【第14話】『緋色の揺りかご、黒い蝶の影』(歴史王国編)
【前回までのあらすじ】
悠(はるか)の言葉で封印を解かれた翠(みどり)は、自身が魔法王・尚秋(なおあき)の元配下であり、歴史改ざんの「共犯者」であったという残酷な過去を思い出す。100年前、尚秋は無限王国の王・遼(りょう)を妬み、その存在を世界から消し去っていた。
一方、典言王国の王・揚羽(あげは)は、尚秋への歪んだ愛と翠への罪悪感の間で揺れながらも、尚秋から下された「翠の処分」という命に従い、彼女を死地へ誘い出す決断を下す。
消された王・遼の真実を取り戻し、親友・彩(さい)を救うため、悠たちは揚羽の待つ典言王国へと足を踏み入れる。愛と裏切りが交錯する中、100年の時をかけた因縁が最終局面へと動き出す。
前回のお話はこちら
1. 凍えた子羊と、包み込む海
100年前の戦乱。
魔法王国(マギステル)の側近としての記憶を根こそぎ奪われ、
尚秋(なおあき)の手によって少女の姿へと変えられた「翠(すい)」は、名もなき荒野に放り出されていた。
尚秋が彼女に施した呪いは、単なる忘却ではなかった。
偽りの記憶――それは、逃れられない暴力と凄惨な虐待の傷。
「……こないで。男の人は、みんな嫌い……!」
目覚めた彼女の心には、男性に対する激しい拒絶と、
触れられることへの恐怖だけが刻まれていた。
行き場を失い、飢えと怯えに震える少女。
そんな彼女に目をつけたのは、力で領土を広げようとする野心的な男たちだった。
「なんだ、このガキは。魔法の気配がするな。売れば金になるぞ」
「寄るなっ……! 殺してやる!」
少女は、体に刻まれた本能的な武力だけで抵抗した。
折れそうな細い腕で剣を振り回し、獣のように牙を剥く。
その姿は、誇り高き「翠(すい)」の残影でありながら、あまりにも危うく、今にも壊れてしまいそうだった。
2. 魚座の女王:すべてを包み込む「海」
そんな地獄のような光景の中に、ふわりと緋色の衣を纏った一人の女性が現れた。
後の典言王国国王、揚羽(あげは)である。
魚座の性質を持つ彼女は、他人の痛みを自分のことのように感じてしまう、底なしの感受性を持っていた。
傷ついた少女が放つ「絶望の匂い」に、彼女の心は激しく揺さぶられた。
「もういいのよ。もう、戦わなくていいの」
揚羽は、男たちが放つ殺気をものともせず、少女の前に膝をついた。
少女が振り下ろした刃が、揚羽の白い頬をかすめる。
それでも、揚羽は微動だにせず、ただ温かい微笑みを浮かべて両腕を広げた。
「……どうして、逃げないの?」
「あなたが、あんなに震えているからよ。
……おいで、私の可愛い小羊さん」
冷たい雨が降る中、揚羽は少女を強く抱きしめた。
男を恐れ、拒絶し続けていた少女の体が、
揚羽の体温に触れた瞬間、嘘のように力が抜けていく。
張り詰めていた糸が切れ、少女は揚羽の胸の中で、
生まれて初めて声を上げて泣いた。
3. 典言王国の建国:翠の「紋章」
二人は旅を始めた。
揚羽は翠(みどり)と名付けたその少女を守るため、
男たちの追っ手を交わしながら、
世界中に散らばり意味を失いかけていた「文字」を拾い集めた。
「文字はね、誰かを傷つけるための武器じゃないの。
想いを繋ぎ、真実を保存するための『灯火』なのよ」
ある夜、揚羽の言葉に感銘を受けた翠の背中に、
まばゆい光と共に「典言の配下」たる牡羊座の紋章が浮かび上がった。
文字を定義し、解読し、保存する。
翠の鋭い視線が、初めて「壊すため」ではなく
「見守るため」に使われた瞬間だった。
この日、揚羽は決意した。
この子が、誰にも脅かされず、文字と共に穏やかに暮らせる国を作ろうと。 そうして建国されたのが、典言(てんげん)王国だった。
揚羽は国王として、翠は彼女を生涯守り抜く「盾」として、
二人は母娘のような深い絆で結ばれた。
4. 尚秋の訪問:甘い毒と、裏切りの芽
建国から数年が経ち、国が安定し始めた頃。
魔法王国の若き王・尚秋が、隣国への挨拶という名目で現れた。
漆黒の衣を纏い、月光のような冷ややかな美しさを湛えた尚秋。
彼は初対面で、揚羽の手を執り、その瞳をじっと覗き込んだ。
「素晴らしい国ですね、揚羽。
……あなたのその深い愛情は、凍てついた私の心さえも溶かしてしまいそうだ」
それは、魔法の力さえも孕んだ、逃れられない誘惑の言葉だった。
揚羽の持つ魚座の感受性は、尚秋が放つ「孤独な支配者」という偽りの陰影に、瞬く間に絆されてしまった。
二人が男女の仲になるのに、時間はかからなかった。
揚羽は、尚秋という「恋」に溺れていった。
彼に抱きしめられるたびに、自分の魂が彼の色に染まっていくのを感じた。
けれど、尚秋の狙いは最初から揚羽の「愛」ではなく、彼女の側にいる「翠」の監視にあった。
「ねえ、揚羽。あの翠という娘……、君が大切にしているのは分かるが、
彼女の中には恐ろしい魔力が眠っている。
……彼女を守るために、彼女のすべてを僕に教えてくれないか。
小さな変化も見逃さないようにね」
尚秋の囁きは、甘い蜜のように揚羽の判断力を狂わせた。
揚羽は、尚秋への惚れ気と、彼なしでは生きられないという依存から、
翠の行動、成長、そして記憶の断片が戻りかけていないか……
そのすべてを彼に流し始めた。
(……これは、翠を守るため。尚秋様がそう仰るのだから)
自分に言い聞かせながら揚羽は翠への「恩」と、尚秋への「愛」という、
決して両立しない二つの感情の狭間で、ゆっくりと壊れていった。
これが、緋色の女王・揚羽が100年隠し続けてきた、
残酷な裏切りのプロローグであった。
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