【映画君歌の誰も知らない真実】あとがき 1|タイパと『あの時、言えなかったけど…本当は…』
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【映画君歌の誰も知らない真実】あとがき 1
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ある災害関連のSNS投稿で、特定の個人名を出して『この◯◯という従業員は、客や従業員がまだ多数取り残されているにも関わらず、会社からの指示に従い自宅に帰ったとか言っている自己中だ、とんでもないヤツだ』との書き込みを見かけました。
仮に事実だとした場合、その従業員の行動はどうでしょう。
店舗で火災などが発生した場合、客を非常口まで誘導して、残っている客がいないか確認するよう定められていますが、それはどの程度のレベルまで求められるのでしょうか。
客と対峙する最前線のスタッフほど、派遣や契約、アルバイトが多い傾向があります。
通り魔殺人やストーカー殺人の被害者になる20代女性の報道を目にする度に、安い賃金で過剰な要求に晒される弱い立場の従業員に対するカスハラ的な残酷な論調を当然とするSNSの現状に強い違和感を感じます。
法律やマニュアル上、施設管理者には客の避難誘導の義務があります。しかし、それは「組織としての義務」であり、低賃金で働く最前線の非正規スタッフ一個人に、自分の命の危険を冒してまで他人の命を救う「ヒーローとしての自己犠牲」を強要するものでは絶対にありません。
パニックの中で、恐怖に震えながら「帰れ」という指示に従って逃げたのだとしたら、それは非難されるべき悪ではなく、「一人の弱い人間としての当然の生存本能」です。
それを「お客様を見捨てた」とカスハラ的な正義感で叩き潰そうとする社会は、立場の弱い者に「命を懸けた完璧な労働」を求める、あまりにも残酷で狂った構造です。
何か世の中に問題視される事があると、すぐにSNSでは安易な意見が溢れやすいです。
ただし、それに安易に反論するものもまた同罪となる可能性もあります。 例えば、安易な非難は、それも非難されやすいですが、それもまた想像力の欠如の可能性があります。
先の避難して帰宅した従業員への非難にしても、例えばその非難の書き込みをした者が、大切な身内が自己中回心的な身勝手な従業員の安易な行動がもとで亡くなっている背景が過去に万が一でもあった場合です。
安全な高みから客の優位な視点のみで非難しているだけならとんでもないですが、そこに、万が一でもそう書き込まなければいられなかった、せつない裏事情があったとしたら?
もちろん、たとえどんな事情があろうと、そんな論理で他人を非難するのは間違っていますが、だからといってその者を、同じような正義の論調で叩き潰すような非難をすることもまた、正しいとは思えないのです。
少し前にあった、週刊誌によるわかりやすい暴露記事を起点にした非難合戦や、双方の立場を無視した過去の情報を掘り起こしての揚げ足取りの非難合戦や、人間性さえ否定するような冷たい書き込み。
真に本当のことは、当人しかわからないですし、ときには本人にさえ言語化できないような葛藤や背景もあると思います。
ましてや情報の断片だけ寄せ集めた他人になど真相を真に言い当てることなど出来るとは思えません。
誰も得しない、誰も幸せになれない議論になど、参加すべきでは無いと思うのです。
正されるべき不正や、守られるべき立場、断罪されるべき罪など、改善させるべき事象も多くあると思います。
しかしそれは週刊誌を売るためのネタやSNSの炎上の燃料とすべきでは無いと思います。
事件や事故の背景には、被害者だけ でなく、加害の立場の者にさえ、深 い背景があるのではと思うのです。
何か他人には安易に理解しがたい背景があるのではと想像しなから、その被害者の想い、被害家族の想い、それだけでなく加害者側の想い、加害者家族の想いを、わからないことを前提として胸を痛める。
そんな視点が必要なのではないでしょうか。
私は以前から、罪を犯した側への断罪の姿勢に疑問を感じていました。
例えどんな理由があろうも罪は悪であるから断裁するのは当たり前。 ここまでは納得できるのですが、断罪して安心してあとは関心をなくして他人事として処理する。
そこにどれほどの深淵があろうと断罪したと安心し、シャッターを降ろす。
それを罪だとまでは言いませんが、昔の時代劇じゃないんですから、勧善懲悪で済ませて安心して消費して済ます。
これこそ真の負のスパイラルを無くせない原因ではないでしょうか。
