変わらない歳になる。

もし、その女性が紗季の知り合いだったとしたら。あるいは紗季自身が探しているのが、その人物だったとしたら。

考えるほど、頭の中で像が結ばれていくようだった。同時に、その像がどこか歪んでいることにも気づいていた。証拠と呼べるものは、まだ何一つなかった。すべては、点と点をつなぎたがる自分の想像かもしれなかった。

ノートを閉じる前に、佐伯は最後の行に一つだけ書き足した。

月曜、話す。

その夜はほとんど眠れなかった。天井を見つめながら、信号待ちで聞いた声を何度も思い出した。あなたのことも、水野さんのことも見てます。その一言が、耳の奥に張りついたまま離れなかった。

日曜日、佐伯は一日中家にいた。外に出る気になれなかった。カーテンの隙間から、何度も外の様子を確かめた。黒い車は、見当たらなかった。それでも、落ち着かない一日だった。

夕方、宅配便のインターホンが鳴っただけで身体が強張った。何でもない配達員の声を聞いて、ようやく肩の力が抜けた。

昼過ぎ、腕に残った痣を確かめた。指の形が、うっすらと残っていた。シャツの下に隠れる位置で、幸いだった。

夜になっても、まだ迷っていた。話すべきか、話すべきでないか。紗季の「無理です」という声が、何度も頭の中で繰り返された。それでも、一人で抱えていられる量をもう超えている気がした。

何をどこまで話すべきか、何度もシミュレーションした。腕の痣を見せるべきか。朝比奈という名字を、そのまま口にしていいのか。答えは、結局出なかった。ただ、隠したまま次に進むことだけはできないと思った。

月曜日の朝、佐伯はいつもより早くオフィスに着いた。紗季の席は、まだ空いていた。

「佐伯さん、その腕どうしたんですか」

隣の席の同僚が、シャツの袖からのぞく痣に気づいて聞いてきた。

「ちょっと、ぶつけただけです」

佐伯は袖を軽く引いて隠した。それ以上、聞かれることはなかった。

自分の席に着いてからも、腕の痛みはまだ残っていた。昨日の男の声を、もう一度思い出す。あなたのことも、水野さんのことも見てます。あの一言の重さは、時間が経っても薄れなかった。

始業時刻の少し前、紗季が出社してきた。デスクの角を揃え、ペン立ての向きを直すいつもの仕草をする。

佐伯はその背中に近づいた。

「話したいことがあります」

紗季は手を止めて振り返った。佐伯の顔を見て、何かに気づいたようだった。

「何があったんですか」

紗季の声には、これまでにない硬さがあった。

「今は言えません。人がいない場所で話したいです」

紗季はしばらく黙って佐伯を見ていた。それから、小さく頷いた。

「昼休み、屋上に来てください」

それだけ言うと、紗季は自分の席についた。いつもと変わらない速さで、パソコンを立ち上げる。

その横顔を見ながら、佐伯は昨日の男の言葉を思い出していた。

あなたのことも、水野さんのことも見てます。

紗季には、まだ何も話していなかった。だが、もう一人だけの問題ではなくなっている。そのことだけは、確信していた。


第七章

屋上に続く扉は、いつも施錠されていた。今日だけは、開いていた。

昼休みのチャイムが鳴ってすぐ、佐伯は階段を上った。踊り場の窓から差し込む光が、段ごとに濃さを変えていく。最後の扉を押すと、外気が一気に流れ込んできた。九月の日差しはまだ強く、風だけが少し秋めいていた。

紗季はフェンスの前にすでに立っていた。後ろ姿だけで、待っていたことがわかった。空調の室外機が並ぶ隙間から、街のざわめきが遠く上ってくる。誰もいない屋上には、その音だけが満ちていた。

「何があったんですか」

紗季は振り返らずに言った。声は静かだったが、いつもより張り詰めていた。佐伯は、しばらくフェンスの手前で足を止めたまま動けなかった。持ってきたはずの言葉が、いざとなると出てこない。結局、順を追って話すしかないと腹を決めた。

「土曜日、あのアパートの近くを歩きました」

紗季の背中が、わずかにこわばった。それでも、振り返りはしなかった。佐伯はその背中に向かって続けた。近くの商店に立ち寄ったこと。店主から聞いた七年前の噂。隣県の行方不明事件の記事に「朝比奈」という名字が出ていたこと。一つ話すごとに、紗季の肩が少しずつ強張っていくのがわかった。話しながら、佐伯自身も自分の声が上ずっていくのを感じていた。

「登記簿も、確認しました」

そう言うと、ようやく紗季がこちらを振り向いた。表情は、思ったより静かだった。だが目の奥には、これまで見たことのない色が浮かんでいた。怒りとも違う、追い詰められたときだけに出るような色だった。

