【連載小説】あなたがそばにいれば 第1章 6
2020年発表『たしかなことばをつづれ』(改題)
高橋夏希(25)⋯3年勤めた会社を辞め、雑貨の企画をする小さな会社に勤めている。喪失を胸に抱えたまま、日常を静かに丁寧に生きようとする女性
高橋春彦(23)⋯夏希の弟。姉と二人で暮らしながら、自分の世界を静かに育てている青年
野島遼太郎(31)⋯夏希の元上司。家族を拒み続けながら、誰かを深く愛することを恐れている男
~Haruhiko
x4年5月
南に向いた4階のベランダから、晴れた休日の朝の空気を吸い込む。乾いた風が心地良く、五月晴れとはよく言ったもの。春生まれの僕は、もちろん春が一番好きだ。
このベランダから、近くを流れる運河が見える。運河沿いは桜並木だが、花の季節を終えた今は、青々とした葉が風に揺れている。
よし、と小さく気合いを入れて朝食の支度に取り掛かる。トーストを焼き、豆から挽いたコーヒーを淹れる。
「姉さーん、そろそろ起きてー。コーヒー淹れたからー」
リビングから呼んでも反応はない。土曜朝9時。まぁこれはいつものこと。部屋のドアを開け「休日だからってダラダラしない」と注意すると、姉さんはベッドの中で唸りながら蠢いている。
「もう⋯⋯、休みの日くらいゆっくり寝させてよ」
「休みだからもったいないでしょ。天気もいいんだからさ、洗濯洗濯。外に干せる絶好のチャンス」
不機嫌そうに体を起こした姉さんは、ぐしゃぐしゃの髪を撫でつけるとようやくベッドから出た。
この家では僕が炊事をする。料理が大好きで、栄養バランスにもかなりこだわる。映え写真が撮れた時は、姉さんがSNSにアップすることも。姉さんは洗濯。掃除や買い物は2人で分担。
3つ上の姉さんは長女のわりには、のんびりおっとりしているタイプだ。この春僕が大学を卒業して就職したのと同時に、姉さんもまた、4年勤めた会社を辞めて小さな会社に転職した。忙しい前職から解放されたこともあってか、ますますのんびり屋になった。
多少呆れるものの、本来の姉さんが戻ってきたようで、少しホッとしている。ここ数年はかなり気負っていて、らしくない状態が続いていたから。
僕たちが2人きりになって、7年が過ぎようとしている。
「食べ終わったら姉さんは洗濯と風呂場の掃除、僕は部屋の片付けと掃除機をかけるから、それが終わったら公園に行かない? ランチは久々にローストビーフ丼食べようよ」
「ローストビーフ丼⋯⋯。いいね、その話。乗った!」
こうして僕たちはそれぞれの分担の家事をこなし、着替えをして家を出た。
🌳
運河沿いの桜並木の青々と生い茂る葉が、陽射しに煌めいている。桜の木は一年中その姿を楽しませてくれる。秋は紅葉するし、葉を落とした冬はその枝先にもう蕾が準備されていて、春までパワーを蓄えるぞ感がすごい。そうして蕾は春の訪れと共にムクムク大きくなり、やがてピンク色に染まる。季節の移ろいをこんなにも感じられる、桜の素晴らしさは春だけじゃない。
東京湾が近いせいか、今の時期はウミネコの鳴き声が空に響く。本当に海辺にいるみたいな気持ちになる。
通りを行くとやがて大きな公園が姿を表す。この公園は幼い頃も家族4人でよく訪れた。実家がこの公園を挟んで反対側にあったのだ。
木陰になっている木のテーブルに向かい合わせて座り、途中のコーヒースタンドで買ったアイスカフェオレをちびちび飲みながら、家族連れがフリスビーやバドミントンで遊んでいるのをぼんやりと眺めていた。僕らの子供の頃は、こんな風に家族揃って遊ぶことは頻繁にはなかったが、ひとつひとつは色濃く、鮮明に残っている。
親父は海外を飛び回る仕事をしていたため、日本にいる間の貴重な休日は家族で色んな所へ出掛けた。おおらかな両親で、何でもかんでも「やってみろ、駄目ならやめれば良い、面白ければ続けろ」の精神の人たちだった。自分で選んだものは自分で責任を取れ、という意味もあった。
姉さんが『お姉ちゃんなんだから』と窘められているのも見たことがない。お陰で僕たち姉弟は、姉らしくもなく弟らしくもなく、本当にのびのび育ったと思う。
親父のドイツ赴任が決まり家族で移住する話になった時、姉さんは「よりによって英語圏外」と怯んだこと⋯⋯英語圏なら良かったわけでもないのだが⋯⋯と、大学に入ったばかりということもあって日本に残ることになった。間もなく成人するし、とあっさり両親からもOKが出た。
僕は姉さんと逆で、刺激大好きタイプ。もちろんドイツで暮らすことも刺激的だったけれど、"親元を離れて暮らす" 方に傾き、姉さんと一緒に残ると言い張った。僕も高校に入ったばかりだ。いま思えばとんでもない無茶を言った。さすがに母はまだまだ子供の僕が残るのに懸念を示したけれど、親父は『高校生とて、もう子供なわけでもない。姉弟2人でやってみろ』と、いつもの調子であっさり許可した。母も渋々ながらも了承してくれた。
姉さんとの2人暮らしは、非日常的で毎日新鮮そのものだった。僕の料理好きはこの頃培われた。親の目がないからと言って姉さんも僕も生活が乱れることはなく、勉強もバイトもしながら毎日丁寧に過ごしていたと思う。
僕だって親がそばにいなくたってちゃんと生活していけるんだなんて、大人びたつもりでいた。
そんなワクワクした生活は1年半で突如、激変した。
姉さんと、本当に2人きりになってしまった。
僕は今でも迷う。
母の言うことを聞いてついて行けば良かったのだろうか。
でもそうしたら、遺されたのは姉さん一人になってしまったかもしれない。
そもそも僕がいたら、両親が事故に合うこともなかったかもしれない。
もしも、あのとき―― 。
姉さんは言う。『そんな問の正解なんてない』
『せめてお父さんとお母さんが一緒に、たぶん同時に幕を閉じたことが、せめてもの救いだったんじゃないの、それは正解と言って良いんじゃないの、わからないけど』
と。
ゴムボールが僕らの足元に転がってくる。それを僕は拾い上げ「済ませーん」と頭を下げる男の子に向かって大きな放物線を描いて投げる。ありがとうございましたー、と男の子の背後から若い父親も声を投げかける。姉さんは父親のもとに走り去る男の子の背を、遠い目で見つめていた。
姉さんはたまにこんな話もしていた。
もし自分が家族を持つようになったら、絶対にバラバラにならない。自分の子供がハルみたいなことを言い出したら、断固拒否する、と。それと、お互い恋人とか伴侶にしたい人が現れたら、真っ先に相談するか、紹介し合おうね、とも。
だからといって僕が時折一人で海外バックパックの旅に出ることを止めることはなかったが、姉さんは両親を迎えに行って以来、一度も国外に出ていない。この7年間、らしくなく気丈に振る舞っていた姉さんだったけれど、心の穴はいつまでもぽっかり開いたままだったのだろう。そう簡単に埋まるものでもないか。
「ぼちぼちお腹空いてきたね。ランチに行こうか」
僕の提案に姉さんは頷きながらこちらに顔を向けた。何か言いたそうに口を開きかけたけれど、そのまま立ち上がり、カフェの方へ顔を向けた。
つづく
