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東海道五十七次 徒歩の旅⑯亀山宿~水口宿

こんにちは。26歳女です。

2024年11月から12月に、18日間かけて東海道五十七次を歩きました。
この記事では、東海道五十七次を歩いた記録を書いていこうと思いますので、これから歩く人にとって参考になればと思います。

これまでの記事一覧はこちら↓


今回の内容

今回は、出発して15日目に歩いた亀山宿~水口宿について書きます。
(更新がずいぶん空いてしまいました;;)
この日は、最後の難所となる鈴鹿峠越えです。
途中、工事で歩けないところもありましたので、参考になれば幸いです。

余談ですが、最近京都から東京まで歩いた方がバズっていましたね。
私は怖くて出費は計算しません😊

亀山宿出発

2024年12月11日(水)、天気は晴れ。
前日に宿泊したホテルはこちら↓

この日は、鈴鹿峠越えをする不安があったため、7時前にはチェックアウトをして出発しました。

↑早朝の東町商店街。江戸時代に宿場町として栄えたのち、1974年に商店街の再開発が行われて現在に至ります。

↑本陣跡。本陣は、参勤交代の際に大名や公家、幕府役人などの偉い人たちが泊まった宿です。ここは問屋も兼ねていたそうです。

↑高札場跡。亀山城の大手門前に、亀山宿の高札場が設けられていました。
幕府や藩によって決められたルールが、ここに掲げられていました。

↑遍照寺。小高いところに位置していたため、門の奥に町が見えて綺麗でした。

↑12月上旬にも関わらず、紅葉がきれいに色づいています。
亀山宿は、亀山城の城下町として栄えていた一方で、堅苦しさがある場所であったことから、宿泊を避ける大名が多かったそうです。

↑時刻は朝7時。朝日がきれいに見えました。

↑「右東海道」と彫られています。いつのだろう…

↑古いおうちが見学無料でした。

↑亀山城西之丸外堀跡。

↑朝日に照らされた立派な野村一里塚。南側の塚は残っていません。この北側の塚は当時のままです。これはムクの木。樹齢400年越えです。

一里塚とは、日本橋を起点に約4kmごとに築かれた塚のことを言います。土が高く盛られたところに気が植えられていて、荷物を運ぶ駄賃の目安となったり、旅人の休憩場所として使われていました。

土が盛られている分、迫力満点な一里塚でした。

↑布氣皇舘太神社(ふけこうたつだいじんじゃ)。
「延喜式神名帳」という927年に日本の神社がまとめられた書にも記録されている歴史ある神社です。

↑これからこの山々を超えるのか…(びくびく)

↑日本橋から数えて47番目の宿場町、関宿に到着です。
関宿は、伊勢別街道の東追分、大和街道の西追分に位置しているのと、鈴鹿峠越えを控える人たちで大いににぎわった宿場町です。

前日の日永の追分で出会った方がおすすめしていた宿場町でもあるので、楽しみ。

↑この鳥居が伊勢別街道の起点です。

↑関宿は、昔ながらの街並みが残っていることから、1984年に国文化財に選定されました。

↑ご馳走場。宿役人が大名たちを送迎した場所です。

↑本陣跡。現在も居住地として使用されているようです。

↑高札場跡。ここに幕府のご法度や掟書き、宿場の決まりなどが掲げられていました。生活に関わる規範であったり、キリシタン禁止令や強訴などの禁止、人馬駄賃の規定などが書いてあったそうです。

↑車のCMに出てきそう。早朝でどこも閉まっていましたが、本来はお店もたくさんあって、見どころ満載なエリアです。

↑地蔵院。741年に、奈良の東大寺のお坊さんが、当時流行していた天然痘から人々を守るために、地蔵菩薩を安置したと伝えられています。古くから東海道の旅人たちも信仰していた歴史ある場所です。

↑転び石。近くの山から転がり落ちてきて、夜な夜な山に戻りたいと唸り声を出していました。弘法大師が供養したことで、泣き止んだ言い伝えがあります。何度片づけても街道に転がり出てきたとか。(怖い…)

↑常夜燈。

↑こんなところに一里塚跡。南の塚にはエノキ、北側には塚木がなかったそうです。

↑鈴鹿馬子唄会館。見えにくいですが、木の柱が建っていて、ひとつひとつに宿場名が書かれています。こんなに歩いてきたのか~としみじみ。

鈴鹿馬子唄というのは、鈴鹿峠を越える馬子(馬をひく人)が、旅人や荷物を乗せて安全に和やかに峠越えができるように歌っていた歌です。馬の首に付けた鈴の音に合わせて歌っていたそうです。
人形浄瑠璃などによって、全国に知れ渡りました。

↑動画の中で実際の歌を聴くことができます。昔の日本を感じる心地よさがある。

↑さて、しばらく歩いて48番目の阪下宿に到着です。
歌川広重の東海道五十三次の阪下宿には、筆捨山が描かれています。
これは、室町時代に狩野元信という絵描きが、この岩山を描こうとしたところ、天気による景色の変化が激しく、ついに筆を捨ててしまったことに由来しています。

