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「スズキタゴサク」を見ない『爆弾』考察――分かったつもりになると、人は消えていく

※映画『爆弾』の内容に触れています。

『爆弾』を見終わって、妙なことに気づいた。

あれだけ強烈な存在だったスズキタゴサクより、私の中に残っていたのは等々力の言葉だった。

タゴサクについて、

「文無しで自堕落で良心がマヒした中年男。けどそれだけじゃない気がする。上手く言えないけど。無邪気?」

映画「爆弾」

と語る場面

この「無邪気?」という言葉が、ずっと引っかかっている。

別に、タゴサクが本当は無邪気な人間だったと言いたいわけではない。

むしろ重要なのは、等々力がタゴサクを分かったことにしなかったことだと思う。


「狂人」で終わらせなかった等々力

スズキタゴサクは、かなり分かりやすく異様な人物として登場する。

突然、爆発を予言する。

最初は何を言っているのか分からない。

しかし実際に爆発が起きる。

さらに次の爆発を予告し、人を揺さぶり、刑事たちの感情を少しずつ乱していく。

観客からすれば「狂人」という言葉を置いてしまうのが一番簡単だ。

実際、私もそう見ていた部分はある。

でも等々力は、そこで一度止まる。

自堕落な中年男。

良心が麻痺している。

そこまでは言える。

でも、それだけではない気がする。

そして出てきたのが「無邪気?」だった。

これが正解なのかは分からない。

たぶん等々力自身も、正解だと思っていない。

「思いつきです。ご自分で確かめて下さい」と類家に渡してしまう。

私はこの態度にかなり共感した。

人を理解しようとはする。

でも、分かったつもりにはならない。

タゴサクという一種の狂人を前にしても、一面的に見ない。

この小さな保留が、その後の物語にも少しずつ伝播していくように見えた。

タゴサクは人を変えるのではなく、露出させる

タゴサクによって、周囲の人物は大きく揺さぶられる。

ただ、別人に変えられたという感じはしなかった。

むしろ、それまで隠れていたものが露出していく。

その典型が清宮だと思う。

清宮は、最後まで「刑事として事件を止める」という職務責任が強い。

子供を救いたい。

爆発を止めたい。

タゴサクの挑発に乗らず、事件を解決したい。

ただ、その責任感が強いからこそ、最後には役割だけでは抑えきれない怒りまで露出する。

タゴサクの指を折る場面は、清宮が別人になった瞬間というより、今まで押さえていた感情が表に出た瞬間に見えた。

だから私は、あれを単純に「刑事としての失敗」とは見なかった。

役割を全うしようとする人間にも、役割では処理できない感情がある。

清宮は最後まで清宮だった。

でも、その「清宮」の中には、職務責任だけではないものも最初からあったのだと思う。

冷静な天才では終わらない類家

三人の中で、最もタゴサクに揺さぶられたのは類家だった。

最初の類家はかなり冷ややかだ。

タゴサクの言動に感情的に反応するというより、

「こいつは何をやっているのか」

「どういう構造で人を動かしているのか」

を分析しているように見える。

でも、話が進むにつれて、その類家からどんどん感情が露出していく。

特に印象に残ったのが、「子供」と「ホームレス」のどちらを救うのかという命の選択を突きつけられた場面だった。

ここで類家の怒りがかなり表に出る。

冷静な分析者だった類家が、はっきりと怒る。

私はここで、類家の「本性が出た」とは思わなかった。

むしろ、類家の中に最初からあった複数のものが、一気に見えてきた。

論理。

怒り。

負けたくないという感情。

タゴサクに勝ちたいという人間臭さ。

そして、自分なりの美学。

類家は一度「俺の負け」と認める。

スマホを投げ捨てる。

完全に感情を揺さぶられている。

それでも、構造を見ること自体は最後までやめない。

そして、

「俺のほうが上手く出来るがやらない。つまらないんだよ。世の中を壊すのは誰でも出来る」

と語る。

私はこれを「正義」の宣言というより、類家自身の美学の告白として受け取った。

類家は正しい人だからタゴサクに勝とうとしているのではない。

自分は何を面白いと思い、何をつまらないと思い、何をしない人間なのか。

そこだけは最後までタゴサクに書き換えさせなかった。

等々力、清宮、類家はそれぞれ違う

この三人を並べると面白い。

等々力は、分からないものを分からないまま残す。

清宮は、事件を解決するために決めなければならない。

類家は、構造を分析しながら、自分の美学を守ろうとする。

私は等々力の姿勢に一番共感した。

