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エッセイは人生の副産物−創作大賞は「自分の人生を思いっきり生きろ」って教えてくれている。


って、中間選考・エッセイ部門のリストを見て、私は思った。

元々読んでいたのは6作品。昨晩から残りの作品も少しずつ読み進めていて、その確信を深めつつある。

もちろん、私は今年創作大賞に初参加して、中間選考に残っていないひよっこnoter。エラそうに語れることは何もないし、今から書くことは個人の推察の域をでない。

ただ、一つだけ言えることがあって。

私にとっても、中間選考に残らなかったほとんどの方にとっても。
落選に絶望して、手ぶらで帰るのはもったいな過ぎない?

私はあまりにも本気だったし、今も本気です。
何に?

書くことを仕事にすることに。
もっと言うなら、書いて、自分の人生を良くすることに。

この記事では、

創作大賞を本気で研究し、死ぬ気でエッセイを書き上げたものの、
・応募作を投稿した7月から創作大賞に絶望していた私が、
・「あ、自分の人生を思いっきり生きた方がいいんだな」って気づくまでの思考の道のり

を、時系列的に書いています。

スピード重視で公開したため、多少の過言や、論理の積み上げの雑さはお許しいただければ幸いです。

今、筆を折ろうとしているあなたに、届けー!


最近、エッセイを買ったことがある?私はなかった。

応募作の執筆を始めた4月。私は、過去の創作大賞受賞者さんが出版したエッセイ本を買おうと、本屋へ行った。駅ビルの上階に入っている、地域で一番大きい本屋だ。キッズコーナーでパズルに夢中になっている娘たちに「ちょっとそこで待っててね!」と声をかけ、私はお目当てのエッセイ本を探し始めた。

そこではたと気づく。
エッセイ本ってどこにあるのだろう。

書籍化された時期を考えると、文庫本ではないだろう。女性誌の近くの、暮らし系の書棚でもない。入り口付近の新版のコーナーにもない。小説でも、自己啓発本でもない…。

知らないのは当然だ。
なぜなら私は、少なくともここ10年くらい、エッセイ本なんて1冊も買ってこなかったんだから。

スマホで調べて、ようやくエッセイは「文芸」コーナーにあることを知った。書店の案内図を確認すると、文芸コーナーは漫画の棚の裏側、レジからいちばん遠い、お店の隅に位置しているらしい。遠い。

なるほどと、そこを目指して歩き出す。

本棚の前に立って、また驚く。

私の探していた本が、そのお店では取り扱っていなかったのだ。

え?ないの?あの創作大賞受賞者だよ?平積みされて、ド派手なポップで紹介されているんじゃないの?

私の脳内では、憧れの作家さんの書籍の表紙が、しっかりとイメージできていた。しかし五十音順を辿っても、出版社ごとの塊をみても、その表紙はついぞ見つけられなかった。

戸惑いつつも、二児の母である私。本屋にゆっくり滞在できる機会なんてそうそうない。このチャンスに、何かエッセイ執筆の勉強になる本を探そうと試みる。

パステルカラーのかわいい表紙を手に取り、ペラっとページを捲る。うーん、意外と内容は重そう。
見聞きしたことのある著者の本を手に取る。いや、この人は有名すぎて、書く参考にならないかも。

専業主婦の私にとって、本は高価だ。なんでもいいやと数冊掴んでいくわけにはいかない。娘たちが気掛かりで焦るながらも、文芸コーナーを、檻の中のシロクマのようにウロウロする。どうしよう、何買おう。

最後は弾けるように早足で娘たちの元へ向かった。

結局、私はどの本も手に取れず。
両手に娘たちの手を握り、エスカレーターを下りた。



自分はどんなエッセイを買ってきたか。

エッセイが好きで、買う気満々だった自分が、書店に行って本を買えなかったことに、私は衝撃を受けた。出版不況らしいっていうのは知っていたけれど、本好きで創作大賞まで目指している自分が、その出版不況に加担するなんて。小市民ならぬ小書人が烏滸がましいが、業界を担わんとする立場として、後ろめたかった。

電車に乗りながら考える。
私はここ数年、どんな本を買っていただろうか?