世間は真の深淵などに関心を示しません。 安全な高みから見下ろし他人事として目をそらし処理しないと、安心して安易に生きられないからです。
そして安全な高みから安易な瞬間的なわかりやすさをただ流し込まれるSNSや表面的な報道、物語の表面だけなぞりわかったつもりになる。
人は、自分の日常(安全な高み)を脅かす「不条理」や、白黒つけられない複雑な「深淵」を直視したくありません。
泥のように重く複雑な背景を理解しようとすることは、著しくタイムパフォーマンスが悪く、精神を削られるからです。
だから、分かりやすい「悪(加害者や炎上対象)」を見つけて勧善懲悪のパッケージに押し込んで、みんなで石を投げ、社会から排除し叩き潰すことで、「今日も世界は正常で安全だ」「悪い奴が消えたから、これで明日も安全だ(ハッピーエンドだ)」と手軽に安心したがるのです。
しかし、その石を投げている者の中にも、かつて身勝手な他者の行動によって愛する家族を理不尽に奪われたという「癒えない喪失」を抱えている者がいるかもしれない。
その地獄のような可能性にまで想像を及ぼしたとき、安易な勧善懲悪は完全に崩壊します。
誰もが何らかの背景と痛みを抱えているこの世界で、見えないものを「見ないふり」をして消費するだけの社会は、永遠に負の連鎖を断ち切ることはできません。
タイパの悪い深淵。 加害者がなぜ罪を犯すに至ったのか。その背景にある貧困、孤立、発達の特性、あるいは社会の無理解。 そして加害者家族が背負う地獄。
そうした「泥のように複雑で重い現実」を直視することは、タイパが悪く、精神を削られます。
だから週刊誌のゴシップやSNSの140字で「こいつが悪だ!」と単純化して消費し、見ないふりをして蓋をしたいのでしょう。
情報の奔流を、ただのんべんだらりと眺め思考を止めるのではなく、他人の言えなかった想い、言わなかった想いに、思いを馳せる時間が必要なのでは?
現実世界は、小説のように誰かがモノローグで本音を語ってくれるわけではありません。
ニュースで報じられるのは「事件・事故」「逃げた従業員」「炎上する書き込み」という、無機質で表面的なファクト(記号)だけです。
その冷たい記号の裏側に、どれほどの「言えなかった想い」が血を流しているのか。 それに思いを馳せ、想像し、寄り添うこと。
タイパとは対極にあるその「無駄と思える時間」こそが、人間が人間として、他者の尊厳を守り、本当の意味で社会の負の連鎖を断ち切るための、唯一の力になるのではないでしょうか。
例えばです。
ふと思ったんですが、皆さんは、『君が最後に遺した歌』ワールドの、全ての人物で最も不幸だったのは、原作、スピンオフ、映画も、その全ての人物の中で、誰だと思いますか?
ロックンローラーの「ケンさん」(最大の喪失を二度経験した男)?
幼少期〜プロ時代の「遠坂綾音」(絶望の密度の深さ)?
遺された「水嶋春人」(10年間の痛みを背負い続けた凡人)?
「映画『君が最後に遺した歌』という作品そのもの」(メタ的な外部)?
私が感じたのは、綾音の母親です。
後出しジャンケンで申し訳ないです。
私は一言も言及しなかったと思いますが、綾音の回想のなかで、母親の職業は教師であり人一倍真面目な性格ゆえに耐えられなかったのかも知れないとありました。
君歌ワールドの全ての物語で「彼女のディスレクシアのせいで彼女を捨てた母親」という設定のようにしか語られていませんが、それはつまり、綾音の人生の中ではその後には一切接点が無かったということです。
真面目な教師の母親がディスレクシアの娘を捨てて弟に預けた。 その後にどんな後悔があったとしても、彼女は娘の前に明確には現れることすら(自分に)許されなかった。
謝罪もできず、病気で亡くなる瞬間までさえも、許されなかったんです。 葛藤がなかったとは考えにくいです。
この君歌ワールドの「喪失と救済のフラクタル構造」を基準にして見つめ直すと、最も不幸なのは綾音でも、春人でも、ケンさんでもなかった。
表層的な「悲劇の量」だけで測れば、登場人物たちは誰もが過酷な運命を背負っています。
綾音は、発達性ディスレクシアという怪獣に苦しみ、愛する人に突き放されるという絶望を味わいましたが、最後は「このせかいが大すきです」と自らの人生を全肯定して天に還りました。
春人は、愛する人を失うという喪失を背負って生きていくことになりますが、彼には綾音が遺したメロディがあり、春歌がおり、彼女と完全に心を通わせたという揺るぎない「永遠」を手に入れています。
ケンさんに至っては、妻と産まれてくるはずだった我が子を事故で失い、さらには実の娘のように愛し、音楽という居場所を与えた綾音までも若くして見送らなければならないという、想像を絶する喪失を二度も経験しています。
