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はしがき|シン・アメリカ・モノガタリ

 家を出て、タコマ通という山の手の一本道を東に走る。首をめぐらして眺むれば、タコマの市街はビューゼットサウンドと呼ぶ出入の激しい内海うちうみに臨んで、著しい傾斜をなしているので、無数の屋根と煙突、広い埋立地、波止場、幾艘いくそうの碇泊船、北太平洋会社の鉄道……全市街はただ一目に見下ろされてしまう。そして入江を隔つる連山の上には、日本人がタコマ富士と呼ぶ白雪をいただくレニヤー山が巍然ぎぜんとしてそびえ、夜明の晩い北方の朝日がちょうどその半面を真紅の色に染めている。         

永井荷風『あめりか物語』

       はしがき

 気張るのは、よそうか。つまらないもの。アメリカにいく意味? そんなものはないさ。いまは、日本のほうが極楽浄土である。この不安定な時代にアメリカにいくのは、むしろ、冒険のたぐいである。
 偉ぶるのは、つまらないだろう。しかし、村上春樹みたいに、風のように生きるのも、ちょっと、まずい。二〇二〇年代にないものは、情熱的闘志だと思うのである。滞在記とはいえ、文章は、読者のみなさまを励ますためにある。闘志をよみがえらせよ。ここには、榾火ほたびのように、息長く、温かいものを書いてゆきたい。
 私はフランスに二年住んでいた。その二年間のことは、さまざまな形式の紀行文にまとめた。母の俳句結社誌『あかり』に五篇、文芸誌『現代人5』に一篇「情熱を新たに吹き返す」、そして、どこにも公開していないが、ぼう大な量の渡仏日記を書いた。永井荷風はアメリカに渡航後、フランスへと渡ったが、私は逆の順序で、フランスからアメリカに渡ることになった。永井荷風が『あめりか物語』を著したように、私はここに『シン・アメリカ・モノガタリ』を描いてゆきたい。そして、私がフランスで得たものは、惜しみなく本編にそそぎこまれる。

 本編にはいる前に、いささか大仰ではあるのだが、いくつかの問いをみずからに課し、それに答えてみよう。読み飛ばしてもらって構わない。『シン・アメリカ・モノガタリ』を書くための自問自答に過ぎないのだから。

 まずもって、本質的な問いに挑戦しよう。
 AIが文を書けるような時代ではないか? 人間が滞在記を書く意味とはなんであるか?
 もしまだ読んでいる方がいれば、読者のみなさま方に言いたい。人間の書き手に、全幅の信頼を寄せよ! 機械には書くことのできない世界がある。それは何か? 人間の生きざまである。
 生理現象は、よい例である。AIに尿意はない。AIに生理は来ない。AIは汗をかかない。未来のどんなロボットにも、生理現象は再現されそうにない。(むろん、富裕層のおたのしみで、生理現象が再現される可能性は否定しない。だが、考えてみよ。たとえば、とちゅうで尿意をもよおすロボットなんて、最初はおかしくても、途中から飽きるに決まってるし、いいからさっさと働いてくれと思わないか。しかも、尿意を再現するために、エンジニアたちはどれほど労力をかければよいのだろう。ひとときのおかしさのために!)生理現象は、人間に意味があっても、ロボットには意味がない。意味がないものを再現する意味はない、ロボットにとっては、とくに! よくて、ロボットのバグを生理現象っぽく出力させて、人間味を演出するのが関の山というところ。生理現象は、人間に遺された宝の山なのである。
 あるいは、血縁はどうであろうか。人間には血の結びつきがある。しかも、この血ほど、やるせない繋がりはない。たいていの人間は、血のために苦しみ、もがいている。(オイディプスしかり。ロミオとジュリエットしかり。カラマーゾフの兄弟しかり。みな、架空の人物であるが。)AIにこの血縁の呪いはわからないだろう。血縁すなわち家族でもなく、ただ血だけで繋がる人間関係であり、死んでなお、切り離せない、いのちの鎖である。血は人間社会の深部に絶えずあって、機械には到達できないものである。
 またあるいは、人生はどうだろうか。幼稚園、小学校、中学校、この三つの教育機関をとおった経験を思い返してみたらいい。あの場でどれだけのひとに出会い、とびきりいやな思い出もあり、胸が高鳴る瞬間もあり、授業も、文化祭も、修学旅行も、卒業式も、それぞれにどれほどゆたかな経験に充ちていたことか。(働きはじめると、むかしを思い返す時間がなくなる。他方で、人生の記憶が増えてくる。しらずしらず、少年時代・少女時代の記憶から遠ざかる。そうして、子供の気持がわからない、あの「大人」というやつに成り下がる。)その経験のきれはしひとつとっても、AIにはけっして再現できない。とくに、写真や映像に遺されていない、あなただけが捉えた経験は、もうあなたの記憶にしかない。あなた以外に現実世界によびもどせる人間はいない。