「あのアパートの持ち主は、朝比奈修一という人でした。周辺にも、同じ名字の土地がいくつもありました」

「勝手に、何をしてるんですか」

紗季の声が、初めて鋭くなった。フェンスを握る手に力が入り、金網がかすかに鳴った。

「危ないって、何度も言いました。約束したじゃないですか、調べないって」

「していません、そんな約束は」

佐伯は静かに言い返した。

「僕は、手伝わせてくださいとしか言っていません。あなたが無理ですと言っただけです」

紗季は、それきり黙り込んだ。反論の言葉を探しているようで、見つからないようでもあった。風が、二人の間を通り抜けていく。遠くで電車の走行音がした。

佐伯は覚悟を決めてシャツの袖をまくった。腕に残った青紫の痣が、昼の光の下でくっきりと見えた。紗季の視線が、そこに吸い寄せられる。

「その帰り、男に声をかけられました。前に、あのアパートから出てきた男です」

「なんて、言われたんですか」

紗季の声から、鋭さが消えていた。代わりに、何かを恐れるような色が滲んでいた。

「調べるなと。それから、あなたのことも水野さんのことも見てますと。もう、僕だけの問題じゃなくなってます」

沈黙が落ちた。紗季はフェンスの向こうの景色に目を戻し、しばらく動かなかった。表情は読めなかったが、呼吸だけが少し浅くなっているのがわかった。佐伯はその横顔を見つめながら次の言葉を待った。急かすつもりはなかった。ただ、ここで引く気もなかった。

「なんで、そこまでするんですか」

ようやく紗季が口を開いた。声は、かすかに震えていた。

「関わるなと、何度も言ったのに」

「関わりたいからじゃないです」

佐伯は言った。自分でも、思ったよりはっきりした声が出た。

「もう、関わってるからです。あなたが止めても、向こうが勝手に僕を巻き込んだんです」

紗季は、しばらく黙ったまま遠くのビル群を見つめていた。やがて、小さく息を吐く。

「その男、右足を少し引きずってましたか」

「はい」

「知ってます、その人。向こうの下っ端です。前にも、似たようなことをされたことがあります」

紗季はそう言うとフェンスに額を軽く預けた。うつむいた横顔に、疲れが滲んでいた。これまで会社で見せてきた硬さとは、明らかに違う表情だった。

「だから、余計に佐伯さんを巻き込みたくなかったんです」

「もう、隠しても意味がないみたいですね」

しばらくの沈黙のあと、紗季は前を向いたまま絞り出すように言った。

「私には、姉がいました」

その一言に、佐伯は息を止めた。予想はしていたはずなのに、実際に言葉として聞くと重さがまるで違った。

「一年前、いなくなりました。今、私が探しているのは、その人です」

「さっきの、七年前の記事の女性は」

「違います。その人が誰かは、私も知りません」

紗季は首を軽く横に振った。

「じゃあ、なんで朝比奈という名前が出てくるんですか」

「姉が消えたことに、その一族が関係してるんです。理由は、まだ話せません」

そう言うと、紗季は目を伏せた。しばらく、フェンスの金網の模様をなぞるように視線を落としていた。それから、独り言のように続けた。

「姉とは、昔から仲が良かったんです。子供の頃は、いつも一緒にいました」

「どんな、姉でしたか」

佐伯は努めて静かに聞いた。

紗季は、少し考えるような間を置いた。遠い記憶をたぐり寄せているようだった。

「頭が良くて、私よりずっと大人びてました。いつも、私を守ってくれるような人でした」

そこまで言うと、紗季は一度言葉を止めた。何かを懐かしむような、それでいて苦しそうな表情がよぎる。フェンスの向こうを見る目が、ほんの一瞬だけ子供のころに戻ったように見えた。

「子供の頃、二人でよく暗号みたいな遊びをしてたんです。姉が考えたルールで、手紙をやり取りする遊びでした」

「暗号、ですか」

「今の私にも、読めない言葉がたくさんあります」

紗季はそう言うと少し目を伏せた。声の調子が、わずかに揺れていた。

「その話は、また今度でいいですか」

「はい」

佐伯は、それ以上踏み込まなかった。今はまだ、そのときではない気がした。

「今も、生きてると思いますか」

紗季はしばらく答えなかった。フェンス越しの景色を見つめる横顔が、風に少し揺れる髪の下で強張っていた。

「生きてると、信じてます。信じてないと、続けられないので」

「朝比奈という一族と、姉はどう関係してるんですか」

「それは、まだ話せません。話せば、佐伯さんがもっと危険になります」

「もう、危険になってます」

佐伯は言った。

紗季は初めて小さく笑ったように見えた。表情の変化としては、これまでで一番大きなものだった。それでも、目の奥の疲れは消えなかった。

「頑固ですね」

「よく、言われます」

沈黙が、少し柔らかくなった気がした。風が止み、遠くの車の音だけが聞こえていた。紗季は、フェンスから少し身体を離すとこちらに向き直った。

「一つ、提案があります。佐伯さんが自分で動くのは、もうやめてください。その代わり、知ったことは私に報告してください。判断は、私がします。危ないことは、佐伯さんにはさせません」

「それは、手伝わせろというのとは違いますよね」

「あくまで、報告だけです」

佐伯は少し考えた。求めていた形とは違った。それでも、これまでの拒絶よりはずっと近い距離だった。差し出された手を、無下にする理由はなかった。

「わかりました。約束します」

「守ってください」

紗季はまっすぐに佐伯を見た。街灯の逆光ではなく昼の光の下で見るその目は、思ったよりずっと疲れているように見えた。それでも、そこにはこれまでなかった何かが宿っていた。頼るという行為に、まだ慣れていないぎこちない色だった。