しかし、彼もまた最後に綾音からの手紙で「お父さん」と呼ばれたことで、かつて失った父親になるという夢を叶え、その魂は確かに救済されていました。
彼らは皆、血の涙を流すような痛みと喪失を経験しました。
しかし、他者と泥臭く寄り添い、傷つけ合いながらも「無私の愛」を交わし、タイパや効率度外視の無駄と思える時間を捧げ合ったことで、最終的には圧倒的な光(救済)に包まれています。
一方で、我が子である綾音を捨て、叔父である正文さんに育ての親としての責任をすべて押し付けた実の母親は、その救済の円(サークル)の中に一切入ることを許されませんでした。
彼女は「文字が読めない我が子」という現実のノイズや苦労からただ逃げ出したことで、綾音という少女がどれほど美しく、気高く、誰かを深く愛せる魂を持っていたかを知る機会を永遠に失いました。
伝説のアーティスト「Ayane」が放った歌声の真意も、春人との奇跡のような絆も、ケンさんや叔父の正文さんが注いだ深い愛情も、彼女は何も知らないままです。
痛みから逃げた代償として、この物語に宿る「ほんとうにうつくしいもの」に触れる権利を完全に放棄してしまったこと。そして、自分が捨てた娘が、自分が一生かかっても到達できないような愛と赦しの境地に達して世界を去っていったことすら気づけないこと。
泥臭く痛みに向き合った者だけが救われるこの『君歌ワールド』において、面倒なことから逃げた結果、愛の存在にすら気づけない彼女の姿こそが、現代の「タイパ重視で他者の痛みを遠ざける冷たいマジョリティ」の象徴であり、この世界で最も救いのない、究極の不幸だと思えてなりません。
痛みや喪失を「不幸」とは呼ばないこの恐ろしいほど美しい物語。
考えてもみてください。 あの美しい魂を持つ綾音の実の母親であり、その綾音を引き取ってくれた優しい奥田正文(マサ)さんの血の繋がった実の姉なんです。
もちろん親子姉弟であっても性格や人柄が全く違う家族も珍しくはありませんが、だからといってそんなに自己中心的で冷酷非道な、全く後悔も葛藤も感じない女性だったとは、どうしても思えないんです。
職業が教師であっても、彼女が発達性ディスレクシアへの理解が足りていなかったとしたら。
真面目な教師であるからこそ、「普通」の枠組みから外れていく我が子を許容できず、また「普通に育てられない自分」への完璧主義的な絶望から逃げ出してしまった。
そして、その「真面目さ」こそが、彼女を永遠の地獄に縛り付ける鎖となったのです。
もし彼女が無責任で破綻した人間であったなら、娘が有名になった途端に金の無心に現れたり、「私は母親だ」と図々しく名乗り出たりしたでしょう。しかし、彼女はそれをしなかった(できなかった)。
自分が犯した「我が子を捨てる」という罪の重さと、真面目さゆえの自己処罰の念から、綾音がどれほど傷つきながら生き、アーティストとして光を放ち、そして病に倒れて世界を去るまで、ただの一度も名乗り出ることを自分に許せなかった。
遠くから娘の活躍(あるいはその苦しみ)を見つめながら、「あの輝かしい笑顔も、血の滲むようなSOSも、自分が原因で生み出されたものだ」という事実を、誰に共有することも、誰に赦しを乞うこともできないまま、一人で抱え続ける。
娘の病が進行し、死が迫っていると知っても、病室のドアを開けて「ごめんね」と言う権利すら自分にはないと、十字架を背負ったまま遠くでただ立ち尽くすしかない。
綾音も春人もケンさんも、痛みと向き合い、他者と泥臭く寄り添うことで、最終的には「魂の救済(赦し)」を得ることができました。
しかし、この母親だけは、真面目さゆえの逃避によって「寄り添う」ことを放棄してしまったがために、永遠に誰からも赦されず、自分自身をも赦すことができない「絶対に救済などしてもらえない永遠の呪われた孤独」に自らを閉じ込めてしまったのです。
綾音はこの母親の行動をどんなにか恨んでいたのかもしれませんし、もし母親が本心からの謝罪に訪れたとしても許せたかどうかも私はわかりません。
しかし綾音の本心は「生まれてきてありがとう」を言ってほしかったが叶えられなかったから、それが言いたくて、生命を受け取って欲しくて、自分の生命と引き換えの覚悟をしてまで春歌を産む覚悟を決めたのです。
「生まれて来てくれてありがとう」を言ってほしかったと言う事は、本当は、母親に愛され母親を愛したかったはずなのです。
発達性ディスレクシアへの無理解、娘への無理解から彼女は綾音を捨てるという絶対に許されない行動をしてしまいました。
しかし「酷い母親」のレッテルを貼り捨て置き、それであんしんしてよいのでしょうか? 許されない罪を犯したから地獄に落とせば良いんでしょうか?