 あらたに問おう。
 二〇二〇年代は、ショート動画が流行していないか? なぜ、映像が流行するいま、文字で滞在記を書くのか?
 目に見えないものはいっぱいある。(イリナ・グリゴナ『みえないもの』を読むとよい。)気、味、匂い、温かみ、目に見えないものは、映像にできないとは言わないが、映像で表現するのが適するとは思えない。この目に見えないものこそは、文字で表現するのが適した領域である。とくに、心なんていうのは、近代文学がこぞって書いてきた対象ではないか。文字で滞在記を書く意味はいまだに失われていない。

 まだ、問おう。さらに、問おう。
 遠い未来にも、文字は残ってゆくのか?
 まだ読んでいる読者のみなさまに言いたい。文字の価値はけっして失われない。たとえ、テレパシーの時代になっても、『攻殻機動隊』のような電脳化の時代になっても、文字への信頼は失われない。文字は、これまでの人類が磨きに磨きあげた、コミュニケーション手段である。メールも、SNSも、なんてことはない、文字のコミュニケーションではないか。画像も、映像も、絵文字も、スタンプも、文字と共存している。仮にテレパシーが普及したとしても、文字が消え失せることはない。こんなにエネルギー消費量の少ない、利便性の高いコミュニケーション手段は、人間のあいだに残り続ける。現実的に考えれば、文字とテレパシーは併用され続ける。(華厳経では、事事無礙法界、つまりは、文字を介さず、現象が現象のまま、イメージがイメージのまま伝達される世界を、至高の世界に位置付けている。それを否定するつもりはない。ともすれば、新世代の人類は、テレパシーばかりを使って、コミュニケーションを取るかもしれない。しかし、テレパシーの最大の欠点は、確かな形を持たないことである。国家は法制度に立脚しているが、法制度は、確かな形、つまり、証拠を求めるだろう。国家に属するあらゆる主体は、確かな証拠、つまり、文字による文書を遺すことを、相も変わらず、求められるのではないか。文字は概念をていねいに切り分けた函である。むろん、文字にも解釈の余地があって、つねに万能ではない。だが、おそらく、テレパシーだけでは、法制度は成り立たない。文字が確かな形を示す媒体として、この世に遺り続けるのではないか。文芸誌『現代人第二号』に「テレパシー」という短編を書いたが、あわせて読んでほしいところ。)文字は、人類の歴史を保存する、賢者の石である。新技術にろうばいする人間の、不安に振り回されるな。どんな時代にあっても、自分の頭で考える価値はなくならない。そこにしかと立ち、闘志をもって、大切なものだけを見定めていればよくないか。文字が大切だと思うならば、文字の価値を示しつづければよい。

 最後に、問おう。
 滞在記でまだ果たされていないことはあるのか?
 フランス紀行を書き連ねるなかで到達したことは、風土体(le style mésologique)という文体である。風土体は、土地の風土と文体を連動させる試みである。それは、土地の風土ごとに、文体が変化してゆくことを意味する。風土体で叙述されたアメリカ紀行は、まだ存在しないだろう。私は、本編において風土体をいかんなく発揮したい。
 また、書いていくうちに、思いつくこともあるだろう。そうして、現在進行形に新たな試みに挑めることこそが、滞在記ならではの醍醐味である。過去から振り返って書くのではない。いまをそのまま記述していくところに、滞在記の可能性があるのではないか。

 大仰なことをいっぱい書いてしまった。いずれも自問自答のたわごととしていただきたい。これから書いてゆくのは、二〇二〇年代半ばのアメリカの現実である。さきの問題意識を踏まえながら、文字の価値を高めながら、時代に負けない滞在記を書いてゆく。



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サムネイル:VR Chatのデジタル風土。興味があれば、『現代人5』名取道治「デジタル風土論(一)デジタル風土とは何か」を参照のこと。

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