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【痕跡探訪】妙法ヶ岳の妙法 (前編)

  祝日の朝。カーテンの隙間から見えた青空に気分が高揚した。寝床から這い出た私は、流しの洗い物を片付け、奥さんの部屋を除いた家中のゴミをまとめた。すると、精神疾患を抱える奥さんが起きてきて、私の持つゴミ袋にウサギの餌袋を入れて捨てると言い出した。ウサギはまだ健在で、餌も十二分に残っている。言い争いは妄想思考を強めるだけである。私はウサギの餌を諦め、代わりに奥さんにゴミ出しを任せて洗濯物を干した。
「行ってきまーす。」
「何時に帰ってくる?」
「七時くらいかな、できるだけ早く帰るよ。」
お決まりのやり取りを交わし、私は「脱出ミッション」に成功した。

  今回のミッション成功の鍵は、ウサギの餌を犠牲にした判断だった。あそこで争っていたら、この日の自由は手に入らなかっただろう。愛車を走らせながら、私は自らの決断に満足していた。独りで過ごせる一日、私はいつも「心のナビ」に従う。今日は「華厳寺(けごんじ)へ行け」、心がそう告げていた。

  華厳寺を訪れるのは三度目だ。最初も二度目も奥さんと一緒だった。二度目は病の影響で彼女は駐車場の車内で眠り続け、私は一人で門前町を見学したのを覚えている。今回もまた「心のナビ」は同じ地を指し示した。

  谷汲山 華厳寺 (たにぐみさん けごんじ)、西国三十三観音の第三十三番札所、巡礼最後の地である。炎天下の駐車場に車を停め登山アプリを確認すると、本堂の奥には奥の院、さらにその奥には妙法ヶ岳と呼ばれる山頂があるとわかった。山頂までは二時間。私はほくそ笑み、登山の支度を整えた。いつでも登れるよう車に用具を積んでいるのだが、実際に役立つ機会は少ない。

  約七百メートルにわたる参道は、両脇に旅館や土産物店、仏具店が並ぶ。かつて多くの巡礼者で賑わった門前町も、今は空き店舗が目立ち静けさを取り戻していた。衰退ではなく、祈りのための静寂を宿しているように思えた。私は食堂に入り、うどんと味噌田楽で腹を満たした。ペットボトルの水を三本買い、いよいよ出発だ。

  仁王門をくぐり、その先にある本堂の左側から奥の院への参道に向かう。登山口のすぐ手前の満願堂には「土足禁止」の立て札があり、その札の前をまるまると太ったトカゲが悠々と土足で歩いていた。

  登山道は大量の木の根が絡み合い、やがて沢沿いの湿った参道に入る。シダや苔が繁殖し、トカゲ達が私の一歩先を慌てふためきながら隠れる。暑い日差しは山の急斜面と高い木々に遮られ、湿度は飽和している。汗が噴き出し続けるのだが、時折現れる小さな滝に癒される。さらに道の脇には三十三観音の祠(ほこら)が並び、私を励ましてくれた。

  しばらくして足元に小さなヒルが二匹、吸いついているのを見つけた。初めての体験に気味が悪く、恐る恐る取り除く。
(一体どこで着いたのか。)

  急斜面を折り返しながらさらに登っていくと、ようやく奥の院に着いた。木々に閉ざされた道から一転、青空が現れ、日差しが眩しい。そこには三匹の大きなトカゲがいた。尻尾を再生中の一匹は、慌てふためきお堂の下に身を消した。一匹はお堂の影から私を見つけ、すぐさま隠れた。もう一匹は私の足元で葉の下を探っている。まるでトカゲの楽園のようだ。

  苦しい山道の果てに到着した安堵、さらに山頂へ向かうかどうかで迷った。当初は山頂を目指していたのだが、予想外の厳しさに気持ちが負け始めていた。またしてもソックス付近に現れているヒルを取り除きながら、山頂までの時間を計算し、ここで下山する選択肢も浮かぶ。しばらく葛藤したのだが「今日のナビゲーターは心だ」と思い出した。思考を止め、山と一体になる。心は「行け」と言った。私は心に従い、山頂を目指した。

  奥の院からさらに奥に進むと、岩屋から水が滴り落ちる不動尊堂があった。朽ちた建物は水浸しのまま放置されていたが、岩の天井から絶え間なく流れる清水は霊的で、不動明王の存在を感じさせる。

  沢を離れると急斜面のつづら折りが続き、腰や膝に違和感を感じてきたが、孤独ゆえに気兼ねなくゆっくりと自分のペースで歩みを進められた。やがて稜線に出ると青空が見え始め、風の音が聞こえる。最後の坂を登り切り、妙法ヶ岳の頂に立った。

  山頂には展望はなく、三角点と標札だけがあった。だが、見上げた空はどこまでも青く高い。期待していた眺望はなくとも、内なる展望は開けていた。
(よかった、引き返さなくて。)
私はTシャツを脱ぎ、清涼感に浸る。期待したものがなくても満足は得られる。妙法とはこうした心境のことなのだろう。

  帰路は気楽な下り道だったが、持病の腰痛はぼんやりと痛みを増し、以前壊した右膝をかばう左膝が軋み始めている。奥の院を越えてまたしてもヒルに悩まされたが、薄暗い沢沿いでソックスを脱ぐ勇気はなく、我慢して歩いた。やがて本堂の屋根が見え、無事戻れたことに安堵した。

  時刻は午後四時を回り、門前町は店を閉じていた。駐車場でソックスを脱ぐと、案の定ヒルが張りついていた。一匹ずつ剥がすと、血が驚くほど流れ出す。太陽は西に傾きつつあるが、気温はまだ高い。痛みはないが、あまりの出血に息を呑む。それでも私は、心に従い歩いた今日一日に、不思議なすがすがしさを感じた。この気持ちは何なのだろう。これまでのハイクで感じてきた達成感や気持ちよさではない、形容できない初めての感覚であった。私は膝から足首にかけて十ヶ所ほどから血を流しながら、しばらくこの不思議な感覚を味わっていた。


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