「その代わり、一つだけ聞かせてください。朝比奈という名前について、他に何か知っていることはありますか」

紗季は少し黙った。それから、静かに口を開いた。

「その一族が、あのアパートの周辺を含めて、この辺り一帯を仕切ってます。表向きは、不動産業です」

「裏では」

「それも、まだ言えません」

紗季は、それだけ言うとフェンスから完全に身体を離した。屋上を出る階段の方へ、先に歩き出す。

「時間です。戻りましょう」

昼休みの終わりを告げるチャイムが、遠くの校舎か何かから鳴り響いていた。二人は無言のまま扉に向かった。扉に手をかけたところで、紗季がふと足を止めた。

「姉の名前、彩花といいます」

それだけ言うと、紗季は先に階段を降りていった。佐伯はしばらくその場に立ち尽くしたまま名前を口の中で繰り返した。彩花。これまで断片でしか知らなかった存在に、初めて輪郭が与えられた気がした。

その日の午後、仕事の合間にも佐伯は何度もその名前を思い浮かべた。彩花という名前と、朝比奈という名字が頭の中でどうしてもつながらない。紗季の名字は水野のはずだった。夕方、資料を届けに紗季の席に寄ったとき思い切って小さな声で聞いてみた。

「彩花さんは、水野さんじゃないんですか」

紗季は一瞬だけキーボードを打つ手を止めた。

「今は、違う名字です」

それ以上は、答えなかった。指はすぐにまた動き出し、いつもの速さでキーを叩き続けた。会話は、そこで完全に閉じられていた。

その日の夜、佐伯は約束通りノートを閉じたままにした。新しく調べることは、しないと決めていた。その代わり、これまで書き留めたことを一つずつ整理し直した。一年前に姿を消した姉、彩花。関係があるらしい朝比奈という一族。今は別の名字を名乗っているらしいという事実。七年前の記事の女性については、まだ何一つつながっていない。

書き出してみると、疑問はむしろ増えていく気がした。彩花はなぜ名字を変えているのか。朝比奈家と、どう関わっているのか。七年前の女性は、本当に無関係なのか。生きているとして、彩花は今どこにいるのか。姉妹の間で交わされていたという暗号のことも、頭から離れなかった。子供のころの遊びが、なぜ今も紗季を苦しめているのか。読めない言葉がある、という言い方がただの思い出話にしては重すぎる響きを持っていた。

紗季が求めたのは「報告」だけだった。だが、この情報をどう報告すればいいのか佐伯にはまだわからなかった。伝えるべきことと、まだ胸にしまっておくべきことの境目がうまく引けなかった。ノートを閉じる前に、最後の行に書き足した。彩花。名字、不明。姉妹の暗号、詳細不明。

翌日以降、紗季との距離は少しずつ変わっていった。業務連絡のついでに、以前より一言二言余計な会話が交わされるようになった。大きな変化ではなかったが、確かな変化だった。すれ違う廊下で目が合う回数も、心なしか増えていた。

その週の水曜、昼休みの給湯室で二人きりになったとき紗季が珍しく自分から声をかけてきた。

「彩花の話、少しだけしてもいいですか」

佐伯はコーヒーを淹れる手を止めて頷いた。

「昔、姉が使ってたノートが、実家に残ってるはずなんです。もう何年も、見てないんですけど」

「そのノートに、暗号が」

「多分」

紗季は、それだけ言うとカップを持って給湯室を出ていった。話は、あっけなく途切れた。それでも、佐伯には十分すぎるほどの手がかりだった。翌日、廊下で紗季を見かけたとき思い切って聞いてみた。

「そのノート、いつか見せてもらえますか」

紗季は少し困ったような顔をした。

「まだ、決めてません」

「無理にとは、言いません」

「考えておきます」

それ以上は進まなかった。それでも、以前のように話を打ち切られることはなかった。小さな変化の積み重ねが、佐伯には確かに感じられた。

その週末、隣の席の同僚が冗談まじりに言った。

「佐伯さんと水野さん、最近よく喋ってますね」

「そうですか」

佐伯は、それだけ答えて視線をパソコンの画面に戻した。何と説明すればいいのか、自分でもわからなかった。恋愛の話ではない。かといって、ただの同僚とも言い切れない。名前のつけられない距離感のまま、二人の関係は続いていた。

その夜、寝る前にもう一度あの屋上での紗季の顔を思い出した。姉の名前を口にしたときだけ、いつもの硬さが少しだけ緩んでいた。あの一瞬の表情が、何よりも雄弁だった気がした。実家に残っているという姉のノート。そこに書かれているという、まだ誰にも読めない言葉。次に何が起きるのか、佐伯にはまだ見当もつかなかった。それでも、報告関係という細い糸を通して紗季との距離は確実に縮まり始めていた。

一方で、あの男の言葉も忘れてはいなかった。あなたのことも、水野さんのことも見てます。黒い車も腕の痣も、まだ消えたわけではない。約束を交わしたからといって、危険そのものが去ったわけではなかった。佐伯は腕の痣にそっと触れた。痛みは、もうほとんど引いていた。それでも、あの日の重さだけはまだ消えずに残っていた。


第八章 暗号ノートとの再会

実家に帰るのは、半年ぶりだった。

土曜日の午後、紗季は最寄り駅からバスに揺られていた。車窓を流れる景色は記憶よりも古びて見えた。田んぼの区画は変わらないのに、周りの家がいつの間にか建て替わっている。見覚えのない外壁の色が、続けざまに窓を過ぎていった。