エッセイを喜んで購入していたのはせいぜい大学生くらいまで。仕事をしていた数年間は本なんて全く読めなかったし、出産を機に仕事を辞めてから買った本は、芸能人が出版した美容本や、インフルエンサーの暮らし系の本、子どもの絵本、あと推しが出ている雑誌だけだった。

エッセイ本なんて、この10年で1冊も買っていなかったのだ。

夫だってそうだ。夫がエッセイの本を買ったのは、長女が生まれた8年前の「ヨチヨチ父」のみ。彼が買うのは漫画と、W杯時のサッカー雑誌のみ。

もしかして、もしかすると、
エッセイを買う人って、めっちゃレアなんじゃない?

言わずもがな、創作大賞は商業出版を前提としたコンテストだ。私も渾身のエッセイを出すつもりだった。が、私が万が一億が一、神作が書けて創作大賞を受賞したとして、私の本は、本当に売れるだろうか?
誰が私の本を買ってくれるのだろう?




推察:商業出版されるエッセイは、誰が書いた、どんなもの?

パターン①著名な人

家に帰って、自分の本棚を眺めてみても自明だった。
私の持っているエッセイ本のほとんどは、例えば「小説家」であったり「音楽家」であったり、すでに何かのスペシャリストが書いたものだった。

昔、ほぼ日で田中泰延さんが言っていたことを思い出す。

随筆で一番大事なこととは何でしょうか?
正解は「何を書いたか」ではなく、「誰が書いたか」。僕が一生懸命書いたコラムが182PVだとして、例えば宇多田ヒカルさんが「神保町で食べたトンカツが厚切りで」と書いたら、256万8230PVになる。

https://www.1101.com/n/s/yomitaikoto/2019-10-08.html?utm_source=chatgpt.com
ほぼ日「本当に、読みたいことを、書けばいい?」第1回での田中泰延さんの発言より


急に時系列が前後するが、2026年度の中間選考エッセイ部門の80作品も。ほとんどの方が「すでにnoteでかなり有名な方」「著作もあるようなプロの作家」「何かの専門性がある方」だったように思う。

そーいえば、特別読書家でもなかった母も、キムタクのエッセイ買っていた。私だって、推しのアイドルのブログを、毎日ありがたがって読んでいる。

パターン②特別な体験

自分の持っているエッセイ本を眺めると、特別な体験も、エッセイが本になる理由たり得ると思う。

例えば、私は森下典子さんの「日日是好日」「好日日記」の本を持っている。この本は森下さんの30年にも及ぶ習い事、茶道での気づきや感動を、瑞々しく描いているエッセイだ。


昨年の創作大賞受賞者のタキアユミさんも、海外を放浪したのちにアフリカでデザイナーになるなんて、特別な経験の持ち主以外の何でもない。

パターン③笑い

また、こと創作大賞において重要だなぁと思うのは「笑い」だ。

長瀬ほのかさんも、望月さんも、普段からめちゃめちゃ笑える文章を書かれている。伊藤亜和さんは、笑いメインの文体ではないけれど、やっぱりどこかクスッとする、おかしみのあるエッセイも書かれている。

急に英語できるのをひけらかして申し訳ないのだが、最近映画も話題になったWickedで、追い詰められた緑の魔女エルファバが、魔法の力を解き放って、オズから逃亡する際の歌”Defying Gravity”。
サビへ誘うメロディーがクライマックスとなるパートの歌詞で、こんなものがあります。

It’s time to trust my instincts.
Close my eyes and LEAP!

https://www.joysound.com/web/search/song/498324


Leapは、日本語で「跳躍」。でも、ただのジャンプじゃなくて、次元をふわっと乗り越えてしまうような、一瞬、物理原則から自由になってしまうような跳躍が、leap なんです。

