MCR ブラックパレード 2000年代ロックにおけるジェンダー・フルイディティと挑発の美学 パフォーマンスにおけるクィア・コンテクストの再構築
My Chemical Romance(以下MCR)は、2000年代のマッチョイズムが支配的だったロックシーンにおいて、極めて意図的な「挑発」を繰り返してきました。彼らがステージ上で見せた男同士の親密なパフォーマンスや、ジェンダーの境界を曖昧にする振る舞いは、単なる演出ではなく、当時の硬直した社会に対する一つの回答でした。
本稿の目的は、彼らが命を削って提示した「パフォーマンスの意図」を正当に継承することにあります。私の解釈が過激なのではなく、彼らの表現そのものが、当時の社会のあり方を問い直すテロリズム的なものであった。私はその真意を、現代の視点から改めて読み解こうとしているに過ぎません。
本題に入る前に、この記事のサムネイルを見てほしい。ジェラルドが握りしめている5本の赤いバラの花言葉を知っているだろうか?——『あなたに出会えて本当によかった』だ。
すべてを壊して突き放すしかなかった彼が、それでもステージの上でだけは、この本数のバラを握りしめている。その残酷な美しさに、私はもう何も言えない。
事実の提示
解釈の前に、客観的に観測された「事実」という名のデータを提示します。
Frank Iero による非言語メッセージ:
• 「Homophobia is gay(同性愛嫌悪こそゲイだ)」と記されたTシャツの着用。

• ステージ上での執拗なまでのスキンシップ、およびキス。
Gerard Way による言語化されたアイデンティティとパフォーマンス:
• 「女の子に生まれてくればよかった」という歌詞に込められたジェンダーへの葛藤(Mama歌詞より)。
• 自らのジェンダーアイデンティティについて「常に戸惑いを感じてきた」とする過去のインタビューでの吐露(本人によるAMAのなんでも聞いてというファンとの交流の場より)。
• ステージ上での執拗なまでのスキンシップ、およびキス。
これらは私の妄想ではなく、彼らが公に記録として残してきたファクトです。
批評の公平性に関するダブルスタンダードへの指摘
ここで一つ、現在の音楽評論やファンダムが抱える構造的な偏見について問い直したいと思います。
楽曲が異性に向けられたものとして解釈されるとき、それは一般的に「共感」や「美しい考察」として称賛されます。しかし、同じ熱量で「男性から男性へ向けられたもの」として、文脈や事実に基づいた解釈を提示した瞬間、なぜそれは「私物化」や「妄想」として叩かれることがあるのでしょうか。
対象の性別が変わっただけで、解釈の価値が反転する。このダブルスタンダードこそが、表現の自由に対する不当な制限であり、私たちの意識下に潜む「異性愛こそが正解である」という偏見の表れではないでしょうか。
時代の制約と、愛ゆえの「究極の選択」
ここで、多くの人が抱くであろうわたしの一連の考察を読むと感じるであろう、彼らはそれぞれ既婚者ではないかという疑問についても、当時の社会情勢という観点から徹底的に考察しておく必要があります。
2000年代中盤の「同性愛」に対する巨大な障壁
まず、現在の2020年代の価値観をそのまま20年前のアメリカに当てはめてはいけません。
彼らが全盛期を迎えていた2000年代中盤、アメリカでは連邦レベルでの同性婚は認められておらず、LGBTQ+に対する風当たりは今とは比較にならないほど苛烈な時代でした。
「世界的な人気を誇るロックバンドのメンバー同士が、もし真剣な同性愛関係にあったとしたら」。当時のメディア環境を鑑みれば、それが露見した瞬間にバンドが社会的なバッシングを受け、活動存続が危ぶまれるリスクは極めて高かったのではないかと私は推測しています。バンドは社会的に完全に抹殺されていた可能性すらあるのです。(その割にめちゃくちゃ際どい冗談なのか本気なのかわからない爆弾発言をインタビューで色々言ってますけど相棒は)
保守層からのバッシングと「バンドを守る責任」当時、MCRは「若者を負の方向に導くカルト的象徴」として、イギリスのDaily MailやアメリカのFox Newsといった保守派メディアから激しい攻撃を受けていました。