家に着くと母が出てきて、珍しいわねと言った。用件は伏せたまま、掃除を口実にして紗季は二階へ上がった。階段は記憶より狭く、踏むたびに軋む音まで昔のままだった。

彩花の部屋は、七年前からほとんど手つかずのまま残されていた。ベッドのシーツは変えられているらしく皺一つなかったが、机の上の文房具立てや壁のカレンダーは当時の位置からずれていなかった。母がときどき掃除機だけかけているのだろう。空気の匂いにも、生活の気配は感じられなかった。

本棚には、姉が好きだった児童書がそのまま並んでいた。背表紙の色あせ方まで、記憶にある通りだった。紗季はその一冊を抜き出しかけて、思い直して棚に戻した。今日、探しているのはそれではない。

紗季は机の引き出しを順に開けていった。一段目には便箋と古い切手。二段目には使われないままのシャープペンシルが何本も転がっている。目当てのものは、三段目の一番奥にあった。

大学ノートだった。表紙はもとの青色がほとんど褪せて、灰色に近い色になっている。ゴムバンドで留められたそれを手に取ると、紙の重みが思いのほか掌に残った。子供の頃、姉が肌身離さず持ち歩いていたノートだ。塾の帰り道、姉はいつもこれを鞄の底から取り出しては何かを書きつけていた。

ゴムバンドを外そうとした指が、途中で止まった。開けば、何かが変わってしまう気がした。ここで一人で開くべきではない。そう思って、紗季はノートをそのまま鞄の内側に押し込んだ。

一階に戻ると、母が台所から声をかけてきた。夕飯を食べていくかという問いに、仕事があるからと答えて紗季は靴を履いた。玄関先で振り返ると、母は何か言いたそうな顔をしていた。それでも、結局何も言わなかった。彩花の名前は、この家ではもう長く口にされていない。父の椅子も、居間に置かれたままだった。定年後は毎日そこに座っていた父も、今日は姿を見せなかった。

バスの窓に額を寄せて、紗季は鞄の中のノートの重みを何度も意識した。子供のころの遊びだと、佐伯にはそう説明した。だが実際には、あれは遊びという言葉で片づけられるものではなかった気がする。姉が考えたルールは複雑で、覚えるのに何か月もかかった。読めない言葉がまだ残っていると口にしたとき、佐伯がどんな顔をしていたかを紗季は思い出していた。

自宅に着いたのは、夜の七時を過ぎたころだった。紗季は佐伯にメッセージを送った。ノートが見つかったこと、今夜なら時間があること。短い文面を打ち終えて送信ボタンを押すまで、思いのほか長く迷った。

佐伯は三十分後に、部屋の前に立っていた。手には、コンビニの袋を提げている。中身は、缶コーヒーが二本だけだった。

「差し入れです、といっても大したものじゃないですが」

そう言って袋を差し出す顔には、緊張と好奇心の両方が浮かんでいた。紗季は袋を受け取り、部屋の中へ促した。誰かを部屋に上げるのは、ずいぶん久しぶりのことだった。

狭いテーブルを挟んで向かい合うと、紗季は鞄からノートを取り出した。ゴムバンドを外す指先が、少しだけ震えているのが自分でもわかった。表紙をめくる前に、一度だけ深く息を吸う。

「本当に、いいんですか」

佐伯が聞いた。確認というより、覚悟を促すような響きがあった。

「今更、やめるとも言えません」

紗季はそう答えて、表紙を開いた。

最初の数ページは、ただの落書きだった。姉が描いた下手な猫の絵。日付だけが書かれたページ。子供の字で「ひみつのノート」と書かれた一行。それを見て、紗季は喉の奥が詰まるのを感じた。それでも、声には出さなかった。

ページをめくるうち、文字の様子が変わり始めた。ひらがなやカタカナの代わりに、丸や三角や点の組み合わせが並んでいる箇所が出てくる。一見すると幾何学模様のようだが、行の並びは明らかに文章の体裁を保っていた。紗季は指の腹でその一行をなぞった。子供の指が繰り返し触れた跡なのか、紙の表面がわずかにざらついていた。

「これが、暗号ですか」

佐伯が身を乗り出した。

「多分」

紗季はページの端を指でなぞった。記号の並びには、見覚えのあるものといくつかまるで初めて見るものが混ざっていた。

「姉が考えたルールがあったはずなんです。あ行は丸、か行は三角、みたいな感じで」

「でも、全部は覚えてないと」

「はい。途中から、記号が増えてるんです」

紗季はページをさらにめくった。前半は単純な記号の組み合わせだった。だが後半になるにつれて記号の種類が増え、規則性を見出すのが難しくなっていく。子供のころは、姉に直接聞けば済んだ。今となっては、それができない。

ノートの中ほどに、ルールらしきものが書かれた一枚が挟まれていた。表を作るように記号と文字が対応づけられているが、紙の端が破れており対応表の三分の一ほどが欠けている。破れた縁は古く、最近のものではなさそうだった。

「これさえあれば、読めそうなのに」

佐伯がそのページを見つめて言った。

「昔から、こうだったと思います。多分、姉がわざと破ったんです」

「わざと」

「全部を渡す気は、なかったんだと思います」

紗季は自分でそう言いながら、その言葉の重みに少し戸惑った。姉が誰に対して、何を隠そうとしていたのか。子供のころの姉の意図など、今となっては知りようもない。

ノートの終わりに近づくにつれて、紙の劣化の具合が変わっていることに紗季は気づいた。前半のページは黄ばみ、インクも滲んで薄くなっている。だが最後の数ページだけは、紙の白さが明らかに違っていた。書かれている記号の筆致も、違っていた。丸みを帯びた幼い字ではなく、大人びた硬い線に変わっている。ページをめくる指先が、そこで一瞬止まった。