たぶん、そもそもは著名人や特別な経験をした人くらいしか、商業ラインに乗らないであろうエッセイにおいて、「笑い」は全てを超越して、一般人を商業エッセイストに変える、leap的な役割を果たすのではないだろうか。

例えば数百字あれば人に声を出して笑かせる、Xでバズる文章が書けるポテンシャルのある方が、創作大賞を受賞している気がしてならない。

ここまでの考えをまとめると、こんな感じだろうか。

創作大賞受賞作 = ①笑える or/and ②特別な経験 × 圧倒的な筆力

って私は思うんです。




創作大賞に依存するのは、健やかじゃないかも。


自分で書いてきたくせに、自分でもはぁ、とため息をついてしまう。私は笑いを書くのも上手くないし、特別な経験なんてしていないから。……いや、例えば不登校の末に高校で留学した、くらいはあるけれど。今回中間審査に並んでいる皆さんの遍歴を読むと、やっぱり霞んでいる。

ぶっちゃけ、私は一度絶望しているんです。自作を応募し終わった7月くらいに。

自分が応募するまで、創作大賞って、なぜか「一般人の私を特別にしてくれる最後の砦」感があった。人生いろいろあるけれど、良いものを書けば、創作大賞に選ばれて、書く仕事ができるようになるんじゃないかな?って。

でも、どうやらそれは幻想だったみたいだ。

私から見るに、創作大賞は、
「テストの余白にちらっと書いた文章で、加点20点もらえるような文才の持ち主」が、
「他の人がえっと驚くような自分の人生の特別な体験」を
「ちらっとXで書いたら笑いのバズが起きるような特殊能力」を駆使して、
受賞している賞レースに見える。

だって、そうでもないとエッセイなんて売れないから。

それでも書くことは愛おしい。

創作大賞が、最後の砦どころか、最終ラスボスくらいの強者だ、とわかったところで、私は自分にもう一度問いました。

なぜ書くのか。

有名になったり、本を出したりできなくても。それどころか誰に褒められなくても。

それでも書きたいか?

結論から言います。私は、書きたいです。
だって、例えばつい最近も。




創作大賞の中間選考が発表された、木曜のこと。

応募時点からすでに「どう考えても無理だろうなぁ」と悟っていた私は、自分の名前が載っていなくても、そこまでショックじゃなかった。むしろ80作品のリストを見て自分の推論が確信に変わって、「やっぱり、なるほどね」って思った。

自宅の駐車場で発表を確認して、雨の中次女を幼稚園に迎えに行って、家に帰ってきてコーヒーを飲みながら、あ、と思ってLINEアプリを開く。応募作品にも登場してもらった夫に、「中間選考残らなかったよ。でもそんなにショックじゃないから大丈夫。応援してくれてありがとう!」と連絡した。

夫は1時間もせずに帰ってきた。レインコートを着て、前髪に雨粒がついていた。
眉をハの字にした優しい顔で、「ほら、まいちゃんお疲れ様。頑張ったね」と、白い箱を渡してくれた。「えーそんなにショックじゃなかったのに」なんて言いながら、ケーキを受け取る。

その夜ばかりはダイエットも返上して、家族でラーメン屋さんでお疲れ会をした。雨の中傘をさして、四人で家に帰って、みんなでケーキの箱を開けた。



果物が苦手な次女用に、クリームたっぷりのプリンが一つ。
イチゴが大好きな長女用に、苺のムースが一つ。
そして種類の違うモンブランが二つ。これは大人用だ。

「モンブランは、どう違うの?」と尋ねると、「一つは和栗ってやつで、もう一つはモンブランって書いてあった。」と夫。
「えーどうしようかな」って二つを見比べていると、夫が2皿とも私の前に押し出して、こう言った。

