005 第4章|思ひ出の樹 — あなたがくれたもの — 新しいマンションとココナッツアイス
※この作品は「#創作大賞2026」「#恋愛小説部門」に応募しています。
01
その年の春の終わり、仙台での暮らしが始まった。
初夏の風が吹く中麻美(あさみ)は直樹(なおき)と一緒に駅近くのマンションへ帰る途中にいた。
街の中心部から私鉄に乗り5つ目の小さなM駅にいつもの様に降りると、2人はまっすぐ正面に伸びる道を歩いて行った。
直樹の好物だった今は無き塩パンを売るパン屋の角を曲がり、細い路地を通り抜けるとバス通りがあった。
直樹は車が激しく通るこの通りがあまり好きではなかった。時々、不愉快そうに文句を言った。
直樹は、いつも、そうだったが足が速いのだ。障碍者に見られたくないと、いたって普通の足取りで歩くのだった。
麻美は、それに追いつくのが大変だった。
でも待ってとも言えず必死になって追いかけた。
―――この人の背中をいつも見ている気がする
顔でもなく、手でもなく、背中を見ている。いつでもそう。背中を見て、追いかけたり、話しかけたり、見つめたり。
それから横顔。TVを見ている時。その横顔。
あまり、こちらを見て話さない。だから変なのだが思い出そうとすると、この人の顔が一定ではないのだ。
突然、直樹が振り向いて
「大丈夫?」
そう言ってきた。麻美はただ一言
「大丈夫」
そう答えた。
でも大丈夫じゃないと言いたかった。本当は。
ただ咄嗟に口を突いて出てしまうのだ。
いつもの癖。“大丈夫”と言ってしまう。
そんな自分が少し情けないと麻美は思った。
02
結婚した麻美と直樹は駅近くのエレベーター付きマンションの4Fを借り受けた。直樹が不自由な足でも苦労せずに部屋に入れるように、そこは譲れない条件だった。
直樹はスポーツクラブの円盤投げの指導者。
麻美はスポーツクラブの広告宣伝部で働くと言う生活が始まった。
2人には子供が中々出来なかった。不妊治療を試みてみるが、どうしても子供を授かることが出来なかった。
でも直樹は「子供いなくても、大丈夫」そう言って今迄と変わらず麻美に接した。
13年目の秋諦めかけていた2人に子供が生まれた。
女の子であった。
「萌音(もね)」と言う名を付けた。
萌音が生まれた時、初めての子に幸せの予兆を託したくて、“物事が起ころうとする気配”の意味の「萌」の音で、萌音と名付けた。
続いて3年後に男の子が生まれた。
「有人(ありひと)」と名付けた。「“有難い人”(ご利益のある人ではなく、稀な人)になりなさい」で「有人」なのだ。
子供たちが大きくなるにつれ3LDKのマンションは4人で住むには狭くなったが、子供たちの部屋をひとつにして何とかこらえた。
トレーニングに使う練習場は郊外の市営で市が運営する唯一の練習場、兼、競技場だったから、とても広くて充実していた。
市街地から離れていたから買い物に不便することはしたが、ネット通販を利用したりして不自由はしなかった。
有人が生物部のフィールドワークに疲れて帰って来た。
帰宅部の萌音がシャワー後に頭をドライタオルで拭きながら、キッチンで揚げたての手作りコロッケをつまんでいる。
それを見た有人が姉を見て、やっぱりコロッケをつまむ。
2人が手を洗ってないのを、コロナを気にして麻美は洗面所に追いやる。
萌音は
「風呂上り風呂上り」
と言い訳をする。神様が退屈しのぎに与えてくれた、わずかな凪な日常。
03
萌音と麻美は、久しぶりに二人だけで出かけた。玄関で靴を脱ぎながら奥にいる筈の直樹に向かって
「ただいまー」
と声をかけた。
「おとうさん。ただいまー。よー弟よ」
先に部屋の奥から玄関先にたどり着いた有人に向かって、萌音は軽口をたたいて頭を賞状の筒で静かに撫でた。
「おーこれかぁ。凄いじゃん、姉ちゃん!」
「そうだろー。尊敬してくれよー」
直樹がリビングから遅れて出て歩きながら
「調子ん乗って」そう言った。
直樹は萌音に
「おかえり。おめでと。おつかれ、おつかれ」
そう言った。
萌音は有人の背中をリビングに押し戻しながら
「キャビア出たよ」
「えー俺まだ食ったことない」
そんな会話をしていた。
直樹は
「どうだった?盛況だった?」
「もう凄く。この出版社の賞を高校生で取ったのって初めてなんですって。これ萌音の書いたエッセイが掲載されてる本だって。5冊貰えた」
「へー」
直樹は驚いたような得意なような顔をした。
「疲れてる?」
直樹は麻美に聞いてきた。
「ん?何で?」