「ここだけ、新しいですね」

佐伯が指摘した。紗季も同じ箇所を見つめていた。

「多分、大人になってからも書いてたんだと思います」

声が、思ったより掠れた。子供のふりをしていた最後の数ページに、彩花はいったい何を書き残したのか。紗季はそのページに指を這わせた。記号の連なりの中に、同じ並びが三回繰り返されている箇所があった。単なる偶然とは思えない規則性だった。

「この並び、同じですよね」

紗季が言うと、佐伯も身を寄せてページを覗き込んだ。

「本当だ。三か所とも、同じ記号が続いてます」

紙の端には、小さく日付らしき数字も記されていた。彩花が姿を消したとされる時期と、そう遠くない日付だった。紗季はその数字を何度も見返した。

「これ、彩花さんが消える少し前ってことですよね」

佐伯が静かに聞いた。

紗季はすぐには答えられなかった。子供のころの遊びだと自分に言い聞かせてきたものが、急に別の重みを持って目の前に立ち上がってくる。ただの思い出ではない。これは、姉が最後に遺した言葉かもしれなかった。

「読んでみたいです」

紗季はノートを閉じずに、そう言った。

「壊れてる対応表だけじゃ、無理じゃないですか」

「わかりません。でも、全部じゃなくても半分あれば、何か見えるかもしれません」

佐伯はしばらく黙ってノートを見つめていた。それから、静かに頷いた。

「手伝います。今度こそ、報告じゃなくて」

紗季はその言葉に、すぐには何も返せなかった。窓の外を車が一台、走り過ぎていく音がした。缶コーヒーはまだ、二本とも封を切られていなかった。

「今日は、もう遅いので」

紗季はノートを閉じ、ゴムバンドをかけ直した。だが指は、なかなかそこから離れなかった。

「次、会えるときに続きをやりましょう」

佐伯はそう言って立ち上がった。玄関先で靴を履きながら、もう一度だけノートの方を振り返る。

「あの記号の並び、絶対に意味があります」

「そう思います」

紗季はドアを閉めたあと、しばらくその場に立ち尽くしていた。テーブルの上には、開かれたままのノートが残っている。三回繰り返された記号の並びが、蛍光灯の下で静かに紙面に浮かんでいた。

紗季はテーブルに戻り、破れた対応表の縁に指を添えた。欠けた部分の形は、何かを切り取ったというよりも無理に引き裂かれたもののように見えた。姉が自分の意思で破ったのか、それとも誰かに破られたのか。今の紗季には判断のしようがなかった。

姉が最後に何を書き残そうとしたのか。答えはまだ、どこにもなかった。それでも、初めて何かに手が届きそうな気がしていた。紗季はノートを閉じ、明日も同じ時間にここで続きを開こうと心に決めた。


第九章 暗号に挑む①

紗季の部屋に上げてもらった翌週、今度は佐伯の部屋に紗季を招くことになった。

「散らかってますけど」

そう言いながら佐伯は玄関の靴を隅に寄せた。実際には、散らかっているというほどでもなかった。ただ誰かを招くために整えた形跡が随所にあることは、自分でも気づいていた。座卓の上に、コピー用紙とシャープペンシルを何本も並べておいたのもその一つだった。

一人暮らしの部屋に、女性を上げるのは初めてだった。カーテンの色まで気にしてしまった自分に、佐伯は少し呆れていた。紗季の部屋を訪ねたときは、あちらのペースに乗るだけで精一杯だった。今日は逆の立場だと思うと、妙に落ち着かなかった。

紗季は部屋に上がると、物珍しそうに本棚を眺めた。それから何も言わず、座卓の前に腰を下ろした。鞄からノートを取り出す仕草に、前回よりも迷いがなかった。窓の外では、九月の終わりだというのにまだ蝉の声が細く残っていた。

「今日は、腰を据えてやりましょう」

佐伯はそう言って、破れた対応表のページを開いた。欠けた部分を除いても、記号と文字の対応がいくつかは読み取れる。丸の記号に「あ」、三角の記号に「か」。だが、それ以外の行との関係が判然としなかった。

学生時代、佐伯はパズルや数式の類が得意だった。就職してからは、そうした頭の使い方をする機会もほとんどなくなっていた。だが、この記号を前にすると当時の感覚が少しずつ蘇ってくるのを感じた。単なる好奇心とは違う、答えにたどり着くまでやめられないという種類の焦りだった。

「まず、わかってる分だけ書き出しましょう」

佐伯はコピー用紙に表を作り始めた。左側に記号の形、右側に対応する文字。判明している分は、驚くほど少なかった。

「丸が、あ行。三角が、か行」

「四角が、さ行だったと思います」

紗季が横から言った。記憶をたどるような、慎重な口調だった。

「ひし形は」

「多分、た行です。自信は、ないですけど」

佐伯はその通りに書き足した。四つの図形と、それに対応する行。だが問題は、その先にあった。同じ丸の記号でも、「あ」なのか「い」なのか「う」なのか区別する方法がわからない。図形の中には、点の数が違うものがいくつも混ざっていた。