↑阪下宿の本陣跡。この本陣は、かなり大きかったそうです。

阪下宿は、東海道の宿場町として整備されるより前の室町時代から宿場として利用されていました。
1650年の大洪水で宿場町が壊滅した翌年に、現在の場所に移転されています。

鈴鹿峠越えを控えた場所であることから、100件以上宿が並ぶにぎやかな宿場町となりました。
その後明治時代に入り、1890年に関西鉄道が開通したことによって通行者が激減し、宿場町としての役割を終えました。

↑こちらも本陣跡。

https://maps.app.goo.gl/RNUoGDqzKJoFQjcc7

↑阪下宿が終わるあたりの、岩屋十一面観音菩薩がある鈴鹿峠バイパスと合流するところで、なんと想定外の通行止めがありました。

YAMAPやGoogleマップなど、事前のリサーチで出てきていなかったので想定外。しかも、迂回路がわかりませんでした(見落としだと思いますが)

バイパスを歩くわけにもいかないですし、鈴鹿峠を超えないといけないし、かなり不安な気持ちになりました。

↑YAMAPで見た登山地図。赤い線が、本来なら歩くべき東海道です。その少し上に、点線があります。
これは、東海自然歩道と呼ばれる、東京の八王子と大阪の箕面をつなぐ全長1697kmある自然歩道です。

仕方なく、こちらを歩くことにしました。

↑東海自然歩道。写真は整備されたところですが、入り口は膝を直角以上に曲げないといけないほど急な階段で、しかも足をかける幅がかかとがはみ出るくらい狭かったです(私の足は23.5㎝)。

ちょっと崩れているところもあり、もともと不安だった私はさらに不安に。

この道は、事前に見ていたユーチューバーのスーツさんも動画で少しだけ紹介をしていたはず。足の悪い方はかなり大変だと思います。

↑沢がありました。鈴鹿峠はその昔、道が狭く険しく、雨の日は清水が所々に湧いて超えるのが難しかったそうです。

↑片山神社。鈴鹿峠の守護神である鈴鹿大明神が祀られています。火災によって、1294年にここに移されました。
この辺りから、「鈴鹿阪八丁二十七曲がり」の急登が始まって、「東の箱根峠、西の鈴鹿峠」と言われた難所に入ります。

↑ユーチューバーのスーツさんは、この道路を自転車で走っていましたね。

鈴鹿峠は、標高378mの峠です。平安時代の886年に阿須波道(あすはみち)として開通しました。

  • 開通して間もない898年に、伊勢神宮へ下った勅使(勅旨を伝えるために天皇が派遣する使者)が山賊に襲われる

  • 1194年に、源頼朝が盗賊の鎮圧を命じる

  • 水銀商人が盗賊に襲われた際、飼っていたハチの大群を呪文で唱えて呼び寄せ、山賊を追い払う

  • 坂上田村麻呂が立烏帽子という山賊を捉える

など、山賊に関する伝説が多く残っています。

現代は、近くを国道1号線が走っていて、車で簡単に超えることが出来ますし、徒歩では石の階段が続いていて、ハイキング感覚で超えることができます。

道の脇には石垣が残っていて、昔立ち並んでいた茶屋の跡を見ることができます。

↑いよいよ滋賀県に入ります。
写真にはありませんが、近くに鏡石と呼ばれる石があります。
これは、山賊が岩に身を隠して、旅人が岩に映ったことを確認して襲っていたことから、「鬼の姿見」とも呼ばれていました。
山火事で焼かれて、現在は輝きを失っています。

↑土山宿までもうすぐ。一番不安だった鈴鹿峠を越えて一安心。

道中誰にも会わなかったため、ものすごく怖かったです。私がびびりすぎるのですが、超えてしまえばただのハイキングコースでした。

↑万人講常夜燈。
道中の安全を願って作られた江戸時代のものです。重さ38t、高さ5m44㎝の巨大な常夜燈。昔は毎晩灯りがともされていました。
こんな巨大な岩、江戸時代にどうやって積んだんだ‥‥。

↑滋賀県に入ります。

↑隠れたところに鳥居と山灯篭。鳥居は1916年、山灯篭は1894年にできました。

↑鈴鹿峠を越えたところに、猪鼻村という村がありました。ここは、鈴鹿峠から下ってくるイノシシが入らないように垣根があったことに由来をしています。草餅や強飯が名物な地域で、農業や林業、製茶も行われていました。

近くには、旅人が自分の杖を立てて一息入れたことから名づけられた猪鼻立場があります。

↑明治天皇が休憩されたところ。
この近くに、蟹塚というところがあります。
昔、この周辺では大きな蟹が住み着いていて、旅人を苦しめていたそうです。僧侶が往生要集を唱えたところ、蟹の甲羅が砕け散り、平穏が訪れています。