綾音はあの母親を地獄に落としたかったのではなく、ただ「生まれて来てくれてありがとう」を言ってほしかっただけなんだと、そう感じるのです。
この物語に「絶対的な悪人」は一人もいない。 ただ、それぞれの不器用さや真面目さが、少しずつ掛け違うことで、とてつもない絶望や悲劇が生まれてしまう。
そして、その不条理な世界の中で「泥臭く相手に寄り添い、無駄な時間を共に過ごす」ことだけが、唯一の救済(光)になるということを、この「最も不幸な母親」の姿が逆説的に証明しています。
私はここのnoteをはじめる直前まで、カクヨムで全ての美しい魂を絶対に救い出す物語である「君が明日も笑うなら、この恋なんて永遠に叶わなくていい」にて【人知れず誰かの為に生命を燃やす姿】を創作していました。
その物語の第二部終了時点で、ほとんど誰にも読まれない事を認識したうえで、それでもそこから、【利己的な間違った行動を悔いる姿】と、【どこまでも誰かのせつない想いに寄りそう姿】の物語を更に書き続け、全ての魂を救済しきったと満足しました。
(この記事で、綾音の母親のせつない悲劇を言語化したのも、カクヨムでの「完全に全ての人々を漏らさず救わないままでは終われなかった」という業かもしれません。)
そしてその後にここのnoteで、その小説を書かずにいられなかった原点の記事
『せつなすぎる二人、愛美と高寿。『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』私的考察と感想』
を10年の時を超えて公開しました。
あの物語『ぼく明日』がなぜあれほどせつなかったのか。
それは、愛美と高寿の時間軸が逆方向に進むが故に「相手の『言えなかった想い』に思いを馳せ、無駄と思える時間を泥臭く共に過ごし、寄り添いながら生きて行く」が絶対に叶わなかったから。
あの高寿サイドの時間軸での別れの前日、愛美と高寿が枚方の彼の実家の南山サイクルを訪れた帰り道、二人には家族になれる未来が無いと突きつけられました。
「……………………どうして愛美とは家族になれないんだろう……………………」
悲しみが。絶望が。ぼろぼろと溢れて落ちていく。 愛美と家族になって、ずっと寄り添って生きていく。そんな未来が、どうしてぼくたちにはないんだろう。 泣いたぼくを見る愛美のまなざしが引きつれ、熱く潤む。
「……………………ごめんね」
「なんで謝るんだよ・・・・・・」
穏やかな午後のバス停で手をつなぎながらひたすら泣く二人。その二人が、それでも互いを理解し、寄りそう究極の献身を見せてくれたからこそ、あれほどせつない物語になった。
互いの時間が逆行するという絶対的な不条理の中で、それでも「無駄と思える時間」を極限まで愛おしみ、互いの「言えなかった想い」に寄り添い尽くした。
20歳の高寿にとってのラストシーンは「幸せだった。愛している」と言えた別れでしたが、20歳の愛美にとってのラストシーンではまさに「あの時、言えなかったけど…本当は…」とは決して言えなかった別れでした。
しかもその円と円の端では二人とも、永遠の別れの際には、「また会えるよ」と相手に寄りそう別れの言葉だったはずです。
そして、だからこそだと思いますが、ここまで書いてきて、今、いきなりの符合が落ちてきました。
私が以前から生見愛瑠さんの陰の演技に訳もわからず惹かれていた訳。
確かにカワイイとは思いつつ、バラエティーやSNSまでは追いかけたいと思わなかった理由。
私も世間と同じようにそのギャップにやられたオジサンに過ぎないのかと苦笑していましたが、ようやく気が付きました。
生見愛瑠さんの陰の演技 カメラアイのように瞬時にセリフを覚える才能の意外性は、まさに現代がもてはやす「究極のタイパ」ですが、肝心なのはその先です。
セリフを覚えるのは自分でも才能だと思うが、そこからその意味を考えるのに時間がかかると彼女は言っていたじゃないですか。
だからこそ彼女はただ空っぽの器に単純に降霊していたわけではなく、「文字(表面的な言葉)」を飲み込んだ後、その奥底に隠された「キャラクターが本当に言いたかったこと、言えなかった痛み」を探り当てるための、血の滲むような魂の同調作業をしていたとさんざん書いてきました。
そして、綾音という人の核がなかなか掴めず悩んでいて、三木孝浩監督や亀田誠治氏に見抜かれていた陰を言いあてられて、それをそのまま出していいんだという正解。
『春の人』のライブシーン撮影後に「めちゃくちゃ解けました。綾音を演じる道筋が見えた」と。
彼女の陰の演技には
『あの時、言えなかったけど…本当は…』
が必ず含まれていました。
劇中歌4曲全て。
『君と見つけた歌』:「(本当は一人で寂しくて仕方なかったけど)君と二人で瞬間を喰む」
『Wings』:「(本当は限界で飛べないし、貴方の隣にいたいけど)超えていけ、今の君」
『春の人』:「(本当は一緒に生きていきたいし、忘れないでほしいけど)この想いは届かないけれど、きみをうたいつづける」
『はるのうた』:「あの時、言えなかったけど…本当は…(今なら言えるよ、好きだよ大好きだよ)」
『あの時、言えなかったけど…本当は…』 という、生見愛瑠さんの陰の演技の核が、彼女の歌声から『これでもかっ』というほど滲み出して聴こえています。
…これは…。
生見愛瑠さんの陰と陽を最初から見抜いていたコメントが報道されていた亀田誠治氏。
あの音楽プロデューサーは生見愛瑠さんに最適化して曲を創り出したと言っていたのでは?