具体的にはマイケミカル・ロマンス(MCR)は「エモ=若者を自傷行為に走らせるカルト」として、激しいバッシングを受けていました。
ステージを襲った「憎悪の雨」と、その異常性
その「風当たりの強さ」は、単なる言葉の暴力に留まりませんでした。象徴的な事例は2006年のレディング・フェスティバルです。
The black parade のアルバムを引っ提げて、メインステージに立った彼らを待っていたのは、一部の観客による「襲撃」でした。ステージには無数のペットボトルが投げ込まれましたが、その中には尿が詰められたものも少なくなかったと、当時の多くのメディアや目撃者が記録しています。さらに、直撃すれば命の危険すらあるゴルフボールまでもが、彼らを目掛けて容赦なく投げつけられました。下記の動画の冒頭で致死量の投げ込みが鮮明に確認できると思います。
想像してみてください。自分たちが信じる音楽を奏でている最中に、見ず知らずの群衆から排泄物や凶器を投げつけられるという、その絶望的な状況を。
フロントマンであるジェラルドは、そんな地獄のような景色を目の当たりにしながら、なおもファンとメンバーを守るために矢面に立ち続けました。
ここで特筆すべきは、フロントマンであるジェラルド・ウェイの神がかった立ち振る舞いです。
本来の彼は、自他共に認めるほど運動が苦手で、サッカーボールすら満足に蹴れないような(彼らのドキュメンタリーでボールを蹴ろうとしてズッコケて何もない場所で転んでる哀れなかわいいジェラルドが確認できます)。内向的な性格と運動音痴なコミック大好きな典型的なオタクとして知られています。
しかし、この日の彼は違いました。
彼は挑発的にベロを出し、もっと投げてこいよと言わんばかりに手で煽りつつ、イギリス国旗を掲げて無敵を演じるかのような威厳を持って登場しました。

そもそも運営の編集にも悪意しか感じません
自分を目掛けて飛んでくる無数のペットボトルを、まるで見えているかのように華麗にかわしながら、一歩も引かずに旗を掲げ続けるその姿は、神がかってさえいました。
本来は運動が苦手で内向的な彼が、あの日だけ『神』のような身のこなしを見せたのは、そうまでして自分を偽装し、強固な防衛壁を築かなければ、大切な仲間も、自分たちの居場所も、すべてが憎悪の波に飲み込まれて消えてしまうという、極限の恐怖が生み出した火事場の馬鹿力のようなものだったのではないか。私はそう考察しています。
フロントマンであるジェラルドは、そうした憎悪の矢面に立ちながら、メンバーと世界中のファンを守り続けなければなりませんでした。もし自分たちの「純愛」を貫けば、当時の社会でタブー視されていた観点から保守層にさらなる攻撃の口実を与えることとなり、居場所のないキッズたちの希望や聖域である「MCR」という居場所、バンドそのものが崩壊してしまう。
彼らは自分たちの愛を取るか、世界中のキッズの希望であるMCRを取るかという2択の間で、あまりにも残酷で究極のな選択を迫られていたのではないか――それが私の考察です。
「完璧な死神」の下に隠された「震える青年」
多くの日本のファンが目にするのは、軍服に身を包み、堂々とステージを支配する『ブラックパレード』期の完成されたジェラルドかもしれません。しかし、その圧倒的なカリスマ性のベースにあるのは、前作『スリーチアーズ』期に見られたような、あまりにも危うい一人の青年の姿です。
ステージで足をもつれさせ、震える手でマイクを握り、床を転げ回り、マイクの紐を首に巻きつける。あるいは相棒に頭を思いきり掴まれたり髪を引っ張られたり、首を絞められたりといった破壊的なパフォーマンスの一方で、オタク特有の理解しがたい言動で周囲を困惑させる。
洗練さとは程遠い、その「ポンコツ」とさえ形容したくなるような不器用さ。しかし、それこそが彼の本質的な魅力であり、同時に彼が抱えていた「生きづらさ」の生々しい現れでもありました。
私がこの記事で解き明かしたいのは、そんな「震える一人の人間」だった彼が、なぜあの日、憎悪のペットボトルの雨あられの中で「完璧な神」を演じなければならなかったのかという、その悲痛なまでの決意の背景です。
