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『烙印より先に、人間がいる』――精神疾患とスティグマについて



「スティグマ」という言葉がある。

もともとは、身体に刻まれた印、烙印を意味する言葉だった。

現代では、病気や障害、貧困など、ある属性を理由に人を否定的に意味づけ、社会の周縁へ押しやってしまう偏見や差別を指す。

私は最近、この言葉についてよく考える。

精神疾患を抱えて生きるということは、病気そのものだけと向き合うことではない。

眠れない。

身体が動かない。

外へ出られない。

集中できない。

昨日できたことが、今日はできない。

それだけでも十分につらい。

けれど、その外側には他人の視線があり、社会の中には「普通」という基準があり、さらにその基準を自分自身の中へ取り込んでしまうことがある。

スティグマには、大きく分けて三つの層がある。

社会的スティグマ。

構造的スティグマ。

そして、

セルフスティグマ。

病気によって傷つき、社会からもう一度傷つき、最後には自分自身まで自分を裁き始める。

精神疾患を抱える人は、ときに三重の苦しみの中を生きる。


1.「頭の病気やもんな」

私には忘れられない言葉がある。

2025年4月、うつ病で仕事を休んでいた私は、会社の復職面談に出席した。

本来なら、どのような働き方なら復職できるのかを話す場所だったはずだ。

その場で、総務部長が自分のこめかみに指を突き立てながら言った。

「頭の病気やもんな」

今でも覚えている。

その瞬間、二十年以上働いてきた時間も、積み重ねてきた技術も、私自身の性格も、すべて後ろへ退いたように感じた。

そして私は、傷ついただけではなく、はっきりと怒りを覚えた。

二十年以上、一人の職業人として働いてきた人間を、病気になったというだけで「頭の病気」という一言に縮めてしまう。

それまで積み重ねてきたものまで、その言葉によって消されたように感じたからだ。

皮肉なことに、その発言は後に会社との労働紛争を考える上でも、私にとって重要な意味を持つ言葉として残ることになった。

あのとき私は、ただ傷つけられていたのではない。

精神疾患を抱えた社員が、職場でどのような視線を向けられていたのか。

その一端が、あまりにも率直な言葉として表に出た瞬間だったのだと思う。

私の前には一枚の札だけが残った。

精神疾患のある人。

これが社会的スティグマなのだと思う。

恐ろしいのは、その言葉がその場だけで終わらないことだ。

他人からどう見られているのかを意識するうちに、

「自分はそういう人間なのかもしれない」

と思い始める。

他者の視線は、やがて自分の内側へ入り込んでくる。


2.人間を、一部分で説明できるのか

最近、SNSでも考えさせられる出来事があった。

私は、自分が出会った三人との関係について文章を書いた。

ところが、その文章に自分やほかのメンバーのことが書かれていなかったことを理由に、別の人から批判を受けた。

後になって話を聞くと、「なぜ自分たちのことは書かれていないのか」という感情も、その批判の背景にあったようだった。

そして、その人自身も精神疾患を抱える当事者だった。

正直に書けば、私はそのとき、

「精神疾患を抱えているから、文章をうまく読み取れなかったのだろうか」

と疑った。

けれど、その考えが浮かんだところで、私は少し怖くなった。

それは、私自身がまさにこの文章で問題にしていることを、相手に対してしているのではないかと思ったからだ。

一つの言動を見て、

「精神疾患だから」

と説明してしまう。

それは結局、その人の行動を病名へ還元することになる。

精神的に不調なときには、集中することや文章を読み取ることが難しくなることもある。

けれど、それと今回の批判が結びついているのかどうかを、私には判断できない。

単純に文章の受け取り方が違ったのかもしれない。

感情が先に立ったのかもしれない。

病気とは何の関係もなかったのかもしれない。

ここで私が大切だと思ったのは、

精神疾患があることは、他人を傷つける言葉の免責理由にはならない。

同時に、

誰かの好ましくない言動を「精神疾患だから」と説明することもまた、スティグマになり得る。

病気と、その人が選んだ言葉や行動は、できる限り分けて考えなければならない。

同じ精神疾患を抱えているからといって、必ずしも互いを理解できるわけではない。

苦しんだ経験があることと、他人を傷つけないことも同じではない。

傷つけられた経験を持つ人が、別の誰かを傷つけることもある。

そして私自身も、傷つけられた瞬間には、相手を簡単な理由で説明したくなる。

人間は「偏見を持つ人」と「偏見を持たない人」に、きれいに二分できないのだと思う。

スティグマは、いつも自分の外側にあるとは限らない。

だから私は、相手だけではなく自分自身にも問い返さなければならない。

「私は今、この人そのものを見ているのか。それとも、病名を通してこの人を見ているのか」


3.「普通」とは何なのだろう

構造的スティグマは、もっと見えにくい。

誰かが差別的な言葉を言わなくても、社会そのものが、

