紙のピアノ協奏曲 ーーーピティナの現実ーーー
紙のピアノ協奏曲
――ある少女と、音楽のための協奏曲
Piano Concerto on Paper
第一楽章 キラッと光る前に
Grave – Allegro con dolore
ハ短調――悲痛に、まだ自分の音を知らずに
低弦が、沈む。
和音は閉じない。
ひとつの響きが終わる前に、
次の響きが重なる。
空気が重くなる。
その上から、
金管が短く切る。
「しょぼい」
言葉ではない。
断罪として鳴る。
ピアノは、
遅れて入る。
単音。
一音。
……間。
もう一度。
同じ音。
強く。
もう一度。
弱く。
けれど、
意味は変わらない。
音はある。
伝えたいものも、
たしかにある。
なのに、
旋律にならない。
つながらない。
届かない。
まだ、
自分の音になっていない。
オーケストラは容赦なく進む。
完成された響きで、
世界を押しつけてくる。
ピアノは追う。
半拍遅れる。
追う。
また遅れる。
焦る。
同音連打。
リズムが崩れる。
指がもつれる。
そして突然、
ピアノが叫ぶ。
「なんで聴こえないの!」
全楽器、
休止。
沈黙。
カデンツァ。
ひとり。
同じ動機を繰り返す。
速く。
遅く。
強く。
弱く。
何度でも。
探している。
自分の中には、
たしかにあるはずの音を。
けれど、
見つからない。
最後に、
和音を叩きつける。
ff。
その直後、
pp。
残響だけが残る。
終止しない。
まだ、
終われない。
夜。
別の音楽が始まる。
ハープが、
水面をつくる。
弦は、
光になる。
輪郭を持たず、
揺れる。
ピアノは和音を弾かない。
置く。
そして、
溶かす。
モネの水面。
睡蓮。
積みわら。
霧の中の大聖堂。
色と色の境界が消えていく。
音と音の境界も、
消えていく。
遠くから、
規則正しいリズムが聞こえる。
ベートーヴェン。
第七交響曲。
確かなはずの拍動。
けれど、
十二歳の夜は、
それさえ夢へ変えてしまう。
アルペジオが遅くなる。
一音ごとに、
間が広がる。
画集が、
胸の上へ落ちる。
指が止まる。
眠り。
それでも、
ベートーヴェンは鳴っている。
モネの水面も、
消えない。
音楽だけが、
眠っている少女の中へ、
静かに沈んでいく。
そして、
春。
ステージ。
深いネイビーのドレス。
ピアノが、
今度は先に入る。
ためらわない。
第1主題。
あの単音。
けれど、
もう途切れない。
二音。
三音。
旋律になる。
オーケストラが応える。
対立ではない。
対話。
ベートーヴェンの情熱。
ドビュッシーの色彩。
モネの光。
眠っているあいだにさえ、
身体の中へ沈んでいったものが、
指先から、
少しずつ外へ出てくる。
ミス。
一瞬、
音がもつれる。
けれど、
止まらない。
もう一度。
前へ。
完璧ではない。
それでいい、
とは、
まだ誰も言わない。
少女自身も、
そんなふうには思っていない。
ただ、
弾く。
今の自分に出せる音を、
全部、
出す。
クライマックス。
全オーケストラ。
ピアノ。
ff。
そして、
突然、
世界が静かになる。
最後に、
ピアノだけが残る。
単音。
pp。
ほんの一瞬、
音が、
キラッと光る。
第二楽章 ついてこれますね
Andante sostenuto – con decisione
春――静かに、逃げ道をひとつ閉じて
拍手が消える。
ステージが消える。
ドレスがしまわれる。
日常が戻る。
春の発表会は終わった。
「しょぼい」から始まり、
「ダサい」を通り、
ようやく、
ひとつの音が光った。
ひと息。
ほんの、
ひと息。
そのとき、
先生の手には、
もう次の楽譜があった。
一冊。
二冊。
三冊。
四冊。
バロック。
古典。
ロマン。
近現代。
四つの時代。
四つの音楽。
四つの課題曲。
そして、
ひとつの文字。
D。
CからDへ。
たった一文字。
けれど、
その一文字の向こう側には、
違う景色があった。
幼いころから弾いてきた子。
何年も音階をさらってきた子。
部活が始まっても、
勉強が忙しくなっても、
それでもピアノを手放さなかった子。
中学生。
D級。
本選へ進めるのは、
およそ三割。
数字は、
冷たい。
けれど先生は、
数字を見ていなかった。
少女を見ていた。
「音楽への向き合い方は、人それぞれでいい」
静かな声。
「趣味として楽しむのもいい」
「芸術として、本気で学ぶのもいい」
