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六岡資生の嘘つきな秘書 ⑴

全14話
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【あらすじ】
総務課に所属する灘原楚乃なだはらそのは、社長である六岡資生 りくおかしせい
交わした些細な会話から見初められた楚乃は、秘書課へ引き抜かれる。
しかし、資生には名家の令嬢叶永遠子かのうとわこという婚約者がいた。
美貌、教養、家柄、すべてを兼ね備えた彼女は、資生と“同じ世界”の人間だった。 社長の隣は、自分が居ていい場所ではない。 「好き」だけでは越えられない世界で、それでも恋をしてしまった二人の話。
(全14話)
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顔もよくて、性格もよくて、おまけにお金持ち。
そんな漫画みたい人は本当に存在する。

六岡資生りくおかしせいがまさにそうだ。
国内トップのアウトドアメーカー、ルートシックスの御曹司で、現在三十歳にして社長職。
元歌劇団女優の母親に瓜二つの美貌と、一八三センチの長身、学生時代にワンダーフォーゲル部で鍛えた体躯。
性格は、明るく、社交的で、良くない話は噂ですら聞いたことがない。
天は二物も三物も与える。
というより、富は持てる人のところにこそ集まるのかもしれない。
負がどうしようもなく連鎖するように。

灘原楚乃なだはらそのは、壇上の社長に目を細めた。
彼が放つ輝きに、会場内を忙しなく行き来していた足が思わず止まる。
今まさにスポットライトが当たっているからとかそういうことではなく、存在そのものが眩しいくらいのオーラを持つ人間というのは実際にいる。

選ばれた人たち。
生きる世界の違う人。
交わらない、交われない、交じり合えない。

本来、圏外。

 楚乃そのがすべての客を見送ったとき、会場内はすでに片づけが始まっていた。
 照明は実務用のすっかり明るいものに変えられ、ついさっきまでゲストで賑わっていた大広間も今はオフの顔になったバンケットスタッフが料理を下げたり、テーブルセッティングを回収したりと忙しそうだ。

「あー、疲れたぁ。アタシ、もう無理ぃ」

 秘書課のすずがとうとう脱力して机に倒れこんだので、楚乃は慌てて隅で荷物置きになっていた椅子を引っ張ってきて勧める。

「ああ、ありがとうー。灘原さんも疲れてるのに優しい……」

「お水も……取ってきます!」

 鈴が背もたれにすがるように腰を下ろしたそばから、ドリングカウンターへ走っていき、ペットボトルを持ってくる。

「あの、片付けられてるのを無理言ってもらってきたんですけど……、構わないでしょうか?」

「大丈夫よー。なに、フリードリンクのカウントのうちでしょ。ああ、生き返ったぁ。けど、足が棒。腰もやばい」

 社長秘書である鈴の年齢は詳しくは知らないが、楚乃は自分の母親と同じくらいではないかと思っている。
 今日の忙しさをヒール靴でこなすのは、いくら鈴がこういった場に慣れているとはいえ大変なことだっただろう。ましてや立っていただけではなく、文字通り会場を奔走していた。楚乃の足も痛みを通り越して、少ししびれている。

 今日はルートシックス創業者である六岡康生りくおかこうせいがこの度めでたく米寿の誕生日を迎え、それを祝うパーティーがあった。
 縁故関係や取引先を中心に招待する趣旨で、そのために立ち上がった企画運営チームだったが、直前になって流行性のウイルス風邪にメンバーが集団感染した。半分以上が現場に来られないという非常事態で、当日になって急遽社員に招集がかかった。
 折悪しく、世の中は春休み中の三連休で、社員が思ったように集まらず、結局はどんなときにも嫌と言えない営業部の面々と常から便利屋扱いの総務課に半強制の出勤命令が出て、後者所属の楚乃も集められたうちの一人だ。

「おなかもへったぁー! 朝から飲まず食わずよぉ」

「あ、何か食べるもの……」

 また探しに行こうとした楚乃を鈴が引き留めた。

「灘原さん、いいの。もうここまで来たら、美味しいものをゆっくり落ち着いて食べたいから」

 楚乃なら、腹を満たしてくれるなら何でもいいと妥協するところだ。
 ましてやホテルの高級料理なのだから妥協どころではなく、喜んで今からでも皿を持って回りたい。
 立食形式で提供された料理は手つかずのまま下げられていく皿もある。楚乃はそれを勿体ない思いで見送っていると、
「灘原さんも災難だったわね。せめてフロアの接待ならごちそうにありつけたのに」

