六岡資生の嘘つきな秘書 ⑷
*
「社長、灘原さんに近づきすぎです。どんなお戯れですか」
社長室に入ってくるなり八柳の冷たい言葉が刺さった。
とはいえ、寝不足の資生にはそのくらいの温度でちょうどいい。
「他意はないよ」
「他意があっては大変です。あなたの立場をお考え下さい」
「はいはい」
昨夜、パンダ亭での飲み会に勝手に一人で参加したことを朝から八柳は怒っていた。
普段、プライベートなことには口を出してこないが、仕事となると話は別だ。
資生と楚乃がプライベートで連絡を取り合い、朝方まで話し込んで、と言っても一方的なトークと文字でだが━━と知ったらどうするだろう。
「行くなとは言ってません。ただ突然はやめてください。私たちは仕事として事前に参加者の情報を調べなければなりません」
「情報って。参加してるのは全員うちの社員だよ?」
「派閥や思想など、頭に入れておかねばならないことはあるのです」
「なにそれ怖い」
「加えて、社長が直々に激励するせっかくの機会でもあります。営業部それぞれの最近の業績、成績、現在進行形で新しい企画に挑戦しているチームなどを頭に入れておく。上に立つ者の役目です」
矢継ぎ早に小言を言われ、
「それに関しては悪かった。ただ現場の生のヒアリングはできたし収穫はあった」
トーンダウンを願ったがまだ続く。
「加えて、たとえば社長がお酒の勢いでボーナスアップだとかの妄言や昇格を約束するとか言質を取られる場合に、私たちが知らなかったでは困るので」参加するなとは申し上げませんから、さんを同席させてください」
「昨日は灘原さんがいた」
「……社長、彼女は秘書職ではありません」
「でもすごく秘書っぽい働きをしてくれたよ」
「秘書っぽいだけで秘書ではありません」
「社長、本気で灘原さんを秘書課に異動させるおつもりですか」
資生は腕組みをし、しばらく考えていたが、
「彼女の履歴書あるかな?」
と答えになっていない問い返しにも、即座にタブレットを差し出した八柳の迅速さは、こうなることを予測していた結果だ。
スキャンされた書類は直筆で、手本のような文字で書かれている。
「地元公立から有名私大か……」
「大学の学費は貸与型奨学金を使ったようです」
「家計の事情か、家庭の教育方針か」
「父親は中小企業の会社員。地元では学区一番手の公立高校ですから優秀であることに間違いはないでしょう。どんな事情で私大へ進学したかはわかりません」
「よくうちに入ってくれたよ、本当に。アウトドアに興味ないのに」
総務課から異動したことのない楚乃は、社員データにも特に記載もない。
「うーん……、履歴書って大して役に立たないな」
貼布された顔写真は、初々しさはあるものの今の楚乃とそう変わりはなかった。ただ、就活のときの記憶にある顔ではあるので少し懐かしい。
「新しく秘書を増やして、鈴と八柳がその人と仕事ができるかどうかが、僕は一番重要だと思ってる」
「鈴さんはOKでしょう」
そもそもが鈴の推薦で、楚乃を気にかけるようになったのだ。
「八柳は?」
「……会長のパーティの際、彼女の英語は完璧でした」
おもむろにそう口を開き始めた八柳に驚きつつも、次の言葉を資生は黙って待った。
「留学経験はないそうですが勉強したと言っていました。私たちは直接お客様の応接をする役割ではありませんでしたのでまだそのスキルのすべては計りかねるところですが、ホテル、パーティーでの最低限のマナーや知識、教養も問題なさそうでした」
鈴に続き、八柳が他人を褒めるのも珍しいことだ。鈴のように手放しで、という感じではないにしても。
「これは直接私が聞いた話ですが、学生時代に会員制の高級料亭でアルバイトをしていたそうです。そこで『本物』を見て、教わったと言っていました。それらの点も踏まえて、鈴さんは推されていたのだと思います」
「……なんでそういうの先に言わないかなぁ」
資生は、重厚な社長椅子ではなく、今どきの人間工学に基づいた椅子でくるりと回った。
ガラス窓の外の景色を眺めて、
「やっと、ずっとあった違和感の正体がわかったよ。彼女は『知ってる』んだ」
「社長の世界のことを、ですか? しかし、知ってるだけでは」
「知ってるのと知らないのでは全然違う。要は『わかっている』か『わかっていないか』なんだ。不思議だったんだ。言語化するのが難しいんだけど、彼女にはこっち側な安心感みたいなものがある」
