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[beer the beer 第3章] 英国の血脈、ビールの顔

ロンドンの朝は、今日も蒸気の胎動と共に目覚める。

テムズには大小の蒸気船が行き交い、空には石炭の煙が幾筋も立ち上っていた。街路は馬車と、最新の蒸気駆動の配達車が入り混じり、耳をつんざくような喧騒に包まれている。

ロバートは、この活気ある街の風景を眺めながら、師匠ベネットと共にセント・パンクラス駅のプラットホームに立っていた。
ロンドンを起点に蜘蛛の巣のように広がる鉄道網は、かつては想像もできなかった速さで、人と物資を遠隔地へと運ぶことを可能にしていた。

「ロバート、準備はいいか? 旅は新しい知識と、時に我々の自信を打ち砕くような、手強い好敵手との出会いを与えてくれるだろう」。
ベネットが髭を撫でながら微笑んだ。

ロバートは期待に胸を膨らませて頷いた。
「はい、師匠。この国のビールが、今どんな顔をしているのか、この目と舌で確かめたいと思います」。

ガタゴトと音を立てて走り出した列車は、瞬く間にロンドンの街並みを後景へと押しやった。

二人が乗った二等客車の中は、それ自体が新しい時代の縮図だった。
硬い木製の座席には、様々な階級と目的の人々が、互いに肩を寄せ合うように座っている。商談の成功に胸を膨らませる商人、分厚い設計図を膝に広げる技師、新しい工場での職を求めて北へ向かうらしい、顔に希望と不安を浮かべた若者。そして、生まれて初めて見る鉄の旅に、窓の外へ驚きの目を向ける農家の家族。

ロバートは、彼らの姿に、この国が急速に、そして不可逆的に変わりつつあることを感じていた。かつては何日もかかった旅が、今や数時間で結ばれる。この列車が、人々の生活を、価値観を、そして味覚さえも変えていくのだ。

車窓を流れる景色もまた、それを雄弁に物語っていた。
列車は、古くからの街道をなぞるのではない。丘を切り崩し、谷には煉瓦造りの高架橋を渡し、ただひたすらに、合理的で、直線的な鉄の道を突き進んでいく。これまで隔絶されていた村々のすぐそばに駅ができ、その周りには新しい家々が、まるで鉄に引き寄せられる砂鉄のように集まり始めていた。

「ロバート、見てみろ」 ベネットが、窓の外を指さしながら言った。
「この鉄の道は、我々に多くのものをもたらしてくれる。遠い土地の麦芽やホップ、そして我々のビールを待つ新しい市場。だが、同時に多くのものを均一にしてしまう、諸刃の剣でもある。ロンドンの流行も、ロンドンの味も、あっという間に国中に広まる。我々がこれから訪ねる町で、果たして、その土地でしか飲めない『声』を持ったビールは、まだ息をしているだろうか。それとも、もうロンドンの味に飲み込まれてしまっているだろうか。それを見極めるのも、この旅の目的だ」

ベネットの言葉は、ロバートの心を一層引き締めた。

ふたりが最初に降り立ったのは、イングランド中部の炭鉱の町だった。空は灰色で、空気は常に石炭の粉塵の匂いがした。丘の上の羊さえ、心なしか煤けて見える。

町のパブは、日中でも薄暗く、梁や柱は長年の煙草の煙で黒光りしていた。床に撒かれたおが屑は、常連客が運び込む炭塵で黒ずんでいる。その中で、男たちはほとんど言葉も交わさず、分厚い陶器のマグカップを傾けていた。そこで供されていたのは、黒々としたポーターだった。

ロバートも一杯頼み、その黒い液体を口に運ぶ。
焙煎された麦芽の、まるで焦げたパンのような香ばしさ。舌の上を転がるのは、どろりとして、ほとんど噛めるような濃厚な液体だ。労働で失われた熱量を補うための強烈な甘みがまずガツンと来て、その後に、疲れを忘れさせるような、長く尾を引く薬草のような苦みが続く。これは、味わうビールではない。生きるためのビールだ。

「こいつはな、若いの」パブの老主人が、誇らしげに、しかし静かに語った。
「飲み物じゃねえ。パンであり、焚き火であり、ほんの少しの忘却だ。一日中、太陽を見ずに地下で働く男たちにとって、マグの中のこれこそが、唯一の太陽なのさ」。

次に二人が向かったのは、北海に面した寂れた港町だった。
肌を刺すような塩辛い風が吹きつけ、カモメの鋭い鳴き声と、魚のはらわたの匂いが鼻をついた。波止場の酒場は、屈強な漁師たちで溢れ、彼らの湿ったウールのセーターの油臭い匂いが充満している。

