縁界《ENKAI》本編|7話:来ない日
1章:縁界《ENKAI》 ― 孤独と声 ―
翌朝、ラグナードはいつも通り深淵の森を歩き、泉へ向かった。
理由はない。足が覚えているだけだった。木々の隙間を抜ける風は穏やかで、獣の気配も薄い。森は昨日と同じ顔をしている。泉に着くと、黒い岩の隙間に腰を下ろし、水面を眺めた。風が吹くたびに景色が歪む。しばらくして岩の上に虫が止まり、ラグナードは指でつまんで口に放り込んだ。
背後で小さな物音がした。振り返ると獣が水を飲みに来ていた。警戒しながら一口だけ飲み、すぐ森へ消える。静けさが戻ると、ラグナードは立ち上がって泉を見回した。何も変わらない。座る。もう一度立つ。それでも同じだった。やがて踵を返しかけた時、声が混じった風が耳に触れた。
「ラグ」
足が止まる。続いて低い声。ガルゼイン。
ラグナードは音の方へ歩いた。木々を抜けると、白い狐とガルゼインが向かい合っているのが見えた。だが近づいた時には会話は終わっていた。シロは耳を伏せたまま背を向け、ガルゼインも何も言わず森の奥へ歩いていく。
「もういい」
それだけ残して、シロは森の外へ向かって歩き出した。ガルゼインの背中はすぐ木々に消えた。ラグナードは木陰からその一部始終を見ていたが、追わなかった。白い尾だけが揺れて消えるのを見届けると、胸の奥に残っていたわずかな違和感がふっと消えた。理由は分からないまま、ラグナードは泉へ戻った。
その夜、月が泉を白く照らしていた。ラグナードが岩へ向かうと、そこにシロが座っていた。
「ラグ」
尻尾を揺らしながら、軽く笑う。
「ごめんね。今日は行けなかった」
ラグナードは何も言わない。シロも返事を求めていない。
「ガルゼインに怒られてさ。魚」
困ったように言いながらも、声は軽かった。昼の空気はもうない。シロは水面の月を見てから、思い出したように顔を上げる。
「明日、森の入り口まで行こうよ」
ラグナードはシロを見る。森の入り口。外へ続く境界。
「嫌ならいいけど」
そう言いながら、断られるとは思っていない声だった。ラグナードは答えない。ただそこにいる。それで十分だったのか、シロは満足そうに尻尾を揺らした。
「じゃあ決まりね」
それきり二人は話さない。風が水面を揺らし、月が細かく割れて流れていく。居心地の悪さはないまま夜は更けた。
翌朝、二人は並んで森の奥を歩いた。外へ近づくほど空気が変わる。シロは珍しくよく喋り、時々笑う。ラグナードは何も返さないが、シロは気にしない。
入り口が見えた瞬間、茂みが揺れた。小柄な魔物が飛び出し、一直線にシロへ牙を向ける。
「──ッ」
振り向いた時にはもう遅い。
だが次の瞬間、ラグナードが間に入っていた。考えていない。気づいた時には腕が動いていた。振り払うと魔物は横に弾かれ、地面を転がる。すぐ起き上がり、今度はラグナードを見た。
視線が変わる。殺意が移る。
ラグナードは動かない。胸の奥が熱い。ここで退いたら何かが終わる気がした。
魔物が身を沈める。
「ラグ!」
シロが腕を掴んだ。
「走って!」
引かれるまま、ラグナードは走った。背後で枝が折れる音が続く。追ってきている。シロは止まらないまま森の奥へ抜け、泉の縄張りに入ってようやく足を緩めた。息を整え、耳を澄ます。追跡は途切れている。
「……よかった」
息を吐き、シロは振り返った。
「ありがとう」
ラグナードは答えない。意味は分かるが、なぜ礼を言われるのかは分からない。シロは少しだけ間を置いて笑った。
「助かったよ」
尻尾がゆっくり揺れる。ラグナードはその揺れを見ていた。
やがてシロが泉へ歩き出す。ラグナードもその後ろに続いた。
ラグナードはシロの後ろを歩いていた。泉へ向かう道は静かで、足音だけが落ちていく。シロは少しだけ後ろを振り返り、「さっき、ちゃんと守ってくれたね」と言った。
ラグナードは答えない。シロはそれを気にせず歩き続ける。泉に着くと、シロはそのまま岩に飛び乗り、尻尾を揺らしながら座った。「あのさ」と、少しだけ声を落とす。
「ラグって、やっぱり変だよね」
ラグナードは止まる。「でも、嫌いじゃない」そう続けて、シロは水面を見た。ラグナードはその横に座るでもなく、立ったまま泉を見る。
「普通の魔物なら、あそこで私を助けないよ」
シロは軽く言う。
「でもラグは来た。理由ないんでしょ?」
ラグナードは少し間を置いて、「分からない」とだけ言う。
シロはそれを聞いて笑った。
「それでいいよ」
風が吹き、水面が揺れる。しばらく沈黙が続いたあと、シロが岩から降りて、ラグナードの隣に来る。「ねぇ、座れば?」と肩を軽くつつく。ラグナードは一瞬だけ迷い、同じ岩に腰を下ろした。距離は近いが、まだ触れない位置だった。
シロはその距離を見て、「もうちょい近くてもいいのに」と小さく言うが、強引にはしない。ただ隣で膝を抱えた。
「ラグってさ、怖くないの?」
ラグナードは首を横に振る。
「じゃあ何があるの?」
聞かれても、答えは出ない。
「変なの」シロはそう言って、でも笑った。
「でもさ、今日ちょっとだけ嬉しかった」
ラグナードはそちらを見る。
「守られたから?」とだけ言うと、シロは首を振る。
「違う。迷わなかったから」
その言葉の意味をラグナードは持て余したまま、ただ泉を見ていた。やがてシロは立ち上がる。「明日もここ来るでしょ」ラグナードは答えない。
けれど動かない。それを見てシロは「じゃあ来るね」と勝手に決める。
夜が近づく頃、シロは泉の岩に寝転がり、「ラグ、そこにいると安心する」と小さく言った。ラグナードは返さない。
ただ、その場を離れなかった。
月が上がる。
シロの呼吸がゆっくりになるまで、二人はほとんど動かなかった。
■ 登場人物
■ ラグナード
深淵の森で生きる魔神。強い力も大きな縄張りも持たず、生き残るためだけに森を彷徨っている。この日、ラグナードは初めて理解できない存在と出会う。
■ シロ
深淵の森で生きる白い魔物。誰にも属さず、誰にも従わず、ただ“言葉を持つもの”を探して森を歩いている。かつて言葉を交わした存在を失った記憶を抱えたまま、それでも誰かを見捨てないという選択だけを続けている。この日、彼女は再び森の奥で、理解できない存在と向き合うことになる。
■ ゼルガイン
深淵の森を束ねる群れの長。言葉と意思を持つ存在を観察し、選ばれた者のみを森の構成員として受け入れている。意思を持たないものや言葉を持たないものには強い警戒を向け、森の秩序を維持することを最優先として行動する。かつて群れがまだ形を持たなかった頃からシロと行動を共にしていた過去を持つ。現在も彼女の変化を観察しており、その危うさに強い警戒を抱いている。