「この点の数、意味があると思うんです」

紗季がページの一部を指した。丸に一つ点がついた記号と、丸に三つ点がついた記号が別々の箇所に現れている。

「段を表してるんじゃないですか。あ段、い段、う段、みたいに」

佐伯は言いながら、自分の仮説に少し興奮していた。五十音は行と段の組み合わせでできている。図形が行を表し、点の数が段を表すなら理屈は通る。

「試してみましょう」

二人は、あの晩見つけた三回繰り返しの記号列を紙に書き写した。丸に一点、三角に三点。四角には二点がついている。仮説通りなら「あ」「く」でも「か」でもない何かになるはずだった。

「あ、か……」

佐伯は仮の表と首っ引きになりながら文字を当てはめていった。だが、途中でつまずいた。ひし形に対応する段が確定していない。適当に当てはめても、意味のある言葉にはならなかった。

「あさし……にならないですよね」

紗季が眉を寄せた。

「点の数と段の対応が、逆かもしれません」

佐伯は言い直した。一点をお段とし、五点をあ段と仮定してもう一度当てはめてみる。それでも、出てくるのはやはり意味を成さない文字の羅列だった。

途中、一度だけそれらしい単語が浮かんだこともあった。三文字目までを別の規則で当てはめると「あさひ」と読める並びが出てきたのだ。佐伯は思わず声を上げかけたが、残りの記号にその規則を当てはめると途端に破綻した。四文字目以降が、どうしても文字として成立しない。紗季も一瞬だけ目を輝かせたが、すぐに肩を落とした。

「駄目みたいです」

「惜しい気は、したんですけど」

佐伯はその案も消しゴムで消した。都合よく読める言葉が出てきても、それだけでは規則が正しい証拠にはならない。むしろ、そういう偶然の一致にこそ注意しなければならないと自分に言い聞かせた。

一時間ほど、二人はその作業を繰り返した。仮説を立てては当てはめ、成立しないと悟っては消しゴムで消す。座卓の上には、消しゴムのかすがいくつも積もっていった。

「駄目ですね」

紗季がペンを置いて、小さく息をついた。窓の外は、いつの間にか夕方の色になっていた。

「一度、休憩しましょう」

佐伯はそう言って、台所から麦茶を淹れてきた。グラスを渡すと、紗季はそれを両手で包むように持った。

「子供のころ、これ本当に読めてたんですか」

佐伯は聞いた。純粋な疑問だった。

「読めてました。姉が作ったルールですから、姉に聞けばすぐでした」

紗季はグラスを見つめながら答えた。

「毎週、手紙を交換してたんです。学校が終わったあと、姉の部屋の扉の下に、折りたたんだ紙を差し込んで」

「返事も、暗号で」

「はい。最初のうちは、簡単な単語だけでした。名前とか、好きな食べ物とか」

紗季は少しだけ目を細めた。懐かしむというより、記憶の輪郭を確かめるような表情だった。

「だんだん、複雑になっていったんです。姉が、ルールを増やしていって」

「なんで、そんなに凝ったルールに」

佐伯が聞くと、紗季は少し考えるような間を置いた。

「一度、母に見つかりかけたことがあったんです」

紗季はぽつりと言った。

「そのときの姉、ものすごく慌ててました。普段、あんなに焦る人じゃなかったのに」

「見つかったんですか」

「いえ、机の引き出しに隠すのが、ぎりぎり間に合いました。でもそれから、ルールがどんどん複雑になっていったんです」

紗季はそこで一度言葉を切った。指先がノートの表紙をなぞっている。

「多分、姉なりの理由があったんだと思います。当時は、ただの遊びだと思ってました」

「理由、というのは」

「親に読まれたくない話も、あったんだと思います。今になって、そう思うだけですけど」

その一言に、佐伯は手を止めた。子供の姉妹が、両親にすら明かさない言葉のやり取りを続けていた。単なる遊びの延長にしては、動機が重く聞こえた。

「例えば、どんな話を」

「わかりません。それこそ、暗号だったので」

紗季は苦笑いのようなものを浮かべた。だが目は、笑っていなかった。

「呼び方も、決めてたんです。姉のことは、暗号の中だけの名前で呼んでました」

「名前、というのは」

「それも、暗号なんです」

紗季はそう言って、初めてわずかに口の端を上げた。子供のころの秘密を、まだ律儀に守っているような仕草だった。

麦茶を飲み終えると、二人は再び座卓に向き合った。佐伯は仮説を根本から見直すことにした。点の数を段に対応させる発想自体は、悪くないはずだった。問題は、対応の方向かもしれない。

「点じゃなくて、線の向きも見てみませんか」

佐伯は改めて記号をよく見た。単なる点ではなく、小さな線のようなものがついている図形もあった。線の向きには、いくつかの種類があるようだった。これまで点の数としてまとめて数えていたものの中に、実は違う種類の印が混ざっている可能性があった。

「これ、点じゃなくて、線ですね」

紗季も気づいたようだった。ページの端に鼻先を寄せて、記号を睨んでいる。

「線の向きで、段を分けてるのかもしれません」

佐伯は新しい表を作り直した。上向きの線を一段目、右向きを二段目として仮の規則を当てはめていく。時間はかかったが、さっきよりも手応えがあった。

三回繰り返された記号列に、もう一度その規則を当てはめてみる。佐伯は一文字ずつ、慎重に文字を置き換えていった。

「み……ず」

最初の二文字を書き出したところで、佐伯の手が止まった。紗季も、紙の上の文字を見つめたまま動かなかった。

「水野、の水、でしょうか」

佐伯が聞いた。声が、自分でも思ったより掠れていた。

「続き、出してみてください」

紗季が急かすように言った。佐伯は残りの記号に、同じ規則を当てはめていった。だが三文字目からは、また意味の通らない文字になってしまう。規則は、完全には合っていないらしかった。

