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​【生存戦略:vol.1】なぜ越後の中心は西の端だったのか?「上」を名乗る者の、矜持と挑戦。

​【お知らせ】 今回は新設マガジンの不定期歴史コラムをお届けします。来週からは、またいつもの1.5人旅(通常回)が再始動します

越後の心臓・1000年の継続性

なぜ、越後の中心は新潟ではなく、西端の上越だったのか。1000年続く『都』の記憶を歩いてみる。


1.​ なぜ上越は「都」であり続けたのか

このことは前々から疑問に思っていたこと。

越後国の中心地は昔から上越。

しかし越後の地域的には一番西の端。

あの細長い越後国になぜ端っこの上越が中心足り得たのか?

今回訪ねてみて色々調べた結果そこには戦国期だけでなくもっと深い歴史の層があり驚いた。

*本考察にあたっては、現地でのフィールドワークに加え、AI(Gemini)を用いた歴史資料の横断的なリサーチ/確認を補助として活用している。


2.【古代】越後国府: 京都への最短距離、海と陸のクロスロード


今回訪ねて見つけたのは越後には一宮が2つあるということ

自称の一宮とかじゃなく、ちゃんと一宮認定は過去受けたことのある2社だった。

今でも一宮の彌彦神社、そして元々延喜式神名帳では小社だったが平安末期、鎌倉に一宮化された居多神社。

なかなか面白い関係性だがそこには政治的なからくりがある。


ここ上越は奈良平安期には越後国府と呼ばれたところ。

国府=越後国の首都という意味。(都市の名前ではないがそれ以外の呼び名は見つけきれなかった)

じゃぁなぜここに国府が置かれたか?という理由は以下。

1.京都に近い。

2.直江津の港がある

3.複数の重要街道がこの地に収束していた

この3点が大きい理由。

要は当時の朝廷から見て越後国はもとから生産量が多く重要な土地だったこと。

直江津という天然の良港があり、船で米や金などの鉱物の運び出しが容易だったこと。

街道がいくつも集結するポイントであり、物資が集積しやすかったということ。

都(京都)に一番近く、越後国の中では一番到達しやすい土地だったこと。

大和朝廷のころ、越後の中部から北は最初蝦夷の勢力圏だったため、補給可能な最前線の土地は越後国府だったということ。(のちに朝廷はさらに北の新潟市や村上市あたりに「渟足柵」「磐舟柵」という防護柵・拠点を築いて前線を押し上げていくが、その補給・後方支援を担ったのが、この越後国府という都だったと思う。)

同時に守らねばならない都市でもあったこと。

このような様々な理由から現在の上越市に国府(律令時代の役所)が置かれ、日本海側の北の守りとなった。

その時に朝廷が設置したものが政庁、一宮、国分寺の3点セット。(政、武、宗教)

政治と軍事と宗教でこの地を影響下においたというのはわかりやすい。

因みにその時の太平洋側の北の守りは宮城県多賀城。

互いに境界都市であり共通点は多い。

多賀城も北に蝦夷がいる最前線、鹽竈神社(陸奥国一宮)、陸奥国分寺(若しくは多賀城廃寺の説もあり)と3点セットが有り、

立地的にも港である香津(古代の塩竈湊)、平野付近にあり(仙台平野)、朝廷が建てたと言うところまで同じ構造。

そういう意味で国府に近く、且つ政治的に居多神社が一宮化していったと思う。まさに「ヒト・モノ・カネ」が自動流入するチート立地。上越(春日山・直江津)は、4つの主要街道と日本海航路が完璧にクロスする、中世越後最大の「物流プラットフォーム」だった。

