「音楽ジャーナリズムと批評の死」について-Manic Street Preachers “Journal For Plague Lovers”に敬意を捧げて
Manic Street Preachers はデビューから一貫して、社会的/政治的な視点のみならず、音楽シーンそのものに対しても批評的な姿勢を示し続けてきた英国のロック・バンドだ。
デビューアルバムにして二枚組の大作「ジェネーション・テロリスト」では、ガンズ・アンド・ローゼズという時代遅れのハードロック・バンドをロールモデルにしたキャッチー&ポップなシングル曲を散りばめる一方で、歌詞では現代社会の偽善、抑圧、偏見に対して容赦ない批判を浴びせた。
そして自分たちの音楽スタイル、ロックスター然とした振る舞いや発言もすべてがパフォーマンスだった。
アウトオブタイムなギターリフを堂々とかき鳴らし、一昔前のヒット曲風の曲を並べることで、当時の退屈な変わり映えのしない音楽シーン全体を批評した。
ギタリストにして精神的支柱リッチー・エドワードの「デビューアルバムで全英チャート1位を獲れなかったら解散する」という有名な発言も、腕にナイフで「4REAL」(俺たちは本気だ)と刻んだ事件も、すべては「そんな音楽と関係のない大言壮語ばかりが注目を集める」ショービズの空虚さを自らの身をもって演じることで批判したものだった。
そもそも彼はギターを弾けなかった。
本人達も語った通り、すべてはギー・ドゥボール著「スペクタクルの社会」の状況主義的批評の音楽による体現だった。
リッチーは紛れもない麻薬中毒者にして偉大なる詩人(※スティーブン・キングの小説からの引用)だったが、代表作にして最大の問題作”Holy Bible ”を遺して失踪した。
彼を失った悲しみを乗り越えて生み出された次作”Everything Must Go ”で、皮肉にもマニックスは国民的バンドとして成功した。
しかしそれでも、彼らは最も批評的なバンドであることを一度も辞めたことはない。
(何しろ最新作のタイトルは「批判的思考」だ。)
2009年、”Holy Bible”以降初めてリッチーの遺した断片的な歌詞を基に制作されたアルバム”Journal For Plague Lovers”は、今に至るまで彼らの最高傑作なのではないかと思っている。
異端のプロデューサー、スティーヴ・アルビニと組んだこの作品は、本当はNIRVANA の”In Utero” を作りたかった、という”Holy Bible”のリベンジにして、正統な続編だ。
不穏にうねる重低音ベース、金属的で無機質なドラム、そして歪みまくったギターリフと苦虫を噛み潰したようなディストーション・ボイス。
そこには”A Design For Life”に代表される、メロディアスでアンセミックな彼らの特徴は一切ない。
カート・コバーンが乗り移ったかのようなグランジ感全開のオルタナティヴ・サウンドは、リッチーが本当にギターを弾けたら鳴らしたかった音に違いない。
歌詞は支離滅裂だ。もう一人のリリシスト、ニッキー・ワイアーの理路整然として明晰な政治的リリックはここでは封印されている。
正気と狂気の狭間を彷徨うリッチー・エドワードの詩、起承転結も脈絡もないという意味で真の「詩」が補完されることもないまま歌詞として使われている。
その狂気が、かつてないほどこのバンドの楽曲に攻撃的で破壊的なダイナミズムを発生させている。
その「ガレージ・ロック」などと呼ぶには荒々し過ぎるグランジ・サウンドは、まさに後期ニルヴァーナを彷彿とさせる。
そしてこの作品は、またも音楽シーンに対してのカウンター、批評として繰り出された。
ニルヴァーナのようなどこにも回収されない世界の異物としてのロックンロールは存在しなくなり、インディ・ロックは小綺麗なファッションを纏い特定のコミュニティだけのスノッブな趣味と化したゼロ年代以降。
