#56(雑記18)(続)ニーバーの祈り
タイトル写真は、本日撮影した今年最初の満月です(2026.1.3、17:54撮影)。アメリカの先住民は、農業・漁業・狩猟の目安として季節を把握するため、各月の満月に名前を付けており、1月の満月は「ウルフムーン」と呼ばれます。
さて、今回の記事は、甚だ宗教的、哲学的な内容になってしまいました。こういう話は、私はあまりしないのですが、せっかく調べたので載せておきたいと思います。
以前の記事「(雑記5)ニーバーの祈り」の中で、「過去にテレビで聞いた歌が気になっており、題名も歌詞も覚えていないが、ストリーだけは覚えている歌がある」と書きました。そのストリーというのは、クマが森を人間に荒らされて怒り、里で大暴れしたが、仲間の動物たちから「そんなことをしても幸せになれない」と諭され、森に帰って仲間と幸せに暮らしたというものです。その後もネットで探しているのですが、いまだに見付かりません。決して幻ではなかったと思うのですが。
しかし、その検索の過程で、色々な情報を目にしましたので、今回はそれを書きたいと思います。
まずは、ニーバーの祈りの言葉の和訳を再掲します。
(元学校法人聖学院理事長の大木英夫氏による和訳)
◆ニーバーの祈り
神よ
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。
この言葉は、「コントロールできるものとできないものを区別し、適切に対処する」という姿勢を説いていますが、これに似た言葉をいくつか見付けました。
◆ゲシュタルトの祈り
私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。
私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
私は私、あなたはあなた。
もし偶然私たちが互いに出会えたなら、それは素晴らしいことだ。
もし出会えなかったとしても、それもまた素晴らしいことだ。
これは、ドイツの心理学者フレデリック・パールズが提唱したもので、ニーバーの祈りが「神」への祈願であるのに対し、こちらは自己と他者の関係に焦点を当てた哲学的な言葉です。
最後の文はちょっと引っ掛かりますが、私が調べたところでは、「会うことで、無理に関係を築いたり、合わない状況にこだわることを否定しており、あるがまま(出会えなかったという事実)を受け入れる」という意味のようです。
他人を変えることはすごく難しいし、無理に変える必要もない。また、他人に期待や依存をしてはならないということですね。他人に惑わされず、自分自身の人生に集中すればよいのです。この姿勢でいれば、相手が期待通りに動いてくれないという不満や、相手に合わせなければならないというプレッシャーから解放されていくのではと思います。
◆エピクテトスの言葉
自身の意見、願望、欲望は自身がコントロールできる範囲にある。
ただし、容姿やどんな家に生まれるか、他人にどう思われるかはコントロールできる範囲の外にある。
上記は原文の和訳を多少要約しています。自分自身の内面的な選択や反応は変えることができるので、それに集中することが重要だということですね。
エピクテトスは、この他にも、ニーバーの祈りに通じる言葉をいくつか残しているようです。例えば、次の言葉もそうだと思います。
「自分に欠けているものを嘆くのではなく、自分の手元にあるもので大いに楽しむものこそ賢者である。」
エピクテトスはストア学派の哲学者です。この「ストア」はストイックの語源でもあり、「ストイック」が日本語の中で使われる場合は「自分を厳しく律して、我慢する。」というイメージが強いですね。「彼はピアノにストイックに取り組んでいる」とか、そういう使い方をすると思います。しかし本来の意味(英語での使われ方)はやや異なり、単に「我慢する」のではなく、「自分の外で何が起きても心の平穏を保ち、感情や欲求に流されずに合理的な生き方をする。自分の行動は変えることができるので、これに注力する。」という意味のようです。
いずれにしても厳しく難しいことではありますが、その思想を知ることでストレスを減らし、ポジティブマインドを得ることにつながるのではと思います。
そう言えば、家の本棚に次のタイトルの書籍がありました。以前に妻が買ったようです。
「置かれた場所で咲きなさい」
(渡辺和子著、幻冬舎、2012年 年間ベストセラー 総合第2位)
自分の意志では変えられない「置かれた環境」を受け入れ、その状況下で最善を尽くすという点では、この言葉もニーバーの祈りと共通していると思います。私は読んでいないので適当なことは言えませんが、パラパラと見た限りでは、何か読むだけで幸せになりそうな予感もするので、この手のものがお好きな方はご一読されるのもよろしいかと思います。160ページほどで、所々大きな文字になっているので、3時間ほどで読めそうです。
最後に、これはある方の最近の記事の写真を見て気付いたのですが、手水鉢(ちょうずばち)の中心の「口」の四方に文字が彫ってあり、その口の字と組み合わせて「吾唯足知(われただたるをしる)」という言葉を表しているものがあります。なお、手水鉢とは日本庭園などの水取場である蹲踞(つくばい)の中心にある、水を溜める石のことです。

「吾唯足知」という言葉は、京都の龍安寺の手水鉢に刻まれていることで有名らしく、釈迦の教えを記した「遺教経(ゆいきょうぎょう)」に基づいた言葉で、「自分は満ち足りているということを知る者は、心穏やかで幸せである」という意味とのこと。
色々な解釈があるそうですが、現代では、「他人と自分を比較して足りないものを嘆くのではなく、今すでに手元にある幸せや豊かさに目を向ける大切さを説く言葉」との解釈が一般的で、これもニーバーの祈りの言葉に通じています。今回、実に色々な言葉が見付かりましたが、まだまだありそうです。
それにしても、冒頭に書いた歌が見付からないのは悲しいです。当時の私は、抗えない力に屈することは、すごく悔しく悲しいことだと思いましたが、それを受け入れる冷静さがないと、やはり幸せにはなれないのだろうかと、今は自問自答しています。「戦ってやろうじゃないか」という気持ちが、私にはまだ少し残っているのですが、若いときよりはずっと穏やかになり、さらに歳を取れば変わるのかも知れません。これは私の短所でもあり長所でもあると思っています。
なお、妻は最初から白旗を上げるタイプで、いつも私を止めにかかりますが、止められたら私は抵抗しません。妻に戦う気持ちがあるうちは全力で戦っていますが、これは単に自分がそうしたいだけで、妻からそのお許しが出たということでしかないんですけど。
では、今回はこれにて。
最後までお読み頂きありがとうございます。
※よろしければ前回の記事もお読み下さい。