概念図: 古代大和朝廷の「北の防衛ライン」の構造共通性。最前線かつ補給拠点である境界都市には、政治・武・宗教を束ねる「3点セット」が戦略的に配置されていた。

3.​【中世】武神謙信公が「この場所(上越)」にこだわった地政学的理由

自分としての意見は、こだわって動かなかったわけでなく動く理由がなかったからが答えだと思う。

織田家は尾張からもっと物流の良い安土へ。

伊達家は岩出山(宮城県大崎市)から仙台へ。

他の武将は経済的なメリット等もっと条件のより優れた所(特に港の側や大きな街道沿い)に居城を移す。

戦国時代以前の越後国府は、まさに「陸と海の結節点」であり、複数の重要街道がこの地に収束していた。

その利点(強み)は中世(戦国や江戸)にも引き継がれこの地は繁栄していく。

京都からの文化の流入、各街道により物と人の交易、直江津の貿易。

まさにヒト・モノ・カネが集まり、政治的/軍事的だけでなく経済都市としても完全に越後の中心(都)となっていたと思う。

当時の輸送では輸入時大量輸送(船)、その後馬や人で各地に送る、または輸出時はその逆という輸送形態のため、

輸送にも使える港がある+港から大きな街道がいくつも出ている+平野で貯蔵庫群もあり+食料大量生産可能というのはもう立地だけでチート。

そこを治めているだけで、自動的にヒト・モノ・カネが集まる。

肥沃な大きな平野がある=食料がある=多くの人を養える=馬なども飼育できる=上杉家兵力の増強といいことづくめ。

しかしそのためか武田家のように領土欲で攻め込むことはあまりなかったように思う。(晩年は越中、能登などに出たが)

自分が思うに本拠地があまりに肥沃なためそこまでの領土拡張欲はなかったように感じる。

*甲斐武田家は山国であった為、金は産出しても平野部が少なく米は少なかった。よって食べる為、交易路を得る為等、生き残る為に領土を欲したと思う。

これが上杉家が大きく強かった本質であり、

上越(春日山、高田、直江津)が西の端であるにも関わらず、江戸末期まで越後の都だった理由だと思う。

概念図: まさに「ヒト・モノ・カネ」が自動流入するチート立地。上越(春日山・直江津)は、4つの主要街道と日本海航路が完璧にクロスする、中世越後最大の「物流プラットフォーム」だった。

​以下が当時の主要な街道(陸路)

​1. 北陸道(西方面)

​方向: 西(京都・近江方面)

​役割: 最も重要なメイン街道。京都から福井(越前)、金沢(加賀)、富山(越中)を経て、春日山/直江津に入る。

​都との繋がり: 律令時代から続く官道(国道)であり、人・物・情報の最大の流入路。(親鸞聖人が流罪で送られてきたのもこの道とのこと)

​2. 北国街道/善光寺街道

​方向: 南(信濃・甲斐・関東方面)

​役割: 直江津から関山、野尻湖、善光寺(長野)を経て、軽井沢方面へ抜ける街道。

​戦略的意味: 信濃の物資(山産物)が日本海へ出るための唯一の街道。上杉謙信が信濃へ出兵する際の「軍道」でもあった。

​3. 下道/北陸道(北東方面)

​方向: 北・東(新潟・出羽・奥州方面)

​役割: 直江津から海岸線に沿って柏崎、三条、新潟を経て、さらに北の山形庄内(出羽)方面へ向かう街道。

​意味: 当時は下越よりも上越の方が圧倒的に栄えていた為、北へ向かう道は「都(直江津)から地方へ下る道」。物資の輸送用。

​4. 三国街道への連絡路

​方向: 南東(上野国・関東方面)