少し、
間。
そして、
先生は言う。
「でも、分かったことがあります」
ピアノ、
pp。
「あなたは、音楽を真剣に学びたい子です」
少女が、
小さく息を呑む。
それは、
未来を決める言葉ではなかった。
すでに少女の中にあったものへ、
名前を与える言葉だった。
先生は続ける。
遅く始めたこと。
成長が速かったこと。
がむしゃらに弾いてきたこと。
そのぶん、
基礎に抜けているものがあること。
結果だけを追わないこと。
曲を学ぶこと。
そして、
厳しい道になること。
良いことだけではない。
欠けているものも、
先生には見えている。
その全部を見た上で、
先生は少女を見る。
逃がさない目で。
けれど、
突き放さない目で。
そして、
言う。
「ついてこれますね」
問いの形をしている。
けれど、
問いではない。
命令でもない。
「来なさい」
ではない。
「来られる?」
でもない。
あなたなら来る。
先生の中では、
もうその判断が終わっている。
長い休符。
少女が背筋を伸ばす。
そして、
小さく、
「はい」
ピアノ、
単音。
僕も、
かつて、
似た言葉の前に立ったことがある。
ついていくと決めた瞬間、
世界は少し狭くなる。
捨てなければならない時間が生まれる。
できない自分を、
何度も見ることになる。
その代わり、
それまで見えなかったものが、
見えるようになる。
信じられるということは、
優しいだけではない。
ときに、
逃げ道をひとつ、
静かに閉じられることでもある。
先生が、
最初の目標を置く。
「5月の連休に弾き合い会をします」
「それまでに四曲」
「暗譜して弾けるように」
四曲。
一ヶ月半。
少女の前に、
四冊の楽譜がある。
まだ、
弾けない。
まだ、
覚えていない。
まだ、
何も始まっていない。
けれど、
耳の奥には、
もうひとつの主題が残っている。
ついてこれますね。
ピアノが、
それを繰り返す。
ついてこれますね。
弦が応える。
ついてこれますね。
低音へ。
ついてこれますね。
遠くへ。
やがてその言葉は、
先生の声ではなくなっていく。
D級についてこれるか。
周りの子たちについてこれるか。
音楽についてこれるか。
自分が選んだ道に、
自分自身が、
ついてこれるか。
四冊の楽譜を、
少女が開く。
最初の一音。
春が、
動き始める。
第三楽章 ピティナの現実
Allegro appassionato – Presto feroce – Adagio doloroso
ハ短調――勝利を求めて
夏。
オーケストラが、
走る。
四つの時代が、
次々に現れる。
バロック。
古典。
ロマン。
近現代。
練習。
暗譜。
レッスン。
弾き合い。
修正。
もう一度。
もう一度。
もう一度。
ピアノは、
止まらない。
第1楽章の単音が、
いまでは旋律になっている。
第2楽章の、
ついてこれますね
が、
低弦の奥で脈打っている。
そして、
一回目の予選。
演奏。
沈黙。
結果。
通過。
9.2。
一瞬、
オーケストラが長調へ開く。
あの音が帰ってくる。
キラッと光った音。
先生は、
間違っていなかった。
少女は、
ここまで来た。
自分の力で。
自分の指で。
自分の音で。
ついてきた。
そして、
二回目。
今年こそ。
二回、
通過する。
二回、
本選へ行く。
ピアノが、
さらに速くなる。
オーケストラが追う。
夏の光。
会場。
演奏。
最後の和音。
残響。
そして、
結果発表。
運命というものは、
もっと大きな音を立てて来るものだと思っていた。
けれど、
その日は、
一枚の紙だった。
白い紙。
黒い文字。
人だかり。
「D級 予選優秀賞」
母が、
上から読む。
一行目。
二行目。
三行目。
知らない名前。
知らない番号。
次。
次。
次。
ない。
もう一度。
ない。
少女の名前が、
ない。
その瞬間、
オーケストラが止まる。
少女の顔から、
音が消える。
そして、
ぽろり。
一音。
ぽろり。
もう一音。
涙。
母が横を見る。
「予選奨励賞」
そこには、
少女の名前がある。
あった。
たしかに、
あった。
ただ、
欲しかった場所ではなかった。
今年も、
一通過。
一奨励賞。
去年と同じ。
あと一歩。
たった一歩。
けれど、
その一歩が、
世界の向こう側ほど遠い。
オーケストラが、
冷静に説明しようとする。
奨励賞とは。
優秀な演奏者へ。
通過に次ぐ。