朝起きられる。

決まった時間に出勤できる。

週五日働ける。

毎日ほぼ同じ能力を発揮できる。

そういう人を標準として作られている。

健康な人にとって、午前九時の始業はただの時刻だ。

けれど、その時間に身体が動かない人にとっては、社会との境界線になる。

では、「普通」とは何なのだろう。

多数派なのか。

平均なのか。

それとも、社会が扱いやすい人間の形を「普通」と呼んでいるだけなのか。

ここには一つの飛躍がある。

「多くの人ができる」が、「できるべきだ」に変わる。

そして、

「できない」が、「劣っている」に変わる。

でも、多数派であることと、正しいことは同じではない。

平均から外れていることと、人間としての価値も関係がない。


4.足を削るのか、靴を変えるのか

社会に適応できない人がいるとき、私たちはまず個人を変えようとする。

朝起きましょう。

外へ出ましょう。

働けるようになりましょう。

もちろん、回復のために必要なこともある。

私自身、できることを増やしたいと思っている。

でも同時に、

なぜ変わるべきなのは、いつも個人なのだろう

とも思う。

靴が足に合わないなら、足を削るのではなく靴を替える。

それなら働き方だって、

週五日が難しいなら週一日からでもいい。

通勤できないなら在宅でもいい。

八時間働けないなら、二時間でもいい。

社会に適応するという言葉の矢印は、いつも

個人 → 社会

だけでなくてもいいはずだ。

社会 → 個人

という矢印もあっていい。

その二つが交わる場所を探すことが、共に生きるということではないだろうか。


5.自分の中にできる裁判所

そして最も怖いのが、セルフスティグマだ。

「働かなければならない」

「迷惑をかけてはいけない」

「大人なのだから」

「甘えてはいけない」

そんな価値観を長い時間かけて受け取ったあとで病気になる。

すると、それまで外側にあった声が、自分自身の声へ変わる。

「他の人は働いている」

「自分は何をしているんだ」

「二年も働いていない」

「このままでいいのか」

誰も部屋にはいない。

誰も責めていない。

それでも裁判が始まる。

検察官も自分。

裁判官も自分。

被告人も自分。

そして、なぜか弁護士だけがいない。

これがセルフスティグマの残酷さだと思う。


6.病気の苦しみと、「病気であること」の苦しみ

私は、ここを分けて考えたい。

病気による苦しみと、

病気であることによって生じる苦しみは違う。

眠れないことは、病気の苦しみかもしれない。

けれど、

「眠れない自分は怠け者だ」

と思う苦しみは、社会の価値観から生まれているかもしれない。

外へ出られないことは症状かもしれない。

けれど、

「外へ出られない自分には価値がない」

という考えは、病気そのものではない。

だから私は、ときどき自分に問い返す。

「これは本当に私の考えなのか」

それとも、長い時間をかけて社会から受け取った言葉なのか。


7.人間は、役に立つためだけに存在するのか

最後には、この問いに行き着く。

人間の価値とは何なのだろう。

働けることなのか。

給料を稼ぐことなのか。

誰かの役に立つことなのか。

もし生産性だけで人間の価値が決まるなら、病気になれば価値は下がる。

高齢になって働けなくなれば価値は下がる。

赤ん坊には価値がないことになる。

そんなはずはない。

人間は道具ではない。

道具なら、機能によって価値を測れる。

けれど人間まで、役に立つかどうかだけで測っていいのだろうか。

「役に立つから価値がある」のではない。

「健康だから尊重される」のでもない。

人間だから尊重される。

順序は、こちらでなければならないと思う。


8.烙印より先に、人間がいる

私はうつ病になった。

仕事を離れた。

できなくなったこともある。

制度の助けを借りることもある。

それらは事実だ。

けれど、

事実であることと、それが私のすべてであることは違う。

診断名は人生の題名ではない。

病歴は人格ではない。

職業欄の空白は、人間としての空白ではない。

「二年間も働いていない」

では、その二年間は人生ではなかったのだろうか。

療養していた時間。

苦しんでいた時間。

誰かと話した時間。

文章を書いた時間。

泣いた時間。

笑った時間。

今日まで生きてきた時間。

それらを「空白」と呼ぶ権利が、いったい誰にあるのだろう。

スティグマとの戦いとは、誰かを論破することではないのだと思う。

社会から自分の中へ入り込んだ声と、自分自身の声を分けていくこと。

「普通になれ」

「働け」

「役に立て」

という声に、

「なぜ?」

と問い返すこと。

私は病名ではない。

私は診断書ではない。

私は職業欄の空白でもない。

私は、一人の人間である。

スティグマとの戦いとは、

何か新しい価値を手に入れることではない。

最初から持っていたはずの、

誰にも人間としての価値を剥奪されないという地点へ、何度でも戻っていくことなのだと思う。

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