生見愛瑠さんは、歌い方が難しいと迷っていた時に、陰を出していいんだよと肯定され、前に進めたと言っていたのでは?
ここでも、君歌ワールドの奇跡が起きていたのでは?
なぜ生見愛瑠さんの陰の演技がこれほどまでに響くのか。
それは、生見愛瑠さんが以前から明確な説明セリフなどを声に出さずに、その瞳や表情、そして声の震えで「あの時、言えなかったけど…本当は…」という演技を見せつけていて、一部の鋭いライター達はそういった彼女の陰の演技力として既に過去に記事を書いていました。
彼女は映画『モエカレはオレンジ色』で、第46回日本アカデミー賞で新人俳優賞を受賞、女優として高く評価されました。
緻密な「泣きの演技」と感情コントロールの萌芽
王道の青春ラブストーリーという枠組みの中でも、作られたような不自然さを一切感じさせず、感情をダイレクトに視聴者に届ける高い非言語表現(パラランゲージ)の技術がすでにこの時点で評価されていました。
「芯の強さ」と過酷な役柄への適応力
「ただ守られるだけではない芯の強さ」や努力する姿を表現できる力は、『教場0』での過酷な状況下での妊婦・殺人犯という極限の役柄や、『日曜の夜ぐらいは...』での理不尽な環境(毒親や職場のいじめ)に耐えながらも力強く生きようとする若者役など、後に彼女が挑むことになる「複雑で重い背景を背負った女性」を演じ切るための地力を示唆するものでした。
つまり、『モエカレはオレンジ色』では、単にビジュアルやキャラクターの可愛らしさが評価されたわけではなく、視聴者の心にスッと入り込む「感情表現の解像度の高さ」が映画界のプロフェッショナルから正式に認められた証でした。
これが、その後の「バラエティのイメージとは完全にかけ離れた憑依的なシリアス演技」へと繋がる確かな第一歩であったと言えるのではないでしょうか。
私が一番はじめに生見愛瑠さんに目を惹かれたのは、橙野ハチ子役で、周りの聞きたくない音をいつでも避ける為のごとく常に大きなヘッドホンを首にかけ、無愛想で鬱屈を抱えていそうな姿でした。
『恋です!~ヤンキー君と白杖ガール~』橙野ハチ子役
嫉妬から来る冷酷な眼差しと、想いを寄せる森生から「妹にしか見えない」と明確に拒絶された際にはその場で涙をこらえ、その後ユキコと真正面から向き合った際に、はじめて涙を流すという、感情を極限まで溜め込んでから吐き出す緻密な演技。
バラエティーで見かけていた『めるる』とは全く気が付かず、この娘のこの佇まい、この瞳の中にはどんな「言えない想い」を隠してどんな「せつない想い」でそこにギリギリ立っているのだろう。
そして、そんな演技を見せつけてくるこの女優さん。
この陰の演技を見せつけてくる新人女優さんはいったい誰だろう、さぞかしその高い演技力をウリとして大々的に売り出されているのだろうと思い、わざわざ出演者名を探し検索し、「え?あの少しおバカキャラのあのお嬢さん?!」という驚きで、イメージが繋がらなかったんです。
文字の怪獣と周囲のノイズに怯え暗闇に引きこもりフードを深く被って世界を拒絶していた遠坂綾音と、息をつくために必要だった自分の内面を表現した詩作が職員室で音読され気まずい思いの水嶋春人の、映画冒頭の出逢いのシーン。
あのシーンの綾音の姿と完全に相似の姿です。
【インタビュー】『君が最後に遺した歌』ヒロイン役に向き合った生見愛瑠の挑戦 (1/3) - SCREEN ONLINE(スクリーンオンライン)
「めるる」としてではなく、「綾音」として観てほしいと思った作品です。
【インタビュー】『君が最後に遺した歌』ヒロイン役に向き合った生見愛瑠の挑戦 (2/3) - SCREEN ONLINE(スクリーンオンライン)
監督は「生見愛瑠の陰の部分を出して欲しい」とおっしゃっていました、私の陰の部分を見抜かれていましたね(笑)。なので、特に繕わなくて、陰の部分を大事に演じていました。綾音を演じている時は、音楽が流れるように、ドキュメンタリーを撮っているようなイメージです。
【インタビュー】『君が最後に遺した歌』ヒロイン役に向き合った生見愛瑠の挑戦 (3/3) - SCREEN ONLINE(スクリーンオンライン)
エンドロールで生見愛瑠と気づかれるような女優さんになりたいというのが夢でした。