「まいちゃん両方食べて、好きなの選びな」

びっくりした。それは、私が応募作「反撃せよ!のび太くん」でも書いた、18年前の私たちのエピソードと、全く一緒だった。



夫はいつも自分のケーキをさし出して、私に好きな方を選ばせてくれる。18年前も、今も。

中間選考でちっとも出なかった涙が、急に溢れてきた。夫が「どうしたの?時差で悔しくなった?」と慌てる。

ちがうよ。私、おんなじことを、書いたんだよ。君にも読ませたのに、覚えてないんだろうけどさ。



果たして、「反撃せよ、のび太くん」を書かなかった場合、私は夫の愛に、ちゃんと気づくことができただろうか。

生きていると、私の人生では取り扱えないくらいの感動に、時々出会う。それを言葉にして残せるのは、私しかいない。


私の技術のせいで、凡作の域を出ないかもしれないけれど。書いた私は、私の身に起こった美しい出来事を、ちゃんと思い出せるのだ。

写真を撮る。SNSに残す。「こんなことで感動したんだ」って、友達に言う。その延長で、やっぱり私はエッセイを書きたいと思う。

エッセイは人生の副産物

創作大賞に手が届かなくても、いや、創作大賞に手が届いた人さえ、人生は地続きで進んでいく。受賞者さんの受賞後の記事を読んでも、変わらず仕事をして、子育てをして、記事を書いている人がたくさんいる。

それなら、創作大賞に箸にも棒にも引っかからなくても、書き続ければいいじゃんって思う。

うそ。いや、それも本音だけど、私は強欲なので、こんなふうに考えるのだ。

え、創作大賞を利用すればいいじゃね?って。

今まで、勇気がでなかったことを、やってみる。行ったことのない土地への、切符を買う。会いたい人に、リアルに会いに行く。

特別な経験が有利になるなら、創作大賞にかこつけて、どんどん特別な経験をすればいい。自分の人生を、好きなように、目一杯生きよう。やりたかったことを思いっきりやって、それをエッセイにして、創作大賞に出せばいい。

だとしたら、誰も、何も、損しない。
エッセイは人生の副産物と捉えてみる。
エッセイストを目指すのではなく、まずは自分の人生を思いっきり生きること。

そうしたら、創作大賞の結果に振り回されず、むしろ創作大賞を利用して、人生を輝かせることができるのではないのだろうか。

宮崎駿監督の言葉

大昔、宮崎駿監督がこんなことを言っていたのを、なぜか印象深く覚えている。

よく「うちの子はトトロの映画を100回見ました!」と言ってくる人がいるけれど、「見るのは年に1回くらいにして、あとの99回は外に出て遊んでほしい。」といつも思う。

https://hatenanews.com/articles/200909/448
こんなこと言ってたよなぁと思ってソースを探したら、ありました。


応募作を書いている間、私は執筆に集中するあまり、ずーっと上の空だった。食器洗い中にお皿をパリンパリン割ったし。娘たちに対しても生返事だった。文章を書いている時間だけ、生きてるって感じがしていた。

でも、たぶんそれじゃダメで。いや、筆力は上がるかもだけど、書くだけに沼っていったら、創作大賞に届かないどころか、人生自体も先細っていくんだろうなって、今は思う。

だから私は、公園に出て、どんぐりを拾う人になりたい。
娘たちと、いっぱい遊びたい。夫ともっと話して、家族で、一人で、やりたいことに、いっぱいいっぱい手をつけたい。そしてそれをエッセイに持ち帰ってさ。

良い人生をおくって、良いエッセイを書こう。

お互い、創作大賞側が嫉妬するくらい、充実した人生を送ってやりましょう!

17万作品の作者の皆さま、どうか筆を折らないで!
来年の創作大賞で、また会いましょう!


⇩副産物①⇩


⇩副産物②⇩


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海沼 衣々花|よく生き、よく書く人 書くを仕事に。一歩踏み出したばかりです。 毎日ヨタヨタ、おろおろ書いてます。 サポートいただけると跳び上がって喜びます。 コーヒーをご馳走していただくお気持ちで、お待ちしてます☕️