上位三割。
わずかな点差。
立派な――
ピアノが、
遮る。
違う。
休止。
もう一度。
違う。
私は、
そこへ行きたかった。
二回、
本選へ行きたかった。
欲しかったものは、
評価じゃない。
賞状じゃない。
次の舞台だった。
カデンツァ
Presto feroce ― 激しく、泣きながら
車のドアが閉まる。
世界が、
四枚の窓ガラスの中へ閉じ込められる。
張りつめていた弦が、
切れる。
「やっぱり、こうなるんだ!」
f。
「私はやっぱりダメなんだよ!」
ff。
「どんなに頑張ったって、いつもこう!」
「小さい頃からやってる子には勝てない!」
「最初から才能がある子には勝てない!」
九歳。
三歳。
九歳。
四歳。
九歳。
三歳。
数字が、
低音のオスティナートになる。
九歳。
九歳。
九歳。
遅かった。
その言葉が、
少女の中で鳴る。
母が入る。
「そんなことない!」
「奨励賞だって立派でしょう?」
「お父さんもお母さんも、あなたがどれだけ努力したか――」
突然、
ピアノが、
鍵盤を叩きつける。
「努力の過程なんて、どうでもいい!」
全楽器、
休止。
沈黙。
そして、
独奏。
「私は今年こそ」
「二回通過したかったんだよ」
「二回、本選に出たかったんだよ」
「去年も」
「今年も」
「一回通って」
「もう一回は奨励賞で」
「お前はその程度だって」
「言われてるみたいで」
「悔しいんだよ」
旋律が、
壊れる。
同じ音。
何度も。
悔しい。
悔しい。
悔しい。
悔しい。
悔しい。
大人は言う。
努力は無駄にならない。
経験は財産になる。
頑張ったことには意味がある。
けれど、
十三歳の夏には、
そんな言葉が、
一円にもならない夜がある。
勝ちたかった。
ただ、
勝ちたかった。
それだけだった。
間奏 母の左手
Adagio doloroso ― 過去へ
娘の泣き声の下で、
もう一つの旋律が始まる。
母の左手。
誰にも聞こえない、
低い音。
ごめんね。
ごめんね。
本当に、
ごめんね。
遠い昔。
まだ娘の手が、
親指ほどに小さかったころ。
「ピアノ習いたい」
小さな声。
「バレエもやりたい」
「スイミングもやりたい」
母は、
生活という分厚い楽譜を開く。
仕事。
送迎。
遅番。
土日出勤。
食事。
風呂。
寝かしつけ。
明日の支度。
時間がない。
今日は無理。
もう少し大きくなったら。
今はできない。
また今度。
夢がひとつ、
休符になる。
またひとつ、
休符になる。
けれど、
何年経っても消えない音が、
ひとつだけあった。
「ピアノを習いたい」
九歳。
ようやく、
その願いが鍵盤へ届く。
遅かったのだろうか。
もし、
もっと早く。
もし、
毎日隣に座っていたら。
もし、
譜読みを見てやれたら。
もし、
もっと。
もし。
もし。
もし。
音楽の中で、
もっとも残酷な言葉は、
「もし」
なのかもしれない。
過去の小節へは、
戻れない。
母が帰るころには、
十九時を過ぎていた。
少女は、
ひとりで楽譜を開く。
分からない音符。
届かない指。
複雑なリズム。
弾けない。
もう一度。
弾けない。
もう一度。
誰も隣にいない。
それでも、
もう一度。
母がしてやれたこと。
たらこパスタ。
キットカット。
ゲン担ぎ。
神頼み。
そんなものしかなかった、
と、
母は思う。
けれど、
そのころ少女は、
誰にも見られない場所で、
一音ずつ、
自分の音をつくっていた。
一音。
また、
一音。
第1楽章の主題が、
遠くで聞こえる。
まだ、
キラッとは光らない。
ただ、
鳴っている。
終楽章 でも
Andante grave – Allegro luminoso
答えを急がずに
レッスン室。
ドアが開く。
少女の顔は、
まだ暗い。
先生は、
すべてを知っている。
結果も。
録音も。
泣いたことは、
知らないかもしれない。
けれど、
最初の言葉は、
短い。
「よく頑張りましたね」
少女は、
黙っている。
先生は録音について話す。
一回目より、
少し力強さに欠けていたこと。
予選曲と本選曲のあいだで、
迷いがあったかもしれないこと。
会場へ向かう焦りが、
音に残ったかもしれないこと。
二回続けて、
強い気持ちを保つことの難しさ。
今回の課題。
気持ちを、
強く持つこと。
少女が車の中で出した結論は、
「才能がない」
だった。
先生は、
それを慰めない。
代わりに、