ここで出されたのは、「シー・ドッグズ・エール」と呼ばれる、赤みがかった濃い琥珀色のビールだった。
一口飲むと、麦芽の力強いコクが、冷え切った体の芯まで温めてくれるかのようだ。そして、その味わいの奥に、気のせいか、わずかな塩気を感じる。それは、この土地の水が、あるいは潮風そのものが、ビールに溶け込んだ独特の風味だった。ロバートは、ビールが風土そのものを映し出す鏡であることを知った。

そして旅の最後に訪れた、最新の港湾都市。そこで、ロバートは衝撃を受けることになる。

ベネットの旧知の仲だという、最新式のラガー醸造所。そこは、ロバートが知るブルワリーとは全くの別世界だった。ガラスと鉄骨でできた明るい醸造棟、巨大で、鏡のように磨き上げられた銅製の釜。そして、地下に広がる広大な貯蔵庫では、蒸気機関と連動した冷却装置が、夏だというのに真冬のような冷気を保ち続けていた。

ロバートは、その圧倒的な光景に、言葉を失った。彼の「醸造日誌」から生まれ、炭鉱と港町で確信に変わりつつあった自らの哲学は、この巨大な科学の城の前で、跡形もなく打ち砕かれていた。

試飲させられた黄金色のラガーは、完璧だった。

非の打ち所がないほどに澄み切り、味わいは寸分の狂いもなくクリーン。しかし、彼の舌には、その完璧さが、ひどく冷たく、そしてどこか空虚に感じられた。

「どうだ、ロバート。これが、科学が生み出した未来の一つの形だ」

ベネットの言葉に、彼は頷くことしかできなかった。

ロンドンに戻ったロバートの心は、重く沈んでいた。

旅の終わり際、彼は師匠と共に、貧しい労働者たちが集う「ジン横丁」を通りかかった。その時、ロバートは息をのんだ。人々の間に倒れこむように眠る男。それは、かつて父の製本所の近くで腕を振るっていた、指先の器用な家具職人だった男だ。機械化の波で仕事を失ったと聞いていたが…。その変わり果てた姿は、社会問題ではなく、彼の心に突き刺さる、個人的な痛みとなった。

「師匠、なぜ…」

「ジンは手軽で安い。だが、魂まで安く売り渡してしまう。ビールは、もっと穏やかに、人々の心を繋ぐ潤滑油になれるはずだ。それこそが、我々が守るべきビールの本来の姿だ」

その夜、フォルトン家の食卓には、ロバートが買ってきたポーターが並んだ。グラスの中で力強く香るそのビールを見つめながら、彼は確信した。

目指すべきは、あの氷の城の「完璧さ」ではない。かといって、昔ながらのやり方に戻るのでもない。

炭鉱の町のポーターが持っていた、人々の生活に寄り添う「温かさ」。港町のシー・ドッグズ・エールが宿していた、土地の「魂」。そして、ジンに溺れる人々を一人でも救えるような、人と人の心を繋ぐ「穏やかさ」。

それらを、自分たちが持つ科学の知識と、職人の手仕事で実現するのだ。

巨大なラガー醸造所への劣等感は、明確な目標へと変わっていた。彼の「自分に合った一杯」の探求は、より深く、そしてより切実な「使命」となって、彼の心に再び熱い炎を灯した。


[第4章 美意識を醸す祝祭] へつづく。


参考資料


当時のセント・パンクラス駅
The Midland Grand Hotel St Pancras(参照:※1)

炭鉱の街、ニューカッスルに1582年から存在するパブ「The Old George Inn (オールド・ジョージ・イン)」
The Old George Inn(参照:※2)

北海に面する港町「Great Yarmouth」のパブの当時の姿
The Recruiting Sergeant Public House (1897-1905)(参照:※3)

19世紀に店頭に掲げられていた「シー・ドッグズ・エール」の木製看板, The Beer History Museum in LONDONにて筆者撮影(2012年)

イギリス クロイドンにあるガラスと鉄骨の建築様式の建物
Iron-and-glass conservatory originally built as an extension to Frederick John Horniman's home, Coombe Cliffe House in Croydon. 1894(参照:※4)

ジンの劣悪さを表した風刺画「ジン横丁」
Gin Lane(参照:※5)


参照

※1:The Midland Grand Hotel St Pancras
https://www.urban75.org/london/st_pancras1.html

※2:The Old George Inn
https://www.getintonewcastle.co.uk/venues/the-old-george-inn

※3:A Pub Crawl Through Time
https://yarmouthmuseums.wordpress.com/2020/04/24/a-pub-crawl-through-time/

※4:Victorian Web | Iron-and-glass structure
https://victorianweb.org/victorian/art/architecture/townsend/2g.html

※5:Beer Street and Gin Lane
https://en.wikipedia.org/wiki/Beer_Street_and_Gin_Lane



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