「途中まで、当たってる気がします」

佐伯は言った。

「水」という一文字が正しいとすれば、行の対応も段の対応も大枠では間違っていないはずだった。あとは、細部のずれをどう修正するかだった。

「今日は、ここまでにしましょう」

紗季がそう言って、ノートを閉じかけた。だが、その手はすぐには止まらなかった。もう一度、ページを開き直す。

「水、っていう字、姉が好きだった気がします」

紗季が呟くように言った。

「好きだった、というのは」

「昔、水彩画を習ってたんです。姉が、水って字が好きだって言ってたのを、なんとなく覚えてます」

佐伯は、その言葉をノートの端に書き留めた。手がかりと呼べるほどのものではないかもしれない。それでも、姉という存在が記号の向こう側で少しずつ輪郭を持ち始めているのを感じた。

「次、続きをやりましょう。線の向きの規則、もう少し詰められる気がします」

佐伯が言うと、紗季は小さく頷いた。

「はい。今度は、もっと持ってきます。他にも、姉の書いたものが残ってるかもしれないので」

窓の外はすっかり暗くなっていた。座卓の上には消しゴムのかすと書き損じた紙の束、それにたった二文字だけ読み取れた記号列が残っていた。それでも、佐伯にはその二文字がこれまでのどんな手がかりよりも重いものに思えた。

ノートを鞄にしまう紗季を、佐伯は玄関先まで見送った。靴を履きながら、紗季がふと振り返る。

「今日は、ありがとうございました」

「まだ、二文字ですけどね」

「それでも」

紗季はそこで言葉を切り、小さく頭を下げた。ドアが閉まったあとも、佐伯はしばらくその場に立っていた。座卓に戻り、書き損じた紙の束を一枚ずつ丁寧に重ね直す。捨てるには、まだ早い気がした。この失敗の一枚一枚が、次の手がかりにつながる気がしてならなかった。


第十章 暗号に挑む②

もう一度実家に帰る口実を、紗季は日曜日の朝までに用意していた。

母には、衣替えの手伝いだと伝えた。嘘ではなかったが、本当の目的はクローゼットの奥にしまわれた段ボール箱の方にあった。彩花の私物は、七年前の失踪騒ぎのあと一度整理されいくつかの箱にまとめられていた。中身を確かめたのは、紗季自身もこれが初めてだった。

押し入れの奥からその箱を引きずり出すだけで、埃が舞って喉の奥がざらついた。ガムテープには一度剥がされた跡があり、母がこれまでに一度は開けているらしいこともわかった。それでも、中の順番までは変えられていないようだった。

一段目の箱には、卒業アルバムと文集が入っていた。三段目の底に、紗季が探していたものはあった。小さなメモ帳が、輪ゴムで束ねて三冊。どれも表紙が擦り切れ、角が丸くなっている。開いてみると、あの記号がそこにも並んでいた。子供のころのノートよりも、線が硬く整っている。大人になってからのものだと、一目でわかった。

さらに奥から、一枚の紙が出てきた。折り目の多い便箋に、記号と文字の対応表が几帳面な字で書き写されている。破れたノートの対応表には欠けていた部分が、ここにはすべて揃っていた。字の乱れがほとんどないところを見ると、時間をかけて丁寧に作られたものらしい。誰かに読ませるために用意されたとしか思えなかった。

段ボール箱を元に戻し、紗季はメモ帳と対応表だけを鞄に入れた。母には、特に必要なものはなかったと伝えた。嘘だとわかるくらい、声が硬くなっている自覚があった。それでも、母は何も聞き返さなかった。

その日の夕方、佐伯を自宅に呼んだ。座卓に対応表を広げると、佐伯は身を乗り出して食い入るように見た。

「これ、探してたものそのものじゃないですか」

「実家の、姉の荷物の中にありました」

紗季はそう言いながら、メモ帳の輪ゴムを外した。指先に、まだ土曜日の埃の匂いが残っている気がした。

「早速、試してみましょう」

佐伯は前回の表と照らし合わせながら、対応表を書き写していった。た行はひし形。な行は星。は行は十字。段については、線の向きで正しかったことがはっきりした。上向きが一段目。右向きが二段目。下向きが三段目。五方向で五段を表す仕組みだった。前回の推測は、大枠では間違っていなかったらしい。

「合ってました。線の向きの方が、正解だったんです」

佐伯の声が、わずかに上ずっていた。紗季は例の三回繰り返しの記号列を、もう一度紙に書き写した。今度は完全な対応表がある。一文字ずつ、迷いなく置き換えていくことができた。

「み、ず、う、み」

「湖」

佐伯が呟いた。

「みずうみ、って読むんですか。地名でしょうか。それとも」

「わかりません。でも、三回も同じ言葉が出てくるのは」

紗季は書き写した紙を見つめたまま、言葉を切った。偶然とは思えなかった。姉のノートに、繰り返し現れる四文字。それが、ただの単語遊びであるはずがなかった。

「他のページも、解読してみましょう」

佐伯が言った。紗季は頷き、大人になってからのメモ帳を開いた。単語の羅列に近い箇所が多く、文章として組み立てるにはまだ骨が折れそうだった。それでも、二人は一行ずつ根気よく置き換えていった。最初に読み取れたのは、日付らしき数字だった。次に、短い単語がいくつか。「よる」「くるま」「みはり」。