そして大衆的なPOPは高度なマーケティングによって最適化され、すべてのシチュエーションごとに用意された機能的な「商品」だ。
それらは生まれた瞬間からターゲットが決まっており、一切の無駄なく予定調和として消費され切ってしまう。
そんなクリーンな商品ばかりのCDコーナーにあって、彼らのアルバムジャケットは異物そのものだった。
それは「商品」として消費されることを明確に拒絶していた。
英国の画家ジェニー・サヴィルによる、児童虐待の被害者を描いた絵画。
スーパーマーケットからのアートワークがショッキングだというクレームに対して、バンド側は「ポルノや銃が表紙の雑誌は置くのに、芸術作品を見ると恐ろしいというのか」「スーパーマーケットが客への精神的影響を心配するなんておかしなことだ」と皮肉たっぷりに反論した。
まさに消費社会の歪さへの正面からの批評だ。
この作品が出た時、音楽批評は何をしていたのだろうか。
音楽雑誌もアーティストもこぞってアイコン化し、ファッションや無精髭ばかり真似したがっていたカート・コバーンの、誰にも商品化できなかった部分だけを引き継いだ真の後継作にして問題作。
「安定した名曲を歌う国民的バンド」としての評価をかなぐり捨て、孤高の思索家リッチーの遺した最後の呪詛を「ホーリー・バイブル」では達成できなかった音楽的な高みに昇華させることで彼の墓前に捧げた、マニックスという真の「ジェネレーション・テロリスト」。
この作品を正当に批評できた音楽メディアはどれだけあったというのだろうか。
この作品は、今も商品化のラベリングから逃れられない趣味嗜好的な「ロック」シーンに対して疑問を投げかけ続ける。
本当にそれでいいのか?ロックンロールという表現形式の価値はそんなものなのか?と。
「音楽ジャーナリズムは終わっている」。
サカナクション山口一郎氏が指摘し、多くの人たちがそれに反応している。
音楽批評が機能していない。誰も音楽を批判しない。全肯定か無視しかない。音楽ライターやメディアは何をしていたのか。
真っ当な意見だと思う。でもこうも思う。
音楽批評がないのは当たり前ではないだろうか?
だって誰もそんなものは読みたくも聞きたくもないんだから、と。
あるnoteに書かれていたように、「音楽ファンは批評なんか読みたくない。ただ好きなバンドやアーティストを肯定し、推したいだけだ」というのが的を射ていると思う。
あらゆるカルチャーが「推し活」という企業主導の消費サイクルに呑み込まれる以前から、すでに国内の音楽は「批評するもの」でも「様々な他の作品や過去、海外シーンと比較したり、相対化して評価する」ものでもなかった。
ただ好きなアーティストの曲だけを聴き、ライブやフェスに通い、似たような既存の音楽体験フォーマットに沿った「刺さる」「エモい」音楽だけを探せばいいのだから。
求められていないものを仕事にできる人はいない。
日本の音楽シーンに批評がないとしたら、それはジャーナリストのせいではなくレコード会社や大手事務所のせいでもなく、彼らが与えてくれるエモくて機能的な「商品」だけで満足し、好きなアーティストを絶対視し相対化を拒む音楽リスナーのマインドが選んだ結果なのではないかと思う。
大御所アーティストに批評の旗振り役をやってもらうという意見も見かけたが、「誰もが認める実績のある大物にしか批判は許さない」という権威主義的な発想はどうなんだろう。
そんな他人任せな評価軸で音楽を聴いて楽しいのだろうか、と複雑な心境になる。
「音楽批評自体が旧来のメディアが既存の価値観で音楽の価値を決めつけていた時代遅れのもの」という見方も間違ってはいないかもしれない。しかし本当にそれだけなのだろうか?