「あ、いえ……」

 確かにホテルビュッフェはちょっと残念ではあったが、

「実は私、ホテルの宴会バイトをしていたので、なんか、今日みたいなバックヤードの戦場感が、ちょっと懐かしかったです」

「そうなの?」

「鈍くさくて失敗ばかりしてたんで、あまりいい思い出はないんですが」

「あら、灘原さん鈍くさかったの? そんなふうには見えなかったけど」

 総務課の楚乃は、鈴と業務に関することでやりとりをした程度の面識はあっただけで、親しく話すのは今日が初めてだった。
 もっぱら秘書課のお局との社内評だが、実際はきさくなノリのおばさんだった。もちろん、判断力や統率力は見事なもので、この持ち場は有能な秘書だったから乗り切れたと言える。

 その時、もう一人の男性秘書である八柳ややなぎが戻ってきた。

「お疲れ様です。こちらも片付きましたか」

「本当に疲れたわよ。どうにか終わったわぁ」

 オフモードの鈴を見て、八柳自身も少しネクタイを緩めるしぐさを見せた。実際には全く緩んでいなかったが。
 現在、この鈴と八柳の二人が社長付きである。
 普段、楚乃はこのように二人の輪の中に入って話すようなことはまったくない。

「あの、お水どうぞ」

「ありがとうございます。助かります」

 八柳は鈴とは性別や年齢の違いだけでは片づけられない真逆のタイプだ。社長の六岡とはおそらく同世代で、クールな印象を与える眼鏡と、常に撫でつけられた髪、一分の隙も見せないスーツ姿からしても、数時間ともに仕事をしたが、業務に関係のない話は一切しなかった。ロボットのようで人前で飲み食いしなさそうな八柳でさえも、楚乃からペットボトルを受け取り、すぐさま喉を潤している。

 急ごしらえで寄せ集めた社員は、右も左もわからないまま、持ち場を割り当てられた。
 楚乃は最初受付にいたが、途中で持ち場を変わっていいか申し出た。
 秘書課の二人が各イレギュラーに対応し、ホテル側との連携に奔走している状況がだんだん見えてきたからだ。
 それに、楚乃の装い的が裏方向きだったこともある。
 営業部の女性社員たちは招待客にも劣らない華やかな装いで華を添えていたが、楚乃は黒のパンツスーツに、一応はTPOを意識した華やかめのインナーを着てきたものの、受付で悪目立ちしていた。

「さすがに八柳くんも疲れたでしょ」

「そうですね」

「今日の人員配置にはかなり問題があったと思うのだけど? 八柳くんのミスじゃないの?」

「今日の運営は私の采配ではないので」

「私たちに仕切らせてくれたら、もう少しさばけたよね。でもさ、インフルがなくても、当初からここの担当は私たち二人だったような? これ、嫌がらせ?」

「かもですね。鈴さん、企画チームにダメ出しばかりしてましたし。部外者なのに」

「あー、走り回ってもう足が棒。持病の腰痛も出そうで怖い。ホント、灘原さんがいてくれてよかったわ。あなた、察しがいいから助かりまくりよ」

 いきなり鈴と八柳のところに加えてもらったものの、内情や段取りを半分も理解していない楚乃は二人の使い走りほどの動きしかできず、実際役に立ったかどうかはわからないが、鈴は喜んで労ってくれた。

 その時、入口から長身の男が姿を現した。
 社長の六岡資生りくおかしせいだ。
 きょろきょろと会場を見回し、
「あ、いたいた!」

 どうやら秘書の二人を探していたようだ。こちらへ向かってくる資生に、楚乃はどきどきする。
 普段の業務で関わることはまずない。役職もない楚乃では、社内で見かけることはあっても話をする機会もない。