「見張り、って書いてありますね」

佐伯が指摘した。声に、緊張が滲んでいた。紗季の手も、いつの間にか止まっていた。子供のころの遊びとして始まったはずの暗号が、今は姉の最後の日々を記録した文字として目の前にある。

次の行には「くろいくるま」という並びが出てきた。佐伯と紗季は、同時に顔を見合わせた。黒い車。それは、佐伯自身が警告のメモとともに目撃したものと同じ言葉だった。

「これ、僕が見たのと同じ」

佐伯の声が、掠れていた。角ばった文字で「調べるな」とだけ書かれた、あの夜の一枚を紗季も忘れていなかった。

「姉も、同じものを見てたってことでしょうか」

紗季が言いかけたとき、座卓の上でスマートフォンが震えた。画面には、見覚えのない番号が表示されている。市外局番だけの、非通知に近い並びだった。

「出ない方が、いいんじゃないですか」

佐伯が小さく言った。だが着信は鳴り止まなかった。五回、六回と数えるうちに仕事の連絡かもしれないと思い直した。紗季は思い切って通話ボタンに触れた。

「もしもし」

応答はなかった。回線はつながっているらしく、かすかに空気の揺れるような音だけが聞こえた。換気扇の音にも、風の音にも似ていない。誰かが向こう側で、無言のまま息をひそめている気配があった。

「もしもし、水野ですが」

それでも、返事はなかった。数秒の沈黙のあと、ふっと息を吐くようなごく小さな音が耳に届いた気がした。直後に、通話は一方的に切れた。紗季は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。手の中で、スマートフォンだけがまだ微かに熱を持っていた。

「今の、誰だと思いますか」

佐伯が聞いた。声から、いつもの穏やかさが消えていた。

「わかりません。番号も、知らないものでした」

紗季は着信履歴を開いたまま、佐伯にスマートフォンを差し出した。表示されているのは、市外局番だけの短い数字列だった。二人とも、それが何を意味するのか判断がつかなかった。

「偶然、ですかね」

佐伯が言った。だが、その声には自分自身を納得させようとする響きがあった。紗季は何も答えず、スマートフォンを裏返しにして座卓の隅に置いた。

その後は、二人とも作業に集中しきれなかった。それでも、ページをめくる手だけは止めなかった。さらに数行を置き換えると、比較的長い一文が見つかった。時間をかけて一文字ずつ置き換え、紗季はその文をノートに書き出した。

湖のいえに、しばらくかくれる。

書き終えた瞬間、紗季の手からペンが滑り落ちそうになった。急いで握り直す。

「湖の家って、心当たりありますか」

紗季は首を横に振った。実家の近くにも、勤め先の周辺にも湖と呼べるような場所はなかった。姉が一人で知っていた場所があったということだろうか。

「今日は、ここまでにしましょう」

窓の外はすでに暗くなっていた。紗季はメモ帳を閉じ、対応表とともに鞄にしまった。玄関先まで、佐伯を見送りに出る。

「今の電話のこと、気にしすぎない方がいいですよ。多分」

佐伯はそう言いながら、靴を履いた。だが言葉の途中で、その動きがふと止まった。ドアの隙間から、通りの様子に目を凝らしている。

「どうしました」

紗季が聞くと、佐伯は無言のまま外を指した。街灯の届かない位置に、黒い車が一台停まっていた。エンジン音はしない。窓には、誰も乗っていないように見える暗さがある。だが、佐伯には見覚えがあった。以前、あの町のアパート周辺で見たものと車種も色もよく似ていた。

「僕の見間違いかもしれません。でも」

佐伯は言葉を濁したまま、それ以上は言わなかった。紗季もドアの陰から、同じ方向をしばらく見つめていた。車は動かない。ヘッドライトも、点いていない。ただそこにあるだけで、二人の間に重い沈黙を運んできた。

二人は、しばらく息を殺すように様子をうかがった。一分ほど経ったころ、車体がわずかに揺れたように見えた。エンジンがかかる音までは聞こえなかった。だが次に目を戻したときには、その場所から車の姿は消えていた。走り去る音すら、二人の耳には届かなかった。

「今夜は、送っていきます。一人にはしません」

佐伯が言った。紗季は何も答えず、小さく頷いた。ドアを閉めるとき、鍵をかける手がいつもよりわずかに強張っていた。

二人は連れ立って外に出た。車のあった場所には、タイヤの跡すら残っていない。乾いたアスファルトが、街灯の光の下で何事もなかったように広がっているだけだった。佐伯は歩きながら、何度も後ろを振り返った。紗季も、つられて同じ方向に目をやった。追ってくる気配はなかった。それでも、安心できる材料は一つもなかった。

「あの番号、明日にでも調べられないか聞いてみます」

佐伯が言った。紗季は小さく頷いたが、答える声は出てこなかった。

湖の家に黒い車、そして名も知らぬ番号からの無言電話。バラバラだったはずの点が、今夜になって急に一つの線でつながり始めている気がした。姉が遺した言葉の先に何が待っているのか、紗季にはまだ見当もつかなかった。それでも、これがただの謎解きでは済まないことだけははっきりとわかっていた。


長編小説は、難しいなあ・・・
一旦ここで筆をおいて

別の案で書き直してどちらが面白いか検討します。




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