「ファミマでね。ココナッツアイスが今日から販売なんだって」
「へー良いよ。買ってきてあげるよ」
足が悪くて必要な時以外、外に出たがらないのはいつもの事だから麻美はそう言った。
「いや、あの一緒に行こうよ」
「……うん?いいよ。」
「ちょっと待ってて」
そう言って直樹は奥に入って行って黒いジャケットを羽織って、グレーのニット帽をかぶって帰ってきた。
「お母さんたちちょっとファミマ行ってくる」
奥にいる二人にそう、声をかけると、
「はーい」
「気をつけーて」
まるで直樹の口癖が乗り移ったような2人の返事が返ってきた。
季節が進んで冬から春になっているのに直樹は相変わらずの寒がりぶりで、ニット帽を被っている。少し肌寒いけど麻美は我慢強いほうだったので、寒くてもそんなに気にならなかった。
しかし今日の夜風は先週の近畿地方の桜の開花の便りが聞けて、温かいなと感じていたのに又季節が逆戻りした感があった。暫くはこんな感じだろう。
直樹はポケットに手を入れて麻美の右側を遅れて歩いていた。疲れたのかなと思って歩を緩めると直樹は、
「寒い寒い」
と言う。
「そうね。少し」
麻美が言うと直樹は
「手貸して」
そう言った。
「え?」
「良いから右手」
そういうので、
「良いけど」
と言って右手を出すと直樹は嬉しそうに左手でその掌を握りニッと笑って
「ほら冷たい」
と言って使い捨てカイロを握らせた。そこまで手は冷たくなかったけど直樹の心遣いが嬉しくて、そのまま
「ありがとう」
と言ってカイロを両手で受け取った。直樹の手はカイロを握っていたせいなのか今日は温かかった。
「何か話があるの?」
と麻美が言うと
「うん……」
と直樹は答えた。
遠くで救急車のサイレンが鳴って遠ざかって行った。
「誰かが呼んだのかしらね」
直樹はそう言った。
「うん」
麻美も言った。
直樹は何も言わずそのまま公園の脇を通り過ぎて公園の端まで来た時も何も言わない
直樹に向かって麻美は言った。
「それで?」
直樹は
「何が?」
と言った。
「話って?」
「あ、そうか忘れちゃってた」
いつも言いたいことがあるんだけど、ごまかしてしまいたい時に直樹が言うセリフだった。もうすぐファミマについてしまう。左側にファミマの明かりが見えてきた。
二人でその自動ドアをくぐると軽快な入店音が流れた。
「どれだろう」
麻美がそう言うと直樹は
「ね」
と言った。
先にアイスの入っているボックスを眺めた。季節限定の商品が並んでいる中にカップの
「ココナッツ味アイス」
があった。
「これこれ」
「萌音と有人にも買って行こう」
直樹はそう言って4個籠の中にガンガンと入れると、
「ねぇ、ファミチキのチーズ味食べたい」
と言う。麻美は笑って
「お腹ビックリするよ。こわさないでよ」
笑いながらそう言った。
同じ道を引き返しながら公園の前で直樹が
「ブランコ乗らない?」
と言う。
「良いよ」
寒いとはいえ陽気のせいでアイスが溶けないかしらと思ったけど溶けても良いと思った。
「アイス食べようよ」
そう言って直樹はレジ袋の中に手を突っ込むとガサガサとアイス2つとスプーン2つを探り取って麻美に渡した。
並んでブランコに乗るなんて何年ぶりだろう。直樹は歩くのを極力避けてるので一緒になんてほとんど外に出なかった。ずっと。
喜びたいのに今の状況は多分違う。
そのことが悲しかった。
突然何かが終わってしまう気がして麻美は目の前のまだ咲く気配すらない桜を見た。
「厩戸駅のあの桜並木を、又、二人で見たいな」
麻美はそう言ってから黙ってしまった。
笑みが空回りした。
直樹は多分何かを言おうとしている。一度口を開けてから後ろに身を引いた。
「あのね、」
膝の上に乗せたアイスだけを見つめて直樹が言った。
「待った!」
麻美は遮って深呼吸した。
「何を言うのか知らないけど私は貴方の身に何が起きていても最後まで一緒にいるし傍を離れない。それだけは言っておく」
麻美がそう言うのを直樹は目を見開いて聞きいた。
聞き終えると麻美に向けた顔を静かに、ほんの少しだけ傾げた。
麻美も直樹を見つめると一度だけ首を傾げた。
「わかった」
「あのね」
直樹は言った。
麻美の手の中のアイスは膝の上に乗ったままだった。蓋は開いてるのに食べられもせず。
「肺に影があるって」
麻美の中の衝撃は一度体全体に受け止められてから静かに納得の湖に落ちた。
麻美は何も言わなかった。唯直樹を見つめ返した。
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