 間近でみる資生は、スーツの生地の上質さにひりひりとするものがあった。
 視覚だけでその生地の重さがわかるような。

「鈴、疲れてるなー」

「ええ、かなり」

「パーティー中、見かけても常に小走りだったもんな、二人とも。相当忙しかった?」

 資生にしても疲れていないわけがないのに、朗らかに笑って言う。
 つややかな張りのある声が、直に楚乃の耳に届いて、刺さる針のように刺激が強い。

「今日一日で一年分の奔走をした気がします。灘原さんが手伝いに来てくれなかったらどうなっていたことか。本当に助かりました」

 鈴がそう言ったところで、資生がようやく離れたところで控えている楚乃に目をやった。

「ナダハラさん?」

 資生と目が合い、さらには名を呼ばれ、楚乃は無様に頭を下げることになった。

「は、は、ハイ! 総務の灘原と申します……」

「今日はありがとう。助かりました」

 営業用の笑顔になる。もっとも、営業用でない素の笑い顔も見たこともないが。

「いえ、あの……! 改めまして、本日は誠におめでとうございましたっ!」

 どうにか、震えながら、詰まりながらであったが祝いの挨拶ができた。
 まさか資生が現れると思っていなかったし、直接伝える機会があるなど想像もしていなかった。役目は大変だったが頑張ってよかったとしみじみと感じる。

「どうもありがとう。当のジイさんはご機嫌でもう次に行っちゃって。伝えておきます。灘原さんこそ、今日は急なことで申し訳なかったですね。お疲れ様でした」

 いえ、そんな、とろくな返しもできなかったが、そもそも何か言えたところで資生の記憶になど残らないことはよく知っている。

 楚乃は入社して八年になるが、社長である資生と話したのは初めてだ。
 普段は社内で見かけることがあるくらいの雲の上の存在で、楚乃にとっては、画面の向こうでしか見たことのない有名人と同じだ。
 間近で、ましてや話しかけてもらえるなんて、特別に出勤した甲斐があるというものだ。
 資生は本当に美しい。肌も所作も言葉も声も。
 漫画やドラマじゃなくて、現実世界に存在するのだ、こんな理想の人間が。

 握手を求めたりするのは変だろうかと楚乃が一人もじもじしている傍で、資生があたりを見回している。
 受付に並ぶ紙袋を見て、
「ねえ、鈴、ここに残ってるのってゲストへのお土産の余り?」

「ええ、はい。そうです。あとで会社に運んでおいてもらいます」

「灘原さん、こんなものしかないけれど持って帰ってください。お菓子が入ってます。記念品系は捨ててくれて構わないし」

「い、いいんですか。お客様に差し上げるようなものを私が……」

「会社に持って帰ってもどうせ身内で分けるだけだから。中の記念品系は捨てちゃっていいよ」

 資生から直接手渡されて、おずおずと受け取った。
 中身をめざとく確認したつもりではなかったが、いくつか品物がある中に、独特なオレンジ色の包装が目に入る。

「えっ、これ、ボヌールのお菓子ですか……?」

「ボヌール、ご存じですか?」

「は、はい! 有名な老舗の洋菓子屋さんですし、それに、私自身こちらのクッキーがあまりに美味しくて感動したことが……」

「え、マジ!?」

 資生は破顔し、
「僕もね、本当はクッキーが一番好きなんだ。でも残念、今回はクッキー缶じゃなくてパウンドケーキで」

「ボヌールのパウンドケーキって予約制でしか買えなくて、それも何か月も先になるって……」

「そうらしい。だからプレミア感があるって、企画チームに手土産に決められちゃったんだ。ごめんね」

「いえ、そんな……! 十分に貴重なものをいただいてしまって……」

 なかなか手に入らない高級菓子に、状況をしばし忘れて楚乃は感動してしまった。
 資生はご機嫌に笑って、
「ねえ、灘原さんはどのクッキーが一番好き?」

「どの……? えっと……? えっと、あ! 赤いジャムのクッキーが……」

「僕も! あれが好きでさぁ」

「社長、そろそろお時間が」

 八柳が控えめな口調で、しかししっかり存在感を露わにしたので、楚乃も口を閉じた。

「はいはい、ごめん。そろそろ出なきゃみたいだ」

「では鈴さん、私は社長と参りますのであとはお任せします。お疲れ様です」

「了解。ここを片付けたら私たちも帰りますので。お疲れ様でーす」

 資生が踵を返そうとして、
「あ、八柳。僕にも水ある?」

「はい、ただ今」

「あ! あの、こちらを……」

 取りに行こうとした八柳に楚乃はすかさず自分用に持っていた水を差しだした。

「未開封ですので。私は、また後でいただきますので……」

 楚乃ものどはからからに渇いていたが、飲みだすタイミングを逃してしまっていた。
 しかし、社長の要望に応えられたのでいい。水くらいなら、自分で買える。

「灘原さん、ありがとう。いただきます。あ、二人ともその靴だからタクシーで帰ってね」

「あら、では是非そうさせてもらいます。それくらいバチ当たらないわよね?
 灘原さん」

 楚乃は深々と頭を下げ資生たちを見送った。

 顔をあげて、鈴に、
「あの、社長が仰っていた『その靴』ってどういう意味ですか? NGな靴とかドレスコードがあったのを私、知らなくて」

「違う、違う。ヒールってこと。社長の友人知人の女性たちは皆様いつも9センチのピンヒールを履いてらっしゃるから、女性の脚は痛いものって気遣いが叩き込まれてるのよ。私たち庶民は歩きやすさ第一でパンプスを選んでることまではさすがに知らないのね」