音楽として分析する。
直せるものとして、
少女へ返す。
そして、
言う。
「今日、通過できなかったことも」
「今日の相手に勝てなかったことも」
「事実です」
短調。
そのまま。
負けは、
負けのまま。
消さない。
言い換えない。
そして、
先生は言う。
「でも」
たった二文字。
けれど、
和声が変わる。
でも。
「あなたは本当によく頑張りました」
でも。
「本当に成長したわ」
でも。
「一回目の予選で通過したことは」
「偶然でも」
「奇跡でもない」
「あなたが」
「自分の実力で掴み取ったものです」
ピアノが、
ゆっくり、
顔を上げる。
負けた。
でも。
届かなかった。
でも。
悔しい。
でも。
第2楽章の主題が戻る。
ついてこれますね。
あの日、
少女は、
「はい」
と答えた。
そして、
ここまで来た。
先生は言う。
「自信を持って」
「気持ちを切り替えましょう」
「本選は」
ベートーヴェン。
そして、
ショパン。
少し、
間。
先生が笑う。
「ショパン、一番好きでしょう?」
全楽器、
休止。
少女が、
小さく答える。
「はい」
その一音は、
第2楽章の「はい」と、
同じ言葉だった。
けれど、
もう意味が違う。
あのときは、
先生についていくための、
「はい」。
今度は、
自分の好きな音楽へ戻るための、
「はい」。
先生が言う。
「なら」
「大好きな作曲家の曲を本選で弾ける喜びだけを考えて」
「頑張りましょう」
ピアノが、
もう一度、
鳴り始める。
Coda 次の小節
Adagio – semplice
夜。
少女は、
泣き疲れて眠っている。
母は、
眠れない。
もし。
もし。
もし。
母の左手が、
まだ鳴っている。
その隣で、
父が言う。
毎日仕事へ行った。
保育園へ迎えに行った。
食事をつくった。
風呂へ入れた。
寝かせた。
夜勤もあった。
一日を終えるだけで、
精一杯だった。
あのころは、
それでよかった。
今日も、
家族三人、
生きている。
それで、
よかった。
母の左手から、
少しだけ、
力が抜ける。
過去は、
書き直せない。
九歳は、
三歳にはならない。
それでも、
九歳から始まった音楽は、
ここまで来た。
翌朝。
キッチン。
少女の目は、
少し腫れている。
「お母さん」
「昨日は切れ散らかして、ごめんね」
母も、
謝ろうとする。
もっと早く。
もっと。
グランドピアノも。
もっと。
もっと。
けれど、
少女が遮る。
そんなのいいよ。
分かってるから。
そして、
言う。
「本選、頑張るね」
一回だけだけど。
本選に行けて、
嬉しい。
母と娘が、
抱き合う。
少女は、
自分のことを言う。
「ガチ勢の中の、落ちこぼれ」
少し笑う。
少し痛い。
でも、
それは誰かにつけられた名前ではない。
少女が、
いまの自分につけた名前だ。
白鳥になれるかどうかは、
誰にも分からない。
二回通過できる日が来るかも、
分からない。
才能というものが、
どこまで少女を許すのかも、
分からない。
けれど、
テーブルの上には、
二つの名前がある。
ベートーヴェン。
ショパン。
楽譜。
薄い紙。
黒い音符。
第3楽章の最初にも、
紙があった。
白い紙。
黒い文字。
そこには、
欲しかった場所に、
少女の名前がなかった。
あの紙は、
結果を告げた。
この紙は、
何も約束しない。
勝利も。
成長も。
未来も。
ただ、
次の小節が書いてある。
少女が、
楽譜を開く。
鍵盤の前へ座る。
手を置く。
一拍。
二拍。
長い休符。
第1楽章、
最初の一音が戻ってくる。
あのころは、
まだ、
自分の音ではなかった。
何度叩いても、
届かなかった。
やがて、
キラッと光った。
先生に見つけられた。
「ついてこれますね」
「はい」
進んだ。
負けた。
泣いた。
「努力なんてどうでもいい」と叫んだ。
母も泣いた。
それでも、
朝になった。
そして、
少女は、
もう一度、
鍵盤を押す。
ピアノ。
単音。
pp。
それが、
勝利なのか。
努力なのか。
才能なのか。
悔しさなのか。
希望なのか。
今は、
名前をつけなくていい。
ただ、
音が鳴る。
今度は、
誰にも、
その音の名前を教えてもらう必要はない。
少女は、
次の音を弾く。
そして、
もう一音。
紙の上で止まっていた音楽が、
再び動き始める。
ショパンが、待っている。
芸術家は満足したら終わりだ。悔しくていいんだ。
天音 翔
