掌編小説『熱帯夜』【シロクマ文芸部】
青藍の空の下で、街灯の光が水面に線を伸ばしている。まるで、自身の存在を広く遺そうとするみたいに。
昼間の陽光の猛威が刻まれたアスファルトの道は、夜になっても痕跡を消すことはない。涼やかな風が顔を撫でるけれど、道から立ち上る熱気が足元から全身をゆっくりと巡り、不快な感情だけを私の心に残して去っていく。
これだから、夏は大嫌いだ。
家に着くなり、残業上がりの体をベッドに放り投げた。何も変わらない天井だけが視界に映る。
『熱帯夜ってさ、太陽の足跡って感じだよね』
いつかの彼の言葉が、頭のうちでぼんやりと蘇る。
喧嘩別れをして、それっきり。沸騰した心のままに、SNSもLINEも全てブロックした。なのに、こびりついた言葉と思い出だけは、消したくても簡単に消せない。大嫌いな汗の、夏の不快な感触はそういった言葉と思い出をも不躾に浮かび上がらせる。
「熱帯夜って、嫌な足跡ばっかり残していくじゃん」
苦笑して、ひとけのない部屋で静寂に身を任せた。
寝苦しくて目が覚めた。時刻は深夜1時。
節約のためエアコンをつけたくない。でも、扇風機だけでは耐えられそうもない。
だから夏は嫌いだと、何度放ったかわからない独り言をこぼして携帯を手に取る。液晶画面の下で、熱帯夜のニュース記事が嫌味に躍っている。
熱帯夜の文字を見ると、アスファルトの熱気みたいに彼との思い出が体を巡る。忘れたいのに。
再び眠る気がしないし、明日は休日だ。深夜で少し危ないかもだけど、散歩をしよう。嫌味な足跡を辿ってやろうじゃないかと息巻いた。
深夜の街中は、集く夜の虫の音だけが命の気配を奏でていた。
読書好きだった彼は、なぜか夏になると外で本を読みたがった。草の匂いを嗅ぎながら、少し汗ばみながら読書をしてると、とっても生きている感じがすると言っていた。読書をしない私には理解できなかったけれど、隣にいるとふわっと胸が浮いて、落ち着ける彼の柔和な空気が好きだった。
彼と過ごして心が躍ったり、安心したり、ときめいたり、忘れたい思い出が胸のうちにできた余白を埋めてくる。
その時、下から這い上がる熱を感じた。
「太陽の、足跡、か」
私はそのまま、思い出の跡を辿るようにある公園へと向かった。
彼と何度も過ごした、公園。
虫の演奏がより一層鳴り響く園内を、ただ歩いた。
足を踏みしめるたびに、熱気が背中を押してくる。
「あ」
広場に着くと、ベンチに座る人影を認めて、思わず声が漏れる。
なんで、こんな時間に、ここにいるの?
街灯が多く点在する広場だから、向こうもすぐに私に気づく。
疑いながらも、私はゆっくりと近づいた。
本を片手に、驚いた顔で私を見上げる、彼。
「なんで、ここにいるの?」
「そっちこそ」
「なんだか寝苦しくてさ。でもこれも人生かって思って、とりあえず外で読書でもしようかなって」
「何それ。意味わかんない」
いつもと変わらない姿。過去なんてまるでなんとも思ってないような、柔和な表情。今まで体に乗っかっていた重たいものに、急に羽が生えたような浮遊感を感じた。私、ガキだなあ。
思わず微笑む。
「それで、そっちはなんで?」
「ん? 太陽の足跡を、追ってみた」
了
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