資生は顔を綻ばせて、
「いいな。ますます興味がわいてきた」
「彼女に打診してみようか」
「いえ、もう少しお時間をください」
八柳は、他人にひどく冷たい印象を与えている原因の眼鏡に触れ、その奥から社長を射抜くように見た。
「社長の秘書として一番大事な素質が、灘原さんに欠けていなければいいのですが」
「一番大事って何?」
「業務内容についてですので、そちらに関しては私の方で確認しておきます」
一礼して踵を返した八柳の背中を呼び止める。
「ああ、それから、今夜は僕の予定は特にないよね?」
*
「レディースデーなのに、男も入れるんですね」
上映の開始まで座席でスマホを見ていた楚乃は、頭上から降ってきた声の主に、驚いて顔を上げた。
スクリーンで流れているCMの青白い色彩を受けながら、資生がポップコーンとドリンクを片手に立っている。
「し、社長!?」
慌てて立ち上がったので、楚乃のスマホが暗い床に落ちた。
「おっと、大丈夫?」
資生が不安定なトレーをひっくり返さないようにうまくバランスを取りながら、空いている方の手でスマホを拾ってくれる。
「へ、平気です! あっ、社長がそんな、自分で拾い……、すみません! ありがとうございます!」
「失礼。見るつもりはなかったんだけど……、もしかして僕へのメッセージを作成してくれてた?」
開いている画面に、しっかり資生のインスタの裏アカウントが表示されたままになっていた。
「あ、はい……、その、昨夜の、御礼と……」
「こちらこそ昨日は遅くまで申し訳なかったね」
「いえ、そんな私の方こそ、調子に乗ってコメントしすぎたと反省して……」
「なんで、そんなの全然だよ」
「あの、それより、どうしてここに……?」
資生の様子からして、偶然とも思えない。
資生は少し微笑んでから、
「来てみた」
と言った。
「ちょうど時間が空いたんだ」
確かに、楚乃が見る要件を教えたかもしれない。とはいっても、教えたわけではなく、話の流れで説明したにすぎなかったが、記憶に留められていたらしい。
「調べたら、会社の一番近くの映画館のレディースデーが水曜日で。それで、終業後のちょうどいい時間に始まる作品の空席をネットで調べてみたら、Rー6の席だけ予約済みだったから」
「えっと……」
「ああ、僕はRー11の席を取ったんだけど、そこなら灘原さんの邪魔にならないかな?」
「えっ、社長も御覧になるのですか!?」
「ポップコーンにコーラも買ってるのに? めっちゃ観る気あるつもりなんですけど、いいですかね?」
「どうして……」
「急に映画が観たくなって」
「あの、鈴さんか八柳さんは……」
「前も言ったけど、いつも引き連れてるわけじゃないですし、基本的にプライベートは一人行動です」
「プライベート、なんですか?」
「うーん、半々ってとこかな?」
楚乃が返す言葉を見つけられないでいると、資生はその間に楚乃の五つ隣に腰を下ろした。
座る前に前後左右をゆっくりと見て、
「驚くほど誰もいないな」
「公開からもうずいぶん経っている映画なので……」
楚乃もさっとあたりを見回したが、一番後ろの列に一人客がいるだけだ。
スマホを見ているようでブルーライトがその顔を照らしている。
少しだけ離れた資生と、こうして話をしていても特に問題はなさそうだった。
「灘原さんはポップコーンはもう食べたんですか?」
「いえ、私は食べない主義なので」
「えっ、これってもれなく全員が食べるものなんじゃないの?」
純粋な驚きを見せる資生に、楚乃は少し笑ってしまった。
映画鑑賞のイメージで言うならそうかもしれない。
「そんなことはありません。人それぞれです。私はドリンクも飲みません」
「そうなのか。……なんだか、僕だけ食べるなんて、申し訳ないな。そうだ、もう一つ買ってきます。まだ始まるまでに時間はあるよね?」
「いえ、私は鑑賞中はつい飲み食いを忘れてしまう方なのでいつも食べないんです。あの、でも社長はどうぞご遠慮なく、召し上がってください」
「……わかりました。では遠慮なく」
「はい」
不本意な顔を正面に向け、座りなおした資生を見て、楚乃も前を向いた。
まだ予告すら始まっておらず、企業CMが流れている。
