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8歳の僕に、母の「生きていて」は届いた。翌日、その会話をまねされた

8歳の僕は、「僕がいないほうが、
みんなに迷惑をかけずに
済むのかもしれない」と考えていた。

生きるのがつらい。けれど、死ぬのはこわい。
その二つの間で、何度も立ち止まっていた。

母は、そんな僕の異変に気づいた。

泣きながら、死なないでほしいという
意味の言葉を伝えた。

言葉の全部は覚えていない。
でも「生きていてほしい」だけは、
8歳の僕にも届いた。

※この記事には、子どものころに
「死にたい」と感じた記憶が出てきます。
方法や場所は書きません。
つらくなりそうな方は、ここで閉じてください。


「僕がいないほうが」と考えていた8歳の僕

当時の僕は、周りから「異質な子」と
見られているように感じていた。

周りが線を引き、僕も周りに線を引いていた。

学校では迷惑をかける子だと思われ、
家でも母を困らせているように見えた。

何のために生きているのか。
自分でも分からなかった。

学校へ行っても、勉強しても、
まともな大人になれる保証はないと思っていた。

「僕が消えれば、みんなの負担が
減るのではないか」。
8歳の頭で、そんな答えをつくっていた。

自分の行動だけではなく、
自分がいること自体を負担のように考えていた。

それは、一度きりの考えではなかった。

僕の記録では、小学生のころから
何度も、命を終わらせることを考えていた。

何回だったのかは、いま確かめられない。

それでも、一度ではなかったことを
僕は書き残している。

ここでは、当時の方法や場所は書かない。

書きたいのは、その先に母がいたことだ。

母は、僕の異変を見つけた。
それも一度ではなかった。

そのたびに泣き、生きていてほしいと伝えた。

何を言われたのか、正確には覚えていない。

覚えているのは、母が僕に
死なないでほしいと伝えたことだ。

僕には、死ぬのがこわいという気持ちも残っていた。

「こわい」は、僕の記録に残る、
もう一つの本音だった。

生きるのはつらい。でも、終わることもこわい。
両方が同時にあった。

母の涙を見ても、生きる意味が
急に分かったわけではない。

それでも、母の願いだけは僕の中に残った。


言葉は覚えていない。でも意味は残った

あの会話を、一字一句は再現できない。

僕の記録に残っているのも、
母の正確な台詞ではない。

8歳の僕が、その場で受け取った意味だ。

少なくとも僕には、
「死なないでほしい」と伝わっていた。

ほかの言葉が消えても、
その意味だけは消えなかった。

僕は、その場で前向きになったわけではない。
苦しさが消えたわけでもない。

そのあとも、「生きるって何だろう」と考え続けた。

お腹が空けば食べ、眠くなれば眠る。

生きる理由が分かったからではなく、
空腹や眠気が来るから続く日常だった。

そんな毎日の中で、
生きる理由だけが分からなかった。

僕の記録には、
「死ねないから生きている」という
言葉も残っている。

生きる意味は分からない。
それでも、僕の時間はそこで終わらなかった。


玄関の外で、会話を聞かれていた

ある日、僕と遊ぶために来た
子どもたちが、玄関の外にいた。

子どもたちは、ドアに耳を当てた。

聞いていたのは、母と僕の
「生きるか、死ぬか」という会話だった。

母が泣き、僕に生きてほしいと伝えていた会話だ。

母と僕の親子の言葉が、玄関の外で聞かれていた。

僕と遊ぶために来た子たちだった。

その会話を聞かれたあと、次の日が来た。

翌日に会話をまねされたことを、
僕は書き残している。

からかわれたのは、次の日だった。


一日で、親子の会話はからかいに変わった

子どもたちは、母と僕の会話をまねした。

向けられたのは、僕が生きていたことを
責める意味の言葉だった。

その具体的な言葉は、ここでは繰り返さない。

残すのは、生きていたことまで
傷つける内容だったという事実だけだ。

親子の会話をまねしながら、僕はからかわれた。

僕の命の話は、翌日には、
からかいの材料になっていた。

前の日、母は僕に生きてほしいと願った。

次の日、同じ会話が、僕を傷つける言葉に変わった。

二つの出来事の間に、一日しかなかった。

僕はまた、「生きるって何だろう」と考えた。

食べて、眠って、朝が来る。

けれど、生きる理由は見つからない。

それでも、母の「生きていてほしい」は
消えなかった。

傷つけた言葉ではなく、
生きてほしいと願った人の言葉が、
40年後まで残った。


40年後に残ったのは、傷つけた言葉ではなかった

この記憶を、母の一言で
子どもが救われる話にはしたくない。

実際、僕の問いは、そのあとも続いた。

僕の記録にあるのは、母が気づき、泣き、
生きてほしいと伝えたことだ。

答えを見つけられない8歳の僕に、
「生きていてほしい」と伝える人がいた。

そして、もう一つ書き残したい。

命の話まで、翌日にはからかいの材料になった。
そのことも、僕の記憶から消えていない。

その言葉を、ここに再現するつもりはない。

書けば、僕まであの日の会話を、
またからかいの材料にする気がするからだ。

40年たった今も、母の言葉は消えていない。

「生きていてほしい」は、僕の中に残っている。


相談先

もし今、自分や身近な人の命が危ないと感じるなら、
この記事より先に、緊急の助けを求めてください。

電話やSNSで話せる公的な窓口を、
下に置いておきます。

厚生労働省|困った時の相談方法・窓口(電話・SNSなど)

文部科学省|24時間子供SOSダイヤル 0120-0-78310


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※本文は本人が2022年に
まとめた回想に基づきます。

年齢・頻度は同時代記録で未確認です。

母の台詞は逐語再現せず、
8歳の僕が受け取った意味として書きました。

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