でも、等々力のような人だけでは事件は解決しないとも思う。

一面的に見ないことは大事だ。

しかし、清宮のように「今ここで何をするか」を決める人も必要になる。

だから、等々力が正しくて清宮が間違っている、という話ではない。

三人はそれぞれ違う方法でタゴサクと向き合っている。

そして極限状態になるほど、それぞれの中に一つではない感情や信念が見えてくる。

「子供」と「ホームレス」

この映画で、観客自身が一番強く揺さぶられるのは、やはり「子供」と「ホームレス」のどちらを救うのかという場面だと思う。

もちろん私も、反射的には子供を救いたくなる。

でも、そこで少し止まってしまった。

もし自分がホームレス当事者だったらどうだろう。

自分がいつそちら側になるかなんて、誰にも分からない。

「子供」

「ホームレス」

この二つの言葉に置き換えた瞬間、それぞれがどんな人生を生きてきたのかという個人が消えていく。

属性だけが残る。

そして、その属性だけを見て命に順位をつける。

タゴサクがやっているのは、かなり乱暴な単純化だ。

でも、それを見ている観客もまた、その二択を一瞬受け入れてしまう。

私も含めて。

だからこの場面は、類家の感情だけではなく、観客の感情まで露出させる。

分かりやすい狂人がいると、こちらも単純になる

タゴサクは、あまりにも分かりやすく異形だ。

だから観客は安心できる。

「あいつは狂人だ」

「自分とは違う」

そう切り分ければ、こちらは「まともな側」にいられる。

でも、本当にそれでいいのだろうか。

タゴサクという分かりやすい狂人を置くことで、周囲の人物まで単純化して見てはいないか。

清宮は正義感の強い刑事。

類家は冷静な天才。

等々力は人間味のある刑事。

そう整理してしまえば簡単だ。

でも、類家は怒る。

勝ちたがる。

負けを認める。

それでも冷静さを失いきらない。

清宮は職務を全うしようとしながら、怒りを抑えきれない。

等々力も「優しい人」というだけではなく、最後には自分の感情を自分のものとして引き受ける。

タゴサクに「不幸」と意味づけられても、

「俺はそれを不幸せとは思わないよ」

と返す。

タゴサクがどう意味づけようと、自分の人生の意味を相手に渡さない。

類家も似ている。

世界が残酷であること自体は否定しない。

でも、それだけを世界の全部にはしない。

「俺は逃げないよ。残酷からも綺麗事からも。」

残酷さだけにも逃げない。

綺麗事だけにも逃げない。

等々力も類家も、方法は違うけれど、最後までタゴサクに自分の世界の見方を全部書き換えさせなかった。

では、タゴサク自身は何者なのか

ここまで私は、タゴサクをあまり見ずに周囲ばかり見てきた。

でも最後に、一度タゴサクへ戻りたい。

「狂人」

「爆弾魔」

「元ホームレス」

そんな言葉で整理した瞬間、タゴサクという個人も消えてしまうのではないか。

それは「子供」と「ホームレス」で人間を分類したときと、少し似ている。

だからこそ、最初の等々力の「無邪気?」が最後まで残る。

あれはタゴサクの本質を言い当てた言葉ではない。

本質を言い当てたつもりにならないための言葉だったのだと思う。

「それだけじゃない気がする」

たぶん、この保留こそが重要だった。

最後の爆弾は見つかっていない

物語の最後。

「最後の爆弾は見つかっていない。」

もちろん、物語上はまだ発見されていない爆弾のことだ。

でも私は、少し別のものまで考えてしまった。

タゴサクによって、清宮の怒りが露出した。

類家の競争心や美学が露出した。

等々力の、分からないものを分からないまま残そうとする姿勢も見えた。

それは「極限状態になると本性が出る」という簡単な話ではないと思う。

むしろ、人の中には最初からいくつもの感情や信念があって、普段はその全部を自分でも把握していない。

タゴサクは、それを強引に表へ出してしまう。

そして、それは観客も同じだった。

私も「子供かホームレスか」と問われて、自分の中にある判断を露出させられた。

人を分かったつもりになると、その人の本質を見落とすこともあるのではないか。

でも、そもそも自分自身の本質すら分かっていないのではないか。

私は私自身のことを、どこまで分かっているのだろう。

最後の爆弾は、まだ見つかっていない。

私の中にも、自分でまだ知らない何かがあるのかもしれない。


人を一面だけで見ることについては、自分の見方も含めて考えています。
人を一面だけで見ても、悪くないのかもしれない

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