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ドパガキという言葉は的確すぎて笑えない

最近、「ドパガキ」ということばが、じわじわとひろがってきている。

ドーパミン中毒のガキ。それを縮めた造語だ

じつはこの現象、単なる自虐のことばではない。
あなたの脳のなかでも、いままさに起きていることかもしれない。


ドパガキという言葉は言い得て妙

TikTokやYouTubeショート、Instagramのリール、ソシャゲ。

そういう手軽で強い刺激に慣れすぎて、待てない。
集中がつづかない。そんな人たちを指すことばである。

自分の意識とはうらはらに、手軽な刺激にとびついてしまう。そういう行動パターンといってもいいかもしれない。

もともとの性格も、もちろん関係はあるだろう。

でも、だいたいのひとは「やめたい」と思っているのに、やめられずにいる。

この「わかっちゃいるけど、やめられない」というもどかしさこそが、ドパガキということばの核心だと思う。

意志の弱さというより、脳がすでに刺激に乗っ取られている。

だからこそ「ガキ」という、どこか自分でもコントロールできない幼さを感じさせる響きが、妙にしっくりくるのだ。

しかも、この「ガキ」は、かならずしも子どもや若者だけを指していない。

あとで詳しく触れるが、ドパガキに年齢は関係ない。

これは、多くの人がなんとなく感じている、共通の認識でもあると思う。

もっと具体的に、こんなエピソードに心当たりはないだろうか。

・ショート動画を、一日中みてしまう

・書籍はおろか、Xの長文さえも読むのが億劫になる

・単調な作業に、すぐ飽きてしまう

ところでこのドパガキの語源には諸説あるが、いちばん有力なのは、Xで神谷幾何さんが2024年に投稿した内容だ。

Mrs. GREEN APPLEの『ライラック』をはじめて通しで聴いたときの感想として、集中力のないZ世代のガキが途中で再生を止めないように、一定間隔でメロディに変化を加えている。

ドーパミン中毒のガキ相手の商売は、大変だな。

そんな趣旨の投稿だった。

2024年という、少し前の投稿。

それが今になって、じわじわと世の中に浸透してきている。

ことばの移り変わりというのは、面白いものだと思う。

脳を乗っ取る仕掛けは、いたるところにある

昔、脱衣ブロックくずしというゲームがあった。わざわざ10分もかけて、丁寧にブロックを崩していく。

そうしてようやく見えてくるのは、スクール水着姿の女性の絵だったりする。

いま思えば、なんとも気の長い遊びである。

ドパガキには、絶対に耐えられないゲームだろう。

また、以前私は「現代のエロ動画は異常だ!狂気だ!」という記事を書いたことがある。

この記事を書いたきっかけは、『インターネットポルノ中毒 やめられない脳と中毒の科学』という本を読んだことだった。

この本のなかで、いちばん危険だとされていたのが、エロ動画の総編集・ハイライト集である。

インタビュー部分や、服を脱いだり前戯をしたりする、ドーパミンが出にくいシーンはすべて削除する。

そして、そのエロ動画でいちばん盛り上がる部分、つまりドーパミンがもっとも出る部分だけをつなぎ合わせる。

それが総編集だ。

これを見たあとは、現実のあらゆる刺激が、ひどく色あせて感じられるという。

食事がおいしくない。
趣味が楽しくない。
会話が退屈だ。

これは比喩ではない。

脳のなかの報酬回路そのものが、実際に変化してしまっている状態なのだ。

普通の喜びでは、満足できなくなる。

依存症の研究者たちは、これを「快感閾値の上昇」と呼んでいるらしい。

昔は、人目を気にしながらレンタルビデオ屋のアダルトコーナーの暖簾をくぐったり、真夜中にこっそりエロ本の自販機に足を運んだりする必要があった。

いまは、スマホを開けば数秒で、恥ずかしさやためらいを感じる間もなく、無料で無数の女性の裸を見ることができる。

ただ、ドパガキを作ったのはショート動画やエロ動画だけなのだろうか。

その前に、スマホそのものの凶悪さにも、触れておく必要があると思う。

『スマホ脳』(アンデシュ・ハンセン著)にも書かれているとおり、スマホというのは、脳の報酬システム、つまりドーパミンを最大限に出させるよう、行動科学と脳科学の観点から設計されているということが書かれていた。

そういえばスマホが普及しはじめたころ、マツコ・デラックスさんが、気づいたらネットサーフィンで次から次へと調べていくループに入ってしまうから、気をつけないといけない、と語っていた。

それほどまでに、スマホという道具そのものに、人を中毒にさせる仕掛けが、あちこちに散りばめられているということだ。

事実、スティーブ・ジョブズは、自分の子どもにiPadを与えなかったという。

なぜ人は「次」を求めてしまうのか

スマホが普及しはじめたころのネットは、今とはまだ違った。

なにかを調べたら、そこに関連するものが出てくる。

たとえばプロ野球のことを調べたら、せいぜいメジャーリーグの話題が関連として出てくる程度だった。

しかも、そのリンクは自分でクリックしに行くという、ひと手間があった。

今はちがう。

野球の30秒ほどのショート動画のつぎに、指一本でスクロールするだけで、自分でも予想できない、でもアルゴリズムで自分が絶対に興味を持つとわかっている、まったく別のアイドルのショート動画が流れてくる。