 鈴が肩をすくめる。

 結局、楚乃はタクシーで帰らなかった。
 デザインより快適性が第一の靴を選んでいるおかげで、まだ歩けたし、さらに言えば楚乃のパンプスはリーズナブルだ。

 大学進学と同時に上京し、それから十年以上一人暮らしをしていると、どうにも節約癖が染みついてしまっている。会場のホテルは駅近だから、たとえタクシー代が会社の経費で落とせたとしても、もったいないと思ってしまう。

 ワンルームの自宅に帰ってみると、ボヌールの重厚な箱包と部屋の違和感がすごかった。
 庶民的で安っぽい家具と、ベッドとキッチンが一つの空間にある雑居さ。この部屋で資生のことを思い出すだけでもなんだか失礼な気がした。

給料の半分以上が家賃と奨学金の返済でなくなり、貯金と生活費を除けば、つましい生活だが、だからと言って特別貧しいわけではない。
一部の富裕層以外は、みんなそれなりに生活が厳しいのが今の世の中だ。
食べられないほどではないがけして暮らしが楽ではないことは社会的な問題で、楚乃一人に限ったことではない。

「わぁ、ケーキも美味しい」

 奇しくも資生と意気投合したくだんのクッキーを、楚乃は一度しか食べたことがない。 
 それも運よくお相伴にあずかれた一度きりのことで、どれがどんなと言えるほど味を知りもしない。一缶五千円以上もするクッキーを、楚乃は自分のために買う余裕も勇気もない。
 ただ真ん中に赤いジャムが載ったクッキーが一番好きで大事に食べた、それは本当だ。

 ハンガーにかけたパンツスーツを眺める。
 同じパンツスーツでも、当然ながら鈴の着ていたものもいい仕立てのものだった。
一目で生地の良し悪しを見分けられるの自分の目を少し呪う。大学時代アルバイトしていた高級料亭で取った杵柄だ。

「ま、ワンピースを着ていくより、ましだったよね」

 結婚式用のものが一着あるにはある。ラメが入っていて華やかだか生地も形もすべてが薄っぺらい。

 帰り道にスーパーで割引になっていた総菜を買って、缶ビールをそのまま飲む。
 ダイニングテーブルなんて置く場所はないから、低いリビングテーブルだ。

たとえば、楚乃の一か月の食費は資生が一回分で払う料理の代金だろう。
ひと月に楚乃が自由に使える額を資生が聞けば驚くだろうし、信じられなく思うはずだ。
金の心配などしたことがあるはずもない。
ベッドとキッチンが同じ一室にある部屋に住んでいる、そんな国民がいることは知っていても、資生にはたとえば今日見えた社員がそうだとは想像もできないだろう。

 資生とは楚乃には別世界、なんならもはや別次元ほどの隔たりがある。

それなのに、今日、楚乃は資生を間近で見てしまった。

「……あ、そういえば、今日のパーティーで社長の結婚発表があるかもって噂があったな、忘れてた」

 入手困難で高級な限定パウンドケーキは、一人暮らしの楚乃は時には食事の代わりにして、三日かけて食べ切った。

 資生が社長を務めるルートシックスは、社員の意欲や向上心を買ってくれる社風で、志望する部署があればたいていそこへの配属、転属がかなう。
 その点、楚乃は新卒で入ったときから一度も異動せず総務課にいる。どこで何がしたいということが特にない。ただ、それがどこであっても、そこで真摯に丁寧に誠実に、頑張るつもりだけはあるタイプの人間だ。

 総務課はなにかと便利に使われるし、雑用を押し付けられることが多いが、こまごましたことでも会社の役に立っていることは間違いなく、それなりにやりがいを感じていた。細くでも長く勤められることの方がだんだん大事になってくる。