私は彼女との最初の出逢いから彼女の目論見にハマってました。
そんな彼女の映画の告知で出逢ったのが、あのスピンオフ小説『私が最後に遺した歌』の壮絶なせつなさの陰を抱えた美しい魂の持ち主、綾音です。
それでも私は最初は映画は配信待ちのスタンスでした。
そこに飛び込んできたのが先行配信されていた『はるのうた』特別映像の、三木マジックの映画のフラッシュバックのような美しい映像。
そこにはスピンオフ小説で読んだ綾音のせつなく美しいシーンが凝縮されていました。
君歌公式サイト告知
今回解禁された映像には、二人の出会いから、部室で共に歌作りをした瑞々しい日々、思い出の路上ライブ、切ない別れと再会・・二人が歩んだ“10年の愛の軌跡”が凝縮!
そこに流れる生見愛瑠さんの歌声。
だから私は号泣しつつ、続けて自動再生された『春の人』の冒頭のカジノの『ジァジァジァーン』が流れた途端に「これは絶対に今見てはイケナイやつだ」と慌てて停止し、葛藤しつつも「今映画館に行かねば、この映画は一生映画館では見られない!」という葛藤に苛まれ、結局は我慢出来ずにその生見愛瑠さんの綾音の姿を見たくてたまらなくなり、30年ぶりに映画館に突撃する事になったわけです。
彼女は君歌のオファー後は1年半もの時間を人知れず葛藤し苦しみぬいて『君歌』の綾音として、「誰にも頼れず、たった1人で文字の怪獣と戦い、1人で血の涙を流す地獄(3年半の絶対的な孤独)」、文字が読めないことで社会から「非効率」「無駄」と切り捨てられ、効率主義という名の暴力に傷つけられた遠坂綾音の魂を、1年半もの間その身に宿して生きてきた。
おそらく生見愛瑠さんは、人知れず1人で苦しむことの絶望の深さを、とことん知っている。
だからこそ、『Wings』では「私だけはあなたの人知れない頑張りをわかっているよ、限界以上に頑張らなくていいんだよ」という究極のエールソングに聴こえて来る。
私がしびれたと書いた、最新の出演作GTOの柏原実央先生のセリフまでもが完全一致し、
『あの時、言えなかったけど…本当は…』
が含まれています。
普段は感情の無いさめたタイパコスパ最優先な教師の表層を演じているのに、憎まれ口を叩く生徒に「こんなガキ、辞めちまえオマエなんか」とブチギレて「子どもが困った時、助ける為に大人は居るの。だから1人で苦しまないで。何でも相談すりゃいいのよ!」
また、 「タイパコスパ重視で倍速で過ごすのではなく、無駄と思える時間を共に過ごし寄りそうのが大事」
綾音の痛みや、今まで彼女の演じてきた役柄の人物達の『あの時、言えなかったけど…本当は…』を誰よりも知る生見愛瑠さんが発するからこそ、台本上のキレイゴトではなく、「孤独な地獄を歩いた経験者からの、魂の底からの叫び」として、圧倒的な説得力、圧倒的な質量と温度を持って視聴者の胸を貫くのでしょう。
GTOの中で柏原実央先生は鬼塚に反発しつつ、もうすっかり鬼塚の応援者になってます。
生見愛瑠さんはそのようなセリフは一切ことばにしていませんが、セリフにしなくても彼女の演技が雄弁に物語っていますし、柏原実央という人物像の核にもまざまざと『あの時、言えなかったけど…本当は…』が表現されています。
私はなかなかリアタイで見れてませんし、『東京MER』や『喧嘩独学』など、彼女の出演作も観れていない作品も多いです。
あれほど彼女の陰の演技に惹かれながらも、彼女の優良な模範的なファンとして熱心に彼女の出演作やバラエティーそしてSNSなどを常に追いかけようとは思わないんですが、ここで、これにも腑に落ちました。
私はここでの考察初期には、彼女の考え方や性格などが自分に近い部分もあるのかな、などと想像し勝手な親近感を感じることもあったんですが、考察半ばに生見愛瑠さんの演技に関してそれまでなんとなく使っていた「空っぽの器の憑依論」を否定する長文考察
【君歌・楽曲考察 ㉑.5特別編】生見愛瑠という表現者の真実 ―― 「空っぽの器」と「憑依」の奥底に在る、血を流すような魂の同期について|女優:生見愛瑠の演技真の考察|生見愛瑠 人物像|君が最後に遺した歌 ネタバレ 考察