「今日は、確か香港映画でしたよね。楽しみだな。僕も予備知識なしだ。あ、そうだ。さっき書きかけてくれてたメッセージ、後で送ってください」
「え、でも直接お伝えできたので……」
「待ってます」
結局、上映が始まっても、観客は楚乃と資生を入れて、数人だった。
そえぞれがかなり離れて席を取っていたので、楚乃の体感的には劇場内に資生と二人きりだった気さえした。
エンドロールを最後まで観て、劇場内が明るくなって、映画の余韻に包まれつつもこの状況は今後どうしたものかと楚乃が戸惑っていると、資生が少し離れた隣に並ぶ楚乃を向いて、
「え、これ、すごくおもしろかった……よね!?」
その目が輝いていて、本当に楽しんだことが伝わってきた。
「はい、私もすごく面白かったです」
今日の映画は楚乃としても当たりだった。
ハズレの時も多いので、たまたま資生が観る機会に良作だったことにホッとする。
普段ならもう席を立っているタイミングだが、とりあえず、資生が立ち上がるのを待った。
ぽつぽつと数少ない劇場内の客がいなくなり、代わりに清掃のスタッフが入ってきてようやく、
「行きましょうか」
と資生が立ち上がる。
すでに帰りの準備ができている楚乃もそれに続いて素早く立ち上がった。
廊下に出て、楚乃が資生のゴミを預かろうとするのを断って、自ら片すと、
「やっぱりほとんどの人が食べてたみたいだけど?」
まだ不服そうに言うので、
「そうかもしれませんが……。でも、食べるも食べないも自由なんです!」
「はいはい、わかりました。ん? あれ、それってうちのショッパー?」
資生が楚乃の腕にぶら下がる紙袋を認めた。
ルートシックスのロゴが入っている。
「はい、そうです。……その、昨日、飯盒でご飯を炊いたら美味しいと教えていただいたので、やってみようと思って、購入しました。す、すみません、社割で買ってしまいました……」
「わざわざ買ったんですか? そんなの、いくらでもプレゼントするのに」
「いえ、そんな……! 買いましたから、大丈夫です! アウトドア初心者が挑戦してみたの結果を近日中にレポートします」
シアター6はかなり奥まった場所になるので、ロビーまでは長い廊下が続いている。
レイトショーの時間に入っているので客はもうまばらだ。
靴音が絨毯に吸い込まれて静かな道のりを、資生も何も話さず歩くので、しんとしている。
映画の余韻に浸っているのかもしれないと思っていると、
「灘原さん、この後の予定はありますか? 軽く食事でも一緒にどうかな」
「え……社長と、ですか?」
「映画のこと、語りたくて仕方がない」
「でも……、その」
「ダメですか?」
「普段着も普段着なので、高価なお店に行きづらく……」
「だったらパンダ亭はどう? 早速だけど昨日のリベンジもしたいし」
「ダメです。あそこは必ず会社の人がいます」
「だったら、このビルで何か食べるのは?」
確かに一階下に降りれば、レストラン街があるにはある。
「でも……、社長が行かれるような店はここにはありません」
「僕が行かない店なんて、別にそんな区別、ないから」
本当にそんな区別などないと思わせるカジュアルさで言う。
それ以上は断る術を持たず、確かに映画の感想を語りたい気持ちと、そして資生とまだ一緒にいられるのならという喜びはもうどうにも否定できず、楚乃はとうとう「はい」と頷いた。
結局のところ、資生と映画の感想を語ることはできなかった。
映画館を出て、シネマコンプレックスの入る複合ビルのレストランフロアに向かったが、どの店も満員で待ち客が長蛇の列を作っていた。
イタリアンにしても和食にしてもリーズナブルなチェーン店で、そんなところに資生を並ばせるのはいただけないし、似合わない。
「まったく構わないけど」と言う資生を拒否して、帰ってからインスタライブで感想を言い合おうということで話がついた。
資生はタクシーで帰るという。
毎日が送迎つきではないのか、それとも今日はお役御免で帰ってもらったのか。資生の行動は楚乃には想像もつかない。
楚乃はタクシーの同乗を辞退したが、うまく言いくるめられて、乗せてもらうことになった。
家まで送ってもらうのは遠慮したのに、資生は「会社のデータベースに入れば住所くらい聞かなくてもわかります」と職権乱用まがいのことを言い出したので、観念して送ってもらうことにした。