山口一郎氏が言及していたアニメや漫画、映像作品に行われている活発な「批評」は、別にメディアが主導しているわけではなく、一般の消費者、受け手が個々に発している意見の総体なのではないだろうか。
そうだとすれば、「音楽批評=専門家がするもの」という考え方が古いというだけで、批評自体は今も機能するはずなのではないだろうか。
個人的には、音楽に限らず作品も批評も、「一つの答え」を提示するものだとは思っていない。
「疑問を投げかけ、正解を疑い、別の視点からの思考を促す」。それがアートの役割の一つだと思っている。
前述のアルバムのリードトラック“Jackie Collins Existential Question Time”は「今夜、俺たちは問いかけを始める」という歌詞で始まる。
そう、批評的な態度とは「正解」や「答え」を出すものではなく、「問いかけ」、「疑問を投げかける」ものだと僕は思う。
AnswerではなくQuestion。何かを断じるのではなく、問題を提起し、常識に揺さぶりをかけ、思考と議論を促す。
時にはマニックスのように、自ら批判の的となるパフォーマンスをあえて行うことで世の中をアジテートする。
それによって作品と自分との関係、その間にある社会との関係を浮き彫りにする。
それが批評なのではないだろうか。
山口一郎氏の意見もそれに対するみの氏のリアクションも、「答え」であり「正解」の提示だと見做してしまえば対話は広がらない。
「答え」は正しいか間違っているか、或いは好きか嫌いかの二択に収束してしまうからだ。
山口氏が問いかけ、みの氏がまた別の問いで返す。そこにまたリスナーが疑問や意見を投げかける。
それが今アニメや漫画、また海外の音楽ファンの間で普通に行われている「批評」の形なのではないだろうか?
彼らの「批評」に対する意見表明を正か否かでジャッジするムードは、どちらにしても主体性がないし、息苦しい。
みの氏のタイアップ曲に対する批判は「答え」としては暴論かもしれないが、「問い」としては最高だと思う。
話は戻って、”Journal For Plague Lovers”をまだ聴いたことがない「UKロック(死語)」ファンがいるとしたら、最終曲William’s Last Wards”のためにだけでも聴く価値はある。
唯一のニッキー・ワイアーがボーカルをとるこの曲は、いつものマニックスの大仰でドラマティックなメロディの起伏がほとんどない、美しく穏やかなアコースティックソングの名曲だ。
「おやすみ、安らかに眠ってくれ
おやすみ、神の加護を
おやすみ、素敵な星よ
僕は最善を尽くすよ」
リッチーの歌詞を基にしながら、このどこまでも優しい詩は、遺されたメンバーがリッチーにその意志を継いでいく誓いを捧げる鎮魂歌のように響く。
「商品」であることは拒否しても、この作品は決して「アート」であることは拒否していない。
アートに正解などなく、その役割は受け手に「問い」を投げかけることだけだ。
ジェニー・サヴィルの絵の少年に見つめられて心がざわつく瞬間、主体はどこまでも受け手の側にある。
どこまでも「誰かに届く」ことを信じて、その心を揺さぶるためにこのジャーナル(雑誌)はQuestion を投げかけ続けている。
批評をするのに技術や資格なんて必要ない。
というか言葉である必要もなく、ただ知らない音楽を聴いて考えるだけだって十分な批評になる。
終わっていると思うならその状況を嘆くんじゃなくて、自分で批評すればいい。
未だに化石化したミスチルやOasisや90年代的な「ロック神話」のノスタルジーが期待されているのなら、批評の出る幕はない。
「批評は専門家やメディアがするもの」という古びた前提では話はまるで進まない。
なぜなら海外では音楽メディアではなくRedditで普通にリスナーが「批評」し、議論しているから。
noteだってそういう場になり得るはずだ。
最後、言わなくてもいい余計なことを書いている気もしますが、やっぱマニックスを引き合いに出すなら本気で書かないと。
という気持ちと、抽象的な話は得意ではないので「批評について語るなら実際に批評してみなければ」という変な強迫観念から、このような二重構造の文章となってしまいました。
「スキ」か「キライ」かのnote的基準では、間違いなく「スキ」は付かないでしょう。(自虐)
でも自分は「批評」はいつの時代も必要だと思っているし、優れた批評に共通する、「考えるのは君だ」という問いかけをこれからも信じていくと思います。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
ご意見、ご感想等ありましたらお気軽にコメントください。