 何か特別なことがない限り、定時退社が可能な総務課なので、終業時間を少し過ぎて帰る準備をしていると、
「灘原さーん」

 呼ばれて顔を上げると、鈴の姿があった。

「パーティーではありがとう。本当にお疲れ様でした」

「こちらこそ大変お世話になりました。鈴さんはお疲れ出てませんか?」

「出てる。出まくり。週末挟んだくらいじゃ全く疲れ取れない」

 わざとらしく腰をたたきながら、ふてくされた顔を作ったが、きっちりと隙のない見た目は、社内で一目おかれるいつもの社長秘書の鈴だ。

「あのね、これ、社長から灘原さんにって」

 無記名のただの白い紙袋を渡されて、なんだろうと思いながら中を見ると、例のオレンジ色の包みが見えた。

「社長と盛り上がってたクッキー。その名も“資生スペシャル”」

「……社長の? スペシャル、とは?」

「ジャムクッキーって本来はアソートにしか入ってないんだけど、それはジャムクッキーだけを詰めた特注非売品なの」

「すごいですね……」

「わがまま坊ちゃんだからねぇ。先々代の頃からのよしみで、特別に作ってもらってるのよ。で、それを是非あなたにって」

「私に!? そ、そんなとんでもない。いただけないです! ケーキだって頂きましたし」

「いいのいいの、もらっときなさい。私も本当に助かったから」

「いえ、私こそ、偶然にも社長とお話しする機会をいただけて光栄でした」

 楚乃の感想に、一瞬鈴は首をかしげたが、
「そっか。普段話す機会は、ないかぁ」

「はい、なのでちょっと芸能人に会ったような気分で……」

「いつも同じ社内にいるのよ?」

「あ、でもYouTubeは拝見してるので、一方的に親しみは感じています」

 ルートシックスでは資生出演する自社製品を使ったアウトドアチャンネルを運営している。
 社員に視聴義務はないが、楚乃はいつもチェックしている。

「ウケるわぁ。遠くの社長より身近なユーチューバーってね。いいのか悪いのか」

 鈴は再度、パーティーでの楚乃の働きぶりに礼を言い、去って行った。
 鞄を持っていないところをみると、退社する途中で楚乃のところに寄ったというわけではないらしい。社長秘書に定時などというものはないのだろう。

「それにしても……」

 人知れず、紙袋の中をそっと覗く。
 美味しいクッキーそのものよりも、資生がただの一社員である楚乃のことを記憶してくれていたことにどうにも心が弾んだ。

 実を言うと、楚乃は社長になるもっと前から資生のことを知っている。

 就職活動の際、二次のグループ面接で一緒だった。
 ブラインド面接だったのでその時資生の名前を知ることはなく、まさか創業者の一族とは予想もしなかったが、資生はとにかくその外見で目立っていた。

 ご多分に漏れず楚乃の第一印象も「かっこいいな」で、始まる前にした雑談でも十分に感じがよかった。次の瞬間から相対評価される身としては複雑だったが。
 グループディスカッションで場を仕切る感じにも嫌味はなく、自然とイニシアティブを掌握していった。
 カリスマ性というものを垣間見た。好感を持ったなどという生ぬるい感情では済まなかったが、完全なる勝ち組であることは明らかだったので、楚乃などがときめいたと思うのもおこがましすぎた。
 楚乃の方はどうにか運良く残れた最終面接だったが、その場に資生の姿はなかった。彼が不合格ということはないだろうから、きっとルートシックスを辞退したのだろうと推測し、二度と会うことはないと思った。

 再会は五年後だった。
 今から三年前、当時の社長――後に資生の父だったと知った――が病気で倒れた。子息がいるとは聞いていたが、他社に勤めていると噂されていたので、その資生が新社長に就任することになり、その名を知り、顔を見て、楚乃は驚いた。
 就活時のピンク色の思い出が蘇ってはきたが、それが憧れ、ましてや恋と呼べるほど、再会した資生の身分は全く近い存在ではなかったし、かといって『推し』と割り切れるほどミーハーでもなく、現在も将来的にも接点を持てる可能性も全くなく、次第に浮ついた気持ちは落ち着いていった。
 それでも今も、その頃の初恋のような淡い思いが親近感という種類の感情に代わって、楚乃は社長の肩書以外で特別視していた。

「なんか、好きだった人に同窓会でプレゼントをもらえた気分かも」

 鈴や八柳が気を利かせて用意したものかもしれないが、ことづけられた特別な贈り物に、楚乃はじんわり幸せな気分になった。

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