彼が被った厚い仮面(ブラックパレード)は、自らを着飾るための虚栄ではなく、その内側にある震える自分と大切な相棒、そして自分たちを信じるファンという壊れやすい宝物を守り抜くための、必死の防衛シェルターだったのではないでしょうか。
「愛していないから」ではなく「愛しすぎたから」こその拒絶
彼らの愛は、初期のアルバムで誓い合ったような「血みどろの純愛」だったと考察しています。遊びや一時的な気の迷いであれば、裏でうまく隠し通すこともできたでしょう。しかし、彼らの関係はあまりにも真剣すぎました。真剣すぎるからこそ、その関係を続けることは社会的な死やバンドの崩壊という破滅へ向かうフルスロットルの暴走列車に乗るようなものだったのかもしれません。
だからこそ、あの大爆弾のような2007年の「プロジェクト・レボリューション」のステージで見られた痛烈なパフォーマンスについて、私は一つの可能性を考えています。
ジェラルドは、お互いを、そしてバンドという存在を完全に壊してしまう前に、自ら悪者を演じて相手を突き放す道を選んだのではないか。ジェラルドは自身の結婚付近の時期には徹底的に暴力的に相手のハグを拒絶し、一方的に暴力的に相手が無抵抗なのに徹底的に、過剰に暴力的にカメラが回っているステージ上で突き放します。
それは愛が冷めたからではなく、お互いを、そしてバンドを守るために選ばざるを得なかった、最も残酷で、最も人間臭い愛の形だったのではないでしょうか。
結びに:なぜ私は「公開」を選ぶのか
最後に、私がなぜこの一連の考察を隠さずに公開し続けているのか、その真意を記します。
私は20年以上もの間、社会が当たり前とする男らしさや女らしさ、そして「誰を好きになるか」という枠組みの中に、自分の居場所をどうしても見つけられずに苦しんできました。どこに行っても自分だけが浮いているような、得体の知れない違和感を抱えて生きてきたのです。
そんな私を救ってくれたのは、My Chemical Romance(マイケミ)がかつて見せてくれた、命懸けのパフォーマンスでした。
マッチョな価値観が支配的だった当時のロックシーンにおいて、彼らはあえて男同士で激しく絡み合い、挑発的な振る舞いをすることで、凝り固まった世間の常識を壊し続けてきました。
MCRがマッチョイズム全盛の時代に命懸けで提示したクィアな挑発は圧倒的に光と言えますし、そもそもロックの定義からして最高にロックです。
いわゆるゴリゴリの男らしいものがロックの典型的イメージである世界に対して、彼らは逆説的に徹底的にナヨナヨしたエモとして、男なのにガイライナーと揶揄されるアイライナーや化粧をしてライブを行います。

いじられてます
社会に中指を立てながら、意図的に挑発的な男同士で絡み合うパフォーマンスまで行っていました。彼らは、ゴリゴリのマッチョイズムに徹底的に抵抗しながら、社会の思い通りになってやるかと自身の美学を突き通しています。
見た目は典型的ロックに見えないけど彼らのメンタリティや気骨は一周回って究極のロックの体現者といえるでしょう。
その「言葉にならないメッセージ」を自分なりに深く読み解くことで、私はようやく「自分は自分のままでいいんだ」と、ありのままの自分を肯定することができたのです。
私がこの解釈をあえて隠さずに公開するのは、かつての私と同じように、今の社会の枠組みの中で息苦しさを感じている「誰か」に、もう一つの愛の形や、生き方の可能性を届けたいからです。
彼らが命を削って表現したメッセージを受け取り、同じように孤独を感じている人々へ繋いでいくための、私なりの「誠実な対話」の試みなのです。
これらは隠れて行うべき妄想ではなく、表で提示されるべき救済であると信じています。
本稿の目的は、かつて彼らが挑発したのと同じ、硬直した規範に抗う人々に向けた心からのエンパワーメントです。
さらに踏み込んだ考察はこちらの記事でカトリック特有の罪悪感、歌詞に注目して考察しています。
ジェラルドのラブソングと歌詞の矛盾についてはこちら
ジェラルドのソロ曲についてはこちらで考察しています。
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