​役割: 十日町や湯沢を経て三国峠を越え、関東(群馬)へ入る街道。

​意味: 上杉家を「関東管領」にたらしめた関東へのメインルートへの接続路。


4.【近代】 産業革命と「距離の破壊」

江戸時代まで越後国の都であった上越が、都市が出来てから1000年ぶりに徐々に衰退していった時期に入る。

それまでチート要素だった各種街道/直江津の港の効力を失ってきたからである。

その理由は​蒸気船と鉄道の登場。

船は風待ちが不要になり、航行距離が伸び直江津に寄港するメリットが無くなった。

鉄道は信越線が1887年に開通したものの碓氷峠など難所が多く大量輸送は難しい山越え線(アルプ方式)だったことで物流が相対的に弱体化した。

蒸気機関車は坂には弱かった為である。

そこで新潟(越後)で台頭したのが​新潟市(下越)。

比較的平地を走る磐越西線(1914年開通)により蒸気機関車による関東との大量輸送が可能に。

また新潟港ができ鉄道及び海運も新潟で結実。

港と鉄道そして平坦な土地が三位一体となって実現した『物流の最適化』の結果、新潟が「陸と海の結節点」となり越後における商流、物流の都を奪い取る。

またその当時石油を産出した長岡ではそれを元に工業が発展。

結果これまで上越高田/直江津のチートだったはずの条件が蒸気機関という新技術により破壊される。

そういう意味では​技術革新や産業革命がこれまでの「地理的アドバンテージ」を無効化した残酷な歴史となった。


​5. 【近代】「上」を名乗る者の、矜持と挑戦・陸軍13師団誘致

蒸気機関の登場と共に上越高田は徐々に人が減っていっていた。

新しい新潟や長岡で一旗揚げようと移動する人達がいるからであり、人が減ると商人も減る。

その徐々に活気が消えゆく「越後の中心(都)」の地位を守るための画期的なアイデアがこの時提唱される。

官民が熱狂し推進したそのアイデアは軍都化。

元々持っている上杉謙信公の、上越の、アイデンティティである「武」を思い出させる。

しかしそれ以外の理由を考えると上越は越後の都である時代しかなく都として消費地、商業地としての側面が大きく、土地と人しか資源がなかったからかもしれない。

ともかく「軍都」への転生を図る。

そこは苦渋の決断(最後の賭け)だったかもしれないし、逆に単なる延命ではなく、「越後の中心はここだ」という誇りの証明だったのかもしれない。

その目論見は見事に当たり、雁木の街並みに軍人が混ざり合う、独自の都市へ進化。

兵士一万人+その家族や関係会社等で、合計数万人が移動してきて、上越高田の街は活気を取り戻す。

各商店や演芸場、映画館、飲み屋に食堂。

軍という存在は当時としては最大の公共投資。

その頃の演芸場、映画館の高田世界館や13師団庁舎、上越市歴史資料館で当時の賑やかさを今に伝えている。

また13師団に客分として所属していたオーストリア軍人レルヒ少佐によってスキーが日本に初めて伝来されたのもこの頃。

*この事実で日本スキー発祥の地は上越。日本初のスキー場もスキーメーカー等も誕生。

しかし・・・その熱気も長くは続かなかった。

明治43年に建てられた旧第13師団長官舎。衰退の危機にあった高田が、人口数万人規模の消費エンジンを呼び込み「軍都」として奇跡的な復活を遂げた象徴的な遺構。
日本最古級の現役映画館「高田世界館(明治44年開業)」。押し寄せた一万人以上の兵士や市民の熱気を受け止め、当時の高田に圧倒的な賑わいとモダン文化をもたらした。

​6. 結び:新たな「挑戦」の始まり

実は大正14年に第一次世界大戦後、一度軍縮で13師団はいなくなった。

軍という消費エンジンを失った高田の町は打撃を受ける。

しかしその後、また戦争の足音が近づくと高田の街に軍隊が戻る。

昭和20年の戦後、軍は解体され高田はまた軍を失う。

しかし面白いことにその後昭和25年に警察予備隊(後の陸上自衛隊)の駐屯地が置かれることとなった。

ずっと引き継ぐ「武」の精神。

今まさに人口減少という「現代の冬」が訪れている。

しかし、かつての街の危機の時に師団を呼んでまで街を繋いだ先人たちの「気概」は、今も雁木の柱に宿っている。

チャレンジできる、腹がくくれる上越の人たちの次を期待してしまう。

くしくもAIという新技術で再度産業革命がこの令和の時代に起きようとしている。

​1000年続いた「上」としてのプライドを、上越高田という街を、どう次の世代へ繋いで行くか期待したい。

 雪から互いを守るための雁木、そしてここで紡がれてきた人々の営み。時代の荒波を「腹をくくって」乗り越え、街を繋いできた先人たちの圧倒的な「気概」は、令和の大転換期を生きる私たちへの力強いエールのように思える。

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