新門辰五郎④
浅草から少し離れた新門辰五郎のゆかりの地をフィールドワークしてきた。
まずは宣伝

青山大火
1845年に起きた青山大火。
現在の北青山から出火して千駄谷、四谷、牛込、小石川の一帯に被害が出た。

この現場で を組と久留米藩有馬家の有馬の大名火消が乱闘になり死傷者が出た。
新門辰五郎は乱闘に関与してはいないが、子分の不始末の責任とって江戸払いになってしまう。
人足寄場
青山大火の死傷事件で江戸払いになったが、江戸にいることがバレて、牢に入れられてしまう。
その牢が石川島の人足寄場だ。
現在の佃島の隣の島である。

人足寄場はこんな感じに、小さな島にたくさんの施設がひしめき合っていた。

以前書いた伝馬町牢屋敷とはまた違う役割をもつ牢だ。
人足寄場は1790年に徳川幕府の松平定信が建設した。
軽犯罪を犯したり、勘当され戸籍をはずされた人が入る場所である。
伝馬町牢屋敷では労役はさせなかったが、人足寄場では労役をし更生と社会復帰を目指していた。



石川島灯台
当時を思い起こさせる建物がポツンと建っている。
佃島公園の整備で復元された石川島灯台だ。
隅田川や品川沖航行の船泊のため、収容された人が労役で得た益金を利用して、寄場の西岸に六角二層の常夜灯をつくった。

東京湾から日本橋方面へ入る船の航路標識、近所の漁師の安全確保が目的だった。
余談だが、佃島と石川島は別々の島だ。
現在は埋め立てられてほぼ地続きになっている。
二つの島は成り立ちも役割も違う。
佃島 → 大阪出身漁民が築いた漁村
石川島 → 幕府が作った場所

新門辰五郎の墓
現在の西巣鴨、盛雲寺に新門辰五郎の墓がある。

あの日も暑かったねw
1875年に浅草馬道で亡くなった新門辰五郎は、下谷の西蓮寺に善養寺とに分骨された。
この西蓮寺は1908年に盛雲寺に合併し西巣鴨へ移転された。新門辰五郎の墓は1912年に移されている。

綺麗なお寺の入り口を抜けて、墓地に向かう。
墓地入り口すぐに新門辰五郎の墓がある。

被官稲荷神社と似た渋さを感じる。
墓石をよーく見ると

俗名 辰五郎 と書いてあるのがわかる。
名前の隣に書いてある文字は、後妻の名前「ぬい」と書いてあるようだ。
同じ敷地内にある小さなお墓は、新門辰五郎の生家の墓である。

盛雲寺では自分以外の人の気配はなかった。
とても静かな場所だった。

最後に
新門辰五郎編を書くにあたって、台東区を中心にフィールドワークを行ってきた。
8月4日から熱が冷めないうちに!と思い
ほぼ毎週土曜日に歩きに行ったことで、見事に風邪をひいた。
この記事を書いている自分は絶賛鼻声である。
熱意があっても、ほどほどに休憩する日を作ってフィールドワークをしよう。

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