しかもアルゴリズムに選ばれている時点で、その動画は多くの人が興味を持ちやすいものであることは、ほぼ間違いない。

そして、次にどんな動画が来るかわからないから、人間はついスクロールしたくなる。

この「新しいものを見たい」という欲求は、行動経済学と心理学の観点から完全に説明がついてしまうものだ。

心理学には「変動比率強化」という考え方がある。

毎回かならず報酬がもらえるより、いつ報酬がもらえるかわからないほうが、人は行動をやめられなくなる。

スロットマシンが、まさにこの原理でできている。ショート動画のスクロールも、じつは同じ構造だ。

次に出てくる動画が、当たりか外れかわからない。だからこそ、指が止まらなくなる。

さらにその根っこをたどると、何万年もの狩猟採集時代にまでさかのぼる。

そのころの人間にとって、「新しい情報」を探すことは、生死に直結する行動だった。

新しい木の実の場所、新しい獲物の気配、新しい水場。

それらをいち早く見つけた個体が、生き延びて子孫を残してきた。

つまり、新奇性を求める本能は、飢えないための、命がけの探索行動として、脳に刻み込まれてきたのだ。

行動経済学では、大昔に役立っていた本能が、まったく違う環境である現代においても、そのまま作動しつづけてしまう状態を「進化的ミスマッチ」と呼ぶことがある。

狩猟採集の時代なら、新しいものを探す本能は、数日か数週間に一度、発動すれば十分だった。

しかし今は、指一本のスクロールで、数秒に一度、その本能が刺激される。脳からすれば、休む間もなく「獲物を探しつづけろ」と命令され続けているようなものだ。

神経科学の分野では、ドーパミンは快感そのものよりも、「予測との誤差」に反応するといわれている。

期待していたよりも良いことが起きたとき、ドーパミンは大きく分泌される。

アルゴリズムによるおすすめは、まさにこれを利用している。

次に何が来るかわからない、でもときどき、期待を超える「大当たり」の動画が流れてくる。

この不確実性こそが、脳を刺激しつづける仕掛けなのだ。

私たち全員が、ドパガキになりうる

スマホが普及しはじめたころ、こんなインタビュー映像が流れていたのを覚えている。

若者がみんなスマホばかり見ていて、不気味だ。

そう語っていたのは、当時の高齢者だった。

あれから何年も経った今、あのとき「不気味だ」と言っていた高齢者は、いったいどうなっているのだろうか。

いまや暇を持て余した高齢者が、電車のなかでずっとスマホをさわっている。

いや、さわっているというより、取り込まれているといったほうが正しいかもしれない。

まさに、ドパガキそのものだ。

ベビーカーに乗った赤ちゃんが、タブレットの画面をじっと見つめている。そんな光景も、めずらしくなくなった。

赤ちゃんも、もうほとんど取り込まれていると言っていいと思う。

画面ばかり見ていて、砂遊びや積み木、遊具で養われるはずの手足の感覚が、きたえられないのではないか。

体を動かすことへドーパミンが出るという経験そのものが、育たなくなってしまうのではないか。

これは個人的な感覚にすぎないが、そんなふうに思ってしまう。

将来、あの子たちもまた、ドパガキになっていくのだろうか。

そう考えると、これはもう、一部の若者だけの問題ではない。

年齢も立場も関係のない、私たち全員の問題なのだと思う。

もう一度繰り返すが、ドパガキに年齢は関係ない。

これは決して大げさな話ではなく、脳科学的にもうらづけのある話だ。

前述の『スマホ脳』のなかでも語られていたことだが、衝動にブレーキをかける脳の領域、前頭前野は、25歳から30歳になるまで、完全には発達しないという。

つまり、若ければ若いほど、目の前の刺激にブレーキをかける機能そのものが、まだ未完成な状態にあるということだ。

自動車保険の保険料が、なぜ若者ほど高く設定されているのか。

これも、この脳の発達段階のはなしと、シビアにつながっている。

なにより、交通事故死亡率という、ごまかしのきかない結果でそれが裏づけられているのだ。

つまり、年齢が低ければ低いほど、ブレーキの利かないまま刺激にさらされつづける時間が長くなる。

そのぶん、あとから取りかえしがつきにくくなる。

ドパガキという現象は、年齢を問わず誰にでも起こりうるが、若ければ若いほど、その影響は深く、根強く残ってしまうのかもしれない。

ドパガキが、大きな社会問題として語られる日は、そう遠くないのかもしれない。

ところで、ここまでこの長文を読み切ったあなたは、ドパガキとはほど遠い存在だと思う(笑)。

長文を読める貴重な人材なので、自信を持ってほしい。


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