↑蟹坂古戦場跡。
伊勢の国と甲賀の国の戦いがここで繰り広げられました。

↑田村川に架かる海道橋。

↑橋の脇に高札がありました。これは、宿場町にある高札場とは異なり、橋の規則が書かれたものです。

昔は、ここから600mほど下流に川の渡場がありましたが、増水した際に溺死してしまう旅人が続出していたことから、土山宿の人たちが中心となって、1775年にここに橋をかけることにしたのです。

↑歌川広重も、東海道五十三次の浮世で、この田村川の板橋を渡る人たちを描いています。

↑橋を渡り切ると、田村神社がありました。812年に創建されたもので、坂上田村麻呂と嵯峨天皇、倭姫命(やまとひめのみこと)が祀られています。
歴史の授業でよく見る坂上田村麻呂は、797年に桓武天皇から征夷大将軍に任命され、二回に渡って蝦夷平定の遠征に出た武人です。

↑田村神社の名物、かにが坂飴です。住み着いていた大きな蟹を退治した僧侶が、「蟹の甲羅を模した飴を作って、厄除けにせよ」と言い残したそうです。
購入と一緒に、開運のステッカーをもらいました。

見た目はべっこう飴、味はべっこう飴よりも素朴な味で、初めての味でした。

↑さて、49番目の宿場町、土山宿に到着です。
ここは鈴鹿峠を控えているのと、御代参街道という街道が分岐しているため、多くの旅人でにぎわいました。
御代参街道は、伊勢神宮と多賀大社を結ぶ街道で、徳川二代目将軍秀忠が、病気平癒祈願のために参詣した際に整備されました。

土山宿は、細かく昔何が存在していたのか、多くの碑が建っていました。
沢山あるので、流し見してください。

↑うーん、読めない。

↑土山の一里塚。

↑井筒屋跡。森鴎外の祖父は、津和野藩の医薬をつかさどる典医でした。彼は参勤交代に随行し、ここで亡くなりました。

↑本陣跡。

↑問屋場跡。

↑伝馬館。

↑問屋宅跡。

↑本陣跡。1868年、明治天皇はここで16歳の誕生日を迎えました。土山宿の住民には、神酒とするめが振舞われました。1870年に本陣制度が廃止されて、その役目を終えました。

↑問屋場と本陣跡。

↑土山宿陣屋跡。陣屋とは、江戸時代に藩の藩庁が置かれた屋敷です。

↑一里塚跡。

↑大日川掘割。1703年に、掘割(地面を掘って作った水路)ができました。

↑街中でよく見かける飛び出し注意の看板が、茶摘み姫になっていました。初めて知ったのですが、これは「飛び出し坊や」と呼ばれるもので、滋賀県東近江市が発祥のものなんです。

さすが発祥の県。滋賀県内歩いていると、様々なバリエーションの子が建っていて、とてもかわいかったです。

↑飛脚バージョン。

↑さて、水口宿に到着しました。これは今在家の一里塚。復元されたものです。
水口宿には、岩神神社という神社があります。
この周辺では、かつて巨岩・奇岩が多くあったことから、お社がない状態で、岩を祀ることがありました。
村人たちは、子供が生まれると、この岩の前で子供を抱いて立ち、道行く旅人に頼んで、子供の名前を決めてもらう風習があったと言います。

本日の宿

この日は、ホテル古城に宿泊。
6490円でした。

ここでちょっとホラーなことがありました…。
ご飯を食べに行こうと玄関口に行くと、花が咲いた木の枝を持った女の人が出てきました。
その人が、会ってすぐに「私も一緒にいきたい」と言ってきました。

このホテルの人かな、ちょっとしゃべり方的に外国人かも?と思った私はOKと言いつつ、そこらへんから切り落としてきたような木の枝を部屋に置きにいくその女の人を見て、少し怖くなりました。

お店に行く道中、向こうからは一切話しかけてこず、黙って私の後ろを幽霊みたいについてきました。
見た目は40前後の綺麗目な女性の方で、こちらから話しかけてもふわりふわりと笑いながら小さい声で何を言っているのかわからないし、受け答えをしないことも多かったです。

・警備会社を立ち上げようとしている
・ホテルに知り合いと泊まっている
・ここは地元
・食べに来たお店は昼に来たことがある
・メニューを先に渡したら、なぜかずっと食べ放題メニューを見ている

怪しい意味不明なことがたくさん…。
もしやおごらされるのかなと身構え、違和感と不安が大きくなった私は、食べ終わった瞬間、自分の会計だけ済ませて一目散に走ってホテルに帰りました。

翌日、彼女の靴がホールにあったので、幽霊でないことは確かですが、めちゃくちゃ意味不明で怖かった…。

他にもホラーな体験がこの18日間であったので、東海道シリーズのまとめで書きます。

本日の記録

次回に続く

次回は、水口宿~大津宿です。





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