に於いて、それまでの脳内考察を脱し、初めて生見愛瑠さんのこれまでの軌跡を詳しく調べて行くうちに、最初の想像とはかなり違う人物像が浮かび上がり、ますますその人物像の核が見えなくなっていたんですが、そこからの再構築の末に『三位一体の生存戦略』という想像に至りました。
【追伸②】【君歌・シークレット・トラック 御影譲 足掻きの軌跡】
【追伸⑤】【君歌・シークレット・トラック】水嶋綾音と生見愛瑠の飛翔
その結論から春人と同じように「完全に別世界の人」と感じるようになった。
しかし、ここに至り『あの時、言えなかったけど…本当は…』を放ってはおけないような業を持つ点に関してだけは唯一の類似点を持つ者同士だったのかもしれないと想うに至りました。
私は以前【君歌・楽曲考察㉑.5特別編】に於いて、「内面まで知って欲しいとは思わない」と彼女が言っていたのを知りながら、あの過去形の弱音というせつなさに触れ「そのせつなさを世に知らしめるためなら嫌われても良い」と書いてあの記事を公開しました。
そして後のシークレットトラックにて、あの過去形の弱音さえもが彼女の素であり事務所の仕掛けた生存戦略であると紐解きました。
だからなのです。 私は彼女の圧倒的なカワイさを認めつつ、彼女の芸能活動の全てを盲信的に肯定し常に追いかけるような、熱心なファンには、なってはいないようです。
それは私が彼女に魅了されている核の部分が『あの時、言えなかったけど…本当は…』の陰の演技だからであったから、と気が付きました。
バラエティーやインスタの『めるる』は彼女の偽りない素に近い部分であり、そこは彼女の三位一体の生存戦略により、息をつき直す場であるのですから、そこには私が惹かれた
『あの時、言えなかったけど…本当は…』 が無いのが当たり前。
だから私は時折その姿を見かけた時に彼女の精神の健全さを感じて「あぁ、今日も彼女は頑張ってるな」と安心し、それだけで満足する。
それが「密かに応援」の理由でした。
彼女の精神の健全性のもう一つのセーフティ装置としては、彼女の旺盛な食欲エピソードにもあると感じています。
炊飯機能付きお弁当箱で一升飯を平らげ、難しいシーンの撮影が終わったら大好きなハンバーガーを頬張る事を自分に許可し、エネルギーが必要なシーン前は晩ごはんのインスタントラーメンをモチベに頑張る。
ラジオでは、「夏は暑くて体力が必要だから食欲が旺盛になる。夏バテって何ですか?」と言ってました(笑)
これは胃腸や自律神経が非常に健康でタフに機能している証拠です。
彼女の抜群のプロポーションと多忙なスケジュールを支えているのは、この「夏バテ知らず」な旺盛な食欲と健康的な代謝のおかげと言えそうで、そんな彼女の食欲を嬉しそうに話す声に、私は何だか安心するんです。
私たちがこれまで考察してきた『君歌』の綾音も、『きみとわ』の雫たちも、死の恐怖や絶望と隣り合わせの極限状態にいました。
そして、生見愛瑠さん自身も、そうした「陰」の役を演じる際、文字通り自分の精神を削り、疑似的な死や絶望を自らの肉体に憑依させて血の涙を流しています。
『あの時、言えなかったけど…本当は…』というキャラクターの内面にどこまでも寄り添う陰の演技は、莫大な「魂のカロリー」を消費する行為です。
だからこそ、「旺盛な食欲」という、人間の最も原初的で力強い「生への渇望(生命力)」を彼女が発揮しているのを見た時、私は本能的に安心するのでしょう。
「ああ、彼女はあんなにも死や絶望の淵(深淵)まで潜っていったのに、ちゃんと現実の世界で『生きよう』としている。魂のエネルギーを自力で補給できている」と。
食欲は、彼女が「陰」に飲み込まれず、こちら側の世界(生)にしっかりと根を張っていることの、何より力強い証明だと理屈なしに感じるのです。
『君歌』の綾音が、どれほど大スターになっても「普通の女の子としての幸せ」を渇望していたように。
生見愛瑠さんもまた、日本を代表するトップ女優・モデルという「非日常の極み」に身を置きながら、常に「等身大の24歳の女性(日常)」としてのバランスを保つ必要があります。
それは彼女が何よりも大事にしている地元の友達から言われている「ずっと変わらないでいてね」ということばに寄り添い、どんなに有名になろうとも今の気持ちから変わらないでいたいという、彼女の想いのあらわれかもしれません。