資生の自宅はどこかなど楚乃が知る由もないが、都心のはずれにある楚乃の家を経由すると遠回りになる可能性の方が高いのに、「絶対に送る」と意に介さなかった。
タクシーが夜の街を、楚乃にはどこをどう走っているかもわからないが、スムーズに走っている。
楚乃は、隣に座る資生ではなく、気まずい車内の時間を、前の信号を見て乗っている。たまに外の景色を眺めたりして。
「今日は本当にいい時間を過ごせたな」
「それはよかったです」
「また水曜日、僕も映画を観に行っていいかな。毎週は無理かもしれないけれど」
今日は、ただの思いつきか気まぐれかと思っていたのに、またこんな機会があるかもしれないということだ。
嬉しい気持ちもあるが、なぜと信じられない思いもある。それに、今日は成功したが、次もまた資生の期待に応えられる時間が過ごせるかはわからない。
資生の時間は貴重だ。
「……でも、曜日と劇場を固定してしまうと、全然おもしろくない時もありますが……よろしいんですか。社長が空いた時間に観に来られた方が……」
「一人で観たって、感想を語り合える方が一緒でないと面白くないですよ。それより、あなたの大切なライフワークを僕が邪魔してしまう方が申し訳ないので、嫌な時な遠慮なく言ってください」
「邪魔だなんて……! それは絶対ないです! 社長と一緒に観られるなんて光栄でしかありません……」
楚乃が語気を強めてそう言うと、「ありがとう」と資生が微笑んだ。
「灘原さん」
「はい」
「灘原さんは入社からまったく異動がありませんが、何か理由でもあるのですか?」
突然仕事の話題になったので、楚乃は驚きつつも、気を引き締めた。
資生が会社のとても偉い人である現実は、忘れてはいけない。友人知人ではないのだ。
「いえ、そういうわけではありません。特にこれまでは希望する部署もなかったので……。あ、けしてやる気がないわけではなく!」
「ああ、大丈夫。十分によく働いてくれていることはわかってるつもりです」
逡巡の末、楚乃はぐっと口元を引き結んだ。
街灯や信号の色が、タクシーのスピードに合わせて楚乃の身体を移動していく。
そんな自分の太ももの上で握った手に視線を落としながら、
「……あの、でも、最近は少し、広報部のお仕事に関わってみたいという欲が出てまいりまして……。知識も経験もありませんので、よく考えて、次の面談のときに、課長にお尋ねしてみようかな、と……」
「広報? それはまたどうして?」
「せ、僭越ながら、社長とこうしてお話させていただくようになって、いろいろと視聴のスタンスも変わり、公式チャンネルの動画作成について興味を持つようになりまして……、あの、その方面から社長をお支えできればと……。あっ、もちろん、総務でも間接的にですが関わっていますので、それで十分なのですが……」
けして打算ではなく、今の楚乃の素直な気持ちだ。
本当に、資生のために仕事を頑張りたいと思っている。こんな自分でも役に立てるのならば、と思う。
そんな決意を、直接社長に伝える機会に恵まれる社員などめったにいないだろう。だから、頑張って楚乃は伝えた。
資生は狭い座席で、足を組み替えた。
「僕を支えてくれるつもりがあるなら、もっといい部署があるんだけど」
その提案は、広報部への異動を社長直々に却下されたということだろうか。
「それはどちらでしょうか……」
少なからず奨励してもらえると思ったので、気落ちですがるように資生を見てしまった。
しかし、資生には、あしらうような冷たさもなく、かといって叶わない楚乃の希望に同情する様子もない。
ともすると、かわいいと賞されるような顔で首をかしげて、
「秘書はどう? 社長付の」
「えっ、ひっ、しょ……?」
楚乃はシートベルトの縛りの中で、飛び上がらんばかり肩をはね上げた。
「えー? そんなに驚くことかな?」
「と、当然です……。そんな……」
「嫌ですか?」
「いいいえ、い、嫌とかではなく……その、無理です。私には荷が……」
さすがの楚乃も寝耳に水で、落ち着かなく下を向いた。
混乱で、うまく言葉が見つからない。
「ごめん、つい言ってしまっただけで、返事はまたで構いません。でも、少し考えてみてください」
資生はするっと話題を今夜の映画のことに切り替えて、感想を言い始めた。
⑸へ
