【60代短編】手から、手へ
中村トメ、六十五歳。
型紙を彫って五十年になる。着物の染めに使う型だ。柿渋を引いた和紙に、小刀で文様を抜く。
染め上がった着物は褒められる。型を彫った者の名は残らない。五十年、名を残したことがない。
親方は十年前に死んだ。わたしは親方の最後の弟子だった。工房に彫師はわたし一人になった。
注文は減った。染物屋が機械の型に替えた。今月の注文は一枚もない。
小刀を握る。手が震える。細い線が二重になる。和紙を一枚、無駄にした。
弟子はいない。来る者もいない。工房を畳む日を、紙に書いた。
戸を開けて若い男が入ってくる。カメラを提げている。
「彫るところを、撮らせてください」
美大の学生だという。動画を上げているという。断る。男は帰らない。土間に座り込む。
錆びた小刀が道具箱にある。親方の形見だ。手に取る。砥石で研ぐ。刃が光る。
和紙に刃を当てる。手が震える。一本、線を抜いた。男がカメラを回す。
男は動画を上げた。三日で、見た者は十二人だった。そのうち九人は男の身内だという。
男は毎日通う。わたしは彫る。男は撮る。動画は伸びない。
染物屋から電話が来る。最後の得意先だった。機械の型に替えると言う。
「トメさんの型は、ええ型やった。けど誰も彫師の名前まで見いひん」
受話器を置く。道具箱を閉める。畳む日を、明日に早めた。
その夜、男がまた来た。手ぶらだった。カメラを持っていない。
「撮るのはやめます。彫り方を、教えてください」
男に小刀を握らせる。指を添える。刃の角度を教える。男の手が震える。わたしの手も震える。
「型は名を残さん。手が残る」
男はわたしの手を撮り直した。今度は顔を映さない。手だけを映した。動画に題をつけた。
わたしは彫り方を一つ教える。男は動画のことを一つ教える。教え合った。
手だけを映した動画は、少しずつ伸びた。
ある朝、英語の混じったメールが男に届く。海の向こうの美術館からだ。
差出人の名に、覚えがあった。三十年前、工房に来た学生だ。紙を買う金がないと言った。端切れの型紙を分けてやった。彫り方も無償で教えた。
その学生は、海の向こうでデザイナーになっていた。手だけの動画を見つけたという。師の手だと分かったという。
美術館が、型紙を集めているという。トメの型を、遺したいという。海の向こうから、彫りを習いに来る者がいるという。
春、工房に若い者が三人来た。日本の者が一人。海の向こうの者が二人。
畳むはずだった工房だ。畳まなかった。
親方の小刀を研ぐ。錆はもう出ない。美大の男に渡す。
「親方から、わたしがもろた。次はあんたや」
男が小刀を握る。手はもう震えない。刃を和紙に当てる。一本、線を抜いた。
小刀が、手から手へ渡っていく。
わたしは新しい和紙に柿渋を引く。次の型を彫る。手が震える。彫った型は、いつか誰かの手を通って着物になる。その着物を、わたしは見ない。

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