生見愛瑠さんインタビュー「私が私であるために」。映画『君が最後に遺した歌』で発達性ディスレクシアの女性を熱演|@BAILA(バイラ)
どんなに経験を積んだとしても、普通の女の子として過ごしていた頃の気持ちを忘れないでいたい。地元の友達からも、『ずっと変わらないでいてね』と言われているので
「難しいシーンが終わったら、ご褒美に大好きなハンバーガーを頬張る」「晩ごはんのインスタントラーメンをモチベに頑張る」この行動は、彼女が「女優としての極限のトランス状態」から、「普通の20代の女の子」へと安全に帰還(ログアウト)するための、極めて強力で健全なスイッチ(儀式)として機能しているのでしょう。
高級フレンチや気取った食事ではなく、「炊きたてのご飯」や「ハンバーガー」「回転寿司」そして「チェーン店だいすき」という泥臭くも温かい『俗世の味』を愛している姿。
その事実が、彼女の精神がどれほど地に足がついているか(健全であるか)を物語っています。
そして、ラジオで「夏バテって何ですか?(笑)」とケラケラ笑って言えること。
これは彼女の三位一体の生存戦略により息をつき直す場であるというシステムが、今日も100%完璧に、エラーなく正常稼働しているという最高のお知らせ(ステータス報告)です。
「よし、今日も防衛壁(陽の仮面)は破られていないな」 「今日もちゃんと息継ぎができているな」
私が感じているその「安心」は、もはやファンのそれでは無く、過酷な戦場(カメラの前)へ赴く戦士が、ちゃんとご飯を食べて、よく笑い、無事に家に帰ってきているのを確認して胸をなでおろす、単なるオッサンくさい親心なのかもしれません。
「あんなに血を流すような演技をしているのだから、せめて美味しいものをたくさん食べて、ケラケラ笑っていてほしい」
そんなオッサンの泥臭い願いが、彼女の「一升飯」や「ハンバーガー」という形で満たされているのを確認できるからこそ、ホッとするのかも。
しかし、私はあくまでも正業の傍らで、単にこうしてほとんど誰も読まないような長文を気ままに書き殴っているだけですが、生見愛瑠さんは唯一の生きる道としてその業を持ち生命を削っています。
だからこそあの三位一体の生存戦略に従い、バラエティーやモデルの仕事で素の姿に帰る事でバランスを取りながら生きて行く必要があるのでしょう。
…生見愛瑠さんはあの若さで、今までどんな人生を歩んで来たのでしょう。 これからどんな人生を歩んで行くのでしょうか。
📖この記事の目次はこちら【映画君歌の誰も知らない真実】
【掲載画像について】
※掲載画像は作品の世界観やキャラクターを表現したオリジナルのイメージビジュアル生成です。本編中に全く同じシーンが登場するわけではありません。特に今回の記事では、生見愛瑠さんの魂に内包されたスピンオフ綾音の姿としてイメージして掲載しています。
【免責事項および読者の皆様へのお願い】
■ 考察内容について
本記事における楽曲、ストーリー、演出に対する考察は、すべて映画、原作小説、スピンオフ小説を鑑賞・読了した筆者個人の主観的な解釈(受け取り方)に基づくものです。
文章の性質上、熱意のあまり「〜である」「〜に違いない」と断定的な表現を用いている箇所が多々ありますが、これらは決して公式の意図を代弁・保証するものではありません。この物語にどのような真実が隠されているのかは、この記事を読んでくださった皆様お一人お一人のお心の中で、自由に感じ、判断していただければ幸いです。
■ 出演者(生見愛瑠さん)への言及について
本考察内において、主演である生見愛瑠さんの演技の凄みや、役への向き合い方(人間性)について、筆者の独断で深く言及・想像している箇所がございます。
しかし、筆者は彼女のSNSや全出演番組を網羅しているような深いファンではなく、あくまで一人の映画ファン(浅い応援者)としての視点から「スクリーンに映る彼女の凄まじい表現力」に圧倒され、執筆したものです。
日頃から彼女を深く応援し、彼女の本当の姿を熟知していらっしゃるファンの皆様の「生見愛瑠像」を否定する意図は一切ございません。もしご不快に感じられる表現がありましたら、すべては筆者の表現力不足と、作品への愛が暴走した結果の「個人的な感傷」として、ご容赦いただけますと幸いです。

